第15段落
現在の社会の状況では、私たちはこれらの四つの階層の中に存在していますが、協調がありません。誰もが不満を抱えています。今日では、資本家階級と労働者階級の間にひどい反目があります。両者のあいだに妥協がないからです。摩擦しかありません。階層内に於けるこれらすべての反目は、クリシュナ意識の欠落が原因です。実に、クリシュナ意識がなければ協調の可能性さえありません。クリシュナ意識は、人間社会のすべての側面(構成員)を調和させるために絶対必要なのです。私たちがどの階層に属していようと、もしも私たちがクリシュナ意識で協調すれば世界に平和があるでしょう。 第16段落 このように、クリシュナ意識は社会のすべての階層にとって最も必要なものです。バガヴァッド・ギーターのすべての章とすべての結論はクリシュナ意識を指しています。バガヴァッド・ギーターを語っておられるシュリー・クリシュナは、いつも五字分の人格的な存在への献身を強調なさいます。 (サンスクリット引用) 「いつも私のことを考え、私の献身者になりなさい。私を崇拝し、私に従いなさい(臣従の礼を捧げなさい)。そうすればあなたは間違いなく私のところに来るでしょう。私はあなたにこのことを約束します。あなたは私のとても愛しい友だからです。」(BG18.65) 第17段落 バガヴァッド・ギーター全体を通して、マームという語が強調されています。マームは「私に」、すなわちクリシュナに、ということを意味します。しかし、このマームを「皆」を意味すると解釈する不信心者がたくさんいます。私が「私に一杯の水を持ってきてください」と言うとき、それは私があなたにすべての人のところに一杯の水を持って行って欲しいのだということを意味するでしょうか。独立性は存在しますが、彼らは言葉を曲解することによって「私」を「皆」と解釈します。結果として、クリシュナが「私」と言うとき、不信心者はこの「私」を自分自身と見なします。これは甚だしい誤解釈です。バガヴァッド・ギーターは世界中で非常に人気がありますが、世俗の学者たちによるこの誤解釈によって、それは正しく理解されていません。 第18段落 バガヴァッド・ギーターは、このチャートゥル・ヴァルニャムの制度はクリシュナによって確立されたけれど、クリシュナご自身はこの制度の外にある、と明確に説明しています。化身としておいでになるとき、クリシュナはブラーマナや他のどの階層にも属することなくいらっしゃいます。クリシュナがいらっしゃったとき、主はデヴァキーとヴァスデヴァの息子としておいでになりました。ヴァスデヴァは王族に属していたので、したがってクシャトリヤでした。そのためクリシュナはクシャトリヤの役割を演じられましたが、これはクリシュナがクシャトリヤの階層に属していらしたということを意味するのではありません。クリシュナの化身は様々な生命の形をとったものが存在します。ある化身においては、主は魚として、魚の共同体の一員としてお現れになりました。しかし、これは主が魚であることを意味するのではありません。もし私たちが魚を見て、それがクリシュナの家族に属すると考えるなら、私たちは間違っています。 もちろん、他の見方をすれば、すべてはクリシュナです。しかし、クリシュナはすべてから離れていらっしゃいます。これがクリシュナの超越的な性質であり、もしも私たちがそれを理解するなら、私たちは生と死から解放されるでしょう。クリシュナは人間社会の四つの階層を設立なさいましたが、主はそのどれにも属されません。(サンスクリット引用)クリシュナはクシャトリヤの家族にお生まれになったけれど、クシャトリヤではいらっしゃらない、ということを理解すれば、私たちは本当に解放されるでしょう。もしも私たちが、クリシュナがある特定の方法で行動なさるのでーーー例えば、戦場でアルジュナに戦うように諭されたようにーーー主はその行動の反応に縛られると思うなら、私たちは間違っています。 「仕事は私を汚さない」とシュリー・クリシュナはおっしゃいます。(サンスクリット引用)結論として、私たちは、クリシュナが私たちの一員としておいでになるとき、主は実際には「私たちの一人」ではないという事実を受け入れなければなりません。主は超越的でいらっしゃるのです。この事実を私たちは、バガヴァッド・ギーターや完全にクリシュナ意識に覚醒した霊的指導者などの権威ある源から従順に探究する(submissive inquiry、知識を求めて謙虚に問うこと)ことによって学ばねばなりません。 第19段落 今日では、人間社会のすべての側面(構成員)が、自分たちの利益はこの体を維持することにあると考えています。結果的に、今日の社会は単に猫や犬や豚の社会です。ヴェーダ文献から、単にこの体を維持するためだけに一日中一生懸命働く必要はない、ということを私たちは理解することができます。私たちは感覚を満足させるという目的のために物質自然を統御しようとして非常に熱心に働いています。クリシュナがすべてのものの根源であると理解できる者は、クリシュナが至高の統御者である(イシュヴァラー・パラマー・クリシュナー)の意味を理解することができます。宇宙には多くのイシュヴァラ、統御者がいますが、クリシュナがそれらすべての中の至高の統御者です。クリシュナ意識は、私たちにこの知識を与えます。それなくしては、私たちは自分の本当の利益を知らないままでいることになります。 第20段落 現代の社会は、世界中に本当の霊的な知識を述べ伝えることのできる学識ある人々、すなわちブラーマナを切迫して必要としています。それは単に自然を侵略するためだけに懸命に働いている社会にとって、絶対的に必要なものです。もしも人々が持てる限りの知識と判断力をもってこのクリシュナ意識運動を科学的かつ哲学的に理解しようとするなら、そして協力しようとするなら、世界中に平和がもたらされるでしょう。私たちは単にハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ。と唱え、前述の規制的な原則に従うだけでいいのです。規制的な原則に従うことによって、私たちは罪深い生活の四つの大きな柱を避けられます。ハレ・クリシュナ・マントラを唱えることで、私たちは常に神と関わることができます。そうすれば、すべての階層の人々のあいだに平和があるでしょう。 ▲
by ammolitering4
| 2009-05-27 06:26
| 「クリシュナ意識への上昇」
第13段落
クリシュナに奉仕をすることで物質自然を超越するとき、私たちの位置づけはどうなるでしょうか。私たちはゼロになるのでしょうか。いくつかの哲学は、物質生命から解放された後、すなわちこの物質的な体のニルヴァーナの後、私たちはゼロ、無になると主張します。これは危険な理論です。本質的に生命体は無にはひきつけられません。病気があって様々な症状に苦しんでいても、もし医者が来て「殺して苦しみを終わらせてあげましょう」と言えば、私たちは直ちに「いいえ、いいえ!病気で苦しむほうがマシです」と言います。私たちは、単に苦しみを終わらせるために殺されたくはありません。このように、物質の生命の後には無があるという理論は、まったく魅力的ではありません。事実でもありません。私たちはサック・スィッド・アーナンダ・ヴィグラハ、永遠で喜びに満ちて知識に溢れていて、至高存在の欠かすべからざる小片です。至高主はサック・スィッド・アーナンダ・ヴィグラハであり、私たちは質的には主と同一です。一滴の海水は、とても小さいとはいえ、海と同じ塩辛さをもっています。そして私たちは霊的な原子に過ぎませんが、至高の霊的全体と同じ性質を持っているのです。 無であるということは有り得ません。生命体として、私たちの霊的な性質はすべて無限の多様性の中に存在するからです。しかし、もしも物質存在に於ける苛立ち(フラストレーション)から自殺をすれば、私たちは(それで)自分の悲惨さを終わらせはしません。私たちは単に他の悲惨さを作り出します。もし人が自殺を試みて失敗すれば、あるいは何らかの方法で蘇生されれば、その人は法律によって罰せる対象となります。同様に、自然の法則は自殺を犯罪行為と見なします。私たちは本当の永遠なる喜びに満ちた人生を発見した後にだけ、この物質的な人生を終えることになっているのです。私たちは、単にフラストレーションからこの人生の悲惨さを終わらせようとするべきではありません。そうではなく、私たちは自分を霊的な人生に上昇させる活動にいそしむべきです。 第14段落 人間社会の四つの区分は、この上昇の過程を容易にするためにシュリー・クリシュナによって作られました。学生が初級クラスから上級クラスに上げられるように、労働(チャートゥル・ヴァルニャム)の区分は私たちを一番下の意識の水準からクリシュナ意識の一番上の水準まで引き上げるように作られています。この過程は協調の過程です。人間の体において、最も大切な部分は頭です。そして、腕、胴体、脚があります。頭が最も大切とはいえ、脚や他の部分をおろそかにすることはできません。同様に、人間社会の区分においても、どの一つの部分も他の部分を必要としないほど重要ではありません。これらの区分のうち、ブラーマナは学識のある階級、教師の階級と考えられます。クシャトリヤは管理と軍務の階級です。ヴァイシャは商業と農業の階級です。そしてスードラは一般労働者の階級です。正しく運営される社会には、これらすべての階級が必要とされます。もしも彼らがクリシュナ意識への進歩において協力すれば、彼らの中に葛藤はありません。 。。。。。。。。。。。。。。。。。。 少しずつですみません。今日はここまでです。 ▲
