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カテゴリ:「知識の王」( 14 )

第3章 前半

第3章 クリシュナのエネルギーに関する知識

第1段落
この時点で、「バガヴァッド・ギーターの第9章は特に、既にシュリー・クリシュナを至高の人格神として受け入れた者のためのものである」ということが特記されるかもしれません。言い換えると、それは主の献身者のためのものです。

もしも人がシュリー・クリシュナを至高存在として受け入れないなら、この第9章は、それが本当にそうであるものとは異なる何かであるように見えるでしょう。初めに述べられているように、第9章の主題はバガヴァッド・ギーター全体の中で最も内密な題材です。

もしも人がクリシュナを至高存在として受け入れないなら、彼はこの章が単なる誇張であると考えるでしょう。これは、クリシュナのご自分の創造との関係に関する節においては、特にそうです。

(サンスクリット引用)

「私が、私の非顕現の形において、この宇宙全体に充満しています(By Me, in My unmanifested form, this entire universe is pervaded.)すべての存在(being)が私の内にあります。しかし、私はそれらの中にいません。」(Bg.9.4)

第2段落
私たちが見る世界もまた、クリシュナのエネルギー、主のマーヤーです。ここで、マーヤーは「私によって」を意味します。ちょうど人が「この仕事は私によってなされた」と言うようにです。この「私によって」は、「主がご自分の仕事をなさり、終わった、あるいは引退した」ということを意味するのではありません。

もしも私が大きな工場を始め、「この工場は私によって始められた」と言うなら、決して、私がいなくなった(I am lost)、あるいはどのような状況であれ、いない、と結論されるべきではありません。製造者は自分の製品を「私によって作られた」のであるというかもしれませんが、それは彼が個人的に自分の製品を作った、あるいは建設した、ということを意味するのではなく、そうではなくて、その製品は彼のエネルギーによって作られた、ということを意味します。

同様に、もしもクリシュナが「何であれ、あなたが世界の中に見るものは、私によって作られた」とおっしゃるとき、私たちは「主はもはや存在していない」と仮定すべきではありません(We are not to suppose that ~)。

第3段落
創造のどこにでも神を見るのは、あまり難しくありません。なぜなら、どこにでも、神はいらっしゃるからです(訳注:for He is everywhere present、語順による強調表現)。ちょうどフォードの工場では労働者がフォード氏を隅々に見るように、クリシュナの科学に精通している者は、主を創造のすべての原子の中に見ることができます。

すべてのものはクリシュナの上に依り頼みます(to rest on、頼りにする、よりかかる、基礎を置く)。(マット・スターニ・サルヴァ・ブーターニ)。しかし、クリシュナはそこにはいらっしゃいません。(ナ・チャーハム・テシュヴァヴァスティーター)。

クリシュナと主のエネルギーは異なるものではありませんが、それでもエネルギーはクリシュナではありません。太陽と太陽光は異なりませんが、太陽光は太陽ではありません。太陽光は私たちの窓を通ってきて私たちの部屋に入るかもしれません。

しかし、これは太陽が私たちの部屋の中にあるというのではありません。ヴィシュヌ・プラーナは述べます。パラシャ・ブラーマナー・シャクティー。パラシャは至高を意味し、ブラーマナーは完全真理を意味し、そしてシャクティーはエネルギーを意味します。

至高の完全存在のエネルギーは、すべて(everything)です。しかし、そのエネルギーの中にクリシュナは見出されません。

第4段落
2種類のエネルギーがあります---物質的および霊的なものです。ジーヴァ、すなわち個々の魂は、クリシュナの優性のエネルギーに属します。しかし、彼らは物質エネルギーに魅了される傾向がある(訳注:prone to、良くない傾向がある)ので、周辺エネルギーと呼ばれます。

しかし、実際は二つのエネルギーだけが存在します。すべての惑星系と宇宙(訳注:複数)は、クリシュナのエネルギーに依存しています(to rest on)。ちょうど太陽系のすべての惑星が太陽光の中にあるように、創造の中のすべてはクリシュナの光(Krishna-shine)に依存しています(to rest on)。

(訳注:to rest inは、熟語としては「~で永眠する」、「(希望など)~にかける」という意味ですが、この場合は「(休むように)じっとそこにある」という意味と思います。一方to rest on は「頼りにする、よりかかる、~に基礎を置く、~に支えられる」などの意味ですが、ここではどちらも同じように使われている場合が多いようです。)

主のこれらの力のすべては献身者に喜びを与えます。しかし、クリシュナをねたむ者はそれらを退けます。人が非献身者であるとき、クリシュナの言明は大変な空威張り(so much bluff)であるように見えますが、人が献身者であるとき、彼は「おお、私の主は大変強力だ」と考え、愛と憧憬で満たされるようになります。

非献身者は、クリシュナが「私は神である」とおっしゃるので、彼らと他の誰もが同じことを言うことができると考えます。しかし、もしも自分の普遍的な(universal、宇宙の、万有の)形を見せるように頼まれると、彼らはそれをすることができません。

それが偽りの神と本物の神の違いです。クリシュナの娯楽は真似され得ません。クリシュナは16,000人以上の妻たちと結婚し、彼女らを16,000の宮殿に良く保ちました(訳注:~に住まわせて、幸せな暮らしをさせました)。しかし、普通の男は一人の妻を良く保つことさえできません。

クリシュナは、ただ非常に多くの素晴らしいことを語ったというのではありません。主はまた、素晴らしく振舞われました。私たちは、クリシュナがおっしゃったりなさったりすることのうち、あることを信じ他の事を退けるべきではありません。もしも信仰(belief)がそこにあるなら、それは完全な信仰でなければなりません。

第5段落
このことに関して、ナーラダ・ムニの話があります。彼はあるとき、一人のブラーマナによって尋ねられました(~が~に尋ねました)。「おお、あなたは主にお会いになるのですか?どうか主に、私はいつ自分の救済(salvation)を得るのか、聞いてくださいませんか?」

第6段落
「いいでしょう」とナーラダ・ムニは同意しました。「私は主にお尋ねしましょう。」

第7段落
ナーラダが進んでいくと、彼は木の下に座って靴の修理をしている靴直し職人に会いました。そして、靴直し職人も同じようにナーラダに尋ねました。「おお、あなたは神にお会いになるのですか?主に、いつ私の救済が訪れるのか、尋ねてくださいませんか?」

