クリシュナ意識への上昇 第6章16段落より
第16段落 私たちがこの「クリシュナ意識」という言葉を作り出したのではありません。クリシュナ意識とは、世界の歴史の中で一番古い言葉です。 (サンスクリット引用) 「いつも私のことを考えていなさい。私の献身者になりなさい。私を崇拝し、あなたの臣従の礼を私に捧げなさい。結果として、あなたは間違いなく私のところにやってきます。私はあなたにこれを約束します。あなたは私のとても愛しい友達だからです。あなたの心でいつも私のことを思いなさい。あなたの体でいつも私に奉仕をしなさい。そして私に服従しなさい。完全に私に夢中になれば、確実にあなたは私のもとに来ます。」(BG18.65,9.34) 第17段落 マン・マナー・バーヴァ・マッド・バークトは、「ただいつも私を意識していなさい」という意味です。これがすなわちクリシュナ意識です。バガヴァッド・ギーターの中で、クリシュナは繰り返し、私たちが主を崇拝し、主に服従し、主のもとに来る(行く)べきである、とおっしゃいます。(訳注、英語および日本語の一部の方言では「来る」ですが、日本語の標準語表現では「行く」のほうが正しいかもしれません。)バガヴァッド・ギーターはクリシュナ意識の絶対的な必要性をはっきりと指し示しており、バガヴァッド・ギーターはウパニシャッドの真髄として受け入れられています。歴史的な観点から見ても、比類すべきものはありません。考古学的な証拠に基づいて、クリシュナは五千年以上前にクルクシェトラの戦場でバガヴァッド・ギーターを語ったと計算されています。つまり、このクリシュナ意識運動は、歴史的な観点からも五千年の歴史があるのです。その哲学は世界の歴史の中で最も古いものです。もしも私たちがもっと遡りたいと望むなら、私たちはシュリー・クリシュナがこのバガヴァッド・ギーターをかつて太陽神に語られたということを知ります。クリシュナは永遠であり、クリシュナ意識もまた永遠です。クリシュナ意識はこのようにして近づかれるべきであり、単なる理論であると考えられるべきではありません。 第18段落 クリシュナ意識が何らかの意識で覆われているとき、私たちは汚染されて制約された人生を経験します。空が澄んでいるとき、私たちは太陽の明るく輝く光を見ることができますが、雲に覆われているときは見ることができません。私たちは太陽光を知覚することはできるかもしれませんが、太陽そのものを見ることはできません。空が澄んでいるとき、それは自然な状態にあります。同様に、私たちは永遠にクリシュナの欠かすべからざる小片なので、私たちの意識は永遠にクリシュナ意識なのです。これはバガヴァッド・ギーターの15章に断言されています。 (サンスクリット引用) 「この制約された世界にいる生命体は、私の微細な一部であり、彼らは永遠です。しかし、制約された人生によって、彼らは心を含む六つの感覚に大変な苦労をしています。」(BG15.7) 第19段落 どういうわけか、私たちは物質自然に関わることになってしまいました。そして、心と六つの感覚のために、存在するのに大変な苦労をしています。それがダーウィンの理論―――生存のための苦労、最も強い者が生き残る、というものです。しかし、本当の事実は、私たちの本来の立場は、苦労するようなそれではない、ということです。苦労は動物の人生の立場です。人間の人生は喜びに満ちている(blissful、幸せ、至福、天上の喜びに溢れた状態)べきであり、霊的な発達を目的としているべきです。かつて、それがインドにおいて人生の原則でした。そして、霊的な文化だけにいそしむ階層の人々、ブラーマナがいました。ブラーマナの文化生活はインドの聖典に明確に述べられていますが、それはインドだけのものではなく、すべての人間のためのものです。ヴェーダはすべての人類のために書かれましたが、ヴェーダが書かれたときには、たまたま現在インド文化として知られているものが存在する唯一の文化だったのです。その頃は、惑星全体がリシャバーデヴァの息子、皇帝バーラタ・マハーラージャにちなんでバーラタヴァルシャと呼ばれていました。バーラタ・マハーラージャは惑星全体を統治していましたが、徐々に惑星は分割されていきました。つまり、ヴェーダ文化のダルマは単に宗派的な意味でインドやヒンズーのものであると考えられるべきではないのです。 第20段落 ダルマという語は往々にして宗教を意味すると翻訳されますが、ダルマを宗教として受け取るのは語の誤解です。一般的な使い方では、宗教という言葉はある特定の信仰を指します。ダルマという言葉はそうではありません。ダルマは生命体の自然な職業(occupation、この場合は属性)を指します。例えば、火があれば熱と光もあります。そのため、熱と光は火のダルマだと言われます。火は自分のダルマを変えることはできません。同じように、液体性は水の本源的な性質であり、この性質は変えられません。もし変えられるなら、それはもはや水とは考えられません。個々の魂のダルマは決して変えられません。そしてそのダルマとは至高主に奉仕をするという職業的な義務です。信仰と宗教は変えられ得ます。今日は私はヒンズー教徒であるかもしれませんが、明日はキリスト教徒やイスラム教徒になるかもしれません。このように信仰は変わることがありますが、ダルマは自然な帰結、自然な職業、あるいは繋がりなのです。 第21段落 クリシュナは、生命体のダルマの遂行に食い違いが起こって不自然な活動の急激な高まりがあるときは直ちに降臨するとおっしゃいます。主の降臨の主な目的の一つは、宗教的な原則を再確立することです。最も優れた宗教制度とは、私たちを至高主に服従するように最も良く訓練するものです。これがバガヴァッド・ギーターの底に流れる基本原則です。私たちは、宗教の本当の目的を知っている限り、自分の宗教を選んでヒンズー教徒になったり、イスラム教徒や仏教徒やキリスト教徒になったり、他の何かになったりすることができます。実際のところ、シュリマッド・バーガヴァタムは私たちが今持っている宗教を放棄することを薦めていません。しかし、宗教の目的を示します。目的は至高神の愛であり、至高神を愛するにはどうしたらいいかを最もよく教える宗教が最上の宗教です。 第22段落 現代では特に、大衆の意識に一般的な衰退があります。神が存在することを覚えている人は少しはいますが、ほとんどの人は主を忘れています。だから彼らは幸せになれません。人々は神に対して何の恩義もないと考えたり、神はいないと考えたりしています。このような考えは、決して幸せを作り出しません。今日のように文明が無神論的であるとき、神あるいは主の代理人は人々に至高の意識との関係を思い出させるためにおいでになります。 第23段落 サナータナ・ゴスヴァーミーが主チャイタンニャに「私は何ですか?なぜ私はいつも惨めな状態にいるのですか?すべての生命体の立場は何ですか?」と聞いたとき、シュリー・チャンタンニャ・マハープラブは直ちに、本当の自己認識は神の従者というそれである、とお答えになりました。私たちは「従者」という言葉を物質的な従者のような意味で理解すべきではありません。神の従者になるというのは偉大な立場です。人々は、いつも何かの政府の地位や有名な企業の役職を得ようとしています。そのような地位で奉仕をすると、大きな利益があるからです。私たちは政府への奉仕の中でいい地位を得ようとして躍起になりますが、神への奉仕の中で地位を得ようと立ち止まって考えることをしません。神はすべての政府の中の政府なのです。 第24段落 神への奉仕はダルマです。このダルマは、異なる文化的および気候的な状態あるいは状況によって、異なる国々で異なるように描写されるかもしれませんが、すべての宗教的な聖典において、神への服従が教えられています。神はいない、とか、私たち生命体は独立している、などと説く聖典はありません。聖書や、コーラン、ヴェーダ、仏教徒の聖典でさえそうです。一般に、仏教徒の哲学では、個々の魂というものはなく、至高の魂もありません。しかし実際には主ブッダはヴェーダ文献によって神の化身として受け入れられているので、主ブッダに従うことによって人は実際は神に従っています。シュリマッド・バーガヴァタムには、神の化身の表があり、主ブッダはその一人として受け入れられています。シュリマッド・バーガヴァタムはヴャーサデヴァによって五千年前に編纂され、主ブッダは2600年前にお現れになりました。したがって、シュリマッド・バーガヴァタムは実際に主の来臨を予言していました。主ブッダは、神も魂もなく、この体は物質の複合であり、この物質の複合が分解すれば悲惨さや幸せなどの感覚はもはや無くなる、と教えられました。そしてサンカラーチャーリャが現れ、ブラーマンの外的な特質、すなわち体は、単なる幻想である、と教えました。すべての宗教において、寺院での崇拝と権威の受容が存在します。私たちは、クリシュナや主イエス・キリストやエホバや主ブッダやサンカラーチャーリャやグル・ナナクなどを受け入れるかもしれませんが、どの場合でも権威を受け入れることが要求されます。 第25段落 バガヴァッド・ギーターにおいて、主シュリー・クリシュナは至高の権威として受け入れられています。時にはクリシュナは自ら降臨され、時には化身として降臨されます。時には主は音の振動として降臨なさり、時には献身者としておいでになります。アヴァターには多くの異なる分類があります。今の時代においては、クリシュナはご自分の聖なる御名、「ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ」としていらっしゃいました。主チャイタンニャ・マハープラブも、今のカリの時代にクリシュナは音の振動として降臨された、と確認なさっています。音は主がお取りになる形の一つです。