by ammolitering4
| 2009-05-26 07:43
| 「クリシュナ意識への上昇」
第12段落
このように、クリシュナ意識の活動にいそしむ者は直ちに超越的な位置に上げられます。本質的に、私たちはは物質ではなくブラーマン(アハム・ブラーマースミ)です。サンカラーチャーリャの哲学は、主に「私たちは自分がこの物質自然の産物であると考えるべきではない」という原則に基づいています。何らかの不幸な出来事によって、私たちは物質自然と関わることになったのです。本当は私たちの性質はブラーマンのそれであり、その性質が呼び覚まされなければなりません。この物質的な人生は病的な状態です。ブラーマンにあるとき、私たちは健康です。その健康的なブラーマンの状態は、私たちが100%クリシュナ意識になれば直ちに得られます。 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 もうちょっと続けようかと思いましたが、やっぱり今日はこれまで。続きはまた後ほど。。。 ▲
by ammolitering4
| 2009-05-25 13:35
| 「クリシュナ意識への上昇」
第6段落
異なる種類の体が存在し、それぞれに応じて異なる活動が存在します。犬はある種の活動を楽しみ、猫は他の活動を楽しみ、そして人間はまた別の活動を楽しみます。体の違いに応じて異なる活動があります。しかし、私たちが真実の水準に至るときは、そして自分はこの体ではないと理解するときは、そのときは私たちの活動は物質的な活動から霊的な活動へと変化します。私たちが自分は体だと思って暮らしている限り、私たちの活動は物質的です。しかし、「私はこの体には属さない。アハム・ブラーマースミ、私は霊魂だ」と理解した途端に、私たちの活動はその認識に添ったものになるでしょう。つまり、それらの活動は、物質的な、あるいは体に基づく水準によって触発されないようになります。体から離れた自分の正しい自己認識を知ることは、本当の知識です。しかし、この知識は私たちが体に基づく自己認識に執着する限りは否定されます。 第7段落 聖典には、私たちが自分を体だと思って生きている限り私たちのすべての行いは敗退する、と書いてあります。子供は無明の中に生まれます。そしてもしも彼が成長しても自分は体だと思ったままでいれば、彼は闇の中で生きます。彼の位置づけはスードラのそれです。ヴェーダ文献によって、今の時代には誰もがスードラとして生まれるということを私たちは知ります。したがって、誰もが自分の本当の自己について教育される必要があります。しかし、もしも私たちが自分の父と母による誕生に満足していれば、私たちはスードラのままでいるでしょう。私たちは清めの過程を辿ってブラーマンの(brahminical)水準に上がらねばなりません。 第8段落 前述のように、不純な生活には四つの基本的な特徴があります。不正な性生活、陶酔物を摂取すること、肉食すること、および賭け事をすることです。ヴェーダの原則によれば、結婚関係の外で性交にふけるべきではありません。したがって、人間の社会には私たちを犬や猫から区別する結婚の制度があります。私たちがヒンズー教徒であれ、イスラム教徒であれ、キリスト教徒であれ、私たちは結婚の制度を認めます。この制度の目的は不正な性交を避けることです。ヴェーダの制度によれば、陶酔物もまた、薦められません。肉食も良しとされません。人間は非暴力的であるべきだからです。私たちには十分な穀物と果物と牛乳と野菜が与えられており、かわいそうな動物を殺す必要はありません。肉を食べなければ栄養が足りないという人たちもいます。しかし、このクリシュナ意識運動の生徒たちは肉食を止めて大変健康ですが、肉を食べている人々は肉を食べているにも関わらず、いろいろな病気にかかったり不健康な状態になったりしています。賭け事もまた、薦められません。単に心を乱すだけだからです。 第9段落 つまり、これが人がブラーマナになるための浄化過程なのです。この道は誰にでも開かれています。ブラーマナは正直で純粋であり、忍耐強く、質素で、知識と神への信仰に満ちた者です。その人は自分の心と感覚を統御することもできます。現在では、ブラーマナが切迫して必要とされています。ほとんどすべての人がスードラだからです。ほとんどすべての人が、体を維持することと食べることと眠ることと性交することと身を守ること、それだけに気持ちを完全に向けています。これらはすべて動物とスードラの特徴です。 第10段落 互いに調和して機能している四つの区分がなければ、人間の社会は平和ではあり得ません。これらの四つの区分とは、ブラーマナ、クシャトリヤ、ヴァイシャ、スードラです。これらについて、クリシュナはバガヴァッド・ギーターの中で次のように述べておられます。 (サンスクリット引用) 物質自然の三つの相と、それらにあてがわれた仕事に合わせて、私は人間社会の四つの区分を作りました。そして、私はこの制度を創った者ではありますが、私は変化しないので、行為者ではありません。あなたはこのことを知るべきです。」(BG4.13) 第11段落 人間社会のこれらの四つの区分は、人工的ではなく自然なものです。物質世界ではすべてが物質自然の三つの相ーーー徳、熱情、無明ーーーの影響のもとで機能しているからです。私たちが物質世界にいる限り、すべての人を同じ枠の中に振り入れることは不可能です。皆それぞれに物質自然の相の影響のもとで動いているからです。しかし、私たちが物質の水準を超越するとき、そこには一体性があります。そのときはすべての区別が崩壊します。したがって、問うべきは「いかにして物質自然の相を超越するか」ということであり、その超越こそがクリシュナ意識のプロセスそのものなのです。クリシュナ意識に至ると、私たちは直ちに物質自然の相を超越します。 (サンスクリット引用) 「どのような状況にあっても堕落しないで完全に献身奉仕に身を捧げる者は、直ちに物質自然の相を超越し、そうしてブラーマンの水準に至ります。」(BG14.26) ▲
by ammolitering4
| 2009-05-25 13:29
| 「クリシュナ意識への上昇」
第1段落