第8段落
ナーラダ・ムニがヴァイクンターの惑星に行ったとき、彼は彼らの願いを叶え、ナーラーヤナ(神)にブラーマナと靴直し職人の救済について尋ねました。するとナーラーヤナは答えました。「この体を去ったあと、靴直し職人はここに、私のところに来ます。」

第9段落
「ブラーマナはどうですか?」とナーラダは尋ねました。

第10段落
「彼はそこに幾生も(for a number of births)留まらねばなりません。私は彼がいつ来るか知りません。」

第11段落
ナーラダ・ムニは驚愕しました。そして彼はついに言いました。「私は、このことの謎を理解することができません。」

第12段落
「それを、あなたは知るでしょう」とナーラーヤナはおっしゃいました。「彼らが私は自分の住まいで何をしているのかとあなたに尋ねるとき、彼らに私は針の穴に象を通していたと言いなさい。」

第13段落
ナーラダが地球に戻ってブラーマナに近付いたとき、ブラーマナは言いました。「おお、あなたは主にお会いになりましたか?主は何をしておいででしたか?」

第14段落
「主は針の穴に象を通しておいででした」とナーラダは答えました。

第15段落
「私はそのような無意味なことは信じません」とブラーマナは答えました。ナーラダは直ちに、その人は何の信仰(faith)も持っておらず、彼は単に本の読者である、ということを理解することができました。

第16段落
ナーラダはそれから、去って次に靴直し職人のところに行きました(to go on、次の約束の場所に行く)。彼はナーラダに尋ねました。「おお、あなたは主にお会いになりましたか?話してください。主は何をしていらっしゃいましたか?」

第17段落
「主は針の穴に象を通しておられました」とナーラダは答えました。

第18段落
靴直し職人は泣き始めました。「おお、私の主は大変すばらしい。主は何でもおできになる。」

第19段落
「あなたは本当に主は針の穴に象を通すことができると信じますか?」とナーラダは尋ねました。

第20段落
「どうして信じないことがあるでしょうか?(Why not?)」と靴直し職人は言いました。「もちろん私はそれを信じます。」

第21段落
「それはどうしてですか?(How is that?)」

第22段落
「あなたは私がこのバンヤンの木の下に座っているのを見ることができます」と靴直し職人は答えました。「そしてあなたは、非常に多くの果実が毎日落ちているのを見ることができます。そして、一つ一つの種の中に、この木のようなバンヤンの木があります。

もしも小さな種の中にこれのような大きな木があり得るなら、主が針の穴に象を通していらっしゃるということを受け入れるのは、難しいでしょうか?」

第23段落
ですから、これが信仰(faith)と呼ばれます。それは盲目的に信じることに関わる事柄ではありません(It is not a question of、問題、可能性、論点)。もしもクリシュナが大きな木を非常に多くの小さな種の中に入れることができるなら、主がご自分のエネルギーを通してすべての惑星系を宇宙の中に漂わせ続けているというのは、それほど仰天するようなことでしょうか?

第24段落
科学者たちは、「惑星は自然だけによって宇宙の中に保持されている」と考えるかもしれません。自然の背後には至高主がいらっしゃいます。自然は主の導きの下で活動しています。シュリー・クリシュナは次のように述べられます。

(サンスクリット引用)

「この物質自然は私の指揮の下で働いています、おお、クンティーの息子よ。そしてそれは、すべての動く存在(being)と動かない存在(being)を作り出しています。その(訳注:自然の)規則によって、この顕現は繰り返し繰り返し創造され、破壊されています。」(Bg.9.10)

第25段落
マヤーデャークシェニャは「私の監督の下で」を意味します。物質自然は、その背後に主の手がない限り、非常に素晴らしく(so wonderfully)活動することはできません。私たちは、物質的なものが自動的に働いている、何らの例も考えることができません。

物体には自動力がありません。そして、霊的な接触なくしては、それが活動する可能性はありません。物体は独立して、あるいは自動的に活動することはできません。機械は非常に素晴らしく構築されているかもしれませんが、人がその機械に触れない限り、それは働くことができません。

そして、その人は何でしょうか?彼は霊的な火花です。霊的な接触なくしては、何ものも動くことができません。したがって、すべてのものはクリシュナの非人格的なエネルギーに依存しています(to rest on)。クリシュナのエネルギーは非人格的ですが、主は人格(a person)です。

私たちはしばしば、人々(persons)が素晴らしい行いをしているのを聞きます。それでも、彼らのエネルギー的な達成にも関わらず、彼らはやはり人格(persons)で在り続けます。もしもこれが人間にとって可能であるなら、なぜそれが至高主にとって可能でないでしょうか?私たちは皆、人格です。しかし、私たちは皆、クリシュナ、至高の人格(The Supreme Person)に依存しています。

第26段落
私たちは何度もアトラスの絵を見たことがあります。自分の肩の上に大きな惑星を担ぎ、それをそこに保とうとして大変な苦労をしている頑強な男です。私たちは、「クリシュナは宇宙を維持しているので、主はアトラスのようにその重荷の下で苦しんでいらっしゃる」と考えるかもしれません。しかし、これはそうではありません。

(サンスクリット引用)

「そして、それでも、作られたもののすべては私の中に存在しません(to rest in)。私の神秘的な富を見なさい。私はすべての生命体の維持者であるけれど、そして私はどこにでもいるけれど、それでも私の自己は創造のもともとの源です。」(Bg.9.5)

第27段落
宇宙の中のすべての存在(being)はクリシュナのエネルギーの中にあります(to rest in)が、それでもそれらは主の中にありません。クリシュナはすべての生命体を維持しておられ、そして主のエネルギーはあまねく広がっています(all-pervading)が、それでも主は他のところにいらっしゃいます。

これはクリシュナの計り知れない神秘的な力です。主はどこにでもいらっしゃいます。それでも主はすべてのものから離れていらっしゃいます。私たちは主の(his → His)エネルギーを知覚することができますが、主を見ることはできません。なぜなら、主は物質的な目では見られ得ないからです。

しかし、私たちが自分の霊的な性質を発達させるとき、私たちは自分の感覚を浄化し(to sanctify、罪や心などを清める)、このエネルギーの中においてさえ主を見ることができるようになります。(We sanctify our senses so that even within this energy we can see Him.)

