第3章 主クリシュナは至高の統御者たる至高神である(Lord Krishna Is the Supreme Controller Godhead) 第1段落 ラーダークリシュナン博士は、「非人格的なブラーマンだけが、無尽蔵であり、滅びることがなく、生まれることもない、などの超越的な性質を持っている」(訳注:括弧は訳者)と言う(to imply、ほのめかす、暗示する、~という意味を暗に含む)ので、私たちは正しい答えを求めてギーターに目を向けなければなりません(to turn to~、頼りにする)。 事実は、非二重性の至高存在のすべての神聖な拡張体は、これらの同じ非常に優れた(superexcellent)性質を授けられています。アルジュナは、バガヴァッドギーター(11.18)において次のように宣言します。 (サンスクリット引用) 「あなたは至高の太古の(primeval)目的地(objective、目標)です。あなたはこの宇宙すべて(all this universe)の究極の休憩所(resting place、本来は一時的な休憩所を指すが、永眠の地、墓場も意味するが、この場合は「永遠の安らぎが得られる場所」)です。 あなたは無尽蔵であり、あなたは最も年長のお方です(You are the oldest)。あなたは永遠の宗教を維持する方、至高の人格神です。これが私の意見です。」 第2段落 私たちは、「パラブラーマンをアクシャラ(「滅ぼされることのない」)と描写するギーターの中のそれらの節は、主クリシュナ、至高の統御者である至高神を指しているものだ」と理解すべきです(訳注:括弧は訳者)。主クリシュナは一度も、クシャラ、制約されたジーヴァたちと同列に置かれることはありません(to be equated with ~)。 ラーダークリシュナン博士のような偉い(big、有力な、というような意味だが、偉そうな、傲慢な、という意味もある)哲学者だけでなく、主ブラーマーや主インドラのような強力な(mighty)半神たちでさえ、クシャラの区分の中にあります。 主はご自分の離れたエネルギーだけによって(merely by~)宇宙の顕現全体を維持なさいます。ちょうど、火が一ヶ所に位置していてもその光と熱をすべての方向に広げるように、生まれることのない至高主、クリシュナも、ご自分の完全な人格、永遠性、そして不滅性を維持しつつ、ご自分を無数のヴィシュヌの形、ジーヴァ、そして内的および外的な力へと拡張なさいます。 ご自分をこのように拡張することは、完全な全体としての主の立場を決して弱める(to diminish、小さくする、減らす、衰えさせる)ことも、それに何らの影響を与えることもありません。イショパニシャッド(祈り)は、(サンスクリット引用)と宣言します。 「完全な全体から作られる(to be produced of)ものは何でも、同じくそれ自体で完全です(complete in itself)。主は完全な全体であられるので、非常に多くの完全な個体(units)が主から放射しても、主は完全な均衡を保たれます。」 第3段落 主は永遠の至高の人格(Person)であり、したがって主の御名、形、性質、娯楽などはすべて永遠です。サンスクリットの「プルシャ」という単語は「楽しむ者」を意味します。楽しむ者は決して、形がなかったり、非人格的であったり、無力(impotent、無気力、能力や効果や体力がない、性的能力がない)であったりする存在ではあり得ません。 確かに主クリシュナには物質的な性質はありませんが、それでも主は楽しむ者であり、すべての霊的な性質の所有者です。 第4段落 バガヴァッド・ギーターにおいて、アルジュナは主クリシュナをクシャラ(訳注:アクシャラの間違い?原文は”a ksara”で、”ksara”の部分だけが斜体になっている)、パラブラーマン、そしてアーディ・デヴァ(もともとの至高の人格神)として称えます。(校正:,→.) ラーダークリシュナン博士は、アクシャラ、「無尽蔵な」という言葉はアヴャヤ、「劣化することのない(without deterioration)」という言葉と同義(synonymous)であると書きます。それでは(therefore)、なぜ彼は主クリシュナと主の体が異なっていると結論するのでしょうか? これは私たちには理解しかねます。275ページでラーダークリシュナン博士は、アルジュナが「主クリシュナはパラブラーマン、バーガヴァーン、完全真理である」と言う、と認めます(訳注:括弧は訳者)。 同じ本の同じページで、彼は大変つじつまの合わない(incoherent、支離滅裂)、虚構の(fictitious、想像上の)ことを書き、それをアルジュナのせいにします(to attribute to~、~に帰する、~の作だとする)。「アルジュナは、至高存在(シュリー・クリシュナ)はブラーマンであり、イーシュヴァラ、完全であり神である、と述べます。」 もしもラーダークリシュナン博士が、バーガヴァーンはブラーマンとは異なると考えるような、ギーターのそんなに不完全な(sketchy、うわべだけの、スケッチのように大雑把な)認識(perception)を持っているなら(訳注:ギーターをろくに知らないと言える程度の認識しかないなら)、それならどうして彼はギーターを読んだと主張することができるのでしょうか? 彼は、バーガヴァーンと超魂クリシュナ(Supersoul Krishna)はマーヤーの産物であり、他方でブラーマンはそうではないと論じるのです!シュリーラ・クリシュナダーサ・カヴィラージャ・ゴスヴァーミーは、そのような推量的な哲学を厳しく批判しました。 チャイタンニャ・チャリタームリタにおいて、彼はこう書きます。「ブラーマン、パラマートマー、そしてバーガヴァーンはすべてクリシュナの性質(features)であることを知らず、愚かな学者は様々に推量します。」 第5段落 私たちは、アルジュナとシュリーラ・クリシュナダーサ・ゴスヴァーミーの両者を、ラーダークリシュナン博士よりも優れた権威者として受け入れます。アルジュナはバガヴァッド・ギーターを直接聞き、そしてインドの大統領、ラジェンドラプラサッド博士は、シュリー・チャイタンニャ・チャリタームリタを正統で権威ある聖典として受け入れました。 バガヴァッド・ギーターを、それをアルジュナから伝わる(to come down)師弟継承の中にある者から受け取ることによって理解しようとする者は、実際にその深遠な(esoteric、奥義・秘儀の、難解な)知識を理解することができます。その他の者たちは惨めに失敗します。 バガヴァッド・ギーターとその他の権威ある(authorized)聖典が非人格的なブラーマンについて述べること(what~have to say)を人がよく注意して(attentively)聞くことは、ぜひとも必要なことです(imperative、必須、緊急)。(訳注:~において~について述べられていることを、注意深く学ぶ必要があります。) 聖典は、「ちょうど太陽光が太陽からの光り輝く放射であるように、非人格的なブラーマンは至高主の体の輝きである」と、詳細に(amply)証明します(訳注:括弧は訳者)。さらに、太陽の光が太陽に依存しており、太陽に従属している(subservient)ように、非人格的なブラーマジョティの光輝、主クリシュナの体の光は、主に依存しており、従属しています。ギーター(14.27)において、主はこうおっしゃいます。 (サンスクリット引用) 「そして私は、不死で不滅で永遠で、そして究極の幸せの本来の立場(constitutional position)である、非人格的なブラーマンの基盤(basis)です。」 第6段落 ギーターの中の、非人格的なブラーマンに関する主の言葉は明白(unequivocal、あいまいでない)ですが、それでもラーダークリシュナン博士はそれらに満足していないように見えます。彼は14章の27節を嫌々ながら(grudgingly、渋々と)こう翻訳します。「私は不死にして不滅(訳注:the Imperishableだけ最初が大文字。誤植?)のブラーマン、永遠の法、そして完全な喜びの住みかであるからです。」 (原文:“For I am the abode of Brahman, the immortal and the Imperishable, of eternal law and of absolute bliss.”) 主クリシュナは非人格的で形のないブラーマンの基盤であるので、主は確かにそれよりはるかに優れておられます。蚊帳(かや)は家の中にあるのであり、逆ではありません。インク壷はテーブルの上にあるのであり、逆ではありません。小さな少年でさえ、これを理解することができます。 それなら、なぜラーダークリシュナン博士はこの真理を受け入れるのをためらうのでしょうか?聖典の中には、主クリシュナの至高の完全な人格の無数の証明がありますが、ラーダークリシュナン博士は真理の日光の中のフクロウのようです。 