(サンスクリット引用) 「至高主はおっしゃいました。”この体は、おお、クンティーの息子よ、地表(フィールド)と呼ばれ、この体を知る者は、地表を知る者と呼ばれます。”」(BG13.2) 第2段落 至高の人格神クリシュナは、クシェトラとクシェトラジナに関する知識をアルジュナに教えておられます。クシェトラは地表、すなわち体を指し、クシェトラジナは地表を知る者、すなわち個々の魂を指します。もし土地が耕されるなら、耕す人がいなくてはなりません。そして、もしも地表に例えられるこの体が耕されるなら、それを耕すことのできる所有者がいなくてはなりません。今、私たちはこの物質的な体を持っており、それを正しく耕すことは私たちの義務です。その耕作はアカルマ、すなわち仕事と呼ばれます。ある人は私たちの土地へクワを持って耕しに来るかもしれません。あるいは、単にコーヒーやお茶を飲みにくるだけかもしれません。私たちは、耕し、そして私たちの望みに添った感覚の満足の対象を得るために、この特定の体を与えられました。この体は神からの贈り物です。神はとても親切です。そして、もしも誰かが主から何かを欲しがれば、それをお与えになります。「いいでしょう」と主はおっしゃいます。「これを受け取りなさい。」主と私たちとの関係は、ちょうど父と息子のようなものです。息子は父に何かをくれとせがむかもしれません。そして父は、彼が欲しがっているものは彼のためにはならない、と説得しようとするかもしれません。「愛しい息子よ、これに触ってはいけません。これはあなたにとって良いものではありません。」しかし、もし少年がどうしてもと言うなら、父は持たせてあげるでしょう。愛情深い父は、息子に彼が欲しがるものを与えるのです。同様に、至高の父は御自分の息子や娘たちに彼らが望むものを与えます。バガヴァッド・ギーターには、すべての種のすべての生命は主の子供たちであると述べられています。 (サンスクリット引用) 「すべての種の生命は、おお、クンティーの息子よ、この物質自然の中に宿りました。(made possible by birth)そして私が生命を与えた父です。」(BG14.4) 第3段落 この物質世界では、母、すなわちプラクリティ、物質自然が私たちに体を供給し、至高の父がこの物質を生きた魂で孕ませます。人間だけが魂を持っていて他の生命体は持たないという誤った理論がありますが、私たちはヴェーダの権威から、草や木を含む八百万以上の種類の体があり、それらがすべて魂を持っていることを理解します。魂がなければ発達して育つことができないからです。この節において、シュリー・クリシュナは、この物質世界でまとう形のいかんに関わらず、すべての生命体は御自分の息子たちであり、彼らは息子が父と関係があるように御自分と関係がある、と主張なさいます。 第4段落 このクリシュナ意識は、特に魂の位置づけと神との関係を理解するためにあります。 (サンスクリット引用) 「おお、バーラタの末裔よ、私がまたすべての体における知る者であり、この体とその持ち主を理解することは知識と呼ばれることを、あなたは理解すべきです。それが私の意見です。」(BG13.3) 第5段落 もしも私たちがこの体について瞑想して、私たちが本当にこの体であるかどうかを調べるなら、私たちは自分はクシェトラジナ、すなわち体を知る者であって、体ではない、という結論に達するでしょう。もし私たちが自分の指を調べ、自分が指であるかどうかと考えるなら、私たちは自分は指でもなく他のどの部位でもなく、逆に指や腕や脚や頭などは「私たちの」指、腕、脚、頭などであるという結論にたどり着くでしょう。このようにして、私たちは自分がこの体ではなく体が自分に属しているのだという結論を導き出せます。したがって、私たちは「これは私の体です」といいます。不幸にして、この現代文明に生きる人々は、自分が何であるか、あるいは誰であるかを立ち止まって問いません。彼らは単に「自分はこの体である」という印象の下で、一日中、工場や事務所で一生懸命働いています。そして、もし私たちが人々に彼らは誰であるかと尋ねると、彼らは「私はヒンズー教徒です、イスラム教徒です、スウェーデン人です、アメリカ人です、キリスト教徒です」等々と答えます。これらは体のさまざまな認識、あるいは識別の違いですが、事実は、私たちはこの体ではないのです。体は単に私たちの活動の地表に過ぎません。土地を耕す人が土地ではないように、私たちも体ではないのです。 ▲
by ammolitering4
| 2009-05-25 04:42
| 「クリシュナ意識への上昇」
とりあえず、第2段落が終わりました。ふう。。。読むのも結構大変ですね。楽しみにしてくだるので、やりがいがあります。まだあと第6章まで残っています。ちょうど60ページです。たった5ミリほどの厚さに過ぎないというのに、翻訳というのはずいぶん時間のかかる作業です。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 クリシュナ意識への上昇 第2章 第20段落より 第20段落 人間の人生は本質的に苦しみに満ちており、より低い生命体の人生はもっと惨めです。正しい分別を持った正気の者は誰でも、物質世界の人生は悲惨さに満ちており、そのような悲惨さの行為と反応から自由である者は誰もいない、ということを理解することができます。これは人生を悲観的に見ているわけではなく、私たちが盲目的であるべきではない実際の事実なのです。人生の悲惨さは3つに分類されます。すなわち、体と心に起因する悲惨さ、他の生命体に起因する悲惨さ、および自然な災害に起因する悲惨さです。正気な者は、これらの悲惨さを取り除いて人生で幸せになることを目指さねばなりません。私たちは皆、少なくとも無意識的には、これらの悲惨さから逃れて平和と自由を得ようとしています。そして、より高位の学識ある人々の間では、巧妙な計画とデザインによってこれらの悲惨さを捨て去ろうとする試みがあります。しかし、最も知的な人の計画やデザインでさえ、すべてくじく力がマーヤー・デヴィーの力、すなわち幻想エネルギーです。カルマの法則、すなわち物質界におけるすべての行為と反応の結果は、この絶大な力のある幻想エネルギーによってコントロールされています。このエネルギーの活動は原則と規則に基づいて機能しており、それらは至高主の指導の下で意識的に活動します。すべては自然によって完全な意識の中でなされます。盲目的に、あるいは偶発的に起こることは何一つないのです。この物質エネルギーはドゥルガーとも呼ばれます。それは、乗り越えるのが非常に難しい力であることを示しています。子供じみた計画をどれだけたくさん練っても、ドゥルガーの法則を乗り越えることは誰にもできません。 第21段落 人類の苦しみを捨て去ることは、とても難しいことであり、同時にとても簡単なことでもあります。自然の法則に縛られた制約された魂が三つの悲惨さを捨て去ろうとして計画を立てている限り、解決策はありません。唯一の効果的な解決策はバガヴァッド・ギーターに述べられているそれであり、私たちはそれらを私たち自身の利益のために、私たちの実際的な暮らしに取り入れなければなりません。物質自然の三つの悲惨さは、至高主の娯楽の中にはありません。前述のように、主は永遠に喜びに満ちており、主の超越的な娯楽は主ご自身と異なるものではありません。主は完全真理であるので、主の名、名声、形、性質および娯楽はすべて主と全く同じなのです。したがって、主の娯楽はいわゆるスヴァーミーが主張するように人類の苦しみと同一視することはできないのです。至高主の娯楽は人間たちの実際の悲惨さや苦しみを超越しています。 第22段落 人類の苦しみは、分別をつける力、すなわち個々の魂に与えられた小さな独立性の誤用によって生じます。詐欺的なスヴァーミーたち、あるいは精神的な推察をする人々は、一元論の理論に合致させるために、人類の悲惨さを神の娯楽として無視せねばなりません。しかし、実際にはこれらの悲惨さは、誤って導かれた制約された魂の上に科されたマーヤー・デヴィーの罰が執行されたものに過ぎないのです。 第23段落 生命体として、私たちは至高主の欠かすべからざる小片です。実に、私たちは本当は主の優性エネルギーに属しているのです。そのため、制約されていない状態の人生では、私たちは主の超越的な娯楽に参加することができるかもしれません。しかし、私たちがカルマの法則によって制約されている限り、劣性エネルギーに関係している限り、私たちの苦しみは、自分たちの小さな独立性を甚だしく使い間違えたことから生じた、自分で作り出した苦しみなのです。非人格主義者の一元論者たちは、三重の苦しみは主の娯楽の一部だと主張することによって単に人々を誤って導くだけです。そのような非人格主義者と一元論者は、至高主と個々の魂はすべてにおいて平等であると誤って考えるため、従う人々を誤って導いてきました。たしかに、個々の魂は至高主と性質においては同じです。しかし、量においては違います。もしも個々の魂が量において至高主と同じなら、そもそも物質自然の法則の下に置かれることはなかったでしょう。物質自然は至高主の意思に従属します。したがって、主は物質自然の法則の下には置かれ得ません。主がご自分の劣性エネルギーの法の下にあるというのは矛盾しているのです。 (サンスクリット引用) 「おお、富を征服する者(アルジュナ)よ、私に優る真実はありません。すべては私に依り従います。真珠が糸に繋がっているように。」(BG7.7) 第24段落 再び、クリシュナは述べられます。 (サンスクリット引用) 「三つの相(徳、熱情、無明)に惑わされ、世界全体が私を知りません。私は彼らの上にあり、無尽蔵です。」(BG7.13) 第25段落 物質世界の悲惨さの中に入れられた個々の魂は、自らの許されない活動の結果である反応に苦しんでいます。これがバガヴァッド・ギーターの判断です。 (サンスクリット引用) 「うらやましがり、有害な、人類の最低の者たち。これらの者たちを、私は永遠に物質存在の海へ、様々な悪魔的な種類の生命の中に入れます。」(BG16.19) 第26段落 部分は全体に奉仕するのが本楽の役割です。そして、彼らが自分の独立性を誤用すると、物質の法則の悲惨さの影響を受けます。ちょうど犯罪者が警察の行動の影響を受けるようなものです。国家は、その市民を欠かすべからざる構成部分と考えます。そして、市民が自分の相対的な独立性を誤用するとき、国家はその人を警察の権威のもとに置きます。刑務所の外の市民の生活と中の市民の生活は同じではありません。同様に、物質自然という刑務所の中の生命体の苦しみは、サック・スィッド・アーナンダの完全な自由の中に存在する至高主の娯楽と同一視することはできません。 第27段落 市民が刑務所に行って苦難しなければならないような行動をすることを望む政府はありません。刑務所は、もちろん国家政府が建てたものです。しかし、これは国家がぜひともその市民をそこに放り込みたいと思っていることを意味するのではありません。間接的に、法に従わない市民は政府に刑務所を建てることを強制しているのです。それは政府の楽しみのためになされているのではありません。政府は刑務所を建てて維持するために多額の出費をしなければなりません。反対に、もしも国家に法に従わない市民が一人もいないなら、政府は喜んで刑務所を取り壊すでしょう。同じように、この物質世界は至高主によって作られましたが、至高主は生命体がそこに入れられることを望んでおられません。生命体自身がその決断をするのです。この物質世界の住人は、したがって、至高主の超越的な娯楽に永遠に関わっている人たちとは違うのです。 第28段落 非人格主義者の一元論者たちは、永遠なる霊的な王国における十分に発達した独立の生活に関して、何の情報も持ちません。彼らによれば、霊的な王国は単なる虚空です。これは、囚人が刑務所の外には生活がないと考えるようなものです。刑務所の外の暮らしには、確かに刑務所の活動はありませんが、活動がないわけではありません。魂は本来的に活動的であり、しかし、非人格主義者たちは霊的な王国における魂の活動を否定しようとします。こうして彼らは刑務所の生活の悲惨さを至高主の娯楽であると誤解します。これは彼らの知識が乏しいことに起因します。 第29段落 至高主は個々の魂の活動と反応を創られることはありません。バガヴァッド・ギーターには、この事項は以下のように明確に定義されています。 (サンスクリット引用) 「体に入れられた霊、すなわち自分の体という街の主人は、活動を作り出しません。人々に活動を促すこともありません。活動の結果を作り出すこともありません。これらすべては、物質自然の相によって引き起こされます。至高主が誰かの罪深い行動や敬虔な行いの責任を負うこともありません。しかし、体に入れられた存在は、彼らの本当の知識を覆う無明のために惑わされます。」(BG5.14-15) 第30段落 これらの節から、人類の苦しみは至高主の娯楽と同一視されるものでないことや、至高主がそれらの責任があるのではないことは明らかです。主は決して誰の悪徳や美徳に対しても責任はありません。悪い行いによって、私たちはますます苦難に満ちた状況に置かれます。一方で、敬虔な行いによって私たちは自分を幸せへの道に置きます。このように、人は自分自身の物質的な苦しみや幸せの建築家なのです。主は、生命体が活動の反応にからまることを望まれません。それが良い反応であれ、悪い反応であれ。主は単に皆が家に帰ることを望んでいらっしゃるのです。私たちが神との純粋で永遠の関係に目覚めない限り、私たちは必ず自分の行いにおいて惑わされます。私たちの行いは、善悪に関してすべて無明の水準で行われます。私たちは純粋な知識の水準に上がらねばなりません。それは、私たちが至高主の永遠の従者であって、主の超越的な娯楽の享受者であるという純粋な認識です。至高主はそれらの娯楽を主として楽しむ方であり、私たちは従者として楽しむ者であるのです。 第31段落 バガヴァッド・ギーターに描写されているように、超越的な知識は超越的な献身奉仕によってのみ得ることができます。 (サンスクリット引用) 「常に変わらず献愛の念を持ち、愛情をもって私を崇拝する者に対して、彼らが私のところへ来ることができるように、私は必要な理解を与えます。」(BG10.10) 第32段落 そのような献身奉仕をすることによってのみ、そして、ただ単に大量の識別的な知識を得ることによってではなく、私たちは至高主をありのままに知ることができます。私たちが至高の人格神を本当に知るとき、そのとき私たちは主の娯楽に入ることができます。それがすべての明かされた聖典の判断です。 ▲
by ammolitering4
| 2009-05-19 03:06
| 「クリシュナ意識への上昇」
第12段落
富は崇拝され、母なるラクシュミ、すなわち幸運の女神と称されます。すべてのナラ、すなわち生命体の、その源であるナーラーヤナに仕えることが彼女の役割です。ナラもまた、幸運の女神の指導のもとでナーラーヤナに仕えることになっています。生命体はナーラーヤナに仕えずして幸運の女神を享受することはできません。そのため、正しくない方法で幸運の女神を享受しようと望む者は、自然の法によって罰せられます。これらの法は、お金それ自体が平和と繁栄の代わりに必ず破壊をもたらすようにするのです。 第13段落 正しくない方法で集められたお金は、将来的な内戦と国家間戦争の資金のために、様々な方法による国家の税金によってケチな市民から取り上げられます。その資金は、無駄が多くて破壊的な方法による支出金です。市民はもはや、人間の生活にとって必要不可欠である二つのこと、すなわち、家族を適切に養い、霊的な知識を培うということに必要なお金だけでは満足しません。今、人々は皆、飽くことを知らない欲望を満足させるために際限なくお金を欲しがります。人々の不正な欲望に比例して、彼らが貯めこんだお金は、医療者、弁護士、収税人、社会、国家構造、いわゆる聖者、飢餓、地震、そのほか多くの類似する苦難という形をとった幻想エネルギーの代理人たちによって取り去られます。「バック・トゥ・ゴッドヘッド」を一部買うのを渋ったケチな人は、一週間の薬代に二千ドルを払い、そして死にました。主への奉仕のために1セント出すのさえ拒否した別の人は、家族内の法的なトラブルに何千ドルも無駄にしました。幻想的な自然の支配によって引き起こされた同様の事例はいくらでもあります。実に、それが自然の法なのです。もしお金が主への奉仕のために使われないなら、それは法的な問題や病気などの形で、駄目になったお金として使われねばならないのです。愚かな人々は、そのような事実を見る目を持ちません。したがって、至高主の法は彼らをたぶらかすのです。 第14段落 自然の法律は私たちに適切な維持に必要とされる以上のお金を受け取ることを許しません。自然の法によって、すべての生命体にそれぞれの相応な食べ物と住処の分け前を供給する、有り余るほどの配剤があります。しかし、人間の飽くことを知らない欲望は、すべての種の生命の万能の父によって整えられた配剤を乱しました。至高主の配剤によって、塩に満ちた海が存在します。塩は生命体にとって絶対に必要なものだからです。神は同様に、同じく必要不可欠である空気や光が十分になるようになさいました。誰でも自然の倉庫からいくらでも塩を取ることができますが、本来は私たちは自分たちが必要とする以上の塩を取ることはできません。もしも塩が多すぎると、スープが駄目になります。そして塩が足りないと、食べ物が味気なくなります。一方で、もし私たちが必要な分だけ塩を取れば、私たちの食べるものはおいしくなり、私たちは健康になります。