例えば電気はどこにでもあり、そして電気技師はそれを利用する能力があります。同様に、至高主のエネルギーはどこにでもあり、そして私たちが超越的に位置するようになるとき、私たちはどこにでも神を面と向かって見ることができます(We can see God eye to eye everywhere)。

(訳注:’to see eye to eye with ~’は熟語表現で、誰かと見解が一致する、という状態を指します。でもこの場合はちょっと違うようですので、このように訳しています。)その感覚の霊化は、献身奉仕と神への愛を通して可能です。

主は宇宙全体にあまねく広がっておられ、魂や心臓や水や空気の中---どこにでもいらっしゃいます。そのため、もしも私たちが神の像(image)を何ででも---粘土、石、木、あるいは他の何であれ---作るなら、それは単なる人形であると考えられるべきではありません。それもまた神です。

もしも私たちが十分な献身の念を持っているなら、像もまた私たちに語りかけるでしょう(will speak to us)。神は非人格的にどこにでもいらっしゃいます(マヤー・タタム・イダム・サルヴァム)が、もしも私たちが何であれ何かから主の個人的な形を作るなら、あるいはもしも私たちが自分たちの中に(within ourselves)神の像を作るなら、主は私たちのために個人的に存在なさるでしょう(He will be present personally for us.)。

シャーストラの中に、勧められている8つの種類の像があります。そして、(訳注:その中の)どの像も崇拝され得ます。なぜなら、神はどこにでもいらっしゃるからです。人は抗議して尋ねるかもしれません。「なぜ神は像として崇拝されるべきであって、ご自分のもともとの霊的な形においてではないのですか?」答えは、私たちは主の霊的な形においては神を直ちに見ることができない、というものです。

私たちの物質的な目をもってしては、私たちは石、土、木---何か実体的なものだけを見ることができます。したがって、クリシュナはアルチャー・ヴィグラハ、私たちが主を見るために至高主によって便宜よく提示された形としておいでになります。その結果は、もしも私たちが像の上に(訳注:精神を)集中し、愛と献身の念をもって捧げものをするなら、クリシュナは像を通して反応してくださる(to respond、返答する)、というものです。
by ammolitering4 | 2012-03-08 14:14 | 「知識の王」

第2章 (第8段落に修正あり_緑色の部分)

第2章 サムサーラを超えた知識

第1段落
クリシュナは特に、このクリシュナ意識の過程はススカーム、行うのが非常に心地よくて容易である、と述べられます。実に、献身の過程は非常に心地よいものです。私たちは楽器を使って旋律的に歌います。そして誰かが聞き、また、加わります(シュラヴァナム・キールタナム)。

もちろん、音楽は至高主と関わるもの、主を讃えるものであるべきです。バガヴァッド・ギーターを聞くこともまた、献身奉仕の一部です。そして、それを聞くことに加えて、人はそれを自分の人生に応用することに熱心であるべきです。クリシュナ意識は科学であり、盲目的に受け入れられるべきではありませ
ん。

勧められている9つの献身奉仕の過程があります。(聞くこと、唱えること、思い出すこと、崇拝すること、祈ること、奉仕すること、主の従者として働くこと、主と友好的な関係を築くこと、主にすべてを捧げること。)これらは、すべて行うのが容易であり、楽しく行われるべきです。

第2段落
もちろん、もしも人が「バガヴァッド・ギーターとハレ・クリシュナの真言はヒンドゥー教の体系の一部である」と考えて、これが理由でそれらを受け入れたくないなら、彼はそれでも、キリスト教の教会に出席して、そこで歌うことができます。この過程とあの過程の間に違いはありません。

要点は、人がどの過程を辿るのであれ、彼は神意識にならねばならない、ということです。神はイスラム教徒でもヒンズー教徒でもキリスト教徒でもありません---主は神です。また、私たちもヒンズー教徒やイスラム教徒、あるいはキリスト教徒と考えられるべきでもありません。これらは身体的な区分です。

私たちは皆、純粋な霊、至高存在の欠かすべからざる小片です。神はパヴィトラム、純粋であり、私たちもまた純粋です。しかし、どういうわけか、私たちはこの物質の海に落ちてしまいました。そして、波が投げるように揺らす(to toss)につれ、私たちは苦しみます。

実際は、私たちは物質的な悲惨さの、投げるように揺らす波とは、何の関係もありません。私たちは単に「クリシュナ、どうか私を拾い上げてください」と祈らねばならないだけです。私たちがクリシュナを忘れれば直ちに、幻想の海がそこにあり、そしてそれは直ちに私たちを捕らえます。

ハレ・クリシュナを唱えることは、この海から逃れるために極めて大切です。「ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ」は、クリシュナと異ならない音(シャブダ)です。音のクリシュナともともとのクリシュナは同じです。

私たちがハレ・クリシュナを唱えて踊るとき、クリシュナもまた、私たちと共に踊っていらっしゃいます。もちろん、私たちは「はて、私には主が見えませんが(Well, I do not see Him)」と言うかもしれません。しかし、なぜ私たちは見ることにそれほどの重点を置くのですか?聞くことはどうですか?

見ること、味わうこと、嗅ぐこと、触ること、そして聞くことは、すべて経験と知識のための手段です。なぜ私たちは見ることにそれほど限定的な重点を置くのですか?献身者はクリシュナを見たいと望みません。彼は単にクリシュナについて聞くことで満足しています。

見ることはやがて訪れるかもしれませんが(may eventually be there)、聞くことは(それよりも)何ら劣るものとは考えられるべきではありません。私たちが聞くけれども見ないものがあります---風は私たちの耳の横を通り過ぎて吹いているかもしれず、私たちはそれを聞くことができます。

しかし、風を見る可能性はありません。聞くことは見ることよりも重要性において劣る経験でも、有効性において劣る経験でもないので、私たちはクリシュナを聞いて、音を通して主の存在を認識することができます。シュリー・クリシュナご自身がおっしゃいます。

「私は自分の住まいにいるのではありません。瞑想するヨギーの心臓の中にいるのでもありません。そうではなく、私の(校正:my→ My)純粋な献身者が歌っているところにいます。」私たちは実際に発達するにつれて、クリシュナの存在を感じることができます。

第3段落
私たちが単にクリシュナから物を取って主に何も捧げないべきである、というのではありません。誰もが神から何かを取っています。ですから、何かを捧げませんか?私たちは、クリシュナから非常に多くの光、空気、食べ物、水などを取っています。

これらの資源がクリシュナによって供給されない限り、誰も生きることができません。お返しに決して何も与えることなく、単に取って取って取り続けるのは、愛ですか?愛とは、取ることと、また、与えることも意味します(Love means taking and giving also.)。