彼は、言葉を操ることという暗い雲を作ることによって、真理の太陽を覆い隠そうとします。こうして、真理と知識の代わりに世界の前に困惑(confusion、混迷)がひけらかされます(to be paraded)。(訳注:この場合の「パレード」は、行列のパレードの性質である「次々に現れる、見せびらかす、行進する」という意味が含まれると思いますが、全体としては「困惑するようなことが次々に起こる」という意味かと思います。」 私たちはこの種の活動を強く非難します。直接的にであれ、間接的にであれ、ラーダークリシュナン博士は、主クリシュナがブラーマンの基盤であるという真理を巧みに回避しようとし(to circumvent、迂回、裏をかく)、その過程で彼は打ち負かされました。 もしもラーダークリシュナン博士が本当に主クリシュナを完全な神として受け入れるなら、それなら何が彼に、クリシュナの中にもう一つの存在を見て、「私たちが服従しなければならないのは、人格的なクリシュナではない、、、」と書かせた(to inspire、霊感を与えて何かをさせる)のでしょうか? 第7段落 真実は、主によって祝福された者だけが神に関わる霊的な科学を理解する(to fathom、本来は「水の深さを測る」という意味。見抜く、計り知る)ことができるというものです。ラーダークリシュナン博士の本は、反駁(はんばく)できないほどに(irrefutably、議論の余地のない)これを証明します。 マーヤーヴァーディーの哲学者たちは、至高主に対する(to)大変な(big)無礼者(offenders)であり、そして、したがって主は決してご自分を彼らに表わされません(to manifest、顕現)。主ご自身がギーター(7.25)において(サンスクリット引用)と宣言なさいます。 「私は決して愚かな者と非知性的な者の前には顕現しません。彼らにとって、私は私の内的な力によって覆われています。。。」 以前のすべての権威者はマーヤーヴァーディーを非難しましたが、主シュリー・クリシュナ・チャイタンニャ・マハープラブは、彼らを至高主に対する最大の無礼者(offenders)と呼んで、(彼らを)直接的に非難しました(to censure)。 主は、もしも人が単に哲学をマーヤーヴァーディー(a Mayavadi)から聞けば、彼の霊的な人生は危険にさらされている(in jeopardy)とおっしゃいました。シュリー・チャイタンニャ・チャリタームリタ(マデャー17.129-132および134-135)において引用されているように、主はマーヤーヴァーディーについてこのように語られます。 「シュリー・クリシュナ・チャイタンニャ・マハープラブはお答えになりました。『マーヤーヴァーディーの非人格主義者たちは、主クリシュナに対する大変な無礼者です。したがって、彼らは単にブラーマン、アートマー、そしてチャイタンニャ(訳注:など)の言葉を口にします(to utter)。 クリシュナの聖なる御名は、彼らの口の中には現れません(to manifest)。なぜなら彼らは、ご自分の聖なる御名と同一であられるクリシュナ、至高の人格神に対する無礼者だからです。主の聖なる御名、主の形、そして主の人格は、すべて一つであり、同じです。それらの間に違いはありません。 それらすべては完全なので、それらは超越的に喜びに溢れています。クリシュナの体と主ご自身の間、あるいは主の御名と主ご自身の間には違いはありません。制約された魂に関して言えば、すべてが異なっています。人の名前は体や人のもともとの形などとは異なります。 クリシュナの聖なる御名、主の体、そして主の娯楽は、鈍い(blunt)物質的な感覚によっては理解され得ません。それらは独立して顕現します。クリシュナの聖なる名、主の超越的な性質と娯楽および主クリシュナご自身は、すべて同等です。それらはすべて霊的で、喜びに満ちています。』」 第8段落 マーヤーヴァーディーはシュリーパーダ・シャンカラーチャーリャを真似しようとします。正統(orthodox)である振りをして、彼らは、「ジーヴァはパラブラーマン、至高主の欠かすべからざる一部である」という真理を退けます(訳注:括弧は訳者)。 彼らは、マーヤーの魔力(spell)の下に落ちるのはパラブラーマンご自身ではなく、パラブラーマンの欠かすべからざる小片の側面(ジーヴァ)だけである、という事実をも否定します。そして、最も悪いことに、彼らはパラブラーマンは至高の人格神に他ならないということを否定します。 彼らのいびつな(lop-sided、一方に傾いた)議論によれば、ジーヴァがムクティ(解放)を得るとき、彼は非人格的なブラーマンと同化し(to merge into~)、自分の個々の自己認識(identity)を失います。この論理によれば、至高主、パラブラーマンがこの物質世界に化身するとき、あるいは神像(theDeity)の形で現れるとき、主は普通のジーヴァになります。 このようにして(Thus)、愚かなマーヤーヴァーディーたちは主と主の形の間に区分をつけ(to draw a distinction)、そしてこうして(in this way)彼らは主に対して大変な非礼を働きます(to commit great offences)。 第9段落 そのため、主クリシュナと主の形の間にくさびを打ち込む(to knock a wedge)ことによって、ラーダークリシュナン博士は自分の知性の欠如を表しました(to demonstrate)。実に、マーヤーが彼の知性を奪ったのであり、主チャイタンニャ・マハープラブによれば、彼はもっともひどい非礼を為しました(he is the worst offender、最大の無礼者)。 バガヴァッド・ギーターにおいて、主はそのような無礼者をムーダーと描写なさいます。なぜなら、彼らは人間の脆さ(frailties、はかなさ)と欠点(faults)を至高主に帰する(to ascribe、~のせいにする)からです。今日、無神論者が多すぎるので(because of an excess of atheists)、世界は地獄になりました。 そして、これはひとえに、至高主の敵によるマーヤーヴァーダ哲学の布教が原因です。主チャイタンニャの使命は、これらの無礼者たちの呪縛(the clutches、しっかりと掴むこと)からジーヴァを救うことです。この使命のことを気にかけない(unconcerned about~)者は、主チャイタンニャに対して非礼を為します。 第10段落 マーヤーヴァーディーたちは霊性主義者のように見えようとして大変努力しますが(to try hard to look like ~)、事実は、彼らは全くの物質主義者です。彼らは言葉を操ることで(with word jugglery)大衆を惑わす(to confuse and mesmerize、困惑させ、催眠術にかけたようにする)ことができるかもしれませんが、本当は彼らのいわゆる放棄は猿のそれと同じくらい偽りです。 なぜなら、彼らは名声(distinction)、崇敬(adoration)、地位、そして富を求める単なる物乞いになってしまったからです。彼らは世俗的な発展だけにかまけており(to be busy with~)、霊的な言葉(message)と霊的な目的と理想は忘れられています。 シュリマッド・バーガヴァタム(1.1.2)は、そのような見せ掛けの(show bottle)宗教をカイタヴァ・ダールマ、「騙す(cheating)宗教」と定義しました。そのような騙す宗教団体に魅了される者たちは、彼ら自身、偽り(deceitful、欺瞞的)です。 彼らの霊性の見せびらかし(show)は言語道断(abominable、忌まわしい)です。彼らは解放も、献身と服従も欲しません。彼らは推量に執着しており(addicted、中毒)、決してクリシュナを理解することができません。 第11段落 マーヤーヴァーディーが、キールタンを行ったり個人的な名声(name and fame)のためにバーガヴァタムに関する講演(discourses、講話)を催したりするとき、彼らはブラーマン、チャイタンニャ、そしてパラマートマーについて歌ったり、話したりするかもしれませんが、彼らは主クリシュナの御名を口にする(to utter、声に出して言う)ことはできません。 シュリー・バーガヴァーン・ウヴァーチャ(「至高の人格神がおっしゃった」)という言葉がバガヴァッド・ギーター全体に現れますが、マーヤーヴァーディーはクリシュナの御名以外のすべてを言う用意があります(訳注:~だけは口にしようとしません)。 ブラーマンとパラマートマーという言葉は、究極的には主クリシュナを指し、そしてクリシュナは至高の完全人格の主要な名であるというのは、よく知られた聖典の真理です。