現在、私たちの天然資源が汚されて使い尽くされることに関して多大な懸念があります。本当は十分に与えられているのです。しかし、誤った使い方と貪欲さによって、すべてが駄目にされています。自然保護論者と生態学者が理解していないのは、このクリシュナ意識のプロセスを人々が習慣づけない限り、すべては人類の止まるところを知らない欲望によって駄目にされ続けるということです。クリシュナ意識なくしては、存在のどの水準においても平和を得ることは不可能です。 第15段落 したがって、人は自らの飽くことのない欲望と貪欲さによって苦しんでいません。苦しんでいるのは、人だけではありません。人が住む天体、すなわちシュリマッド・バーガヴァタムの中で母なる牛として表されている母なる地球もまた、苦しんでいます。かつて、インドの著名なスヴァーミーが、人類の苦しみに対して神や摂理は責任があるのか、と尋ねられたことがあります。スヴァーミーは、これらの苦しみはすべて神の娯楽、リーラーだと答えました。質問した人は、なぜ生命体はカルマの法の支配の下に置かれるべきなのか、と尋ねました。スヴァーミーは、彼の問いが満足されるような答えを与えることができませんでした。至高主と生命体が一つであることだけに基づいて考える一元論者や非人格主義者は、そのような問いに対して満足な答えを与えることができません。そのような不完全な答えは、生命体の心をほとんど満足させることができません。 第16段落 主は、すべての聖典においてリーラー・プルソッタマ、すなわち、本来的にいつも超越的な娯楽に興じている至高の人格神と描写されています。ヴェダーンタ・スートラにおいては、主はアーナンダマヨ・ブヤーサートとも描写されています。一元論者と非人格主義者は、一つであるということと非人格であるということという、彼らの二つの不完全な理論を支えるために、このスートラを様々な方法で説明しようとして大変な苦労をしています。しかし、アーナンダ、すなわち快楽は一人では楽しめないという事実が残ります。多様性が喜びの母であるということは、よく知られた事実です。例えば、都会はそこに様々なものがあれば魅力的です。生命体は、魅力的な通りや建物、映画、公園、乗り物、会社、雇用、食べ物その他、多様性によって自然にひきつけられます。これらすべての多様性にも関わらず、イギリスの詩人パウパーは、かつてこう言いました。「都市は人間によって作られる。しかし、田舎(訳注、country、森などの人里離れた自然を含む)は神によって作られる」。田舎もまた、天然のままも形の多様性に満ちています。一方で、都市ではこの多様性は現代化された科学的な在り方で示されます。カウパーのような詩人は田舎の多様性にひきつけられます。そして都市に住む平凡な人々は人間によって作られた華やかな多様性にひきつけられます。どちらにしても、田舎や都市に人々をひきつけるのは多様性なのです。これがヴェダーンタ・スートラの節の正しい解説です。 第17段落 非常にしばしば都市にひきつけられる多くのいわゆるスヴァーミーたちは、しばしば社会と女性との関わりの中にある種の喜びを求めます。一般に、彼らは森に住むことに向いている者のような格好をするかもしれませんが、森の自然な美しさには魅了されません。そのようなスヴァーミーは、物質の中に様々な喜びを捜し求めています。彼らは霊的な生活の多様性について何の情報も持たないからです。彼らは一方では物質の多様性を楽しみ、他方で絶対存在に対しては霊的な多様性を否定します。彼らは一元論と非人格主義の理論に忠誠を誓っているので、物質に関するものは何であれ霊にも関係するということを否定します。彼らによると、霊は物質の否定です。しかし、事実は、霊は物質の否定ではなく、物質は霊の歪んだ反映であるのです。 第18段落 多様性の本当の喜びは、相対性を損なう(訳注、delude、あざむく)ことなく、霊の中に存在します。一方で、静的な物質は動的な霊との関わりによって、その霊的な多様性そのものの誤った複製、すなわち歪んだ反映を顕現します。いわゆるスヴァーミーの一元論的な階級の人々は、その霊的な多様性そのものを非常に頑固に否定します。 第19段落 以前に述べたように、至高主はサック・スィッド・アーナンダ・ヴィグラハ、すなわち本来的に喜びに満ちており、したがって主はご自分を、自らの異なるエネルギー、部分、および分離された分化体や完全体の部分によって、拡大なさいます。至高主は完全真理であり、比べるもののない唯一無二の存在であり、しかしまた、主はご自分と同時に一つであって異なる様々なエネルギー、部分、および完全な部分を含有なさいます。主は本来的に喜びに満ちていらっしゃるので、ご自分を様々な方法で拡大され、、これらの拡張体の活動は主の超越的な娯楽、すなわちリーラーと呼ばれます。しかし、これらの娯楽は盲目的で静的ではありません。それらは完全な感覚と独立性と、そして行為と反応の自由を示します。完全真理の様々なエネルギーの行動と反応の複雑さは、神の超越的な科学と呼ばれる膨大な科学の主題(subject matter)を成し、バガヴァッド・ギーターはその科学に興味のある学生のためのABC,すなわち知識の入門書です。すべての知性ある人間は、この超越的な知識に興味を持つべきです。実に、聖人たちの意見によれば、人間の生はこの科学を学ぶためだけにあるのです。ヴェダーンタ・スートラの始まりの言葉は、「今こそブラーマンについて問うときである」と宣言しています。 ▲
by ammolitering4
| 2009-05-18 05:19
| 「クリシュナ意識への上昇」
クリシュナ意識への上昇
第二章 第1段落 明かされた聖典において、至高主はサック・スィッド・アーナンダ・ヴィグラハと表現されています。サットは永遠を意味し、スィットは完全に気付いていることを意味し、アーナンダは喜びに溢れていることを意味し、そしてヴィグラハは主が人格であることを意味します。このように、主、すなわち比類なき至高神は、完全なる自己認識と完全なる知識を持つ、永遠の喜びに溢れた人格です。主に対等の者や、主に勝る者は存在しません。これが至高主の簡潔な描写です。 第2段落 生命体(ジーヴァ)は、至高主の微細な見本(サンプル)であり、そのため自らの行いの中に永遠の存在と完全な知識と幸せを望む気持ちを持っています。これらの願望は、人間の社会においては明らかであり、高位の天体系(スヴァルガロカ、ジャナロカ、タポロカ、マハルロカ、ブラーマロカなど)においては、生命体はより長い寿命とより多くの知識と、全体的により幸せな存在を楽しむことができます。しかし、この地球上よりも寿命と楽しみのレベルが何千何万倍も多い、この物質世界のもっとも高位の天体においてさえ、それでも老いと病と死があります。結果的に、至高主との交わりにおいて享受できる永遠の喜びに比べると、その喜びは取るに足らないものです。様々に異なる関係において至高主に愛情のこもった奉仕をすることは、非人格的なブラーマンの喜びでさえ大海と比べたときの一滴の水ほどにも取るに足らないものにします。 第3段落 すべての生命体はこの物質世界で最も素晴らしい楽しみを求めますが、それにも関わらず、ここでは誰もが不幸せです。この不幸はすべての高位の惑星にも存在します。寿命が長く、楽しみや快適さの水準が高いにも関わらず、それは物質自然の法則によるのです。私たちは寿命を最大限に延ばし、生活の水準を最高位にまで引き上げることができますが、それでも物質自然の法則によって私たちは不幸せです。その理由は、私たちの本来の在り方にとって適切な幸せの質は、物質的な活動から得られる幸せのそれとは異なるからです。生命体はサック・スィッド・アーナンダ・ヴィグラハである主の優位な霊的エネルギーの微小な一部であり、したがって質的に霊的な喜びを必然的に求めるのです。不幸にして、生命体は物質自然という異質な環境で喜びを得ようとして無駄な努力をしています。 第4段落 水から出された魚は、どんな工夫をしても陸の上では幸せになれません。魚には水が必要なのです。同様に、微小なサック・スィッド・アーナンダである生命体は、この物質宇宙の中では、その幻惑された脳でいかに作戦を練っても、それで幸せになることはできません。生命体には本質的に霊的な幸せが必要なのです。