カテゴリ:「教えの甘露」( 16 )

第3段落 後半

第9段落

既に説明したように、人はじっとしているべきではなく、規則的な原則の遂行に関して非常に熱心であるべきです。(サンスクリット引用)規律的な原則を軽んじることは、献身奉仕を滅ぼします。このクリシュナ意識運動には、4つの基本的な規律的原則があり、不正な性交、肉食、賭け事、および陶酔物の摂取を禁じています。献身者は、これらの原則に従うにあたって非常に熱心であるべきです。

もしもこれらのうちのどれにおいてでも怠惰になれば、彼の発達は抑制されます。したがって、シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーは次のようにお勧めになります。(サンスクリット引用)「人はヴァイディー・バークティの規律的な原則に厳密に従うべきです。」

これらの4つの禁止事項(ヤマ)(訳注:してはいけません)に加えて、ジャパ・マーラー数珠で毎日16周マントラを唱えることなど、積極的な規律的原則(訳注:しなさい)もあります。これらの規律的は活動は、熱意をもって忠実になされなければなりません。これは(サンスクリット引用)、すなわち献身奉仕に様々な形で携わること、と呼ばれます。

第10段落

さらに、献身奉仕において成功するためには、人は好ましくない人々との関わりを放棄しなければなりません。これは、カルミー、ジニャーニー、ヨギー、およぎ他の非献身者を含みます。かつて、シュリー・チャイタンニャ・マハープラブの家庭人の献身者の一人が主にヴァイシュナヴァ主義の一般的な原則およびヴァイシュナヴァの一般的な日課としての活動について尋ねました。すると、シュリー・チャイタンニャ・マハープラブは直ちにお答えになりました。(サンスクリット引用)「特徴的には、ヴァイシュナヴァとは俗世の人々すなわち非献身者との関わりを放棄する者です。」

したがって、シュリーラ・ナロッタマ・ダーサ・タークラは次のようにお勧めになります。(サンスクリット引用)人は純粋な献身者との関わりの中で暮らし、以前のアーチャーリャである6人のゴスヴァーミー(つまりシュリー・ルーパ・ゴスヴァーミー、シュリー・サナータナ・ゴスヴァーミー、シュリー・ジーヴァ・ゴスヴァーミー、シュリー・ラグナーター・ダーサ・ゴスヴァーミー、シュリー・ゴパーラ・バーッタ・ゴスヴァーミーおよびシュリー・ラグーナーター・バーッタ・ゴスヴァーミー)によって整えられた規律的な原則を遵守すべきです。

もしも人が献身者との関わりの中で暮らすなら、非献身者と関わる可能性はほとんどありません。国際クリシュナ意識協会は、献身者との関わりの中で暮らして霊的な生活の規律的な原則を実行することに人々を招くためだけに、多くの会館を開いています。

第11段落

献身奉仕とは、超越的な活動を意味します。超越的な水準においては、物質自然の3つの相による汚染はありません。これはヴィシュッダー・サットヴァ、純粋は徳の水準、あるいは熱情と無明の性質による汚染のない徳、と呼ばれます。このクリシュナ意識運動においては、私たちは皆に、朝早く、4時までに起きてマンガラ・アーラティ、すなわち朝の礼拝に参加し、それからシュリマッド・バーガヴァタムを読み、キールタンを行うことなどを要求します。

このように、私たちは献身奉仕における継続的な活動を毎日24時間行います。これはサト・ヴリッティ、すなわち熟練して毎瞬をクリシュナ意識の活動で満たした以前のアーチャーリャたちの足跡を辿ること、と呼ばれます。

第12段落

もしもシュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーによってこの節の中に与えられた助言、つまり、熱心であること、自信を持つこと、忍耐強くあること、望ましくない人々との関わりを放棄すること、規律的な原則に従うこと、そして献身者との関わりを保つことに厳密に従うなら、人は必ず献身奉仕において発達します。

このことに関して、シュリーラ・バークティスィッダーンタ・サラスヴァティー・タークラは、哲学的な推察によって知識を培うこと、結果を求める活動の発展によって俗世的な富を集めること、およびヨガ・スィッデー、すなわち物質的な完成への欲望は、どれも献身奉仕の原則に反する、と述べられます。人はそのような非永遠なる活動に対して完全に冷淡となり、そのかわり自分の決意を献身奉仕の規律的な原則に向けなければなりません。バガヴァッド・ギーター(2.69)には、次のように述べられています。

(サンスクリット引用)