しかし、マーヤーヴァーディーがクリシュナ、ゴヴィンダ、あるいはハリなどの神の御名を唱えるときでさえ、彼らは、これらは神の主要な名であること、そしてそれらは至高主と異なるものではないこと、という理解と信仰を持たず、そうではなく、それらを唱えることはサーダーナ、すなわち霊的な実践の一時的な方法(means、手段)であるという考えをもって、そうします。 彼らはまた、聖なる名をそのように唱えることは無礼であるということを認めません。もちろん、彼らの最大の無礼は、主クリシュナと主の形の間に区別をつけることです。そのためギーター(9.11)において、主クリシュナご自身がこれらの無礼者を非難なさいます。 (サンスクリット引用) 「私が人間の形で降臨するとき、愚か者たちは私をあざ笑います(to deride)。彼らは、すべてのもの(all that be)の至高の主としての私の超越的な性質を知りません。」 第12段落 ラーダークリシュナン博士がこの節をどのように翻訳したか見てみましょう。それは彼の本の242ページにあります。「幻惑された者は、すべての存在の主としての私のより高い性質を知らずに、人間の形をまとった(clad in human body)私を軽蔑します(to despise)。」 言い換えると、「すべての存在の主」である人(person)が「人間の体をまとう」とき、物質主義的な観点から見る者は、主を普通の、死を運命づけられた者(ordinary mortal)と受け取り、霊的な観点から見る者は、主は至高存在、すべての原因の原因であると理解します。 そのため、もしも主クリシュナを軽蔑する(to despise)のは幻惑された者であるなら、それならラーダークリシュナン博士は自身にとって、自分はこの罪を犯している(guilty of this crime)と認めるときではないでしょうか? 彼がいかに、主を単なる「死を運命づけられた者」(訳注:mortal、括弧は訳者)と同等において、「すべての存在の主」を不当に扱った(to abuse)かということを、彼に認識させましょう。そのような偉大な学者たちが主クリシュナに対して敵意を示す(inimical、反目)のを見るとき、ギーターに従って、私たちは、彼らの知性はマーヤーによって盗まれたと結論づけることができます。 第13段落 すべての以前の霊的な権威者たちは、主クリシュナを至高の人格神として受け入れました。シュリーパーダ・シャンカラーチャーリャでさえ、この真理を受け入れました。それなのにラーダークリシュナン博士は、あまりにも幻惑されているので、主クリシュナを普通のジーヴァ、あるいはおそらく卓越したそれと考えます。 第14段落 主チャイタンニャより多くの知識を持った人はいません。論理的で科学的なクリシュナ意識の知識は、主チャイタンニャから受け取られなければなりません。ラーダークリシュナン博士は、主チャイタンニャの直接の霊的な系統にあるシュリーラ・ジーヴァ・ゴスヴァーミーの教え(precepts、教訓)に基づいて、どこかで主クリシュナを論じたでしょうか?(訳注:~が~に基づいて~を論じたことが一度でもあるでしょうか?) 私たちはラーダークリシュナン博士に、シュリーラ・ジーヴァ・ゴスヴァーミーのサット・サンダルバーを学ぶ(to study、研究)ことをお願いします(to request)。彼は自分の霊的指導者によって、自分の文筆を学者や哲学者に向けさせ、彼らにこの深遠な(esoteric、難解、奥義)知識を理解させるように、特別に力を授けられました(to be empowered)。 彼の水準(stature、成長、進歩、達成、偉業、才能など)の別の(another)哲学者は、まだ生まれていません。事実、未来の誰も、学識(erudition)において彼を超えることはできないでしょう。ラーダークリシュナン博士は哲学者なので、彼がシュリーラ・ジーヴァ・ゴスヴァーミーの教え(precepts)を退けないことを私たちは望みます。 第15段落 ラーダークリシュナン博士の文章から、クリシュナ意識の科学を理解しようとする(to fathom、推し量る、見抜く)にあたって彼がいかに混乱している(perplexed)かを、人は簡単に証明することができます。彼は主クリシュナを、卓越した人間でありインドの歴史上の人物として表そう(to present)としますが、バガヴァッド・ギーターはそのような試み(task、課題)を不可能にします。 彼の「入門的な随筆」(30ページ)において、彼はこう書きます。「ギーターにおいて、クリシュナは 至高主、多くの(manifold)宇宙(訳注:複数)の背後に横たわる統一性(unity)、すべての表れ(appearances)の背後にある変化することのない真実、すべてを超越し、すべての中に内在する(immanent)、と記されています(tobe identified with~、~と同一視する、この場合は「描写されている」という意味と思われる)。 主は顕現した主、死を運命づけられた者が知るのを容易にします。なぜなら(for)、滅びることのないブラーマンを探し求める者は、疑いもなく、大いなる努力ののちに主に至るからです。主はパラマートマーンと呼ばれます。 (次の段落)どうして私たちは歴史上の個人を至高主と見なす(to identify)ことができるでしょうか?個人を宇宙の自己(the universal Self、普遍的な)と同一であるとすること(the representation)は、ヒンズー教の教えには馴染みのあるものです。ウパニシャッドにおいて、私たちは、完全存在との本当の関係を把握(to apprehend、理解)する完全に目覚めた魂は、それ(訳注:魂)は本質的に後者(訳注:完全存在)と一つであることを知り(to see)、自分はそうであると宣言する、と知らされます。」 (訳注:博士の文章の特徴であるようですが、原文の構造が詩的あるいは散文的で、かなり分かりにくいです。) 第16段落 しかし、ジーヴァが主と「本質的に一つ」になることは霊的な人生における最終目的(the last word)ではありません。もちろん、シュリーパーダ・シャンカラーチャーリャは、無神論者が少なくとも認識のこの水準にくるようにするために、この考えを広めました。 しかし、この向こうには至高の完全人格神の領域(realm、王国)があります。超越性の領域(sphere)に入り、もしも人が至高の超越的な人格(personality)を知覚しないなら、人の霊的な実践は汚染された知性が原因で不完全なままとなり、そして人は物質主義の領域(realm)へと戻らねばなりません。 世界は幻想である-ジャガン・ミッテャー-と主張するにも関わらず、そのような非成功な(unsuccessful)超越主義者たちは、やがて(then)政治的、社会的、そして利他的な(altruistic)事柄(affairs)に囚われる(to be entangled、もつれた毛糸のように絡まり、陥る様子)ようになります。 第17段落 ラーダークリシュナン博士は、決して直接、至高の超越的な人格、主シュリー・クリシュナを知覚したことはありません。主クリシュナは彼のまん前にいらっしゃるにも関わらず、彼は主を見ることができず、そしてそのため(thus)、幻想から(out of~、~が原因で)、彼は主を歴史上の人物と呼びます。 本物のインドの宗教哲学は、神との一体性と主との違い(difference from Him)の両方があると教えます。同時に一つであり、また異なる、というこの概念は、ヴィスィシュタードヴァイタ、ドゥヴァイタードヴァイタ、シュッダードヴァイタ、そしてアチンテャ・ベーダーベーダ・タットヴァと表現されています(has been termed)。 もしもこの深遠な概念が誤り(false)であれば、クリシュナはインド中で、ほぼすべての家庭で崇拝されることはないでしょう。主は歴史上の人物としてではなく、至高主として崇拝されます。至高の人格神としてのクリシュナの立場は、ヴェダーンタ・スートラとガーヤトリー・マントラの自然な解説(commentary)であり真髄である、権威ある文書シュリーマッド・バーガヴァタムによって堅固に確立されています。 ラーダークリシュナン博士よりも遥かに学識の深い多くの学究的な(scholarly)マーヤーヴァーディーたちが大衆(general populace)の信仰を揺るがそうとしましたが、記憶にないほどの昔から、クリシュナの寺院は何百万と築かれてきました(to have mushroomed)-主クリシュナは普通の、死を運命づけられた存在である、と主張するマーヤーヴァーディーと無神論者たちにとって、侮辱的な事実(a slap in the face、びんた、頬を激しく叩かれるにも等しい出来事や事実)です。 未来においても、もっと多くのクリシュナの寺院が不可知論的な(agnostic)人々と不信心者をくじく(to frustrate、挫折、妨げる、失敗させる)ために築かれるでしょう(訳注:~して、~は敗北感を味わうでしょう)。 