したがって、クリシュナと主のお名前に違いはないと述べられています。 第26段落 今日では、人々は神との関係を忘れてしまいましたが、この、主の聖なるお名前という形のクリシュナの化身、このハレ・クリシュナを唱えることは、世界のすべての人々を彼らの忘却から救い出すでしょう。主チャイタンニャ・マハープラブは、もしも私たちが(このマントラを)唱えれば、あるいはクリシュナの聖名を唱えることに関われば、私たちは人生の全き完成の水準に至る、とおっしゃいます。シュリマッド・バーガヴァタムによると、異なる時代のための異なる課程が存在しますが、それぞれの過程の原則はすべての時代において有効であり続けます。ハレ・クリシュナを唱えることが、今の時代には有効だけれど、サチャ・ユガではそうではない、ということではありません。また、サチャ・ユガでは人々がクリシュナの聖名を唱えていなかったというわけでもありません。サチャ・ユガにおいては、瞑想が主な課程であり、偉大なムニたちは6万年以上も瞑想しました。しかし、今の時代には私たちの寿命はとても短いので、この方法で完成を得ることは不可能です。結果的に、この時代では特に私たちが皆で座ってハレ・クリシュナを唱えることが勧められているのです。それはとても簡単です。誰でも参加することができます。教育の必要もなく、あらかじめ何らの資格が要求されるわけでもありません。今の時代は、人々は大変鈍くて、不運でもあり、悪い関わりによって汚染されています。チャイタンニャ・マハープラブは、神の愛を広めるための素晴らしい宣伝手段として「ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ」を導入なさいました。それはカリ・ユガだけに薦められているわけではありません。実際はすべての時代において薦められているのです。すべての時代を通して、マントラを唱えて完成に至った献身者がたくさんいます。それがこのクリシュナ意識運動の美点です。それは一つの時代や一つの国や、一つの階層の人々のためのものではありません。ハレ・クリシュナは、どのような社会的な地位の、どのような国の、どんな年齢の人でも唱えることができます。クリシュナは、すべての社会的な地位と、すべての国々と、すべての年齢の人々の至高主であられるからです。 ....................................................................... これで終わりです。今日は休みだったので、タイプを済ませることができました。次はSpiritual Yogaという小冊子を翻訳する予定です。 ▲
by ammolitering4
| 2009-06-13 07:19
| 「クリシュナ意識への上昇」
クリシュナ意識への上昇 第6章
第1段落 インドでは、すべての聖典と、非人格主義者であるサンカラーチャーリャを含む偉大な霊的教師たちがクリシュナを至高主として受け入れています。サンカラーチャーリャは、彼のバガヴァッド・ギーターの解説の初めに、ナーラーヤナはこの顕現あるいは非顕現の創造を超越していると述べ、同じ解説の中で、至高の人格神であるナーラーヤナはデヴァキーとヴァスデヴァの息子として現れたクリシュナであると述べています。このように、このことに関して、クリシュナに対する意見の違いはほとんどありません。人格主義者であれ、非人格主義者であれ、権威ある者たちはクリシュナが至高神であるということで合意しています。 第2段落 クリシュナが地上にいらしたとき、主はご自分の活動と栄華によって、至高主であると証明なさいました。もしも私たちが本当に至高主が誰であって何であるか知りたいと願うなら、すべての情報はヴェーダ文献に与えられています。もしも私たちが何であれ持てるものを神を理解するために使うなら、クリシュナはご自分が至高の人格神であると証明なさいます。もしも私たちが単にこの一つの事実を受け入れるなら、そうすれば私たちの教育のすべては完全です。神が誰であるかを知るために研究するのがはやっていますが、これは必要ではありません。神は存在しておられ、自ら次のようにおっしゃいます。 (サンスクリット引用) 「おお、富を征服する者(アルジュナ)よ。私に優る真実はありません。真珠が糸に繋がっているように、すべては私に拠り頼みます。」(BG7.7) 第3段落 この情報はバガヴァッド・ギーターだけでなく他の聖典においても与えられています。そして、そもそもの初めから、サンカラーチャーリャやラーマーヌジャチャーリャやマドゥヴァーチャーリャや主チャイタンニャなどのアーチャーリャ(教師)や、他の多くの忠誠心の篤い権威者によって受け入れられています。現在においてさえ、クリシュナを至高主として受け入れない者たちがクリシュナによってアルジュナに与えられた知識を受け入れています。つまり、そのようにして彼らはクリシュナを間接的に受け入れているのです。もしも人がバガヴァッド・ギーターを偉大な知識の書として受け入れるなら、その人はクリシュナをも受け入れています。至高の完全真理がクリシュナであって、私たちが主と永遠の関係を持っていることは、疑いようもありません。 第4段落 私たちの神との永遠の関係はサバージャナです。つまり、神は偉大であり、私たちは従属しています。主は支配者であり、私たちは支配されます。従属する者の義務は支配者を喜ばせることです。同様に、もしも私たちが幸せになりたいなら、私たちはクリシュナを幸せにする方法を学ばねばなりません。これがクリシュナ意識の過程です。 第5段落 しかし、至高主が私たちの奉仕と労働によって満足なさるということが、どうやって理解できるでしょうか。私たちの奉仕、すなわち職業的な義務(訳注、 occupational duty、それぞれの性質に合った、義務としての仕事。Occupationは必ずしも雇用を意味しない。)を完成させることは、実際に可能です。誰でもそれぞれの性質(designation)に従って果たすべき奉仕があります。インド人であれアメリカ人であれ、ヒンズー教徒やイスラム教徒やキリスト教徒であれ、男であれ女であれ、ブラーマナ、クシャトリヤ、ヴァイシャ、スードラや他の何であれ、どちらにしても人は何らかの仕事をすることにあんっていて、その仕事がその人の職業的な義務です。義務の完成は至高主やその実行によって満足しているかによって計られます(tested、試される)。至高主の満足は、主の代理人である霊的指導者によって計られます。したがって、至高の人格神の本当の代理人を探し、その人の下で働くことが大切です。もしも霊的指導者が満足しているなら、私たちは至高主もまた満足していると知るべきです。それはヴァイスヴァナーサ・チャクラヴァルティー・サークラによって説明されています。 (サンスクリット引用) 「霊的指導者の慈悲によって、人はクリシュナの恵みを賜ります。霊的指導者の恵みがなければ、誰も全く進歩できません。したがって、私はいつも霊的指導者を思い出しているべきです。少なくとも一日3回は私は自分の霊的指導者の蓮の御足に尊敬を込めて服従の礼を捧げるべきです。」(シュリー・グルヴァシュタカム、第8節) 第6段落 霊的指導者は至高主の代理人です。どうやって彼は代理人になれるのでしょうか。もしも誰かが「あんなふうでこんなふうな物体は眼鏡である」と言い、もしもその人(訳注、それを聞いた人)が弟子にそのように教えるなら、(訳注、弟子が)その物体を確定するにあたって間違いはありません。霊的指導者とは、ある特定の師弟継承の言葉を身につけた者のことです。上記の例では、鍵となる言葉は「眼鏡」です。それだけです。霊的指導者は、それ以上何も言う必要はありません。これが資格です。クリシュナは「私が至高存在です」と言い、霊的指導者は「クリシュナが至高存在です」と言います。クリシュナの代理人であるために、すなわち霊的指導者であるために、人が何か非常に突出した資格を持っていなければならないわけではありません。彼は単に、個人的な解釈を加えないで権威者からのメッセージを伝えなければならないだけです。何らかの個人的な解釈が加わると同時にメッセージは失われ、教えは不快なものになります。自分の独自の思いつきにしたがって聖典を解釈する者は、直ちに退けられるべきです。 第7段落 かつて、主チャイタンニャ・マハープラブは「あなたは少なくとも誰が霊的指導者で誰がそうでないかを見極めるのに十分な知性(sense)を持たねばなりません」とおっしゃいました。例えば、もしも私たちが何かを買いたいなら、私たちは少なくともそれが何であるのかについて、何らかの知識を持っていなければなりません。さもないと、私たちは騙されます。もしも私たちが市場からマンゴーを買いたいなら、私たちは少なくともマンゴーなるものがどのような種類の食べ物でどんな姿をしているのかを知っていなければなりません。同様に、私たちは真正な霊的指導者の資格について、幾らかの入門的な知識を持つ必要があります。バガヴァッド・ギーター自体の中に、霊的指導者の継承についていくらかの情報があります。主クリシュナはおっしゃいます。 (サンスクリット引用) 「私はこの滅びることのないヨガの科学を太陽神ヴィヴァスヴァーンに教えました。そしてヴィヴァスヴァーンはそれを人類の父マヌに教え、マヌは次にイクシャヴァークに教えました。この至高の科学とは、このように師弟継承の鎖を通して受け取られ、聖なる王たちはそれをそのようにして理解しました。しかし、時が経つにつれて継承は途切れ、したがってありのままの科学は失われたように見えます。その、至高存在との関係という非常に古い科学は、今日私によってあなたに語られます。なぜならあなたは私の献身者であり、私の友人でもあるからです。したがってあなたはこの科学の超越的な神秘を理解することができます。」