もしも私たちがただ誰かから取って、お返しに彼に何も与えないなら、それは愛ではありません---それは搾取です。私たちが決してクリシュナに何も捧げることなく食べ続けるべきである、というのではありません。バガヴァッド・ギーターにおいて、クリシュナはおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「もしも人が私に愛と献身の念をもって、葉、花、果実あるいは水を捧げるなら、私はそれを受け取ります。おお、クンティーの息子よ。あなたがすることのすべて、あなたが食べるもののすべて、あなたが捧げるものと与えるもののすべて、そしてあなたが為す禁欲のすべては、私への捧げ物として為されるべきです。」(Bg.9.26-27)

第4段落
与えることと受け取ることに加え、献身奉仕の遂行にあたって、人は何であれ自分が持つ苦しみ、あるいは内密な問題をクリシュナに提示しなければなりません。彼はこう言うべきです。「クリシュナ、私はこのように苦しんでいます。私はこの物質の幻想の、投げるように揺らす海に落ちてしまいました。

どうか親切に私を拾い上げてください。私は今、自分はこの物質世界と何の一体性も持たないことを理解しています。私は、まるで大西洋に投げ入れられたように、単にここに入れられています。私は決してどのようにしても大西洋と同一化しないかもしれませんが、私は海が投げるように揺らすことの影響下にあります。

実際は、私は霊的な火花、あなたの微細な部分です。」私たちにとって不運なことに、私たちはこの海と同一化しようとし、その投げるように揺らす動きを止めようとします。私たちは、(幻想の海が)投げるように揺らすことを止めようとしてはなりません。それは可能ではありません。

どの場合でも、投げるように揺らすことは続きます。なぜなら、それが自然の法則だからです。愚か者だけがこの世界に順応しようとします。本当の問題は、そこからどうやって抜け出すかです。順応しようと試み、そして決してクリシュナの方を向かない者は、継続的に、誕生と死の海の中での転生の影響下に置かれます。

(サンスクリット引用)

「献身奉仕の道において忠実(faithful)でない者は、私に至ることができません、おお、敵を征服する者よ。そうではなく、彼らはこの物質世界での誕生と死に戻ります。」(Bg.9.3)

第5段落
定義によれば、宗教は私たちを神と繋げるものです。もしもそれが私たちを神と繋げることができないなら、それは宗教ではありません(訳注:原文はit is no religionです。間違いではありませんが、全体の文体に合わない口語的な表現なので、it is not religionの間違いと考えるほうが自然かもしれません。)

宗教とは、神を探すこと、神を理解すること、そして神との関係を築くことを意味します。これが宗教です。献身奉仕に携わっている者は、クリシュナ、すなわち神のために行動しています。そして、このようにして神との結びつきがあるので、クリシュナ意識は宗教です。

第6段落
宗教を作り出すことは可能ではありません。本当の宗教は、権威を認められた源から来なければなりません。そして、その源は神か主の代理人から来ています。宗教は神の法律と呼ばれてきています。ある個人(a person)にとって、国家の法律を作り出すことは可能ではありません。

法律はそこにあり、そしてそれは国家によって与えられます。人は自分の独自の社会のために何らかの条例を作り出すかもしれません。しかし、これらの法律は国家の法律によって認可されねばなりません。同様に、もしも私たちが何らかの宗教の原則を作りたいなら、それはヴェーダの権威によって認可されねばなりません。

第7段落
バガヴァッド・ギーターもまた、宗教です。ラーマヌジャーチャーリャ、マドゥヴァーチャーリャ、ヴィシュヌスヴァーミー、主チャイタンニャ、シャンカラーチャーリャなどの偉大な権威者たち、そして非常に多くの他の者たちがバガヴァッド・ギーターを宗教の至高の原則として、そしてクリシュナを至高の人格神として受け入れました。

それに関して何らの疑いもありません。西洋でもバガヴァッド・ギーターは偉大な哲学書として受け入れられています。そして、西洋の多くの偉大な学者たちと哲学者たちが、それを読み、それを解説しました。学者たちとアーチャーリャたちによる受容にも関わらず、バガヴァッド・ギーターを受け入れず、信頼(faith)を持たない人々がいます。

彼らは全くそれを権威として受け入れません。なぜなら、彼らは「それはクリシュナとして知られる人による何らかの感傷的な誇張だ」と考えるからです。このため、クリシュナは上に引用した節の中で、権威としてのバガヴァッド・ギーターを退ける者はご自分との結びつきを持つことができず、そして彼らは主との関わりがないので、誕生と死の循環の中に留まる、と述べられます。

アプラーピャ・マーム・ニヴァルタンテ・ヌリテュ・サスサーラ・ヴァルトゥマニ。サムサーラ、すなわち誕生と死の循環の影響下にあることは、必ずしも人が次の生においてバガヴァッド・ギーターを理解するための(現在のと)似た設備を得ることを保証しません。

人は必ずしも再び人間として、あるいはアメリカに、あるいはインドに、あるいはこの惑星にさえ生まれないかもしれません。確実性はありません。それはすべて私たちの働きに依存します。誕生と死の道において、私たちは生まれ、しばらくの間留まり、楽しみ、あるいは苦しみ、それから再びこの体を放棄して、人間あるいは動物の母の子宮に入り、それから、出てきて再び自分の仕事を始めるための、別の体を準備します。

これはムリテュ・サムサーラ・ヴァルトゥマニと呼ばれます。もしも人がこの道を避けたいなら、彼はクリシュナ意識を習慣づけねばなりません。

第8段落
ユディーシュティーラ・マハーラージャが「世界で最も驚くべき(wonderful)ことは何ですか?」と尋ねられたとき、彼はこう答えました。「最も驚くべき(wonderful)ことは、毎日、毎瞬、人々が死んでおり、そしてそれでも誰もが死は自分には訪れないと考えることです。」

(訳注:ここで私はwonderfulを「素晴らしい」と訳していました。これだと、「信じられない、めでたい連中だ、全くもって能天気で”すばらしい”ことだ」という歪んだ解釈になりますが、ご指摘いただいたように「驚くべき、不思議な」という意味のほうが素直で正しいと思います。ご指摘ありがとうございました。)

毎分毎秒、私たちは生命体が死の寺院に行っているのを経験します。人間、虫、動物、鳥---誰もが行っています。したがって、この世界はヌリテュロカ---死の惑星と呼ばれます。毎日、(新聞などの)死亡記事があります。

そして、もしもわざわざ墓場や火葬場に出掛けるなら、私たちはそれらを確認することができます。それでも誰もが「どうにかして、私は生きるだろう」と考えています。誰もが死の法則の影響下にあります。それでも、誰もそれを真剣に受け止めません。これが幻想です。