すべてのヴィシュヌの寺院は聖典とアーチャーリャたちによって正統と認められています(authorized)。ラーダークリシュナン博士のためだけに言えば(just for the sake of~)、インドの人口全体がマーヤーヴァーダ哲学と妥協する(to strike a compromise with~)というのは、ほぼ考えられません(It hardly seems likely)。 第18段落 インドの歴史は、自らの名声で天を照らした(who lit up the heavens)多くのすばらしい勇者たち(heroes)の話(accounts、記述)で満たされています。多くの賢者や哲学者たちは、これらのまばゆい太陽たちをさておいて、至高新として崇拝するために、なぜシュリー・クリシュナ、シュリー・ラーマ、そして彼らの拡張体(訳注:複数)だけを選んだのでしょうか? この現象の公平な(unbiased、先入観や偏見のない)研究をするために聖典を詳しく調べた(to delve into~)霊的な教師たち(preceptor)は、ラーダークリシュナン博士よりもはるかに発達した学者たちです。それでも、天国のような惑星の住人でさえ主に関して幻惑されるので、ラーダークリシュナン博士のような普通の、死を運命づけられた存在が主クリシュナに関して幻惑されるのは、非常に理解できること(understandable)です。 シュリマッド・バーガヴァタム(1.1.1)には、ムヒャンティ・ヤット・スーラヤーと述べられています。「主によって、偉大な賢人たちと半神たちさえ幻想に入れられます。」地球(the earth planet)は、この宇宙の体系の中の14の惑星のうち、だいぶ下のほうの(way down)7番目の位置にあり、そのためその住人はほんの少しの(meager)力しか与えられていないのです。 第19段落 この貧弱な(meager)地球の国々のうち、バーラタヴァルシャ、すなわちインドは最も優れています。なぜなら、創造の初めから、インドの賢人たちは深遠な(esoteric)霊的な科学を追求する(to pursue)にあたって最も卓越した技を示してきたからです。 昔(In days of yore)、これらの賢人たちはより高い惑星系と意思の疎通を取ることができました。しかし今ではインドは非常に悪い状態にあるので、私たちは以前の賢人たちの教えに従おうとしません(not willing)。 私たちはクリシュナを歴史上の人物として受け入れる意思があります(willing)が、回りくどい(devious、率直でない、よこしまな)手段によって、私たちはややこしい(confusing)哲学的な専門語(jargon、悪い意味で難しい専門的な用語、ちんぷんかんぷん、わけの分からない言葉)で主の教えを歪ませようとします。 これはインドの望ましくない状態の証拠です。インドは今では、本当の神は無しで済まし(to do away with~)、主を多くの偽物の神で置き換えることに熱心になってしまいました。これはインドにとって最も大きな不運です。 ............................................................................ 本当に大変長々とお待たせいたしまして、まことに申し訳ございません。ようやく次の章ができましたのでお届けいたします。どうしてこう怠けているのだろうと考えると、仕事ばっかりしているからとか、いろいろ理由はあると思いますが、単にちょいと弱っているからかもしれません。今日はオーラが見える方とお会いして、青が多くて弱っている、森へ行ってエネルギーを貰え、と言われました。ほんとに、別に「はっきりと病気です!」ということもぜんぜんないのですが、多少弱ってるなということを実感することも多いこの頃なのです。 無理をせずに、ということを大事にしていきたいと思いますので、次が登場しますのはまたまただいぶ先のことになるかもしれませんが、どうぞ生暖か~く見守っていただけましたら幸いです。皆様もどうぞ体力気力が充実するように健康に気をつけておすごしくださいませ。 葉子 #
by ammolitering4
| 2016-10-11 15:10
皆様こんにちは。お元気でいらっしゃいますか。全然更新していなくて申し訳ございません。なんでだろうと自分でも不思議なのですが、あれほど熱心に描いていたガラス絵もすっかり描かなくなったし、波があるのだろうなと思っています。今でも本とノートは持ち歩いていて、隙間の時間などにちょこちょこと翻訳をしていることはしているのですが、以前のように進まないのです。アートのほうも全くやめたわけではなくて、キャンバスに夢の絵を描いてみたり雑誌の切り抜きでコラージュをしてみたりと、形を変えて細々とやっています。
今日はダウンタウンを歩いていてラスヤトラの広告を見つけました。ラスヤトラ、懐かしいなあ。お祭りにもお寺にももう何年も行ってないし、これからもまた行くことはないと思うのですが、こうして見かけるとやっぱり嬉しいです。それにしても、お金がかかってますね。バス停のこういう広告って、幾らくらいするものか分かりませんが、決して安いものではないと思います。バンクーバーの場合、市の政府、ラジオ局やテレビ局、銀行などが協賛していて盛大に行われ、カナダの首長であるイギリスの女王様の代理の人以下、各種の偉い人たちがこぞって祝辞を送ったりして参加し、パワフルなインド人社会に愛想を振りまきます。 一般市民の間ではハレクリシュナが広まっているという印象はあんまりなく、むしろ衰退する一方であるような気もするのですが、少なくともヒッピー時代からうん十年経った現在では「昔から続いている宗教」というイメージが定着していると言っていいと思います。今年もまたきっと行かないだろうとは思いますが、成功のうちに終わるといいなと思います。
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by ammolitering4
| 2016-08-08 06:00
第16段落 そしてギーターのあとのほうで(15.15)、主はこうおっしゃいます。 (サンスクリット引用) 「私はすべての者の心臓の中に座っており、そして私から記憶(remembrance)、知識、そして忘却(forgetfulness)が来ます。すべてのヴェーダによって、私は知られるべきものです。(訳注:By all the Vedas, I am to be known. これは時々引用されますが、ヴェーダを通して知るべきことは私である、ヴェーダが書かれた理由は私を知ることにある、ヴェーダの真髄は私である、などの意味だと思います。) 実に、私はヴェダーンタを編纂した者であり、そして私はヴェーダを知る者です。」 第17段落 完璧な知識を持った賢者たち---例えば、自分の物質主義的な知性を浄化して、そしてそのため霊的な知識に位置している者たち---は、主クリシュナをすべてのものの源として理解することができます。 知性(intellect)が浄化され、霊化されていない限り、最も学識のある哲学者や最も偉大な神秘的なヨギーでさえ、主クリシュナを理解しようとして当惑するでしょう(perplexed、混乱する、困る)。主はバガヴァッド・ギーター(7.3)においてこうおっしゃいます。 (サンスクリット引用) 「完成を得た者のうち、ほとんど誰も私を正しく(in truth)知る者はいません。」 第18段落 至高主の名前、形、性質、娯楽、仲間たち、そして主に関わる諸々のものは、すべて同じ霊的な性質を持っています。事実、主クリシュナに関わるあらゆるものは、主と異なるものではありません。パドマ・プラーナには、こう述べられています。 (サンスクリット引用) 「クリシュナの聖なる御名は、超越的に喜びに満ちています(transcendentally blissful)。それはすべての霊的な恩恵を授けます。なぜなら、それはクリシュナご自身、すべての喜びの源(reservoir)であるからです。 クリシュナの御名は完全であり、それはすべての超越的な味わい(訳注:mellows、ときどき出てくるこの単語は、本来は「まろやかな」などを意味する形容詞ですが、プラブパーダの独特の言い回しでは「味わい」に準ずるような意味になります。昔のインドで限定的に使われていた表現かもしれません)の形です。 それは決して(under any condition、どのような状況であっても)物質的な名前ではなく、(それは)クリシュナご自身よりも力が弱いものではありません(no less powerful)。クリシュナの御名は物質的な性質によって汚染されていないので、それがマーヤーと関わっているということはありえません(there is no question of ~)。 クリシュナの御名は、いつも解放されていて霊的です。