私たちの志は、この一時的な幸せではなく、霊的な至福を楽しむためにむけられるべきです。哲学者の中には、物質的な幸せと物質的な存在を否定することで霊的な幸福を得られると主張する者もいます。スリパーダ・サンカラチャーヤが提示なさったように、物質的な活動を理論的に否定することは、人類のごく一部にとっては効果的かもしれません。しかし、すべての人にとって霊的な幸せを得るために最良にして最も確実な方法は献身奉仕である、と主シュリ・チャイタンニャ・マハープラブが提示なさいました。これらの献身奉仕は、物質自然の在り方そのものを変えることができます。 第5段落 物質的な幸せを追い求めることは欲望と呼ばれ、欲望に基づいた行動は長期的には必ず満たされない気持ちをもたらします。ヘビの体はとても冷たいですが、もし人がその冷たさを楽しみたくて体の周りに有毒なヘビを巻けば、その人はきっとそのヘビの毒で殺されるでしょう。物質的な感覚はヘビのようなものです。物質的な幸せにふけると、私たちの霊的な自己認識は必ずや殺されるでしょう。したがって、正気な者は幸せの本当の源を探すことに意欲的であるべきです。 第6段落 この源を見つけるためには、しかし、その幸せとは何かということについて幾らか知っておく必要があります。サトウキビを見たことのなかった愚かな男の話があります。サトウキビとはどんな特徴があるのか友人に尋ねてみると、形が竹に似ているという誤った答えが返ってきました。そのため彼は竹の棒から汁を絞ろうとしましたが、当然ながら全然うまくいきませんでした。これが幻惑された生命体の在り方なのです。永遠の幸せを求めて、この物質世界から幸せを得ようとしています。しかし、ここは悲惨さに溢れているだけではなく、一時的であり、明滅的でもあるのです。バガヴァッド・ギーターにおいて、物質世界は悲惨さに溢れていると表現されています。 (サンスクリット引用) 「物質世界では、最高位の惑星から最低位の惑星にいたるまで、すべてが悲惨な場所で、生と死が繰り返されます。しかし、私の住処に辿りついた者は、おお、クンティーの息子よ、二度と生まれることはありません。」(BG8.16) 第7段落 幸せに対して意欲を持つのは自然で良いことですが、それをいわゆる科学的な工夫によって不活性な物質から得ようとすることは、間違いなく満たされない結果に終わる、幻惑された試みです。騙されている者だちは、これを理解することができません。人がどのように物質的な幸せに対する欲望によって動かされるかということが、バガヴァッド・ギーターに描写されています。 (サンスクリット引用) 「悪魔的な者は次のように考えます。“今日は私はこれだけの富を持っている。そして私は自分の計画に沿ってもっと多くを得るだろう。今はこれだけが自分のもので、将来はもっともっと増えるだろう”」(BG16.13) 第8段落 この無神論的な、すなわち神のない文明は、私たちの感覚を満足させるために企てられた巨大な社会情勢です。そして今、私たちは皆、この空っぽの殻を維持するためにお金を得ようとして、正気を失っています。お金は感覚の満足のための物と交換するための媒体なので、皆が欲しがっています。明らかに、そのようなゴールドラッシュの大混乱の雰囲気においては、平和を期待することはユートピア的な夢です。ほんのわずかでも感覚の満足の気配があれば、すなわち感覚の満足を求める気持ちがあれば、平和ははるかに遠いものであり続けるでしょう。これは、私たちは本質的に至高主の従者であり、したがって自分たちの個人的な利益のためには何物をも楽しむことができないからです。 したがって、主に超越的な奉仕をするために自分たちの感覚を利用するための方法を学ぶこと、および主の利益に奉仕するためにすべてのものを利用することが、私たちには必要です。これだけが望んでやまない平和をもたらします。体の一部は、それだけが独立して幸せになることはできません。それは体全体に奉仕をすることによってのみ、幸せと喜びを得ることができます。 至高主は全体であり、私たちは一部ですが、しかし私たちは皆自分の利益のための活動に忙しくいそしんでいます。主に奉仕をしようとする者は誰もいません。これが私たちが物質的な存在において制約されていること、並びにその結果としての不幸の、基本的な原因なのです。 第9段落 超高層ビルのオフィスにいる最も偉い重役から路上の苦力(クーリー、単純労働者)に至るまで、誰もが合法的、あるいは非合法的に富を蓄えようとしています。本当は、すべてが非合法なのです。自分の個人的な利益のために働くのは、不法かつ破壊的だからです。自分の個人的な利益のために霊的な認識を培うことでさえ、不法であり破壊的です。要点は、すべての活動はクリシュナの満足と主への奉仕に向けられなければならないということです。 第10段落 至高主への超越的で愛情に溢れた奉仕に携わっていない者は、自分たちが日々たくさんのお金を蓄えているという誤った考えを持っています。 (サンスクリット引用) 「何百何千という望みと欲と怒りに縛られ、彼らは感覚の満足のために非合法な方法によってお金を蓄えます。」(BG16.12) 第11段落 結果として、世界にはお金の不足はないにも関わらず、平和が欠けています。人間のエネルギーの非常に多くがお金を稼ぐことに向けられています。人口の多くがもっともっとお金を稼ぐ能力を身に着けたからです。しかし長期的には、結果として、この無制約にして不法な金融インフレーションは世界中に劣悪な経済を作り出し、私たちはそのような安易な金稼ぎの結果そのものを破壊するための巨大で高価な武器を作ってしまいました。 たくさんのお金を稼ぐ大きな国の指導者たちは、平和を楽しんではいません。核兵器による切迫した破壊から身を守るための計画を立てています。実際、これらのおそるべき兵器の実験のために、巨額のお金が海に捨てられています。そのような実験は、多額のお金がかかるだけではなく、多くの命も奪っています。このようにして国々はカルマの法則に縛られます。人々が感覚の満足のための衝動によって突き動かされているときは、それで稼いだお金はすべて穢されます。人類の破滅のために使われたからです。人がすべてのエネルギーの本当の持ち主である主に反感を持ったために、自然の法則にしたがって、人類のエネルギーはこのように無駄にされます。 ▲
by ammolitering4
| 2009-05-15 02:17
| 「クリシュナ意識への上昇」
クリシュナ意識への上昇(第一章16段落)
Elevation to Krishna Consciousness 第一章 第16段落 これら生命体のすべてが、体と心に関係する悲惨さを含む三重の苦しみを受けます。動物は自分が苦しんでいることを理解できませんが、人間はできます。自分が苦しんでいることを知らない者は、動物の意識にあります。動物は柵の後ろにいて屠殺される運命にあるかもしれません。しかし、彼らはそれを理解できません。人間として、私たちは自分たちが生老病死の痛みを苦しんでいることを気付いているべきであり、これらの悲惨さを避けるにはどうしたらいいのかを知ろうとすべきです。私たちは生の初めから苦しんでいます。胎児のころ、私たちは母親の子宮の中に9ヶ月も窮屈に詰め込まれていました。生まれてからも苦しみは続きます。母親は大事に子供の面倒を見るかもしれませんが、それでも子供は泣きます。なぜでしょうか。子供は苦しんでいるからです。虫が刺したか、お腹が痛いか、その他の病気だったりします。何であれ、苦しみは続きます。また、学校に行きたくないのに行かされることにも子供は苦しみます。子供は勉強したくありませんが、先生は構わず宿題を出します。もし私たちが注意深く自分の人生を分析するなら、それが苦しみに満ちていることが分かるでしょう。一般的に、制約された魂はあまり知性的ではありません。そして、そのために彼らは「なぜだろう」と問うことなく苦しみ続けるのです。私たちは、しかし、この苦しみが存在することを理解すべきです。そして、もし治療法が存在するのならそれを利用しなければならないのです。 第17段落 偉大なる賢者リシャバーデヴァは、息子たちに次のように教えました。「私の愛しい息子たちよ。この世において、あなたがたはこの美しい体を得ました。さて、あなた方は、それが豚や犬の体のように感覚の満足のために使われるべきものではなく、霊的な理解のために使われるべきものであることを知るべきです。」