(BG4.1-3) 第8段落 そのもともとの霊的な師弟継承は途切れましたが、今私たちはバガヴァッド・ギーターを学ぶことで同じメッセージを受け取ることができます。バガヴァッド・ギーターにおいて、クリシュナはちょうど太古の昔に太陽神にお話しになったのと同じようにアルジュナに語られます。もしも私たちがアルジュナとクリシュナの言葉を受け入れるなら、私たちにとってバガヴァッド・ギーターを理解することは可能かもしれません。しかし、もしも私たちがそれを自分の独自なふうに解釈するなら、結果は無意味です。バガヴァッド・ギーターを理解する最も良い方法は、真正な霊的指導者を受け入れることです。これはあまり難しくありません。 第9段落 アルジュナは、クリシュナは至高の人格神なので、自分はクリシュナが自分に語ったことをすべて受け入れる、と言います。 (サンスクリット引用) 「アルジュナは言いました;親愛なるクリシュナよ。おお、決して誤ることのない者よ。私の幻想は今や消え去りました。あなたの恵みによって、私は自分の記憶を取り戻しました。今、私は何の疑いもなく心が定まり、あなたの指導に従って活動する準備ができました。」(BG18.73) 第10段落 アルジュナのように、私たちはクリシュナを至高の人格神として受け入れ、主のおっしゃるようにすべきです。 (サンスクリット引用) 「おお、クンティーの息子よ。あなたのすることのすべて、食べるもののすべて、捧げるものや与えるもののすべて、そして行う苦行のすべては、私への捧げものとして為されるべきです。」(BG9.27) 第11段落 クリシュナをこのような精神で受け入れることによって、私たちは完全な知識を得ることができます。しかし、もしも私たちがクリシュナを受け入れず、バガヴァッド・ギーターを独自に解釈するなら、すべては駄目になります。 第12段落 もしも私たちが誠実であるなら、クリシュナの恵みによって私たちは誠実な霊的指導者を得ます。しかし、もしも私たちが騙されたいなら、クリシュナは騙す人を送ってくださり、私たちは生涯騙され続けます。それが実際に起こっているのです。クリシュナをありのままに理解しようと望まず、自分の不完全な視野の力(訳注、物事を観察する力)によって理解したいと望む者にとっては、神、すなわちクリシュナは未知であり続けます。 第13段落 クリシュナと主の教えを受け入れ、そして主に献身奉仕を捧げる、というのが過程のすべてです。完全な献身奉仕の具現そのものであるのがシュリーマティー・ラーダーラーニーです。ブラーマ・サムヒターにおいて、ラーダーラーニーはクリシュナの霊的な潜在力の拡張体であると描写されています。このように、彼女はクリシュナと異なりません。ラーダーとクリシュナに仕えるゴピーたちは、普通の女性や少女たちではありません。彼らのクリシュナの喜びの潜在力の拡張体です。ラーダーラーニーとゴピーたちは、決して普通の女性として受け入れられるべきではありません。実に、彼女たちの立場を理解するためには、私たちは霊的指導者の導きを必要とします。もしも私たち生命体が実際にラーダーラーニーと関わりたいなら、彼女は普通の女性ではありませんが、それは可能かもしれません。私たちは献身奉仕に熟練して資格を得ることによって、ラーダーラーニーの仲間になることができます。 第14段落 献身奉仕にはフラストレーションはありません。たとえ私たちがほんの少しの奉仕をしても、それは育ちます。献身奉仕は決して失われることがありません。物質的なものの場合は、私たちが世界において得るものはすべて、体が終わったときに失われます。しかし、私たちは永遠なる霊的な火花なので、私たちの霊的な財産は私たちと共に行き、徐々に実を結びます。このようにして、過去に超越的な知識を培った者は、この運動を通してクリシュナ意識に出会います。クリシュナ意識への興味は一般的なものではありません。バガヴァッド・ギーターのなかに、何万何億という人の中で、ほんの一人が完全を得ることに興味を示す、と書いてあります。もしも私たちが「単にこの本を読んで15分間瞑想するだけで、誰でも直ちに(特別な)力を得て、ビジネスで成功し、試験に合格します」と宣伝すれば、多くの人がその本に惹きつけられるでしょう。人々はマーヤーに騙されることのほうを好むので、クリシュナ意識に惹き付けられません。彼らは、人生の完成とは、たくさんの食べ物を食べ、20時間眠り、毎日毎晩異なる相手と生殖をすることだと考えます。人々はこういうことに興味がありますが、人生の完成には興味がありません。 第15段落 すべての知性ある人は、少なくともクリシュナ意識を試みてみるべきです。彼は次のように言うべきです。「分かりました。私はもう何度も生まれかわって、この食べることと眠ることを楽しんできました。これらのことは、私が鳥や動物の体にいたときにも与えられていました。今、この人生において、動物的な人生の四つの原則―――食べること、眠ること、身を守ることと生殖すること―――を制限し、クリシュナ意識を培うことに時間を使うことにします。こうすることで私の人生は成功します。」 ▲
by ammolitering4
| 2009-06-13 03:45
| 「クリシュナ意識への上昇」
第13段落
私たちはゴスヴァーミーたちの足跡に従い、このようにラーダーとクリシュナを探し求めねばなりません。ヴリンダーヴァンは私たちの心の中にあり、私たちは主をそこで探さねばなりません。これがチャンタンニャ・マハープラブがお奨めになる別離の中の崇拝の過程です。クリシュナからの別離を感じ、主チャイタンニャ・マハープラブは海に身を投げました。真夜中に部屋を出て行って、いなくなることもありました。主がどこに行かれたのか、誰も知りませんでしたが、その間主はクリシュナを探しておられたのです。このように、私たちは何かのスポーツのショーの見物人のようにクリシュナとラーダーの愛の交歓を楽しんだりするものではないのです。私たちは彼らからの別離を感じなければなりません。私たちがより強く別離を感じると、私たちはより強く自分が進歩しているのだと理解すべきです。私たちの物質的な感覚をもってしては、私たちはクリシュナを見ることはできず、主のお名前を聞くことさえできません。私たちは献身奉仕に進歩したときに主を知覚し始めることができます。その献身奉仕は、脚や目や耳ではなく、舌から始まります。舌は「ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ」と唱え、クリシュナのプラサーダムを食べることに使われなければなりません。舌には二つの機能があり、このように使うことで私たちはクリシュナに気付くことができます。私たちは自分の物質的な目でクリシュナを見ることはできず、物質的な耳でクリシュナについて聞くこともできず、私たちの手でクリシュナに触ることもできません。しかし、もしも私たちが自分の舌を主への奉仕に使えば、主は「私はここにいます」と言ってご自分を明かしてくださいます。 第14段落 このハレ・クリシュナを唱えるという行いは、物質自然の燃え盛る火を消します。これは霊的指導者への以下の祈りの説明でもあります。 (サンスクリット引用) 「霊的指導者は慈悲の海から天福を得ています。山火事の上に雲が水を注いで火を消すように、霊的指導者は物質存在の燃え盛る火を消します。私は霊的指導者の蓮の御足に尊敬をこめて服従します。」(シュリー・グルヴァスタカム、1節) 第15段落 この物質自然は、しばしば自動的に発生する山火事に例えられます。誰も山火事を望んではいませんが、しばしば落雷があり、不注意や摩擦やその他のことがあり、火事は直ちに発生します。同様に、この物質世界は問題の燃え盛る火に包囲されています。皆がここで平和に暮らしたいと思っていますが、何らかの状況が発生し、誰も平和に暮らせません。私たちは物事を非常に多くの方法で調整しようとして大変な苦労をしますが、自然の法則はとても残酷で危険なので、私たちの望みと計画にも関わらず、物質存在の問題という燃え盛る火は続きます。 第16段落 例えば、この世紀では(1900年代)私たちは戦争の火を消そうとしましたが、まだそうできていません。第一次世界大戦があり、第二のそれを防ごうとして国際連盟が作られましたが、その試みにも関わらず、第二の戦争が起こりました。今では戦争を終わらせる助けとなるように国際連合が作られましたが、戦争はベトナムやエジプトやパキスタンや他のところで続いています。誰も第三次世界大戦を望んでいませんが、それは一触即発に見えます。消防隊と、水の入ったバケツを持った何人かの人を送って、それで大きな山火事を消すことはできません。吠えるような山火事を消すためには、大量の水が必要です。言い換えれば、人間の努力を超えた配剤がなければなりません。山火事の上に恵み深い雲があるとき、雲ははじけ、雨が土砂降りとなって降り、燃え盛る火は直ちに消えます。雲が海から水を集めるように、同様に霊的指導者はクリシュナの恵みの海から水を集め、物質自然の燃え盛る火の上に注ぎます。このように、クリシュナの恵み深い雨を与え、あるいは配る者は、霊的指導者、あるいはグルと呼ばれます。 第17段落 ヴェーダ文献には、クリシュナ意識の超越的な科学を理解するために私たちはこの問題の燃え盛る炎を消すための知識を得ようとしなければならない、と書いてあります。科学者や哲学者や他の教育のある人々はそれを消そうとして大変な努力をしていますが、その結果はもっともっと大きな爆弾であるように見えます。カーミー、すなわち結果を求めて働く労働者たちは、この火を消そうとして、すなわち大変な労働によって物質存在の惨めな状態を減少させようとして、昼も夜も精魂を込めて働いています。ジナーニー、すなわち哲学者たちもまた努力していますが、彼らはうんざりして、そのため「この世界は偽りだ」と主張します。