それは決して物質自然の法則によって制約されません。これはクリシュナの御名とクリシュナご自身が同一だからです。」 第19段落 聖人的な魂だけがこれらの言明の真理を知覚することができます。その知性がマーヤーヴァーダ哲学によって堕落させられている者(to have been corrupted、損なわれる、間違いが多くなる、など)は、理解することができません。 第20段落 一般に、一元論者(monists)は非二元論(nondualism)の難解な(intricate)哲学を理解する(to grasp)ことができません。そのためラーダークリシュナン博士は、それによって二元論(dualism)を非二元論(nondualism)において確立しようとする理論を、自分の空想から紡ぎ出しました。 (訳注:そのため~は空想をめぐらせ、非二元論において二元論を確立するための理論を編み出しました。) ラーダークリシュナン博士が私たちは「クリシュナを通して話す、生まれたことのない、始まりのない、永遠のもの」に服従しなければならないと書くとき、彼は、服従について話しているのはクリシュナの中にいる非人格的なブラーマンである、ということを暗示します(to imply)。 いったん、非人格的なブラーマンが話すことができるということが確立されれば(Once~)、それなら主(He)は話すための道具、すなわち舌を持っていなければならない、ということになります。こうして私たちは、ラーダークリシュナン博士の非人格主義の概念全体が直ちに根底から揺らぐ(undermined、侵食して土台が削られる)のを見ます(訳注:~が分かります)。 聖典の中には、話すことのできる者は歩くこともできると結論づける十分な証拠があります。そして、話すことと歩くことのできる存在は、実に必ずすべての感覚を授けられています(must indeed be endowed with ~)。 それなら、主(He)は食べたり眠ったりなどの他の活動も行うことができるに違いありません。それでは(So)、どうしてラーダークリシュナン博士は、彼の(訳注:述べる)始まりのない、永遠の存在(object)が非人格的であると主張することができるのでしょうか。 第21段落 自著「入門的な随筆」の62ページにおいて、ラーダークリシュナン博士はこう書いています。「私たちから自己がなくなると(When we are emptied of our self (?))(訳注:疑問符は原文のまま)、神が私たちを所有します(God takes possession of us)。 この、神が(訳注:私たちを)所有すること(God-possession)の障害は、私たち自身の美徳(virtue、善行)、自尊心(pride、誇り、思いあがり)、知識、私たちのかすかな要求(demand)、そして私たちの無意識な断定(assumptions、証拠もなく決め込む)と偏見(prejudices、先入観)です。」 第22段落 彼自身の議論から、私たちは安全に(safely)、ラーダークリシュナン博士は彼の不注意と以前の養育(upbringing、しつけ)から、主クリシュナの体と主の魂の間に違いを見ていると推量する(to surmise)ことができます(訳注:ラーダークリシュナン博士自身の議論から、彼は、その生い立ちと不注意さが原因で、~を見ている、と推量して問題ないでしょう)。 彼はまだ、「自己からなくなる」はずの偽りの自我から自由でないのです(He is still not free from false ego, that is, “emptied of self.”)。したがって、彼の美徳、誇り、知識、かすかな欲求、そして無意識な断定と先入観がすべて、彼が超越的な真理を理解するのを阻んでいるのです。 彼はマーヤーヴァーダの思想の雰囲気(atmosphere、環境)の中で育てられたに違いありません。この理由により、彼は真理を理解することができませんでした。 第23段落 マーヤーヴァーダ哲学の創始者(founder)であり宣伝者(propagator)であるシュリーラ・シャンカラーチャーリャは、物質の世界は幻想---ミテャー---であると証明し、そしてそのため、彼は熱心に(diligently)禁欲(austerity)と放棄(renunciation)の道を探求し、そして彼はそれを自分の教えの中で強調しました。 彼は、この幻想の物質世界を支配しようとして(to lord it over、偉そうに振舞う)貴重な時間を無駄にすることはしませんでした。しかし、もしも彼が自分が提議した(to propound)哲学の現在の状態を見たら、(彼は)恥ずかしく思ったことでしょう。 私たちは、ラーダークリシュナン博士が彼に影響されたことを疑いません。これは彼の著述から明らかです。それでも、自著「入門的な随筆」の25ページで、彼はこう書きます。「ギーターの重点は、ご自分の自然(Nature、プラクリティ)によって、知覚できる世界を創造なさる、人格的な神としての至高存在にあります。 主はすべての存在の心臓の中に住まわれます。主は享楽者であり、犠牲の主です。主は私たちの心を献身にかき立て(to stir ~ to devotion、強い刺激を与えてその気持をあおる)、私たちの願いを叶えられます(to grant prayer)。 主は価値の源であり、維持する者(retainer)です。主は崇拝と祈りにおいて私たちと個人的な関係に入られます。」 第24段落 これを書いて、このようにギーターの本当の意味(purport)を受け入れたあとで、どうして後からラーダークリシュナン博士は、主クリシュナの体と魂が異なっていると述べることができるのでしょうか?そのような考えは、彼の物質主義的な教育の結果に違いありません。 完全真理、非二元論的な(nondual)至高存在が推定では(supposedly、~と思われる)ご自分の内的な存在から離れているとは、何と奇妙な一元論を彼は提議するのでしょうか!(訳注:二元論的ではない完全真理、至高存在がご自分の内的な存在とは別個であるとするとは、~!) ラーダークリシュナン博士は、自分の哲学におけるこれらの明白な欠陥(flaws)を説明することができるでしょうか?至高主ご自身が全知の(omniscient)超魂として皆の心臓の中にいらっしゃるとき(訳注:when、~なら)、それなら他の誰が主の(訳注:斜線で強調)心臓の中に座ることができるでしょうか? ギーターにおいて、主クリシュナご自身がご自分の超越的な性質について語られ、自分の物質的な学識で武装したラーダークリシュナン博士が否定するための(to contradict、否認、逆らう、矛盾する)程度の低い試みをしただけだ(buta feeble)ということを述べられます(making statement)。 (訳注:ギーターにおいて主が~と語られたことからも、ラーダークリシュナン博士が自分の学識を頼りに下手にあがいて(ギーターの意味を)否定しようとしただけということが分かります。) そのような愚かさを通してラーダークリシュナン博士は教育を広める振りをしましたが(to make a show of)、事実は、彼は真実ではないこと(untruth)を教えたのです(to preach、布教)。 第25段落 ブラーマン、パラマートマー(超魂)、そしてバーガヴァーン(至高の人格神)---3つすべてが、同じ、非二元論的な至高の完全存在です。ラーダークリシュナン博士がこの主題を知らないと言うのは馬鹿げています(ridiculous)が、それでも私たちは、至高主が化身なさるとき主はマーヤーの影響(sway)の下にくる、という彼の主張の中に論理を見出しかねます。 主は疑いの余地なく(unequivocally)、ギーターにおいて、(ご自分が)顕現するとき、(主は)ご自分のもともとの超越的な形においてそうする、と述べられます。したがって、主と主の体の間には違いはありえないのです。主はさらに、ご自分の姿(appearance)、活動などはすべて超越的であり、物質の領域(realm)を超えている、と述べられます。 主は永遠であり、至高に純粋であり、もともとの至高の人格であり、至高のブラーマンです。私たちは皆、ジーヴァはマーヤーによって覆われていると同意しますが、もしも至高のブラーマン、すなわちパラブラーマンもまたマーヤーによって覆われているのであれば、それならマーヤーはパラブラーマンよりも優れているのでしょうか? #
by ammolitering4
| 2016-03-17 09:14
| 「英知による放棄」