「すべての存在にとって夜であるときは、自己を統御した者にとっては目覚めのときです。そして、すべての存在にとっての目覚めのときは、内省的な聖人にとっての夜です。」

第13段落

主への献身奉仕に携わることは、生命体の中心(life and soul、最も重要なこと、持てるすべて)です。それは人間の人生の望ましい目的地であり、至高の完成です。人はこれについて自信を持つようにならねばなりません。そしてまた、献身奉仕以外のすべての活動、すなわち精神的な推量や結果を求める働き、あるいは神秘的な努力などは、決して何らの永続的な利益ももたらさないことを確信していなければなりません。

献身奉仕の道への完全な信頼(confidence、自信、確信)は、人が自分の望む目的地に到達することを可能にします。しかし、他の道を辿ろうとすることは人を落ち着かなくすることだけに成功します。シュリマッド・バーガヴァタムの7巻には、次のように書かれています。「他のことを目的として厳しい苦行に携わるために献身奉仕を放棄した者は、その高度に発達した苦行にも関わらず心が浄化されていない、ということを、人は冷静に確信していなければなりません。彼らは主への超越的な愛情を込めた奉仕に関して何の情報も持たないからです。」

第14段落

7巻には、さらに次のように述べられています。「精神的な推察をする者たちと結果を求めて行動する者たちは、大いなる苦行と禁欲を行うにも関わらず、それでも堕落します。彼らは主の蓮の御足について何の情報も持たないからです。」しかし、主の献身者は決して堕落しません。バガヴァッド・ギーター(9.31)において、至高の人格神はアルジュナに次のように保証なさいます。(サンスクリット引用)「おお、クンティーの息子よ。私の献身者は決して滅びることがないと大胆に宣言しなさい。」

第15段落

バガヴァッド・ギーター(2.40)においても、クリシュナはおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「この努力においては、損失や減少(訳注:原語はdimunitionだが、一般にはdiminutionが正確)はありません。そして、この道における少々の前進は、人をして最も危険な種類の恐怖から守ります。」

第16段落

献身奉仕はとても純粋で完全なので、一度始めると人は否応なく究極の成功に引きずられます。時として、人は自分の通常の物質主義的な仕事を止め、感傷から至高主の蓮の御足に身をゆだね、こうして献身奉仕の予備的な遂行を始めます。たとえそのような未熟な献身者が堕落しても、彼は失うということがありません。一方で、自分のヴァルニャとアーシュラマに応じた規定された義務を遂行するけれど献身奉仕を習慣づけない者の利益は何でしょうか?

堕落した献身者は、次の生を身分の低い家庭の中に受けるかもしれませんが、それでも彼の献身奉仕は途中で途切れたところから再開します。献身奉仕は、アハイトゥキ・アプラティハターです。それはいかなる俗世的な原因の結果(effect、影響、効果)でもなく(訳注:あるいは「影響も受けず」)、いかなる俗世の原因によって終わらされることもなく、いかなる物質的な中断によって永遠に終わらされることもありません。したがって、献身者は自分の奉仕(engagement、携わっていること、仕事)について自信をもつべきです。そして、カルミー、ジニャーニー、およびヨギーの活動にあまり興味を持つべきではありません。

第17段落

確かに、結果を求めて行動する者、哲学的な推察をする者、および神秘的なヨギーの中には、多くの良い性質があります。しかし、献身者の人格の中には、すべての良い性質が自動的に発達します。無関係な努力は必要とされません。シュリマッド・バーガヴァタム(5.18.12)によって確認されているように、半神たちのすべての良い性質は、純粋な献身奉仕を育んだ者のうちに徐々に顕現します。献身者はいかなる物質的な活動にも興味がないので、彼は物質的に汚染されません。

彼は直ちに超越的な生活の水準に置かれます。しかし、俗世的な活動に携わるものは、いわゆるジニャーニー、ヨギー、カルミー、博愛主義者、国家主義者、あるいは他の何であれ、マハートマーの高い水準に至ることができません。彼はドゥラートマー、すなわち歪んだ心の人物であるに留まります。バガヴァッド・ギーター(9.13)には、次のように書かれています。

(サンスクリット引用)

「おお、プリターの息子よ。幻惑されていない者、偉大な魂たちは、神聖なる自然の保護の下にあります。彼らは完全に献身奉仕に携わっています。彼らは私を至高の人格神、源であって無尽蔵であるとして知っているからです。」

第18段落

すべての主の献身者は、主の至高の力の保護の下にあるので、彼らは献身奉仕の道からそれてカルミーやジニャーニーやヨギーの道に入るべきではありません。これは(サンスクリット引用)、熱意をもって、そして忍耐と自信をもって規律的な献身奉仕の活動を遂行すること、と呼ばれます。このようにして、人は妨害されずに献身奉仕において発達することができます。
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by ammolitering4 | 2009-12-06 07:06 | 「教えの甘露」

第3段落 前半

第3課

(サンスクリット原文)