私たちは永遠に生きると考え、何であれ自分が好きなことをし続けます。決して(それに対して)責任を問われないと感じながらです。これは非常に危険度の高い人生です。そしてそれは幻想の最も濃い部分です。私たちは、非常に真剣になり、死が待っているということを理解すべきです。

私たちは「死ほども確実」という表現を聞いたことがあります。これは、「この世界においては死が最も確実なものである」ということを意味します。誰もそれを避けることはできません。死が来るとき、私たちの驕り高ぶった哲学や高い学位は、もはや私たちを助けません。

そのとき、私たちの頑丈で強い体と私たちの知性は---それらは何ものも望みません(訳注:which don't care for anything、好む、世話をする、関心を持つ)―――打ち負かされます。そのとき、一部(fragmental portion)(ジーヴァートマー)は物質自然の指揮の下に入り、そしてプラクリティ(自然)は私たちに、自分にふさわしい種類の体を与えます。

もしも私たちがこの危険を冒したいなら、私たちはクリシュナを避けることができます。もしも私たちがそれを冒したくないなら、クリシュナは私たちを助けるためにおいでになります。
by ammolitering4 | 2012-03-05 15:47 | 「知識の王」

第1章 後半

第12段落
物質世界には、教育の非常に多くの段階があります。一部の人々は、決して小中学校あるいは高校を終えず、他方で他の者たちは続けて大学教育、学士、修士、博士号などを受けます。しかし、このラージャ・ヴィデャー、知識の王、知識の至善(summum bonum、ラテン語)とは何でしょうか?

それはこのクリシュナ意識です。本当の知識とは、「私は何であるか」を理解することです。自分は何であるかを理解するという地点に至らない限り、私たちは本当の知識を得ることはできません。サナータナ・ゴスヴァーミーが自分の政府の職を去って初めてチャイタンニャ・マハープラブのところに来たとき、彼は主に「教育とは何ですか?」と尋ねました。

サナータナ・ゴスヴァーミーは、サンスクリットを含む多くの言語を知っていましたが、彼はそれでも本当の教育について問いました。「一般の大衆は私を”高度に教育されている”と呼びます」とサナータナ・ゴスヴァーミーは主に言いました。「そして私は大変な愚か者なので、私は実際に彼ら(の言うこと)を信じます。」

第13段落
主はお答えになりました。「なぜあなたは自分は良く教育されていると考えるべきではないのですか?あなたはサンスクリットとペルシャ語における偉大な学者です。」

第14段落
「そうかもしれません」とサナータナ・ゴスヴァーミーは言いました。「しかし、私は自分が何であるかを知りません。」それから彼は続けて主にこう言いました。「私は苦しみたいと望みません。しかし、これらの物質的な悲惨さが私の上に強いられます。

私は自分がどこから来たか、あるいはどこへ行くのかも知りません。しかし人々は私を”教育がある”と呼んでいます。彼らが私を偉大な学者と呼ぶとき、私は満足しています。しかし本当は、私は大変な愚か者なので、私は自分が何であるか知りません。」

サナータナ・ゴスヴァーミーは、実際は私たち皆のために話していました。これが私たちの現在の状況だからです。私たちは自分の学究的な教育を誇りに思っているかもしれませんんが、もしも自分が何であるかと問われれば、私たちは言うことができません。

誰もが、この体が自己であるという概念の下にあります。しかし、私たちはヴェーダという源から、これはそうではない、と学びます。自分はこの体ではないと認識したあとでのみ、私たちは本当の知識に入り、自分が本当は何であるのかを理解することができます。

第15段落
ラージャ・ヴィデャーは、さらに「自分が何であるかを知っているだけでなく、それに応じて活動すること」と定義されるかもしれません。もしも私たちが自分が誰であるか知らないなら、どうして私たちの活動は正しいものであり得るでしょうか?

もしも私たちが自分の正体について誤っているなら、私たちは自分の活動についてもまた、誤るでしょう。単に自分はこの物質的な体ではないと知ることは十分ではありません。私たちは、自分は霊的であるという納得に応じて活動せねばなりません。

この知識に基づいた活動---霊的な活動---は、クリシュナ意識における仕事です。この種類の知識はそう簡単に得られるようには見えないかもしれませんが、クリシュナと主チャイタンニャ・マハープラブの慈悲によって、非常に簡単にさせられています。

主は、この知識を「ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ」を唱える方法を通して簡単に得られるようになさいました。

第16段落
チャイタンニャ・マハープラブは、生命体を二つの主な区分に分けられました。動くものと動かないものです。木、草(grass)、植物(plant)、石などは動きません。なぜなら、彼らは十分に発達した意識を持たないからです。彼らの意識はそこにありますが、覆われています。

もしも生命体が自分の立場を理解しないなら、人間の体の中に住んでいたとしても、彼は石のようなものです。生命体---鳥、爬虫類、動物、虫、人間、半神など---は、800万以上の種があります。そして、これらのうち、ほんの少数が人間です。

主チャイタンニャはさらに、「40万種の人間のうち、一部は文明化されており、多くの文明化された人々のうち、聖典に献身している者がほんの少数存在する」と指摘なさいます。

第17段落
現在では、ほとんどの人が何らかの宗教に献身している---キリスト教徒、ヒンズー教徒、イスラム教徒、仏教徒など---と主張します。しかし事実は、彼らは実際に聖典を信じてはいません。聖典を信じる者は全般的に、徳のある博愛主義的な活動に執着しています。

彼らは、「宗教とはヤジニャ(犠牲)、ダーナ(慈善)、そしてタパス(苦行)を意味する」と信じています。タパシャにいそしむ者は、ブラーマチャーリー学生(性交を避ける独身者)、あるいはサンニャースィー(放棄階級者)が行うような非常に厳格な規律に自発的に従います。

慈善とは、自発的に自分の物質的な所有物を与えることを意味します。現在では、犠牲はありません。しかし、マハーバーラタのような歴史的な文献から、私たちは王たちがルビーや金や銀を配ることによって犠牲を行ったという情報を得ます。

ヤジニャは主に王たちのためのものであり、そして慈善は、もっとずっと小さな規模で、家庭人のためのものでした。実際に聖典を信じた者は、普通、これらの原則のいくつかを実行しました。しかし一般に、今の時代では、人々は単に「自分はある宗教に属している」と言いますが、実際には何もしません。