つまり、リシャバーデヴァは、感覚の満足のための人生は豚のように糞を食べる者のためにあり、今こうして高度な形の生命を得た私たちは低位の生命の真似をすべきではない、とおっしゃるのです。最近、ニューヨーク市のセントラル・パークを歩いていたとき、アメリカ人の若い男女が豚を崇拝しているのを見かけて驚きました。私たちがハレ・クリシュナを唱えていたとき、これらの若者たちの集団は「豚!豚!豚!」と唱えていました。彼らは実際にセントラル・パークの中を豚と一緒に行進していて、豚の前で頭を下げて彼らを崇拝していました。彼らは実際に一頭の豚が大統領になることを望み、豚たちに彼らを率いて欲しいと望んでいました。これは本当に度を過ぎてしまい、シアトルでのあるビー・インでは、若い男女が衣服を脱ぎ捨てて泥に入り、豚と一緒に遊ぶ、というデモンストレーションさえありました。そして、このようにして彼らは自分たちの崇拝する豚と付き合っていたのです。これらのことのすべてが、若い人々が見た目の良い体とたくさんのお金と、他の国の若者たちが持たない多くの有利さを持っている国で行われているのです。これらのすべての有利さを得た結果、彼らは単に豚を崇拝するようになってしまいました。そのような豚の崇拝は、遠い遠い昔に予知されており、少なくとも五千年前に編纂されたシュリマッド・バーガヴァタムに描写されています。要点は、人生における美しい状況は、堕落した崇拝の形のためではなく、美しい結末のために使われるべきだということです。 第18段落 ヴェーダの歴史において、非常に多くの高貴な皇帝たちや王たちが禁欲と苦行を実行しました。ドゥルヴァ・マハーラージャ、アムバリシャ・マハーラージャ、そしてユディシュシラ・マハーラージャは、皆偉大な王であり、非常に裕福でしたが、同時に偉大な聖人でもありました。このようにして彼らは、経済的な発展と快適な暮らしのためのすべての便宜を備えた美しい人間の形をした生命形態という幸運を得た者たちのために、見本をお示しになったのです。この機会は、さらに良い暮らしを得るために使われるべきです。そして、それは苦行を実行することによって実現できます。現在では、私たちはこの物質的な体の中に存在していますが、もし私たちがクリシュナ意識のプロセスを習慣づけるなら、私たちの意識は浄化されるでしょう。アメリカ人であってもヨーロッパ人であっても、自発的にクリシュナ意識を訓練している生徒たちは、とても喜んでそうしています。そのプロセスは面倒なものではなく、喜ばしいものです。今では彼らは、動物の暮らしと人間の暮らしの違いは浄化された存在にある、ということを理解しつつあるのです。 第19段落 もし私たちが単にクリシュナ意識の基本的な規制に従うことによって自分の存在を浄化するなら―――それは不道徳な性交と肉食と陶酔物と賭け事を慎むことですが―――私たちは徐々に完全に純粋な本来の霊的な存在にたどり着けるでしょう。賢者ルシャバーデヴァは息子たちに、彼らが自分の存在を浄化するなら無限の幸せを得るだろう、とおっしゃいました。私たちは皆、平和と幸せを得るように意図されています。しかし、私たちがこの物質的な世界で見つける平和と幸せは、どれも有限です。もし私たちが自分の存在を浄化して霊的な存在に辿り着きさえすれば、私たちは無限の平和と幸せを経験するでしょう。 第20段落 霊的な世界は無味乾燥でもなく抽象的でもありません。先に指摘したように、そこには多様性があるのです。ヴァイクンサで経験される霊的な喜びの一つは踊ることです。そこにも若い娘たちや若者たちがいます。実際、そこには老齢や病や死や、誕生の痛みというようなものはないのです。もし私たちが霊的な世界における私たちの本来の生得権である無限の幸せと知識と永遠の生命に加わりたいなら、私たちはこの人生を感覚の満足のためにがむしゃらに働いたり豚を崇めたりすることで無駄にすべきではありません。私たちは、クリシュナ意識を培うことに捧げられた人生を受け入れるべきであり、そうすれば無限の幸せと無限の喜びを得るでしょう。これがクリシュナ意識運動の要点なのです。 ▲
by ammolitering4
| 2009-05-14 04:31
| 「クリシュナ意識への上昇」
途中までですが、どうぞご覧ください。原文はこちらにあります。
英語の原文サイト クリシュナ意識への上昇 Elevation to Krishna Conciousness 第一章「人間の生活と動物の生活から選択する」 第一段落 (サンスクリット引用) 「私は霊的指導者に謹んで敬意を捧げます。彼は無明の闇で閉じられていた私の目を知識の松明の灯りで開いて下さいました。」 第二段落 超越的な知識の事柄について弟子を啓蒙する霊的指導者に対しては、この節と共に敬意を表する習慣があります。ヴェーダのプロセスは調査研究を必要としません。世俗的な学問においては、私たちは何らかの研究によって理論的な学識を証明しなければなりませんが、ヴェーダのプロセスは違います。ヴェーダのプロセスにおいては、調査研究は既になされています。それは完全であり、単に師から生徒へと師弟継承によって手渡されるのです。調査研究の余地は全くありません。人がそのような研究を行うのに用いる機器や手段は、鈍くて不完全だからです。 第三段落 私たちの物質的な存在の現在の段階では、私たちは多くの自然の法則によって制約されています。すべての制約された魂は、感覚の不完全さに起因する四つの欠陥を運命づけられています。一つの欠陥は、制約された魂は必ず間違いを犯すということです。間違いを犯さない人はいません。たとえば、インドではマハートマー・ガンディーは大変素晴らしい名士であると考えられていましたが、彼も間違いを犯しました。殺されることになった会合へ行く5分前に、彼は信任の厚い仲間から行かないように警告されました。しかし、彼はどうしても行くと言い張りました。間違いを犯すのは、生命の制約された状態においては大変自然なことです。実際、よく使われる「過ちを犯すは人の常」という表現が生まれたほどです。 第四段落 制約された魂のもう一つの不完全さは、必ず幻惑されるということです。幻惑されるというのは、そうでないものをそうであるとして受け入れること、去来する幻想を事実と考えることを意味します。私たちの一人一人は、自分はこの体であると思っています。しかし、実際には私たちは体ではありません。体を自己として受け入れることは、幻想、すなわちマーヤーと呼ばれます。 第三の不完全さは、制約された魂は騙す傾向があるということです。私たちは、店の主人が次のように言うのをよく耳にします。「あなたは私の友人ですから、私はあなたからは利益を上げません。」しかし、実際には私たちは彼が少なくとも50%の利益を上げていることを知っています。この騙す傾向の例は非常にたくさんあります。また、本当は何も知らないのに「多分」や「かもしれない」などの言葉を使って理論を発表する教師の例もたくさんあります。実際には、彼らは単に生徒を騙しているのです。 第四の不完全さは、生命体の感覚は完全ではないということです。私たちの視力はとても限られているので、あまり遠いところやあまり近いところは見えません。目はある条件の下でのみ見ることができるのです。したがって、私たちの視力は限られていると理解できます。同様に、私たちの他のすべての感覚もまた限られています。無限なるものをこれらの不完全で限られた感覚によって理解することは不可能です。結論は、ヴェーダのプロセスは私たちが自分の様々に制約された現在の感覚を使って完全真理を学ぼうと努力することを奨励しない、ということです。もし私たちが何がしかの知識を得るなら、それはこれらの四つの不完全さによって制約されていない優位の源から来るものでなければなりません。その源がクリシュナです。主はバガヴァッド・ギーターの至高の権威であり、非常の多くの聖者や賢者によって完璧な権威として受け入れられています。 第五段落 ヴェーダ文献を真剣に学ぶ者は、権威を受け入れます。たとえば、バガヴァッド・ギーターは多大な調査研究の成果として形成された学究的な発表作品ではありません。それはクルクシェトラの戦場で主クリシュナがアルジュナにお教えになった完全な知識であり、私たちはそこから次のことを知ります。