(翻訳)

純粋な献身奉仕の遂行にとって好ましい、6つの原則があります。

1、熱意があること。
2、自信をもって努力すること。
3、忍耐強くあること。
4、規律的な原則に従って行動すること。(クリシュナについて聞くこと、御名を唱えること、クリシュナを思い出していること(サンスクリット引用)など)
5、非献身者との関わりを放棄すること。
6、以前のアーチャーリャたちの足跡を辿ること。

これらの6つの原則は、疑いもなく純粋な献身奉仕の完全な成功を保証します。

(解説)

第1段落

献身奉仕は、感傷的な推察や想像上の恍惚状態ではありません。その本質は実際的な活動です。シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーは、自著バークティ・ラサームリタ・スィンドゥー(1.1.11)において、献身奉仕を以下のように定義しています。

(サンスクリット引用)

「ウッタマー・バークティ、すなわち至高の人格神クリシュナへの純粋な献身は、主にとって好ましいやり方による献身奉仕を捧げることです。この献身奉仕は、いかなる無関係な動機も含むべきではなく、結果を求めるカルマ、非人格的なジニャーナ、および他のすべての自己中心的な欲望も含むべきではありません。

第2段落

バークティは一種の修養です。修養といえば、私たちは直ちに活動に言及しなければなりません。冷静の修養とは、一部の偽物のヨギーが教えるように、瞑想のためにじっと座っていることではありません。そのような無駄な(idle)瞑想は、献身奉仕について何も知らない者には良いかもしれません。そしてこの理由によって、それは時として、気を散らしがちな物質的な活動を制止するために勧められます。

瞑想とは、少なくとも当面のところすべての無意味な活動を止めることを意味します。しかし、献身奉仕はすべての無意味な俗世の活動を終息させるだけでなく、人を意味のある献身奉仕に携わらせもします。シュリー・プラーラーダ・マハーラージャは、以下のようにお勧めになります。

(サンスクリット引用)

献身奉仕の9つの過程は以下のようなものです。

1、至高の人格神の名前と栄光を聞くこと。
2、主の栄光を唱えること。
3、主を思い出していること。
4、主の御足に奉仕すること。
5、神像を崇拝すること。
6、主の敬意を捧げること。
7、主の従者として活動すること。
8、主と友人になること。
9、自分自身を完全に主に服従させること。

第3段落

シュラヴァナム、すなわち聞くことは、超越的な知識を得るための第一歩です。人は正統でない人々に耳を傾けるべきではありません。そうではなく、バガヴァッド・ギーター(4.34)に勧められているように、適正な人物に近づくべきです。

(サンスクリット引用)

「ただ、霊的指導者に近づくことによって真実を学ぼうとしなさい。彼から従順に問い、彼に奉仕をしなさい。自己を認識した魂は、あなたに知識を捧げることができるからです。彼は真実を見たからです。」


第4段落


それはムンダカ・ウパニシャッドにおいても勧められています。(サンスクリット引用)「超越的な科学を理解するためには、人は真正なる霊的指導者に近づかねばなりません。」このように、超越的な秘密の知識を従順に受け取るというこの方法は、単に精神的な推量に基づいているのではありません。このことに関して、シュリー・チャイタンニャ・マハープラブはルーパ・ゴスヴァーミーに次のようにおっしゃいました。

(サンスクリット引用)

「ブラーマーの創造した宇宙を横切る途上で、一部の幸運な魂はバークティラターの種、献身奉仕のつる草を受け取るかもしれません。これはすべて、グルとクリシュナの恩恵によるものです。」(CC、マデャー19.151)

この物質世界は、生命体にとっての監禁の場所です。そして生命体は生来アーナンダマヤ、すなわち喜びを追い求めます。彼らは実際は制約されたこの世界の監禁から自由になりたいのですが、解放の過程を知らないので、一つの生命の種から別のそれへと、そして一つの惑星から別のそれへと転生する運命にあるのです。

このようにして、生命体は物質宇宙全体をさまよっています。幸運によって純粋な献身者との接触があって、その人から辛抱強く聞くとき、人は献身奉仕の道を辿り始めます。そのような機会は、誠実(sincere、真摯)な人に与えられます。クリシュナ意識協会は、そのような機会を人類全体に与えています。もしも幸運にも人が献身奉仕に携わるこの機会を利用するなら、解放への道は直ちに開けます。

第5段落

人は、家へ、至高神へと帰るこの機会を非常に熱心に受け入れるべきです。熱心さがなくては、人は成功し得ません。物質世界においてさえ、人は成功するためには自分の特定の活動の分野で非常に熱心でなければなりません。自分の分野での成功を望む学生、ビジネスマン、アーティスト、その他誰であれ、熱心でなければなりません。同様に、人は献身奉仕において非常に熱心でなければなりません。熱心さは活動を意味しますが、しかし、誰のための活動でしょうか?答えは、人はいつもクリシュナのために活動すべきであるというものです。(サンスクリット引用)