何百万人ものそのような人々のうち、ごく少数の者が実際に、慈善、犠牲、そして苦行を行います。チャイタンニャ・マハープラブはさらに、「宇宙全体でそのような宗教的な原則を行う何百万人もの人々のうち、ほんの少数が完璧な知識を得て自分が何であるかを理解する」と指摘なさいます。

第18段落
ただ単に「私はこの体ではなく霊魂である」と知ることは、十分ではありません。私たちはこの物質自然の呪縛から逃れねばなりません。これはムクティ、解放と呼ばれます。自分が何であって誰であるかという自己の知識を持つ何千人もの人々のうち、ほんの一人か二人が実際に解放されているかもしれません。

そして解放されている何千人もの者のうち、一人か二人だけが、クリシュナが何であって誰であるかを理解するかもしれません。ですから、クリシュナを理解するのはそれほど簡単な仕事ではありません。このように、このカリの時代、無知と混沌によって特徴づけられる時代にあって、解放は事実上、すべての者の手の届かないところにあります。

人は文明化され、そして宗教化するという苦しい体験全体を通らねばならず、そしてそれから慈善と犠牲を行って知識の水準へ、それから解放の水準へ、そして最後に解放のあとで、クリシュナが何であるかという理解へと至らねばなりません。この過程もまた、バガヴァッド・ギーターの中で示されています。

(サンスクリット引用)

「このように超越的に位置する者は直ちに至高のブラーマンを認識します。彼は決して嘆かず、何かを得たいと望むこともありません。彼はすべての生命体に対して平等です。その状態において、彼は私への純粋な献身奉仕を得ます。」(Bg.18.54)

第19段落
これらは解放のしるしです。解放された者の最初のしるしは、彼は非常に幸せであるというものです。彼が不機嫌であるのを見出すのは可能ではありません。また、彼には不安もありません。彼はけっしてやきもきしません。「私はこれを持っていない。おお、私はこれを得なければならない。

おお、私はこの請求書の支払いをしなければならない。私はここへ、あそこへ行かねばならない。」解放された者は何の不安も持ちません。彼は世界で一番貧しい者であるかもしれませんが、彼は嘆くこともせず、自分は貧しいと思うこともしません。なぜ彼は自分は貧しいと考えるべきでしょうか?

私たちが「自分はこの物質の体である」と、そして「自分はそれ(体)に伴う所有物を持っている」と考えるとき、そのとき私たちは、自分は貧しい、あるいは豊かだと考えます。しかし、人生の物質的な概念から解放されている者は、所有物や所有物の欠如とは何の関係もありません。

彼は「私は失うものは何もなく、得るものも何もない」と考えます。また、彼は他の誰も、豊か、あるいは貧しい、教育がある、あるいは教育がない、美しい、あるいは醜い、などと見なしません。彼は何らの物質的な二重性も見ません。なぜなら、彼の視野は完全に霊的な水準にあるからです。

そして彼は、すべての生命体はクリシュナの欠かすべからざる小片であるのを見ます。このように、すべての生命体をその本当の正体において見るため、彼は彼らをクリシュナ意識に連れ戻そうとします。彼の視点は、「誰もが---その人がブラーマナあるいはシュードラであれ、黒人あるいは白人、ヒンズー教徒、キリスト教徒、あるいは他の何であれ---クリシュナ意識に来るべきだ」というものです。

人がこのように位置しているとき、そのとき、マッド・バークティム・ラバーテ・パラーム、彼はクリシュナの純粋な献身者になる資格を得ます。

第20段落
現実的に言って、この過程はこのカリの時代において、あまり簡単ではありません。シュリマッド・バーガヴァタムの中で、この時代の人々の描写が与えられています。彼の寿命は非常に短いと言われ、彼らは粘液質(訳注:冷淡で無気力)で愚鈍で非常に長く眠る傾向があり、そして眠っていないときは彼らはお金を稼ぐのに忙しくしています。

最大でも彼らは、霊的な活動のために一日2時間しか持ちません。ですから、霊的な理解のための希望は何でしょうか?(訳注:~がどこにあるでしょうか?)また、「たとえ人が霊的な発達をしたいと思っても、彼らを利用する多くの偽りの霊的な協会がある」とも述べられています。

人々はまた、この時代において、「不運である」としても特徴づけられます。彼らは人生の基本的な要求---食べること、身を守ること、性交すること、そして眠ること---動物によってさえ満たされる必要性を満たすのに、大変な困難を持ちます。

たとえこの時代において人々がこれらの必要性を満たしていても、彼らはいつも、侵略者から自分自身を守ること、あるいはみずから戦争に行かねばならないことによって、戦争に関する不安を持っています。これに加えて、カリ・ユガにおいては、いつも危険な病と経済的な問題があります。

したがって主シュリー・クリシュナは、「この時代において、人々にとっては、定められた規律と規則に従うことによって解放の完成の水準に至るのは不可能である」とお考えになりました。

第21段落
このため、ご自分のいわれのない慈悲のため、シュリー・クリシュナは主チャイタンニャ・マハープラブとしておいでになり、「ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ」を唱えることによる、人生の最高の完成と霊的な恍惚への方法を広められました。

この唱名の過程は極めて実際的であり、それは人が解放されているかいないか、あるいは人の状態が霊的な人生に貢献する(conducive、何かを引き起こす傾向がある)かどうかに依存しません---この過程を習慣づける者は、誰でも直ちに浄化されます。

したがって、それはパヴィトラム(純粋)と呼ばれます。さらに、このクリシュナ意識の過程を習慣づける者にとって、自分の罪深い行いへの潜在的な反応の種はすべて取り消されます。火が、何であれ私たちがそれにくべる物を灰にするように、この過程は私たちの過去生のすべての罪深い反応を灰にします。

第22段落
私たちは、「自分の苦しみは自分の罪深い行いが原因であり、罪深い行いは私たちの無知が原因である」ということを理解しなければなりません。罪、あるいは転生は、何が何であるかを知らない者によって犯されます。例えば子供は、無知が原因で、無邪気に自分の手を火の中に入れます。

こうして彼は直ちに火傷します。なぜなら、火は公平であり、無邪気な子供への何らの特別な考慮も許さないからです。それは単に火として振舞います。同様に、私たちは、この物質世界がどのように機能しているか、その統御者は誰か、あるいはそれはどのように統御されているかを知りません。

そして、自分の無知が原因で、私たちは愚かに振舞います。しかし、自然は非常に厳格なので、彼女は私たちが自分の活動への反応を逃れることを許しません。私たちが知って、あるいは知らずして活動を犯せば、どちらにしても、反応と結果的な苦しみはそこにあります。