第2章 超越的な献身奉仕は主の本当の姿を明らかにする 第1段落 私たちはシュリマッド・バーガヴァタムから、生命体が霊的な実践から堕落するようにさせるマーヤーが原因で、一部の(certain)不快な(obnoxious)無神論者たちは、主を一般大衆(generalpopulace)から隠し続けておくために、至高主のまわりに哲学的な専門用語(jargon、普通の人には分からないような難しい用語)の煙幕を作ろうとして大変な努力をする、ということを知ります(tolearn)。 (訳注:「無神論者の中には、生命体を霊的な道から堕落させるマーヤーに惑わされて、無駄に難しい言葉を多用して庶民を煙にまき、わざわざ主を理解できないようにしようとする鼻持ちならない者たちがいる」とSBに書いてあります。) この努力の結果もまた、バーガヴァタム(12.3.43)に描写されています。 (サンスクリット引用) 「おお、主よ!カリの時代において(in→In)、人々の知性は無神論によって(訳注:霊的な道から)逸らされるでしょう(tobe diverted)。そして彼らは、宇宙の至高の霊的指導者である至高の人格神に、ほとんど全く犠牲を捧げないでしょう。 三つの世界を統御する偉大な名士たちが皆、至高主の蓮の御足にひれ伏すにも関わらず、この時代の取るに足らない(petty、劣った)、惨めな人類はそうしないでしょう。」 第2段落 民衆(thepublic)を惑わすことを目的としたそのような哲学的な専門用語の良い例が、ラーダークリシュナン博士が「アーヌクーリャシャ・サンカルパー」を、正しい意味である「至高主に服従する」の代わりに「すべてのものへの好意」と訳したことです。 そのような解釈(interpretation説明、通訳)は、私たちが俗的な学者から期待することのできるものです(訳注:俗的な学者のすることです)。 第3段落 献身奉仕における最初の言葉は服従です(訳注:何よりも大事なこと、という意味)。服従の唯一の意味は、人が神の従者であると受け入れることです。ラーダークリシュナン博士のような偉大な学者や哲学者でさえ、(彼らが)服従の過程に従う(toyield to ~、身をゆだねる、この場合は「始める」という意味)前に、たくさんの(heapsof、山ほどの)禁欲(austerities、修行)や苦行(penances)を行わなければなりません。 これがバガヴァッド・ギーターの結論です。ラーダークリシュナン博士の、服従の6つの根幹(limbs、手足にあたるもの、主題)の説明は表面的(superficial)です。もともとはヴァイシュナヴァの文書(text)において定義された、服従のこれらの6つの根幹(limbs)は、主ヴィシュヌ、すなわちクリシュナに関わっています(topertain to ~)。 アヌクーリャは「主クリシュナへの愛情ある奉仕」を意味します。バークティ・ラサームリタ・スィンドゥーは、(サンスクリット引用)と述べます。「人は好意的に(favorably)主クリシュナに超越的な愛情ある奉仕をすべきです。それは純粋な献身奉仕と呼ばれます。」 第4段落 世界のすべての人は、何らかの形で(inone way oranother)主クリシュナに奉仕をしています。ある者たちは好意的にそれをしており、そして他の者たちは相反して(antagonistically、矛盾して、この場合は「非好意的に、悪意を持って」)そうしています。 悪意を持って(unfavorably)奉仕をしている者は有害な(inimical、敵意のある)無神論者、愚かな非献身者です。一方、喜んでそれをする者は、本当に知性的です。言い換えると、クリシュナの献身者は非常に知性的であり、一方で俗的な学者たちはカムサやジャラーサンダーを筆頭とした(ledby、~に率いられる)非献身者の無神論者と同じ区分の内にあります。 第5段落 バガヴァッド・ギーターにおける主要な教えは、完全に主クリシュナの庇護の下に入ることです。それなのに、主クリシュナご自身の蓮の唇から発せられたこの極めて重要な(cardinal、基本的な、主要な)結論は、ラーダークリシュナン博士が人は人格としてのクリシュナではなく「クリシュナを通して語る、生まれず、始まりがなく、永遠の存在」に服従すべきであると書くとき、彼によってさかさまにされています(tobe reversed、この場合は「完全に否定されている」という意味)。 自分の博識(erudition)を仰々しく(ostentatiously、これ見よがしに)ひけらかす(todislay)ために、ギーターを議論のためだけに取り上げ(totakeup)、そしてそのため愚かにも、バガヴァッド・ギーターの話者である主クリシュナが、単なる、死を運命づけられた存在であると結論するほどまでに文章を誤解するというのは、徒労(anexercise in futility、無駄に終わることが決まりきっている行為)です。 神は存在しないと宣言する(topronounce)ため、という、ヴェーダの知識のこの使い方は、悪意をもってクリシュナに奉仕することの明らかな例です。 第6段落 ヴェーダの名において無神論を広めるラーダークリシュナン博士のような学者を、主クリシュナはどのように描写なさるでしょうか。バガヴァッド・ギーター(7.15)において、私たちはこの言明を見出します(訳注:~には~と書かれています)。 (サンスクリット引用) 「全く愚かであり、人類のうちで最も低く、その知識が幻想によって盗まれていて、そして悪魔の無神論的な性質を持つ(topartake)それらの悪者たち(miscreants)は、私に服従しません。」 第7段落 カムサやジャラーサンダーのような主の敵たちは、いつもクリシュナのことを瞑想しますが、悪意を持ってです。これらの悪魔たちに似ているのが、いつもバガヴァッド・ギーターの本当の教えに挑戦し、それを誤って解釈する無神論的な学者たちです。 彼らは主について考えますが、(彼らは)敵意(enmity)を持ってそうします。なぜなら、彼らの知性はマーヤーによって覆われてしまっているからです。カムサとジャラーサンダーもまた、博識な(erudite)学者でしたが、敵意においてクリシュナに執着していた(obsessed)ので、彼らは悪魔でした。 第8段落 主チャイタンニャの教えと模範的な行動から、私たちは、バガヴァッド・ギーターの教えに好意的に従うのが私たちの義務であると理解します。主チャイタンニャの南インドの旅の間に、主がシュリー・ランガナーター寺院の構内(premises、建物あるいは敷地の中)に入ったとき、主は、バガヴァッド・ギーターを読むことに没頭していた(tobeengrossed)1人の単純な(simple、純真、お人好し、愚か、身分の低い、などの意味がある。この場合は「朴訥」か?)ブラーマナに出会いました。 主は、そのブラーマナがいかに注意深く(attentively)読んでいるか、そしていかに涙が彼の頬を伝って流れているかを見て、大変喜ばれました(overjoyed)。近くに座っていた他のブラーマナたちは、彼が文盲であることを知っていたので、いったいどうして彼がギーターを読むことができるのかと不思議に思いました。 第9段落 主チャイタンニャは、この問題を簡単に解決なさいました。主は、(もしも彼が)完全に服従した魂であるなら、教育のない人でさえ超越的な言葉を理解することができる、とおっしゃいました。しかし、服従の気持ち(mood)がなければ、バガヴァッド・ギーターは理解できないままです(toremain incomprehensible)。 第10段落 ブラーマナが泣いているのをご覧になったとき、主チャイタンニャは彼に、ギーターのどの部分に泣くほど感動したのかとお尋ねになりました。正しいヴァイシュナヴァの謙遜をもって、ブラーマナは答えました。 「私は単にギーターを読む振りをしているだけです。本当は私は文盲です。しかし、私のグルは、(私が)文字が読めなくても(unlettered)バガヴァッド・ギーターを定期的に読むようにと、(私に)お教えになりました。 (私の)グルに背き(todisobey)たくないので、私は自分の義務を遂行しようとします。そしてそのため、私はギーターを読んでいる振りをするのです。」 第11段落 主はそれから彼に、なぜ泣いていたのかとお尋ねになりました。ブラーマナは答えました。「私がギーターを読むために座るといつでも、パールター・サーラティー(アルジュナの戦車の運転手)としての主クリシュナの姿が私の心に現れます。 そしてこの姿を見たらすぐに、私は直ちに、いかに主がバークタ・ヴァツァラ(主の献身者に特に親切である)であるかを思い出します。この考えが私を泣かせます。」 第12段落 マーヤーヴァーディーはいつでも、非二元論的な(nondual)至高のブラーマンと同化して神になることに大変熱心です。しかし、彼らの小さな脳は、どうやって(how)至高の人格神がご自分の献身者の運転手(charioteer、戦車の運転手)になって彼の命令を実行するのかを理解することができません。 本当は、至高主とジーヴァは永遠に関係があり(related)、そしてこの関係のため、多くの素晴らしいことが可能です。しかしマーヤーヴァーディーはこの真実を理解することができず、彼らに理解させようと試みた多くの人々が惨めに失敗しました。 