このように考えて、彼らは至高存在と一体化しようとし、そうやって火を消そうとします。これは、蔓(つる)からブドウを取ろうとして失敗し、「どうせこのブドウは酸っぱいんだから」と言うキツネのようです。(訳注、原文はjackel、ジャッカル。現在は jackalという綴りのほうが一般的。)ヨギー、すなわち瞑想うる人々は、一番大きなものよりも大きく、一番小さなものよりも小さく、一番軽いものよりも軽く、一番重いものよりも重くなることで優れた神秘的な力を得ようとしますが、これは単に全く子供のお遊びです。大きくても小さくても、軽くても重くても、どんな物質的な体にも物質存在の問題は存在します。このようにして、人は一つの段階から別の段階へ進歩するかもしれません。カーミー、すなわち結果を求めて働く労働者の段階から、ジナーニー、すなわち哲学者の段階へ、ヨギー、すなわち瞑想者の段階へと上がっても、どちらにしても人は最後にはバクティー、すなわち献身奉仕の段階に至らねばなりません。これが本当に進化の過程なのです。これはバガヴァッド・ギーターにおいて次のように示されています。 (サンスクリット引用) 「多くの生と死のあと、本当に知識のある者は、私がすべての原因の原因であり、存在のすべてであると知って、私に服従します。そのように偉大な魂は甚だ稀有です。」(BG7.19) 第18段落 クリシュナに服従することが要点です。それが人生の目的であり、バークタ、すなわち世界の知性ある人々は直ちにこの水準にやってきます。そのためクリシュナは彼らを賢い人々と呼びます。もしも非常に多くの生のあとで人がこの服従の場に至らねばならないのなら、なぜ今すぐそうしないのでしょう。 第19段落 物質自然の燃え盛る火はドゥルガーによって管理されています。しばしば彼女は手に武器を持った姿で描かれます。彼女には10本の手があり、それぞれが異なる武器を持っています。これは、彼女がこの宇宙の10の方向のすべてを支配していることを示しています。彼女は悪魔を懲らしめるために異なる武器を巧みに使います。ある有名な絵においては、悪魔がライオンと争っていて、女神ドゥルガーが悪魔の髪を引っ張り、三叉の槍を悪魔の胸に押し付けています。もしも私たちがこの絵を研究するなら、私たちは悪魔であり、三叉の槍は私たちがいつも苦しめられている三重の悲惨さであると結論付けられます。ある悲惨さは他の生命体によってもたらされ、別の悲惨さは自然の災害によってもたらされ、さらに別の悲惨さは心と体そのものによって引き起こされます。何らかの方法で私たちはいつもこれらの三つの種類の悲惨さに苦しんでいます。物質創造の中には、自分はそれらから自由だ、と言える人はいません。この物質自然の三叉の槍は、皆の胸に押さえつけられています。そしてこの理由により、この物質世界における純粋な幸せは不可能です。私たちは母なるドゥルガーを崇拝したり捧げ物をしたりして彼女を満足させようとするかもしれませんが、ドゥルガーはそう簡単には買収されません。 第20段落 したがって、私たちは人生の目的は至高の人格神を理解することであると知るべきです。私たちはあらゆる側面から―――社会的、政治的、哲学的、宗教的に―――工夫すべきです。しかし、目的は至高人格に近づくことであるべきです。ヴェーダには、学識があって発達した人々、すなわち創造の半神たちは、単にクリシュナの蓮の御足を求める、と書いてあります。人間の文明においても、目的は同じであるべきです。クリシュナの蓮の御足を求めることなくしては、すべての宗教的、社会的、あるいは政治的な努力は失敗します。私たちの欲望が物質世界に錨(いかり)を下ろしている限り、進歩することはできません。これに関して、川下にある花嫁の家に向かわねばならなかった花婿一行の話があります。計画では、彼らは夜に船で出発し、早朝には目的地に着くことになっていました。そのため、夕食のあと、浮かれた一行は夜になって船に乗り込んで船上で寛ぎ、船を漕ぐ人たちに出発するように言いました。一行は全員が気持ちよく座っていて、川のそよ風がとても心地よかったので、彼らはその夜、深く眠りました。朝になると彼らは皆、早くに目を覚まし、驚いたことに船が目的地に向かって全く進んでいないことに気がつきました。船乗りたちが夜中懸命に漕いでいたにも関わらずです。結局、調べてみると、船乗りたちが漕いでいたにも関わらず、彼らが錨を上げることを忘れていたので船が全く進んでいないことがわかりました。結婚の儀式は、愚かな間違いのためにこうして駄目になりました。 第21段落 私たちの現在の文明は、したがって、誤った文明です。なぜなら、誤った指導者たちが執着の錨を上げるのを忘れているからです。反対に、彼らは社会の秩序を感覚の満足に基づいて作り上げたため、錨はますますしっかりと下ろされています。様々な計画と企画(plans and schemes)によって維持されているこの感覚を満足させる社会的および政治的な仕組みは、バガヴァッド・ギーターに次のように描写されています。 (サンスクリット引用) 「飽くことを知らない欲望と高慢さと偽りの栄光に拠り頼み、そうして幻惑されちる悪魔的な人々は、永遠でないものに魅了され、いつも清らかでない仕事に誓いを立てます。彼らは人生の最後のときまで感覚を満足されることが人間の文明の主要な必要性であると信じています。したがって、彼らの不安には限界がありません。」(BG16.10-11) 第22段落 船乗りたちのように、指導者たちは皆惑わされています。彼らは私たちが何らかの一時的な益を得るように誤って導きますが、彼らの計画や企画がいつまでもつでしょうか。もしも彼らが心臓麻痺で死んだり暗殺者に殺されたりするまで地位に留まりつづければ、その後には彼らと全く同じような人々がその地位につきます。現代の社会のいわゆる哲学者たちでさえ、物質的な名声と栄誉に捕られられていて、一般の人々を正しい方向に導きません。したがって、人生の錨は感覚を満足させるという目的のために無知の水の中に深く下ろされ、こうして私たちのいわゆる文明はよどんだ水溜りの中で腐ります。私たちは動いていないので、いつも同じ、問題の多い人生という港にいます。すべての計画は、戦争と飢餓と地震とその他の破滅的な出来事の前では無用の紙くずです。これらのすべての破滅的な出来事は、母なるドゥルガーからの警告です。そしてそれらによって、彼女は幻惑された計画作り人たちに対する彼女の永遠の優位を確認するのです。私たちを物質的な人生に縛り続ける錨の異なる重さは、私たちが霊的な事実を知らないことと、身体的な関係による親戚(訳注、kinsmen、家族、親戚、一族、民族など)への執着と、生まれた土地と物質的な所有物への執着と、物質科学への執着と、本来の目的を知らずして宗教的な形や儀式に執着していることから来る私たちの物質的な形への執着です。これらすべてが人間の体という船を物質的な宇宙に縛り付けます。シュリー・クリシュナは、しっかりと根を下ろしたバンヤンの木の例を使って、バガヴァッド・ギーターの中で私たちにどうやってこの執着を一度に完全に捨て去るかを助言なさいます。 (サンスクリット引用) 「この木の本当の形は、この世界では知覚できません。それがどこで終わるか、どこから始まっているか、あるいはその基盤がどこなのか、誰も理解できません。このバンヤンの木は、切除(detatchment、切り離すこと)という武器を使って、心を決めて切り倒されねばなりません。その後は、人は一度辿りついたら二度とは戻ってこない場所を探さねばなりません。人は、そこからすべてが始まり、誰の記憶にも無いほどの太古から拡大し続けているところのその至高の人格神に服従しなければなりません。」(BG15.3,4) 第23段落 ご自分の創造の中のすべての物事に完全に気付いていらっしゃる至高の人格神は、私たちの最善の利益のために、私たちはこの物質存在を捨て去ろうと望まねばならない、とお知らせになります。私たちは自分をすべての物質的なものから切り離さねばなりません。悪い状況の中で最善を図るため、私たちの物質的な存在は、クリシュナのメッセージと主の献身者および主の御名と常に関わることで、100%霊化されるべきです。したがって、普通は物質的な物事に関わっているすべての人が、このクリシュナ意識運動から最高の利益を得ることができます。すべての霊的な努力は、多かれ少なかれ、物質的な汚染に染められています。しかし、純粋な献身奉仕はあらゆる汚染を超越します。私たちは人工的に物質主義の原則を受け入れる必要はありません。私たちは単に、至高主、至高の人格神シュリー・クリシュナの蓮の御足に心を定める必要があるだけです。 ▲
by ammolitering4
| 2009-06-12 02:48
| 「クリシュナ意識への上昇」
第7段落より