しかし、知識を通して私たちは実際の状況が何であるか、神が何であるか、そして私たちの主との関係が何であるかを理解することができます。

第23段落
それによって私たちが苦しみからの解放を得ることができる、この知識は、人間の形の人生において可能であり、動物の形においてはそうではありません。私たちに知識を与えるために、私たちに正しい導きを与えるために、世界の様々な場所に様々な言語で書かれた聖典があります。

主チャイタンニャ・マハープラブは、「人々は記憶にないほどの昔から自分の至高主との関係に関して忘れている」と指摘なさいました。したがってクリシュナは、人類に聖典を授けるために非常に多くの代理人を送られました。私たちはこれらを、特に現代の世界のための主な聖典であるバガヴァッド・ギーターを、利用すべきです。

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お待たせしました。新しい本の第1章をお届けします。原題はRaja Divya - The King of Knowledgeです。全108ページの小さな本ですが、いつもながら得るところの多い御本です。少しずつ進めますので、ごゆるりとお付き合いください。
by ammolitering4 | 2012-03-04 19:26 | 「知識の王」

「知識の王」第1章 前半

ラージャ・ヴィデャー、知識の王

シュリー・グルとゴーランガにすべての栄光あれ

第1章 ラージャ・ヴィデャー:知識の王

(サンスクリット引用)

第1段落
至高主はおっしゃいました。「我が親愛なるアルジュナよ。あなたは決して私をねたまないので、私は
あなたにこの最も秘密の英知を授けます。それを知って、あなたは物質的な存在の悲惨さから解放されるでしょう。」(Bg.9.1)

第2段落
バガヴァッド・ギーターの9章の始まりの言葉は、至高神が語っているということを示しています。ここでシュリー・クリシュナはバーガヴァーンと呼ばれます。バーガは「富」を意味し、そしてヴァンは「持つ者」を意味します。私たちは何らかの神の概念を持っています。

しかし、ヴェーダ文献の中に「神」とは何を意味するかということの明確な描写と定義があり、そして、意味するものはただ一言---バーガヴァーン---という言葉で描写されます。バーガヴァーンは全ての富を持ちます。(校正:,→;)知識、富、力、美、名声そして放棄のすべてです。

これらの富を完全に備えている誰かを見出すとき、私たちは、その人は神であると知るべきです。多くの富裕な、賢明な、有名な、美しい、そして強力な人々がいますが、誰もこれらの富のすべてを持っていると主張することはできません。クリシュナだけがそれらを完全に持っていると主張します。

(サンスクリット引用)

「賢人たちは、私をすべての犠牲と禁欲の究極の目的、すべての惑星と半神の至高主、そしてすべての生命体に恩恵を施す者であり(彼らの)幸せを願う者であると知って、物質的な悲惨さの痛みから(訳注:解放されて)平和を得ます。」(Bg. 5.29)

第3段落
ここでクリシュナは、ご自分はすべての活動の享楽者であって、すべての惑星の所有者(サルヴァロカ・マヘシュヴァラム)であると宣言なさいます。ある個人は広大な土地を持っているかも知れず、そして彼は自分の所有権を非常に誇りに思うかもしれませんが、クリシュナはすべての惑星系を持っていると主張なさいます。

クリシュナはまた、すべての生命体の友(スーリダム・サルヴァ・ブーターナーム)であると主張なさいます。人が神はすべての所有者、すべての者の友、そしてすべてのものの享楽者であると理解するとき、彼は非常に穏やか(peaceful、平和的)になります。これが実際の平和のための方法です。

「私は所有者である」と考える限り、誰も平和を手に入れることはできません。誰が所有権を主張することができますか?わずか2~300年前、赤いインディアンたち(訳注:アメリカ原住民)はアメリカの所有者と思われていました。

今日では、次に私たち(訳注:白人その他のアメリカ人)がその所有権を主張していますが、400年か1,000年か後には、おそらく別の人が来て同じことを主張するでしょう。土地はここにあり、私たちはここに来て、誤って自分がその所有者だと主張します。

この偽りの所有権の哲学は、ヴェーダの命令に添ったものではありません。シュリー・イショパニシャッドは、「宇宙の中のすべての動くものと動かないものは主によって統御され、所有されている(イーシャーヴァーシャム・イダム・サルヴァム)」と述べます。

この言明の真実は事実です。しかし、幻想の下で、私たちは自分が所有者だと考えています。実際には、神がすべてを所有しています。そして、従って主は、最も豊かな方、と呼ばれます。

第4段落
もちろん、神であると主張する多くの人々がいます。例えばインドでは、いつでも、「神である」と主張する12人の人々を見つけるのに難しいことはありません。しかし、もしもあなたが彼らに、あなたはすべてのものの所有者であるか、と尋ねれば、彼らはこれに答えるのに困難を感じます。

これが、私たちが神が誰であるかを理解できるための判断基準です。神はすべてのものの所有者です。そして、そうであるため主は必ず、他の誰よりも、あるいは何よりも強力です。クリシュナがこの地上に個人的に存在しておられたとき、誰も主を征服することができませんでした。

主が一度たりとも戦いに負けたという記録はありません。主はクシャトリヤ(軍人)の家庭に属していました。そしてクシャトリヤは弱い者に保護を与えるためにあります。主の富に関して言えば、主は16,108人の妻たちと結婚しました。

すべての妻が自分の独自の別の宮殿を持っており、クリシュナは彼女らすべてを楽しむためにご自分を16,108倍に拡張なさいました。これは信じがたいことに見えるかもしれませんんが、それはシュリマッド・バーガヴァタムに述べられています。そしてインドの偉大な賢人たちはこれを聖典として認識し、クリシュナを神として認識します。

第5段落
この第9章の最初の節で、グーヤタマムという言葉によって、シュリー・クリシュナは、ご自分はアルジュナに最も内密な知識を授けていると暗示なさっています。なぜ主はこれをアルジュナに宣言なさっているのでしょうか?それは、アルジュナはアナユース---妬み深くないからです。

物質的な世界においては、もしも誰かが私たちより優れているなら、私たちは妬みます。私たちは互いを妬むばかりでなく、神をも妬みます。また、クリシュナが「私が所有者である」とおっしゃるとき、私たちはそれを信じません。しかし、アルジュナはそうではありません。