シュルティ(シュヴェターシュヴァタラ・ウパニシャッド6.23)において、私たちはこの言明を見出します(~と書いてあります)。 (サンスクリット引用) 主と霊的指導者の両方に絶対的な(implicit、盲目的な)信頼(faith)を持つ偉大な魂だけに、ヴェーダの知識のすべての意味(imports、重要性)が自動的に明かされます。 第13段落 ギーターを読んでいたときの南インドのブラーマナの献身を見て(uponseeing ~ as he read theGita)、主チャイタンニャは彼を抱擁し、それから彼に、彼はギーターを読むことを完成したとおっしゃいました。 主チャイタンニャの認定が何百万もの大学の博士号(doctorates)よりも遥かに優れていることを、どの愚か者が否定するでしょうか?(訳注:~であることを誰が否定するでしょうか?いくらなんでもそんな馬鹿なことは言う者はいません)。 主からのこの賞賛(accolade)は、バガヴァッド・ギーターは物質的な知性によって研究され得ない、ということを証明します。ギーターの知識は、師弟継承において伝わっている、アーチャーリャ、すなわち霊的指導者の鎖(chain)を通して受け取られなければなりません。 これが唯一の方法です。そうでなければ、ギーターを学ぶことは徒労に終わります(anexercise infutility)。聖典の結論は、至高主は超越的であるので主の言葉もまた超越的であり、そしてそのため、バガヴァッド・ギーターの深遠な(esoteric)主題は、等しく超越的である師弟継承を通してのみ受け取られ得る、というものです。パドマ・プラーナには次のように述べられています。 (サンスクリット引用) 「誰も自分の物質的に汚染された感覚を通してシュリー・クリシュナの名前、形、性質、そして娯楽の超越的な性質を理解することはできません。主への超越的な奉仕によって人が霊的に位置するようになるときだけ(訳注:~になって初めて)、主の超越的な名前、形、性質、そして娯楽が彼に明かされます。これはバガヴァッド・ギーター(5.38)において確認されています。 (サンスクリット引用) 「私は太古の主ゴヴィンダを崇拝します。主はシャーマスンダラ、クリシュナご自身であられ、計り知れない(inconceivable)無数の特質(attribute)をお持ちであり、純粋な献身者は彼らの心の中に愛の軟膏(salve)が薄く塗られた(tinge)献身の目で主を見ます。」 (訳注:軟膏うんぬんというのはときどき使われる表現で、ちょっと違いますが「色眼鏡」、または「媚薬」に当たるかと思います。これが塗られると心がその色や気持ちに染まる、というような意味で、物質としての軟膏とは関係ありません。) 第14段落 したがって、聖典の結論は、ラーダークリシュナン博士のような俗的な哲学者は霊的な主題を探求する(todelveinto~)資格がない、というものです。主の献身者だけが、主クリシュナを理解する資格があります。他の誰にも(その)資格はありません。バガヴァッド・ギーター(18.55)において、クリシュナご自身が次のように述べておられます。 (サンスクリット引用) 「人は、献身奉仕によってのみ、私をありのままに、至高の人格神として理解することができます。」 第15段落 ラーダークリシュナン博士のような学者は、主クリシュナの内には主クリシュナだけがある(onlyLord Krishna and nothingelse)ということを理解すべきです。主クリシュナの体と魂は同じです。ギーターの結論は、非二元論的な(nondual)真実はクリシュナ、完全至高存在である、というものです。 しかしラーダークリシュナン博士は、どういうわけかクリシュナの中にもう一つの、第二の存在を見つけました。それでは、この発見はラーダークリシュナン博士を二元論(dualism)の信者に変えます(toconvert)! すべてのジーヴァの心臓の中に住む完全真理の顕現は、主クリシュナによってバガヴァッド・ギーターの中に明瞭に(lucidly)描写されています。バガヴァッド・ギーター(10.8)において、主クリシュナは、すべてのジーヴァの心臓の中に住んでいる存在が誰であるかを説明なさいます。 (サンスクリット引用) 「私はすべての霊的および物質的な世界(worlds)の源です。すべてのものは私から放射します。これを完璧に知っている賢者は私への献身奉仕にいそしみ、心のすべてをもって(withall their hearts、心から)私を崇拝します。 #
by ammolitering4
| 2016-03-07 06:54
| 「英知による放棄」
第10段落 この物質世界に降臨し、それによって影響されないままでいて、それから離れているのは、至高主の特別な特権(prerogative)です。そして、主のように、主の純粋な献身者たちもまた、現象の(phenomenal)世界の華々しさ(glare、まぶしい光)によって惹きつけられないままで留まります(訳注:~に惑わされないでいることができます)。 至高主が永遠で、解放されていて、そして純粋であるように、主の献身者もまた、どのような状況にあっても同様です。これは単純な例を通して簡単に理解され得ます。技術的な発達は、自然が既に提供する(~has to offer、これは「~のすべて」を意味する熟語であり、義務などを表すhas to の意味はない)魅力的なもののすべて(attractions)に映画などを加えました。 (訳注:自然は既に様々な素晴らしいものを与えてくれていますが、技術的な発達によって、それに映画などの新しい魅力が加わりました。) そしてそれでも不思議なことに、今日に至るまで、これらの幻想的な誘惑(enticements)は本当の聖人や隠遁者(hermits、仙人)を魅了し損ねています。そして、私たちは一部のいわゆる現代の聖人たちや托鉢僧たち(mendicants)が大麻(cannabis)や煙草に中毒しているのを見るにも関わらず(訳注:~が見受けられますが)、彼らでさえ多くの他の現代の感覚的な、気を散らすようなもの(distraction)を跳ねつけています(tobe repulsed、拒絶、退ける)。 もしも幻想的な物質世界が主の献身者にほとんど何の(little or no)魅力もないなら、主ご自身はさらにどれほど少なくそれに魅了されておいででしょうか!したがって、無明のせいで人は単なる死を運命づけられた者(mere mortals)が神であると主張するかもしれませんが、それは現実を変えません---人はいつも人であり、神はいつも神であり、決してそうではないということはない(never otherwise)という現実を。 第11段落 かつて、私たちのアーシュラマのブラーマチャーリーの1人が、一種の霊性主義者(a spiritualist of sorts)であり博学な(erudite)学者であるサルヴァパリ・ラーダークリシュナン博士に会いました。ラーダークリシュナン博士は、私がこの随筆を書いている現在、インドの副大統領です。 彼に会ったとき、私たちのブラーマチャーリーは彼から贈り物としてバガヴァッド・ギーターを一冊受け取りました。ラーダークリシュナン博士はこのギーターを英語に翻訳し、それに解説を書いており、そしてそれは当時(1954年)、市場で10ルピーでよく売れました。 第12段落 そのブラーマチャーリーはその本を読み、その本自体は大変深遠であった(deeply esoteric)のですが、やや不満に感じて私たちのところに来ました。彼の不満の理由は、ラーダークリシュナン博士の文章が霊的な洞察(insight)に欠けていたということでした。 多くの箇所で、彼は文(text)を誤って扱ったり(to mishandle)、誤って解釈したり(to misinterprete)していました。そしてそのため、彼は自分の本を、純粋な献身を受け継ぐ(in the line of pure devotion)霊性主義者たちにとって受け入れられないものにしていました。 これは、「主によって、もっとも偉大な賢人たちや半神たちでさえ幻想の中に入れられます」(ムヒャンティ・ヤット・スーラヤー)というシュリマッド・バーガヴァタムの言明(1.1.1)の完璧な例です。主がいかにも簡単に主ブラーマー、主シヴァ、主インドラ、そして他の偉大な宇宙の統御者たちを惑わすとき、ラーダークリシュナン博士が幻想に入れられる(訳注:惑わされる)のは全く驚くべきことではありません。 第13段落 そのブラーマチャーリーは、彼の本の254ページに現れる、第9章第34文節(Text 34)の、ラーダークリシュナン博士の誤解釈によって特に衝撃を受け、傷つきました。彼は非常に陰鬱として、この一文(passage)を論じたいと思って私たちのところに来ました。 その本には、次のような言葉が書いてありました。