主クリシュナは、さらに物質想像の多くの偉大な顕現を列挙し、それぞれがいかにご自分の代理であるかを説明なさいました。主は次のようにおっしゃって、これがの顕現の長く詳細な報告を結論付けられました。 (サンスクリット引用) 「しかし、アルジュナよ。これらすべての詳細な知識がなぜ必要でしょうか。私は自分のほんの小さなカケラの一つでこれらすべての宇宙に充満するし、支えているのです。」(BG10.42) 第8段落 このように、この物質世界はクリシュナの一つの完全部分の上に存在しています。もしもクリシュナがこの宇宙にお入りにならかなったなら、それは存在しえなかったのです。同様に、クリシュナの微細な小片である霊魂がこの体に入らないなら、この体は存在することができません。霊魂が去れば、体は直ちに無用になります。クリシュナが物質にお入りになるとき、物質は価値をもちます。これは微細な個々の原子にとっても偉大な宇宙にとっても真実なのです。 第9段落 クリシュナの顕現はとても偉大なので、私たちは主の快楽は私たちのよりもはるかに大きいということを知るべきです。私たちは、クリシュナがどのような種類の快楽をお好みであるかを理解しようとしなければなりません。誰もが神は偉大であると知っています。そして私たちはこのことから、主の快楽もまた偉大であると結論付けることができます。このことに関して、スヴァルーパ・ダーモダラ・ゴスヴァーミーは、ラーダーとクリシュナの恋愛は普通の物質的な出来事にように見えるかもしれないけれど実際はそうではない、という節を書かれました。ラーダーラーニーはクリシュナの喜びの潜在力です。ヴェダーンタ・スートラの中に、完全真理はいつも喜びの潜在力を楽しんでいる、と書かれています。私たちが喜びを欲するとき、私たちはそれを一人で得ることはできません。友人や家族がいるときに喜びを感じます。私は部屋で一人で話すかもしれませんが、もしも私が部屋で他の人たちの前で話すなら、喜びは増します。喜びとは、他者が存在しなければならないことを意味します。したがって、いつも楽しんでいらっしゃる完全真理であるクリシュナは、多くの他者をお持ちなのです。 第10段落 私たちはクリシュナの欠かすべからざる小片であり、クリシュナに喜びを与えるために作られました。主たる喜びの潜在力はラーダーラーニーであり、そのためラーダー・クリシュナはいつも一緒です。物質エネルギーは外部の潜在力であるマーヤーによって管理されている一方で、霊的世界は内部の潜在力であるラーダーラーニーによって管理されています。私たちはしばしばラーダーラーニーに祈ります。なぜなら、彼女はクリシュナの喜びの潜在力だからです。「クリシュナ」という語自体が「すべてを魅了する」という意味ですが、ラーダーラーニーはとても素晴らしいので、彼女はクリシュナを魅了します。もしもクリシュナがいつも誰もにとって魅力的で、ラーダーラーニーがクリシュナにとって魅力的なら、どうして私たちはシュリーマティー・ラーダーラーニーの立場を想像することができるでしょう。私たちは謙虚に彼女を理解しようとし、次のように言って服従すべきです。「ラーダーラーニー、あなたはクリシュナの恋人(beloved)です。私たちは尊敬をもってあなたに服従します。」ラーダーラーニーはクリシュナにとってとても愛しい方なので、もしも私たちがラーダーラーニーの恵みを通してクリシュナに近づけば、私たちは簡単に主を得る(主に辿り着く)ことができます。もしもラーダーラーニーが献身者を薦めれば、それがどんなに愚かな者であってもクリシュナは直ちに受け入れます。結果的に、ヴリンダーヴァンでは献身者たちはクリシュナの名前よりもラーダーラーニーの名前の方をより頻繁に唱えています。インド中どこに行っても、献身者が「ジャヤ・ラーデー」と言っているのが聞こえます。私たちはラーダーラーニーを崇拝することにもっと興味を持つべきです。私たちがどんなに堕落していても、もしも何らかの方法で彼女を喜ばせることができれば、私たちはとても簡単にクリシュナを理解することができるからです。もしも私たちが推察の過程を通してクリシュナを理解しようとすれば、私たちは何度も生まれ変わって推察しなければなりません。しかし、もしも私たちが献身奉仕を習慣づけて単にラーダーラーニーを喜ばせようとするなら、そうすればクリシュナはとても簡単に理解できます。ラーダーラーニーはとても偉大な献身者なので、彼女はクリシュナに命令することができます。 第11段落 クリシュナでさえラーダーラーニーの性質を理解することができません。彼女はとても偉大なので、主は理解することに失敗します。ラーダーラーニーを理解するために、クリシュナは実際に彼女の立場を受け入れました。クリシュナはこう考えました。「私はすべてにおいて完全で完璧なのに、それでもラーダーラーニーを理解できない。それはなぜだろうか。」これがクリシュナにラーダーラーニーの性癖を受け入れることを必要とさせました。これがクリシュナの主チャイタンニャ・マハープラブとしての顕現にあたります。主チャイタンニャ・マハープラブはクリシュナご自身ですが、主はラーダーラーニーの性癖を受け入れたクリシュナです。ラーダーラーニーは、いつもクリシュナからの別離を感じています。同様に、ラーダーラーニーの立場にあって、主チャイタンニャはいつもその別離を感じていました。さらに、主チャイタンニャの教えに従う者は、会うことではなく、別離の感情を経験して味わうべきです。 第12段落 最も完璧にして高度に発達した存在である主チャイタンニャ・マハープラブの弟子であるゴスヴァーミーたちは、決して「私はクリシュナを見たことがある(私はクリシュナに会った)」とは言いませんでした。その代わり、彼らは絶え間なく「ラーダーラーニーはどこだ?ラリターとヴィサカーと、ヴリンダーヴァンの他の(高貴な生まれの)少女たちはどこだ?」と呼んでいました。(cried,泣くように呼び求める)。ヴリンダーヴァンに住んでいたとき、至高神への愛が十分に育った状態でも、ゴスヴァーミーたちは「ラーダーラーニー、あなたはどこにいらっしゃるのですか。あなたの御友人たちはどこにいらっしゃるのですか。おお、ナンダ・マハーラージャの息子よ、あなたはどこにいらっしゃるのですか。あなたがたは皆、どこにおいでになるのですか」と呼んでいました。このようにして彼らはクリシュナを探しました。そして彼らは一度も「昨晩、私はクリシュナがゴピーたちと踊っているのを見ました」とは言いませんでした。発達した献身者は、そのような主張はしません。物事を安価に受け取る者たちがそうするのです。一部の人々は、ラーダーとクリシュナはとても安いので夜毎見ることができると考えますが、それはゴスヴァーミーたちの教えではありません。彼らはいつもクリシュナを探してこう呼んでいました。「あなたがたはどこにいらっしゃいますか?ラーダーラーニー、あなたはどこにおいでになりますか?クリシュナ、あなたはどこにいらっしゃるのですか?ゴヴァルダーナの丘のそばですか?ヤムナー川の土手の上ですか?」このようにして、ヴリンダーヴァンの地域全体をゴスヴァーミーたちは狂人のようにラーダーとクリシュナを探し求めて呼んでいました。 ▲
by ammolitering4
| 2009-06-11 13:16
| 「クリシュナ意識への上昇」
第1段落
クリシュナにとっては、物質エネルギーと霊的なエネルギーの違いはありません。主にとっては全く同じです。時として、電気は冷やすという目的のために働き、別のときは暖めるという目的のために働きます。しかし、発電所で作られるエネルギーはどれも同じです。同様に、クリシュナのエネルギーはどれも霊的ですが、異なるふうに活動しています。町には福祉の部署と警察の部署があるかもしれません。政府にとっては、どちらも同じです。どちらも政府に従属する部分だからです。しかし、個人にとってはそれらは異なるサービスを提供します。物質エネルギーは生命体にとってはそれほど好ましくない方法で働いているかもしれませんが、それはクリシュナが物質エネルギーを好まれないということを意味するのではありません。霊的なエネルギーと同じくらい大切ですが、それは制約された魂を罰するために働いています。警察が犯罪者を罰するために働いているようなものです。ブラーマ・サムヒターにおいて、クリシュナのエネルギーはいつも霊的であるけれど、異なる活動の場において異なるふうに活動している、と確認されています。クリシュナによっては、エネルギー間の違いはありませんが、私たちは自分たちの理解のために区別をつけて、時々はエネルギーは物質的に働き、時々は霊的に働く、と言います。私たちは、エネルギーが熱いとか冷たいとか、良いとか悪いとか、心地よいとか心地よくないとか考えますが、事実はエネルギーは同じなのです。 第2段落 クリシュナは劣性ではないので、劣性のエネルギーを出すことはできません。主はいつも優性で霊的であり、したがって主のエネルギーはいつも霊的です。スバードラーはクリシュナの妹であり、彼女から物質エネルギーの人格体であるドゥルガーの化身が生じます。スバードラーは霊的世界にいて、主のエネルギーとして永遠にクリシュナと関係があります。しかし、ドゥルガーがこの物質世界で活動するとき、彼女が劣性であると考えられるわけではありません。バガヴァッド・ギーターにおいても、ブラーマ・サムヒターにおいても、ドゥルガーあるいはマーヤーはクリシュナの指揮のもとで行動している、と述べられています。それではどうして彼女は劣性だと考えられるでしょう。犯罪者たちは警察は政府の中の劣った部署だと考えるかもしれませんが、法に従う市民はそのようには考えません。それは単に特定のあり方で機能しているのです。同様に、物質エネルギーはクリシュナの指揮の下にある生命体を惑わせるように働かねばなりません。 第3段落 私たちは物質エネルギーの中の生命体であり、物質自然を支配したいと望んだので、この立場にあります。クリシュナは私たちに設備を与え、「いいでしょう、やってみるが良いでしょう。しかし、あなたたちは成功することはできません」とおっしゃいました。クリシュナの至高の指揮のもとで自然の法則がどのように働いているかを知らないでいる限り、私たちは自分の活動において敗北を繰り返すでしょう。私たちがクリシュナを完全に理解するとき、私たちは自動的に自然の法則を知り、それがどのように働いているかを知るでしょう。ヴァイシュナヴァは物質自然の法則の背景について考えます。私たちがクリシュナを完全に理解するとき、実際には劣性やエネルギーや物質エネルギーなどはなく、すべては霊的である、ということを私たちは理解するでしょう。高い次元においては、私たちの経験していることのすべては至高主の異なるエネルギーとその反応である、ということを、私たちは理解することができます。