彼は妬まずにクリシュナ(の言うこと)を聞きます。アルジュナはクリシュナの揚げ足を取らず(to cavil、屁理屈をこねる、些細なことにけちをつける)、主のおっしゃることすべてに同意します。これは彼の特別の資質であり、そしてこれがバガヴァッド・ギーターを理解するための方法です。

私たちの独自の精神的な推量によって神とは何であるかを理解するのは可能ではありません。私たちは聞かねばならず、そして私たちは受け入れねばなりません。

第6段落
アルジュナは妬み深くないので、クリシュナはこの特別な知識を彼にお話しになります。これは理論的な知識であるばかりでなく、実際的な知識(ヴィジニャーナ・サヒタム)でもあります。何であれ私たちがバガヴァッド・ギーターから受け取る知識は、感傷や狂信として受け取られるべきではありません。

その知識はジニャーナとヴィジニャーナ、理論的な英知と科学的な知識です。もしも人がこの知識に精通すれば、解放は確実です。この物質世界における人生は本質的に縁起が悪く、悲惨です。モクシャは解放を意味し、約束(されているの)は、「この知識を理解することの力によって人は全ての悲惨さからの解放を得る」というものです。

それなら、クリシュナがこの知識について何をおっしゃるかを理解することが大切です。

(サンスクリット引用)

「この知識は、教育の王、すべての秘密のうちで最も秘密なものです。それは最も純粋な知識であり、それは認識によって自己の直接的な知覚を与えるため、それは宗教の完成です。それは永遠であり、喜びに満ちて行われます。」(Bg.9.2)

第7段落
バガヴァッド・ギーターによれば、最高の知識(ラージャ・ヴィデャー・ラージャ・グーヤム)はクリシュナ意識です。なぜなら、バガヴァッド・ギーターの中で私たちは、「実際に知識のある者のしるしは、彼がクリシュナに服従したということである」というのを見出すからです。

私たちが神について推量し続け、しかし服従しないならば、私たちは知識の完成に至っていないと理解されるべきです。知識の完成とは次のようなものです。

(サンスクリット引用)

「多くの誕生と死のあとで、実際に知識のある者は、私をすべての原因と存在するすべてのものの原因と知って、私に服従します。そのような偉大な魂は非常に稀です。」(Bg.7.19)

第8段落
服従しない限り、私たちは神を理解することができません。神への服従は多くの誕生を必要とするかもしれません。しかし、もしも私たちが神は偉大であるということを受け入れるなら、直ちに主に服従することが可能です。しかし、一般に物質世界において、これは私たちの立場ではありません。私たちは特質上、妬み深く、結果としてこう考えます。

「おお、なぜ私は神に服従すべきでしょうか?私は独立しています。私は独立して働きます。」したがって、この疑い(misgiving、不安、懸念)を修正する(to rectify)ために、私たちは多くの誕生の間、働かねばなりません。(訳注:「服従する必要などない」という考えを改めるために何度も生まれ変わって苦しむという経験が必要になる、ということだと思います。)

このことに関して、クリシュナの名は特に重要です。「クリシュ」は「誕生の繰り返し」を意味し、そして「ナ」は「制止する者」を意味します。私たちの誕生の繰り返しは、神によってのみ制止され得ます。誰も神のいわれなき慈悲なくしては自分の誕生と死の繰り返しを止めることができません。

第9段落
第9章の主題はラージャ・ヴィデャーです。ラージャは「王」を意味し、そしてヴィデャーは「知識」を意味します。普通の生活の中で、私たちは、ある分野ではある人が王であり、別の分野では別の人が王である、ということを見出します。

しかし、この知識は他のすべての上に君臨しており、そして他のすべての知識はそれの影響下にあるか、それと比例しています。ラージャ・グーヤムという言葉は、この君臨する知識は非常に内密であるということを示し、そしてパヴィトラムという言葉は、それは非常に純粋であるということを意味します。

この知識もまたウッタマムです。ウドは「超越する」を意味し、そしてタマは「闇」を意味し、そしてこの世界とこの世界の知識を超えるその知識はウッタマムと呼ばれます。それは光の知識であり、そして闇はそれから分離されています。

もしも人がこの知識の道を辿るなら、彼は自分が完成の道(プラテャクシャーヴァガマム・ダールミャム)でどれだけ発展したかを個人的に理解します。ススカーム・カルトゥムは、この知識は行うのがとても喜ばしく(happy)、楽しい、ということを示します。

そしてアヴャヤムは、この知識は永遠である、ということを示します。私たちはこの物質世界において教育あるいは富のために働くかもしれませんが、しかしこれらのものはアヴャヤムではありません。この体が終われば直ちに他のすべてもまた終わります。

死とともに、私たちの教育、高度な学位、銀行の残高、家族---すべて---が、皆、終わります。何であれ私たちがこの物質世界において行っていることのすべては、永遠ではありません。しかし、この知識はそのようなものではありません。

(サンスクリット引用)

「この努力において、損失や減少はありません。そして、この道における少しの発達は、人を最も危険な種類の恐れから守ります。」(Bg.2.40)

第10段落
クリシュナ意識における知識は非常に完璧なので、もしも人がクリシュナ意識で仕事を行い、それでも完成に至らないなら、次の生において彼は、どこであれ止めたところから始めます。言い換えると、クリシュナ意識において行われた活動は恒久的です。

他方、物質的な達成は体に関わるので、死のときに消えます。体の区分に関する知識は永続しません。私は、自分は男である、あるいは女である、アメリカ人あるいはインド人、キリスト教徒あるいはヒンズー教徒---と考えています。これらはすべて体に関する区分です。

そして体が終わるとき、それらもまた終わります。私たちは実際は霊です。そしてそのため、私たちの霊的な活動は、どこであれ私たちが行くところに私たちと共に行きます。

第11段落
シュリー・クリシュナは、この知識の王もまた幸せに行われる、と示します。私たちは、クリシュナ意識における活動は楽しくなされるのである、と、簡単に見ることができます。唱名すること、踊ること、プラサーダ(クリシュナに捧げられた食べ物)を食べること、そしてバガヴァッド・ギーターを論じること、があります。

これらが主な課程です。非常に長い間、非常にまっすぐにして座らなければならない、あるいは非常に多くの体操をしなければならない、あるいは息を統御しなければならない、などの厳格な規則や規律はありません。いいえ。過程は非常に簡単に、そして幸せになされます。

誰もが踊りたがり、歌いたがり、食べたがり、真理を聞きたがります。この過程は本当にススカーム---非常に幸せです。
by ammolitering4 | 2012-03-04 19:25 | 「知識の王」