「私たちが自分自身を完全に捧げるべきは(to whom we have to give ourselves up utterly)人格的な(personal)クリシュナではなく、クリシュナを通して話す、生まれたことのない、始まりのない、永遠の神です(the Unborn, Beginningless, Eternal)。」 第14段落 私たちは、ラーダークリシュナン博士のような世界的に有名な哲学者に議論を突きつける(to confront ~ with arguments)気は毛頭ありませんが、それでも、ブラーマチャーリーが再三頼むので、私たちは文を詳しく調べて(to scrutinize)矛盾(discrepancies)を指摘しなければなりません。 私たちは、ラーダークリシュナン博士に大いなる敬意を持っています。彼が私たちの国の副大統領であるからだけではなく、彼の学識と、ヒンズー教の哲学の博学な(erudite)師匠(master、指導者、熟練者)としての彼の立場のためでもあります。 さらに、彼は自分の出自(to hail from、出身)であるブラーマンの(brahminical)伝統に忠実で、マーヤーヴァーダの学派の学徒(follower)です。愚かな友よりも学識のある敵を持つほうが良いという、 たびたび引き合いに出される言葉(oft-quoted dictum)に照らすと(going by、基づく)、私はこの事柄に関して勇気づけられます。 知性的な敵(opponent、対抗者)は合理的な(reasonable、筋の通った)反証(rebuttals)を挙げますが、無知な友は彼のもがき(floundering、不器用にもがき苦しむ様子)をもって大きな災難(disaster)をもたらすかもしれません(訳注:訳の分からないことを言ってひどい結果をもたらすかもしれない)。 したがって、私たちはラーダークリシュナン博士がバガヴァッド・ギーターの解説において論じる事柄(to make points)に対して強く反論することに関して何の呵責(compunction、良心の咎め)も感じません。 第15段落 有名なベンガル地方の諺があります。「ラーマーヤナ全体を読んだあとで、あなたはシーターは誰の父かと尋ねるのか?」この問いは馬鹿げています(ludicrous)。なぜならシーターは主ラーマの妻であり、そしてそのため、そのような問い(query)は当然、皮肉(quips)と笑いを招きます(訳注:顰蹙を買う、嘲笑される)。 私たちは、ラーダークリシュナン博士のギーターの英語の解説において同じ不条理さ(absurdity、馬鹿馬鹿しさ)を見出します(訳注:~が見受けられます)。彼は、私たちは人格としてのクリシュナ(the person Krishna)ではなく、クリシュナの中の「生まれず、始まりがなく、永遠であるもの」に服従しなければならない、と書きます。 これは、主クリシュナと主の「内的な自己」が二つの異なる自己(identities)であることを暗示します(to imply)。ラーダークリシュナン博士によれば、クリシュナの体と主の魂の間には違いがあるので、私たちはクリシュナの体ではなく魂に服従しなければなりません。 宗教的な哲学の分野におけるこの新しい発見は、上で参照したラーマーヤナの「パンディタ」を私たちに思い起こさせます(訳注:彷彿とさせます)。バガヴァッド・ギーターを語ることにおける主シュリー・クリシュナの唯一の目的は、主の蓮の御足に服従することを私たちに納得させることです。 しかし、そもそもの最初から(right at the outset)、ラーダークリシュナン博士はこの点を受け入れる意思がありません。主クリシュナはバガヴァッド・ギーター(18.66)において中心的な教えを与えられます。 (サンスクリット引用) 「すべての種類の宗教を放棄し、ただ私に服従しなさい。私はあなたをすべての罪深い反応から救います。恐れてはいけません。」 第16段落 主クリシュナは、アルジュナが主に服従するようにするために、これらの言葉を彼に語られました。このギーターの文におけるサラナムというサンスクリットの言葉は、「服従する(to surrender)」を意味します。彼の「入門的な随筆」の62ページで、ラーダークリシュナン博士は服従に関する考え方もやや詳しく論じました。彼は次のように書きます。 「プラパッティ(服従)の内訳は、以下のようなものです(to have the following accessories)。(訳注:サンスクリットは省略しました。) 1.(校正:(i)が抜けている)すべてのものへの愛情(goodwill to all) 2.悪意がないこと(absence of ill will) 3.主が守ってくださるという信頼(faith that the Lord will protect) 4.救い主(savior)としての主に拠り頼むこと(resort to Him as savior) 5.完全な無力感(absence of utter helplessness、非力) 6.完全な服従(complete surrender) 第17段落 これらの服従の6つの根幹(limbs、手足)は、クリシュナ、すなわちヴィシュヌに関連して従われるべきです。なぜなら、服従の過程に関するこれらの教えは、ヴァイシュナヴァの聖典の中に見られるからです(to appear in ~)。 ラーダークリシュナン博士は、最初の教え(limb)(サンスクリット省略)を「すべてのものへの愛情」と訳しました。問い:すべての者に服従することは可能ですか?服従は、至高主のみに向けられるべきです。ラーダークリシュナン博士の提案は非現実的(impractical)であり、実際、不可能です。 ラーダークリシュナン博士がこの(his)解説を書くずっと前に、有名なヴリンダーヴァンのゴスヴァーミーたちを含む、自己を認識した多くの霊的な先人たち(preceptors)が、「アーヌクーリャシャ・サンカルパーという言葉は、人は至高主クリシュナに好意的に(favorably)奉仕をすべきである、ということを意味する」(訳注:括弧は訳者)と説明しました。 他のすべての霊的な権威者を無視して(to disregard)ラーダークリシュナン博士の見解(version)を受け入れようという本物の学者はいません(訳注:まっとうな学者であれば~はしない)。 第18段落 ラーダークリシュナン博士が「主への信頼(faith)」という言葉を使うとき、彼は確かに至高の人格神を指しています。どのような論理によって、彼は「主」が非人格的なブラーマンだけを意味するというのでしょうか(By what logic does he say “Lord” but mean the impersonal Brahman? この場合のbutは「ほんの~だけ」という意味)? アルジュナは、(サンスクリット引用)(BG 2.7)「今、私はあなたの弟子であり、あなたに服従した魂です。どうか私を導いてください(to instruct)」と言うとき、確かに人格としての(person)クリシュナを意味します。これらの言葉をもって、彼はバガヴァッド・ギーターの初めにクリシュナを呼びます。 ギーターのこの段階において、非人格的なブラーマンはまだ論じられていません。非人格的なブラーマンという主題がとうとう提示されたとき、主クリシュナは明確に(unequivocally、疑いの余地なく)ご自分が非人格的なブラーマンの源であると宣言なさいます。 堅固たる論理は、人は非人格的なものや形のないものに服従することはできないと言います(訳注:~というのは論理的に確かなことです)。非人格的なブラーマンに過度に執着している者は、この形のない概念に服従することを非常に辛く(painful)、そして実に、不可能であると感じ、そしてもしも彼らがこの道に沿って歩み続けるなら(to persist along this path)、彼らは自分の妻、家族、そして親戚に服従する結果になるでしょう。 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 どうも毎度お待たせいたしまして、、、ようやく第1章が終わりました。でもまだまだ手元には何十ページもある。。。まあそのうちにぼちぼちと続きをお届けいたします。皆様、どうか見捨てずに辛抱強くお待ちくださいませ。それにしても、今年もまた何かと荒れそうな気配が、のんびり漂ってるどころか充満して渦巻いて吹き荒れてますね。どうなりますやら分かりませんが、お手元の傘なりランプなりは手放さず、精神的な保身を第一にお過ごしくださいませ。ごきげんよう。 #
by ammolitering4
| 2016-02-14 08:05
| 「英知による放棄」
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