私たちがクリシュナを完璧に理解するとき、そのとき、優性と劣性というエネルギーの違いは消え去ります。クリシュナへの奉仕のために働いているものは、すべて優性エネルギーです。より高い意味では、すべてがクリシュナに仕えており、非常に進歩した者はこれを理解します。 第4段落 主が様々なエネルギーをお持ちであることはヴェーダ文献で確認されています。それでも至高主は個人的にすることは何もありません。これはどういうことでしょうか。主は富を得ようとしてあくせくする必要はありません。すべての富は主のものだからです。知識を求める必要もありません。すべての知識は主のものであるからです。力を求める必要もありません。すべての力は主のものであるからです。美しさや名声や放棄を求める必要もありません。それらはすべて完全に主のものであるからです。主が直接に宇宙の出来事を管理なさることもありません。主がご自分のお住まいに留まっておられる間に物事を運行する多くの助手をお持ちだからです。これはシュリー・イソパニシャッドに確認されています。 (サンスクリット引用) 「至高の人格神は、ご自分のお住まいに留まっておられるにも関わらず、心より速く、他の誰よりも速く走れます。強力な半神たちも主に近づけません。一つのところにいらっしゃるにも関わらず、空気と雨を供給する者を統御しておられます。主は素晴らしさにおいて何者にも優ります。」(シュリー・イソパニシャッド、マントラ4) 第5段落 このように、クリシュナにはするべき仕事はありません。至高の人格神として、主は単にゴピーたち(牛飼いの娘たち)や主の恋人(consort、通常は妃を指す)ラーダーラーニーと楽しく過ごすだけです。クリシュナは、クリシュナとしては悪魔たちを殺すこともなさいません。クリシュナが悪魔たちを殺すとき、主は本来のクリシュナではなく、ヴァースデヴァ・クリシュナとして知られます。クリシュナがご自分を拡大なさるとき、主はまずバララーマとして、さらにサンカルサナ、プラデュムナ、アニルッダ、そしてヴァースデヴァとして拡大します。ヴァースデヴァとして、主はマスラーとドゥヴァーラカーにて活動なさいますが、本来のクリシュナとしては、主はヴリンダーヴァンに留まられます。これはややこしく見えるかもしれません。ベンガルの最も偉大な小説家の一人でさえ、ヴリンダーヴァンのクリシュナとドゥヴァーラカーのクリシュナとマスラーのクリシュナは三人の異なる人物であると誤解していました。しかし、もし私たちがクリシュナの拡張体の性質を知るなら、理解するのは難しいことではありません。クリシュナは同じであり、主には比肩するものなく、しかし主はご自分を無数の形に拡大することができます。これはすべて主の楽しみという目的のためです。 第6段落 バガヴァッド・ギーターの10章において、クリシュナはアルジュナに次のようにご自分の異なる顕現についてご説明なさいます。 (サンスクリット引用) 「馬の中では、不滅性(immortality)の霊薬から生まれ、海から上がってきたウッチャイフスラヴァーが私であると知りなさい。王者のような象の中では、私はアイラーヴァタです。人の中では、私は独裁君主です。武器の中では、私は雷霆(「らいてい」、稲妻の矢、サンダーボルト)です。牛の中では、豊富な乳を与えるカーマドゥークです。子を作るものの中では、私は愛の神カンダルパです。そして大蛇の中では私は首領のヴァースキです。」(BG10-27.28) ▲
by ammolitering4
| 2009-06-07 02:20
| 「クリシュナ意識への上昇」
第24段落
これが祈りの基準であるべきです。私たちは、ただ単にクリシュナの蓮の御足のもとに原子の一つとして置いてもらって主に奉仕ができることを望むべきです。皆が何らかの利益を求めて神に祈っています。たとえ私たちが「お金をください。助けてください。いい家を、いい妻を、いい食べ物をください」と祈っても、それも良いことです。しかし、それは主チャイタンニャ・マハープラブの祈りの基準ではありません。私たちの唯一の祈りは、主が私たちに何度生まれ川っても奉仕をさせてくださることです。私たちの祈りは、次のようであるべきです。「親愛なる主よ。あなたはとても偉大でいらっしゃるので、私はあなたにお仕えしたいと望みます。私はずっと多くの悪人たちに仕えてきましたが、満足していません。今、私はあなたのところに来ました。どうぞ私に奉仕をさせてください。」これが祈りの最後の言葉です。一部の人々は、神に祈るときに主の存在を感じないと不満を言います。私たちは、これは自分の能力のなさが原因であって、主のせいではないことを知るべきです。 存在の形には二つあります。物理的な形と振動の形です。物理的な形は一時的ですが、振動の形は永遠です。私たちがバガヴァッド・ギーターの中のクリシュナの教えの振動を味わうとき、あるいはハレ・クリシュナを’唱えるとき、これらの振動によって主は直ちに存在なさるということを私たちは知るべきです。主は絶対であり、そのため主の振動は主の物理的な存在と全く同じく大切なのです。私たちがクリシュナ、あるいは霊的指導者から離れているのを感じるとき、私たちはただ、彼らの教えの言葉を思い出そうとするべきです。そうすれば、私たちはもはや離れているとは感じません。クリシュナや霊的指導者とのそのような関わりは、振動による関わりであるべきであり、物理的な存在によるべきではありません。それが本当の関わりです。私たちは見ることに大変な重きを置きますが、クリシュナがこの地上においでになったとき、非常に多くの人が主を見ても主が神であると気がつきませんでした。それでは、見ることの利点は何でしょうか。クリシュナを見ても、私たちは主を理解できません。しかし、主の教えを注意深く聞くことによって、私たちは理解の水準に至ることができます。私たちは、音の振動によって直ちにクリシュナに触れることができます。したがって、私たちはクリシュナと霊的指導者の音の振動にもっと重きを置くべきです。そうすれば私たちは幸せに感じ、離れていると感じないでしょう。 第25段落 シュリマッド・バーガヴァタムから、私たちは、クリシュナがこの世界を去っていかれたときにアルジュナがひどく悲しんだけれど、バガヴァッド・ギーターの教えを思い出し始めたら慰められた、ということを理解します。アルジュナはずっとクリシュナの友人でした。ですから、クリシュナが御自分のお住まいにお帰りになったとき、アルジュナは非常に悲しみました。しかし、単に主の教えを思い出しただけで、彼は離別の痛みから救われました。このように、私たちが離別を感じるときはいつでも、教えを思い出すのが一番です。バガヴァッド・ギーターの教えは、彼の幸せのために、そしてすべての人の幸せのためにアルジュナに述べ伝えられました。これはクリシュナによって10章の初めに示されています。 (サンスクリット引用) 「おお、強大なるアルジュナよ。もういちど私の至高の言葉を聞きなさい。私はこれをあなたの利益のために伝えます。それはあなたに大きな喜びをもたらすでしょう。」(BG10.1) 第26段落 主クリシュナの言葉を聞いてそれらに注意深く従うことにより、私たちは世界の平和を得るだけでなく、至高の平和(パラーム・サーンティム)をも得るでしょう。必要とされるのは、私たちがクリシュナの蓮の御足に救いを求め、主の栄光を唱えることと、このクリシュナ意識運動を世界中のすべての町と村に広めることによって主に奉仕することだけです。クリシュナは、そのような服従によって自動的にへ宇和と永遠の生命が得られると約束していらっしゃいます。 (サンスクリット引用) 「おお、バーラタの末裔よ。主に全面的に服従しなさい。そうすれば、主の恵みによってあなたは超越的な平和と永遠の住処を持つことができます。」(BG18.62) 。。。。。。。。。。。。。。。。。。 やっと第4段落が終わりました。あとは第5段章をタイプするのと、第6章を翻訳・タイプするのが残っています。肩がこるので、休憩しながらやってます。achaさん、お元気ですか。 ▲
by ammolitering4
| 2009-06-06 09:53
| 「クリシュナ意識への上昇」
第18段落途中から
非人格主義者の理解する神はニラーカーと呼ばれます。ニーは「否定」を意味し、アーカーは「形」を意味します。つまり、ニラーカーは「否定的な形」(negative form)を意味します。非人格主義者たちが神は何の形も持たないと考えるとき、彼らは間違っています。ニラーカーという語は、主には形がないということを指しているのではありません。そうではなく、主には私たちのような物質的な形がないということを指しているのです。形はありますが、物質的ではなく、霊的な形なのです。 第19段落 私たちの形の価値は何でしょうか。この形は、私たちが体を捨てた途端に、2~3年もすると変わります。私たちの体は、ちょうど私たちが衣類(suits and dresses)を替えるように変わります。しかし、神はこのような形をお持ちではありません。したがって、主は時としてニラーカーと呼ばれます。形はあり、それもまたブラーマ・サムヒターに説明されています。主ブラーマーは、主の形を次のように描写なさいます。 (サンスクリット引用) 「私は太古の主ゴヴィンダを崇拝します。主は笛を吹くことに熟達しておられ、蓮の花びらのような若々しく美しい目をしておいでになり、頭は孔雀の羽根で飾り立てられ、青い雲の色に薄く染まった美しいお姿をしていらっしゃり、主の独特の愛らしさは無数のキューピッドを魅了します。私は太古の主ゴヴィンダを崇拝します。主の超越的な形は喜びと真実と実在性に満ち、そして最も輝かしい素晴らしさに満ちています。