すなわち、(現在のカリの時代よりも)以前の時代において、シュリー・クリシュナはバガヴァッド・ギーターを太陽神ヴィヴァスヴァーンにお教えになり、それははるかなる太古からヴィヴァスヴァーンに始まる師弟継承によって伝えられてきました。 (サンスクリット引用) 「聖なる主はおっしゃいました。“私はこの不滅のヨガの科学を太陽神ヴィヴァスヴァーンに伝えました。そしてヴィヴァスヴァーンはそれを人類の父であるマヌに教え、次にマヌはそれをイクシュヴァークに教えました。”」(BG4.1) 第六段落 もし私たちがバガヴァッド・ギーターを学究的な知識や自分の精神的な推量によって学ぶなら、私たちは必ず間違いを犯します。バガヴァッド・ギーターをそのような方法で学ぶのは不可能なのです。注意深くアルジュナの足跡を辿ることが必要です。以前の時代には、解釈と精神的な推量によって、バガヴァッド・ギーターの本当の意味が見失われました。そのため、クリシュナはそれをアルジュナに与えることで再び教えを確立なさいました。 (サンスクリット引用) 「この至高の科学は、このように師弟継承によって受容されました。そして、聖人的な王たちは、そのようにして理解しました。しかし、時が経って継承は途切れ、そのためありのままの科学は失われたように見えます。至高存在との関係という非常に古い科学が、今日、私からあなたに語られます。あなたは私の献身者であり、私の友でもあるからです。したがって、あなたはこの科学の超越的な神秘を理解することができます。」(BG4.2.3) 第七段落 このように、アルジュナの足跡を辿り、献身の念を持ってクリシュナに近づく者は、バガヴァッド・ギーター並びに他のすべてのヴェーダ文献の目的を理解することができます。 第八段落 ヴェーダには四つあります。サーマ、リク、ヤジュール、そしてアサルヴァです。そして、イソパニシャッド、カサ・ウパニシャッド、およびタイティリヤ・ウパニシャッドを含む108のウパニシャッドがあります。また、ヴェダーンタスートラ、シュリマッド・バーガヴァタム、およびバガヴァッド・ギーターがあります。これらの文献は、ある特定の階級の人々のためのものではなく、人類の社会のすべてのために存在します。すべての社会が人間の人生を完全なものとするためにヴェーダの知識を利用することができます。前に指摘したように、人間の人生は感覚を満足させるためにあるのではなく、神と宇宙と、自分が誰であるかを理解するためにあります。 第九段落 ヴェーダ文献から、この物質世界は単に神の創造全体の一部の顕現に過ぎないことを理解することができます。神の創造の大部分は、ヴァイクンサという霊的な世界に見られます。シュリー・クリシュナがバガヴァッド・ギーターにおいて述べておられるように、この物質的な自然を超えたところに優性なる霊的な自然が存在します。 (サンスクリット引用) 「土、水、火、空気、エーテル、精神、知性、および虚偽の自己、これらの八つが私の離れた物質エネルギーを形成します。この劣性の自然のほかに、おお、強大なるアルジュナよ、私の優性なるエネルギーがあります。それは物質自然の中で苦しみ、宇宙の重さに耐えているすべての生命体です。」(BG7.4.5)(訳注、最後の一文は「宇宙を維持している(sustain)すべての生命体」とも読めますが、文脈からいって「sustaining (the weight of ) the universe, 宇宙(の重さ)に耐える」としたほうが意味が通じるように思います。) 第十段落 多くの物質的な宇宙が群れをなして存在し、これらすべての宇宙が物質的な創造を形成しています。これらの無数の物質宇宙群の向こうにあるのが霊的な天空であり、それはバガヴァッド・ギーターにも記述があります。 (サンスクリット引用) 「その私の住処は太陽や月で照らされてはおらず、電気でも照らされていません。そして、そこに至った者は誰であれ二度とこの物質世界には戻りません。」(BG15.6) 第11段落 この物質自然を超えたところにあるその優性の自然は永遠です。それが始まったという歴史はありません。それは始まりも終わりもないのです。 (サンスクリット引用) 「もう一つの、永遠の自然が存在します。それは、この顕現したりしなかったりする物質を超越しています。それは至高であり、決して滅びることがありません。この世界のすべてが滅ぼされるとき、その部分はそのままで変わりません。その至高の状態は、非顕現にして決して誤ることがない、と呼ばれ、最高の目的地です。そこに至ると、その私の至高の住処から人は決して戻りません。」(BG8.20.21) 第12段落 ヴェーダの宗教、すなわちヴァルナースラマ・ダールマもまた、永遠と呼ばれます。誰にもその始まりを見つけることができないからです。キリスト教徒の宗教は二千年の歴史があります。イスラム教徒の宗教は千三百年の歴史を持っています。しかし、もし私たちがヴェーダの宗教の始まりを辿ろうとすると、それを見つけることはできません。ヴァルナースラマ・ダールマは生命体の永遠の宗教として受け入れられています。 第13段落 私たちはしばしば神がこの物質世界を創造なさったと言います。そしてこれは神が世界の前に存在していたことを意味します。この物質顕現の前に存在していらしたので、主はこの創造の影響を受けることはありません。もしも物質世界の法則の影響の下にあるなら、どうして神がそれを創造したということがあり得るでしょうか。主が同時に、ご自分の創造と同一であって、なおかつそれから離れてご自身の完全性の中に存在なさる、ということは、バガヴァッド・ギーターに述べられています。 (サンスクリット引用) 「私の超越的な形において、私はこの創造すべてにあまねく存在します。すべてのものは私の中に存在していますが(resting in Me)、私は彼らの中にはありません。しかしまた、創造されたもののすべてが私に拠り頼む(rest on Me)わけではありません。私の神秘的な栄光を見なさい。私はすべての生命体を維持するものであり、あらゆるところに存在しますが、それでも私自身が創造の源そのものなのです。」(BG9.4.5) 第14段落 実際には、私たちは皆霊魂であり、無数の霊的な惑星と無数の霊的な生命体が存在する霊的な天空において神と関わりを持つのが本来の姿です。しかし、その霊的な世界に住むのにふさわしくない者は、この物質世界に送られます。まさにこれと同じ概念がミルトンの「失楽園」にも表されています。霊魂であるにも関わらず、私たちは自発的にこの物質的な体を受け入れました。そして、それを受け入れることによって同時に物質自然の三重の悲惨さをも受け入れました。正確にいつそれを受け入れたのか、そして、どうやってそうするに至ったのかは、辿ることができません。制約された魂が最初にこの物質的な体を受け入れ始めたのはいつなのか、誰にもその歴史を辿ることはできないのです。 第15段落 現在では、高等学習の機関ではダーウィンによる有機物質の進化の理論が非常に突出しています。しかし、パドマ・プラーナや他の権威ある聖典には、生命体が一つの形の体から別の形の体へと霊的な進化をするという情報があります。このプラーナは、生命体には840万の異なる形があり、そのうち90万は水中に棲む、と私たちに知らせています。植物だけでも200万あります。現在では誰もがダーウィンの理論に重点を置いていますが、ヴェーダ文献には異なる種に関する莫大な情報が存在します。ダーウィンは、種は下位の生命体から進化しているという意見を表明していますが、それは真実のすべてではありません。魂は低位の形から高位の形へと向上するかもしれませんが、バガヴァッド・ギーターに示されているように、創造の始まりにおいてすべての種はシュリー・クリシュナによって創造されたのです。 (サンスクリット引用) 「おお、クンティーの息子よ、(ブラーマの)千年(millennium)の終わりにすべての物質顕現は私の自然の中に入り、そして次の千年の始まりのときに私は自分の力で再び創造します。宇宙秩序の全体が私の下にあります。私の意志によってそれは繰り返し顕現し、私の意志によって最終的に滅亡します。」(BG9.7.8) ▲
by ammolitering4
| 2009-05-13 14:52
| 「クリシュナ意識への上昇」
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