その超越的なお姿の一つ一つの手足(limb, この場合は「体の部位」という意味が近い)が、それご自身の中にすべての内臓の十分に発達した機能を持ち、永遠に霊的および俗世の無限の宇宙を見て、維持し、顕現しておられます。(Bs5.30,32) 第20段落 この体は物質的な形とは全く関係がありません。非人格主義者たちは、次のように言います。「おお、あなたはクリシュナには形があると言います。もしそうなら、なぜあなたは主が至高存在であると言えるのですか。非人格のブラーマンが至高存在です。そして非人格のブラーマンには形がありません。」しかし、私たちはバガヴァッド・ギーターから、クリシュナが非人格のブラーマンの源であることを知っています。 (サンスクリット引用) 「そして私は非人格のブラーマンの源です。それは滅びず、永遠で、最高の幸せの本来的な立場です。」(BG14.27) 第21段落 クリシュナは確かに形をお持ちですが、しかし主の形は前述のようにサック・スィッド・アーナンダ・ヴィグラハ、すなわち永遠で、喜びに満ちて、知識に満ちています。主の超越的な体の特質は、主ブラーマーによって次のようにまとめられてます。 (サンスクリット引用) 「ゴヴィンダとして知られるクリシュナは至高神です。主は永遠にして喜びに満ちた霊的な体をお持ちです。主はすべての源です。主には他の源は何もなく、すべての原因の最高の原因です。」(Bs5.1) 第22段落 ゴヴィンダという語は「感覚に喜びを与える者」を意味します。したがって、喜びの貯蔵庫であるクリシュナはゴヴィンダと呼ばれます。もしも私たちが浄化された感覚でクリシュナに奉仕するなら、私たちはその至高の貯蔵庫の喜びを味わい始めるでしょう。 第23段落 私たちはどうやって神を描写したり主の栄光を理解したりできるでしょうか。それは不可能です。神は無限です。しかし、私たちは自分の有限な限界にも関わらず、自分の感情を表して「私の神よ、私の主よ」と言うことができます。これは受け入れられます。主チャイタンニャ。マハープラブは、私たちに次のように祈ることをお教えになります。 (サンスクリット引用) 「おお、マハーラージャ・ナンダの息子よ。私はあなたの永遠の従者です。しかし、それにも関わらず私は生と死の海に落ちてしまいました。ですから、どうか私をこの死の海から救い出し、あなたの蓮の御足の足元に原子の一つとして置いてください。」(スィクサースタカム4.5) ▲
by ammolitering4
| 2009-06-01 11:06
| 「クリシュナ意識への上昇」
第12段落途中から
クリシュナはプータナーに大変親切でいらしたので、彼女が乳を与えることを湯rしました。しかし、彼女の乳房を含んだとき、主は毒だけでなく彼女の命をも飲み込まれました。プータナーは死んで地に倒れ、直ちに本来の悪魔的な姿に変わりました。つまり、これが神なのです。母の膝の上にあって、主は神でいらっしゃいます。主は瞑想や苦行や禁欲や規律や規制に従うことで神になる必要はありません。主は本質的に(substantially、実質的に、大いに)、かつ永遠に神であり、主は何もすることがありません。もしも誰かががあれやこれやの神像を崇拝したり瞑想したりして神になれると主張するなら、私たちは直ちにその人は神(GOD)ではなく犬(DOG)であると理解するべきです。神を理解するうえで、私たちはヴェーダの結論だけを受け入れるように注意を払わなければなりません。(サンスクリット引用)「主には何もすることがない。」なぜ神が神になるために何かをしなければならないでしょう。もしも私たちが金を作り出すなら、それは人工的な金です。本物の金ではありません。金は自然なものであり、同様に神も自然なものです。子供時代の娯楽において、母の膝の上で、主は神であられます。友人の男の子たちと遊んでいらっしゃるとき、主は神でいらっしゃいます。踊っておいでになるとき、主は神でおられます。クルクセトラで戦われているとき、主は神でおわします。妃たちと結婚なさったとき、主は神でおいでになります。そして、お話しになっているとき、主は神です。神を理解するのに難しいことはありません。私たちがしなければならないのは、クリシュナのおっしゃることに耳を傾けることだけです。 第13段落 バガヴァッド・ギーターにおいて、クリシュナはアルジュナにおっしゃいます。 (サンスクリット引用) 「私はすべてのものの源です。私から創造全体が流れ出ます。これを知り、賢い者は心のすべてをもって私を崇拝します。」(BG10.8) 第14段落 これは、シュリー・クリシュナが主シヴァの源泉であって、ヴィシュヌとブラーマーと、もちろん他の半神たちと他の生物たちの源であるということを意味します。主はさらにおっしゃいます。 (サンスクリット引用) 「この制約された世界にいる生命体は私の微細な一部であり、彼らは永遠です。しかし、制約された生活のために彼らは心を含む六つの感覚に大変な苦労をしています。」(BG15.7) 第15段落 ブラーマ・サムヒターの中で、主ブラーマーは、もしも私たちが主を探しているなら、ここに神がおいでになる、と説明なさいます。 (サンスクリット引用) 「私は太古の主ゴヴィンダを崇拝します。主はシャーマスンダラ、クリシュナご自身であり、計り知れない無数の特質をお持ちです。純粋な献身者は、愛の膏薬を塗られた献身の目で、心の奥底に主を見ます。」(Bs 5.38) 第16段落 ヴェーダ文献の中には、あちこちに同様の描写があります。しかし、クリシュナが至高神であることは12人の基準となるアーチャーリャたち(ブラーマー、ナーラダ、シヴァ、ビーシュマ、クマーラたち、カピラ、マヌなど)およびヴャーサ、デヴァラその他多くの献身者たちによって確認されているにも関わらず、悪人たちや悪魔たちはとても頑固なので、主を受け入れることを拒否します。主チャイタンニャ・マハープラブもまた、クリシュナが至高神であると確認しています。また、シュリマッド・バーガヴァタムには神のすべての化身が列記されており、最後には、この表に現れるクリシュナという名前が至高の人格神を指しており、他のすべての名前は顕現あるいは化身を表すのである、と結論づけられています。(サンスクリット引用)他のすべての神の名前は、神の一部であるか、一部のさらにその一部です。部分はアムサと呼ばれ、部分の部分はカラーと夜bれます。生命体として、私たちはアムサです。しかし、私たちはとても微細なアムサです。他のすべてはアムサかカラーですが、クリシュナはバーガヴァーン・スヴァヤム、至高の人格神です。 第17段落 私たちの祈りは、他の誰でもなく、至高の人格神に向けられるべきです。したがって、私たちはブラーマーと共に祈ります。 (サンスクリット引用) 「私は太古の主ゴヴィンダ、最初の先祖を崇拝します。主は牛の世話をなさっており、すべての望みを叶え、霊的な宝石で建てられたお住まいにおいて、無数の「望みを叶える木」に囲まれ、いつも大いなる崇敬と愛情をもって何百人何千人ものラクシュミー、あるいはゴピーたちが仕えています。」(Bs5.29) 第18段落 ここでクリシュナは最初の人格(アーディスルシャム)と呼ばれています。私たちは皆、人格(person)です。私たちの父は人格でした。ですから私たちも人格です。もしも私たちが自分の父の父へと遡れば、その人もまた人格であったことが分かります。そして、その人の父もまた人格であり、このようにして、この宇宙で初めて作られた人格である主ブラーマーに至るまで、皆が人格であったことが分かります。さらに、私たちは主ブラーマーの父ヴィシュヌもまた人格であることを知ります。皆が人格であり、クリシュナは至高の人格です。 ▲
by ammolitering4
| 2009-05-30 12:13
| 「クリシュナ意識への上昇」
第4段落 途中から
このことについて、ベンガル語の諺があります。「サクニ・サーペ・ゴルマラナ。」サクニという語はハゲタカを意味します。ハゲタカは動物の死体、特に牛の死体を好みます。時として、ハゲタカが何日も死体にありつけないかもしれません。したがって、この諺は「ハゲタカは牛が死ぬようにと呪いをかける。」と語っています。しかしこれは、牛は単にハゲタカを喜ばせるために死ぬ、ということを意味するのではありません。同様に、無神論者のハゲタカたちは、自分たちが「さあ、神は死んだ。これで何でも好きなことができる」と考えて喜ぶことができるように、神に死んで欲しいのです。 第5段落 それでは私たちは、統御者が存在するということをしっかりと知らねばなりません。それが知識の始まりです。なぜ私たちはこの真実を否定すべきでしょうか。すべての活動の場において、私たちは何らかの限られた統御者がいるのを見ます。それでは、どうして私たちはこの創造における無限の統御者の存在を否定できるでしょうか。したがって、主チャイタンニャ・マハープラブが特にこのジャガディーサ、宇宙の主という言葉をお使いになるのは、理由のないことではないのです。主はこの用語を作り上げられたのではありません。多くの異なるヴェーダのマントラの中にそれは見受けられるからです。例えば; (サンスクリット引用) 「おお、わが主よ、あなたの手はとても美しく、ハスのようです。しかし、その長い爪であなたは毒蜂(悪魔のような者、という比喩。wasp)ヒラニャカスィプを引き裂かれました。宇宙の主よ、私はあなたに謹んで服従します。」 第6段落 ヒラニャカスィプは神の存在を否定した無神論者でしたが、神は半分が人で半分がライオンの化身、主ヌリスィムハデヴァとしておいでになり、彼を殺しました。したがって、主は宇宙とすべての生命体の統御者として称えられます。(ジャヤ・ジャガディーサ・ハレ) 第7段落 もう一つ、別の祈りがあります。(サンスクリット引用)「おお、宇宙の主よ、どうぞ私にお姿を見せてください。」これらすべての祈りにおいて、そして他の多くの祈りにおいて、宇宙の至高の統御者が認められています。皆が至高の統御者になろうとしていますが、それは個々の、共同体の、あるいは国家単位の努力では不可能です。皆が至高の存在になろうとしているので、世界には大いなる競争があります。しかし、世界は誰も至高にはなれないように創られています。どのような位置につこうとも、私たちは自分の下にも誰かがいて、自分の上にも誰かがいることに気がつくでしょう。どの個人も「私は至高だ。私の上に立つ者はない」とは言えません。また、誰も「私は最低だ。私より下にいる者はない」とも言えません。自分が一番低いと思ったとたんに、私たちは自分よりもっと低い者がいることに気がつくでしょう。そして、自分が至高だと思ったとたんに、私たちは自分より上の者がいることに気がつくでしょう。これが私たちの位置づけです。 第8段落 しかし、神の位置づけはこのようなものではありません。バガヴァッド・ギーターにおいて、クリシュナは自ら御自分の優位性について次のように確認しておられます。 (サンスクリット引用) 「おお、富を征服する者(アルジュナ)よ。私に優る真実はありません。すべてが私に依り従います。真珠が糸に繋がっているように。」(BG7.7) 第9段落 神はアサマウルダー、すなわち、主と同等の者や主に優る者は存在しません。もしも私たちが上に立つ者のない者を見つけるなら、私たちはその者を神として受け入れることができます。神は、上に立つ者がなく同等である者もない存在である、と定義できます。これがヴェーダの見方です。ウパニシャッドには(サンスクリット引用)、主に同等の者や主に優るものは見つけられない、と書いてあります。 第10段落 神のもう一つの性質は、何もすることがない、というものです。物質的な世界では、ある人が非常に重要な人物であると見なされる場合、その人はいつもすることが山ほどあります。たとえば、合衆国の大統領は国家で最高の人物だと考えられています。しかし、中央ヨーロッパや世界の他のどこかで何か騒動が起これば、彼は直ちに閣僚を集めて、その状況にどう対処すべきかと会議を開かねばなりません。つまり、彼でさえ多くのことをしなければならないのです。もしも彼が何もしなければ、彼はもはや至高の人物ではありません。しかしヴェーダ文献から私たちは神には何もすることがないということを知ります。(サンスクリット引用)クリシュナは世界でいろいろな行動をなさるかもしれませんが、それは主がそうすることを強いられているからではありません。これはバガヴァッド・ギーターに示されています。 (サンスクリット引用) 「おお、プルサーの息子よ。三つの天体系のどこにも私にあてがわれた仕事はありません。私には何も欲しいものはなく、何かを得る必要もありません。それでも私は仕事をします。」(BG3.22) 第11段落 このことに関して、おもしろい話があります。あるヨーロッパ人の紳士がカルカッタに行って、いくつかの寺院を訪ねました。女神カーリーの寺院では、神像が手に刀を持って悪魔たちの頭を切り落とし、それを首飾りにしているという恐ろしい姿をしているのを見ました。他の寺院でも、彼は神像が同様な活動をしているのを見ました。しかし、ラーダー・クリシュナ寺院に来たとき、彼は「この寺院には神様がいらっしゃいますね」と言いました。なぜそういう結論を出したのかと尋ねられたとき、彼はこう言いました。「どの寺院でも、神像は何かをしていました。しかし、ここでは神は単に楽しく笛を吹いておられます。明らかに主には何もすることがないのです。」これは実に知的な結論です。それはヴェーダの結論です。 第12段落 昨今は、瞑想によって神になりつつある、と主張するのがはやっています。これは、瞑想によって人が自分を神に変えることが可能であるということを意味します。言い換えると、神は瞑想をなさり、主は瞑想して神におなりになるのです。これは全く意味をなさないことです。神は神であり、主はいつも神であられたし、いつも神でいらっしゃるでしょう。幼児として母親のひざの上におられたときも、クリシュナは神です。瞑想も苦行も禁欲も必要とされません。魔女プータナーが赤ん坊のクリシュナに毒を盛りに来たとき、彼女は美しい若い娘としてやってきて、主の母ヤソダーに「おお、ヤソダーマイー。あなたの赤ちゃんはとても愛らしいですね。どうぞ私に赤ちゃんを抱いて乳を与えさせてください」と頼みました。ヤソダーはとても素朴な村の女だったので、「どうぞ。抱いて乳を与えてください」と言いました。プータナーは乳房に毒を塗っていました。クリシュナに乳を含ませて殺そうとしていたのです。これは悪魔的な精神です。悪魔たちは、「神は死んだ。神はいない。神は非人格だ」と言えるように、いつもクリシュナを殺そうとしています。 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 今日はこれで終わります。また明日。。。あるいは明後日か。。。のんびり行きましょう。 ▲
by ammolitering4
| 2009-05-28 13:48
| 「クリシュナ意識への上昇」
第4章 ありのままのクリシュナを知る
第1段落 至高の人格神に祈りを捧げるには、高度な資格は何ら必要ありません。私たちの社会的な地位や学識の高さがどうであれ、祈りを捧げることができます。高い教養があったり、学識があったりする必要はありません。詩的だったり修辞学的だったり、比喩的だったりする、注意深く選ばれた素敵な言葉で祈りを飾る必要もありません。このようなものがあれば、それは素晴らしいことですが、必要ではありません。私たちは単に自分の気持ちを表せばよいのです。しかし、そうすることができるようにするには、私たちは自分の位置づけに気付いていなければなりません。いったん自分の位置づけに気付くと、私たちの気持ちは誠実に、かつ自動的に表されるようになります。 第2段落 私たちの位置づけとは何でしょうか。これは主チャイタンニャによって教えられました。主はご自分の祈りの中で、どうやって祈るかを私たちに教えていらっしゃいます。 (サンスクリット引用) 「おお、万能なる父よ。私は富を貯えたいとも、美しい女性を楽しみたいとも、弟子が欲しいとも思いません。私が望む唯一のものは、何度生まれ変わってもあなたへの献身奉仕をさせていただきたい、ということです。」(スィクシャーシュタカム、4) 第3段落 この祈りにおいて、ジャガディーサという語は「宇宙の主」を意味します。ジャガッドは宇宙を意味し、イーサは主を意味します。私たちがヒンズー教徒であれイスラム教徒であれ、キリスト教徒であれ何であれ、私たちはこの宇宙の志向の統御者が存在することを認めねばなりません。これは神への信仰がある者は誰も否定することができません。私たちの信念は、私たちの至高の父はジャガディーサ、すなわち宇宙全体の主である、ということであるべきです。主ジャガディーサだけが統御なさいます。他の者はすべて統御されます。しかし、無神論者はこの関係を好みません。彼らは自分たちが統御していると考えたいからです。しかし、本当はそうではありません。物質世界の中のすべての者は、物質自然の三つの相ーーー徳、熱情、無明ーーーに影響されます。しかし、至高主はこれらの相の上におられます。 (サンスクリット引用) 「三つの相(徳、熱情、無明)に惑わされて、世界全体がそれらの上にあって尽きることのない私を知りません。」(BG7.13) 第4段落 ブラーマ・サムヒターもまた、至高存在ジャガディサについて私たちに情報を与えています。それにおいて、主ブラーマーは至高の統御者は主クリシュナご自身であるとおっしゃいます。(イースヴァラー・パラマー・クリシュナー)イースヴァラーという語は統御者を意味し、パラマーは至高を意味します。私たちは皆、ある限られた範囲における統御者です。もしも何も統御する対象がなければ、時として私たちは犬や猫を飼い、「かわいい犬よ、ここにおいで」と言います。このようにして私たちは「私は統御者だ」と考えることがえきます。しかし、時として立場が逆転します。犬が主人を統御するのです。これは実際には誰も統御者ではなく、皆が統御されているからです。不幸にして、私たちはこの状況を忘れがちです。そして、この忘却がマーヤーと呼ばれます。私たちは、この宇宙を統御する者を受け入れるのを拒否します。なぜなら、もし私たちが統御者を受け入れるなら、ちょうど政府を受け入れたときに違法行為の責任を負わねばならないように、私たちは自分の罪深い行いの責任を負わねばならないからです。 私たちの立場は、自分の罪深い行いを続けたいというものです。そのため、私たちは統御者の存在を否定します。これが無神論(godlessness)の基本原則です。現在は「神は死んだ」という宣伝が広まっていますが、これは人々が制約なく悪人でいつづけたいからです。これが神の存在を否定することの底にある基本的な理念です。しかし、私たちがどれだけ主の存在を否定しようとも、神は死にません。 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 中途半端ですが、今日はここまでにします。読んでくださってありがとうございます。最近はバンクーバーもやっと初夏の天気になってきました。私は毎日仕事です。某有名コーヒーショップ、スター**ックスで皆様にカフェインを提供しております。プラブパーダさま、ごめんなさい。 ▲
by ammolitering4
| 2009-05-27 08:46
| 「クリシュナ意識への上昇」
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