第6段落

人生のすべての段階において、バークティ・ヨガにおける完成を得るために人は霊的指導者の指揮の下で献身奉仕を行うべきです。自分の活動を押さえ込んだり(to confine)狭めたりしなければならないというものではありません。クリシュナはあまねく行き渡られます。したがって、クリシュナご自身がバガヴァッド・ギーター(9.4)において述べていらっしゃるように、クリシュナから独立したものは何もありません。

(サンスクリット引用)

「私によって、私の非顕現なる形において、この宇宙全体が満たされています(to be pervaded)。すべての存在は私の中にありますが、私はそれらの中にはありません。」真正なる霊的指導者の指揮の下で、人はすべてをクリシュナへの奉仕にとって好ましいようにしなければなりません。例えば、現在私たちはディクタフォン(速記用口述録音機)を使っています。この機械を発明した物質主義者は、それをビジネスマンや俗世的な主題について書く作家のために作りました。

しかし、私たちはこのディクタフォンをクリシュナ意識の文献を書くために使っています。もちろん、このディクタフォンの製造者は完全にクリシュナのエネルギーの内にあります。電気的な機能を含む機械のすべての部分は、5つの基本的な種類の物質エネルギー(サンスクリット引用)の異なる組み合わせと相互作用からできています。

発明家は、この複雑な機械を作るために自分の脳を使いました。そして彼の脳も(訳注:機械の)材料と同じくクリシュナによって供給されました。クリシュナの言明によれば、(サンスクリット引用)「すべては私のエネルギーに依存しています。」こうして献身者は、クリシュナのエネルギーから独立しているものは何も無いので、すべてはクリシュナへの奉仕のために波長をそろえるべきであるということを理解することができます。

第7段落

クリシュナ意識において知性とともに遂行される努力は、ウツァーハ、すなわち熱意と呼ばれます。献身者は、それによってすべてが主への奉仕のために利用されるところの正しい方法を見つけます。(サンスクリット引用)献身奉仕の遂行は、無駄な瞑想ではなく、霊的な人生の最前面における実際的な行動です。

第8段落

これらの活動は、辛抱強く遂行されねばなりません。人はクリシュナ意識において短気であるべきではありません。実際、このクリシュナ意識運動はたった一人で始められました。そして初めは何の反応もありませんでした。しかし、私たちは忍耐強く自分たちの献身活動を遂行し続けたので、人々は徐々に運動の重要性を理解し始めました。そして今では、彼らは熱心に参加しています。人は献身奉仕を遂行する上で短気であるべきではありません。そうではなく、人は霊的指導者からの指示を受け、グルとクリシュナの恩恵に頼ってそれを忍耐強く遂行すべきです。

クリシュナ意識の活動に成功するには、忍耐と自信(confidence、確信)の両方が必要です。結婚したばかりの女の子は当然(naturally)夫から子供を期待しますが、彼女はそれを結婚直後に得ることを期待することはできません。もちろん、結婚したらすぐに彼女は子供を得ようとすることはできますが、彼女は自分の子供がやがて発育して生まれるという自信をもって、夫に服従しなければなりません。

同様に、献身奉仕の服従とは、人が自信を持たねばならないということを意味します。献身者は(サンスクリット引用)と考えます。「クリシュナは必ず私を守り、献身奉仕の遂行の成功のために助けを与えてくださるでしょう。」これが自信と呼ばれます。
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by ammolitering4 | 2009-12-06 04:28 | 「教えの甘露」

第2段落 後半

第16段落

功利主義者が主張するように、聖典に定められた幾らかの規則と規律を当面の利益のために受け入れることは、ニヤマ・アーグラハと呼ばれます。そして、霊的な発展のためにあるシャーストラの規律と規則を守らないことはニヤマ・アグラハと呼ばれます。アーグラハという言葉は「熱心に受け入れる」を意味し、アグラハは「受容し損ねる」を意味します。

ニヤマ(規則と規律)という言葉にこれらの二つの言葉のどちらかを組み合わせて、ニヤマーグラハという言葉ができます。そのため、ニヤマーグラハには特定の言葉の組み合わせに従って理解される二重の意味があります。クリシュナ意識に興味のある者は、経済的な発展のために規律と規則を受け入れることに熱心であるべきではありません。しかし彼らはクリシュナ意識の発展のために非常に忠実に(faithfully、信心深く)聖典に示された規則と規律を受け入れるべきです。彼らは不正な性交と肉食と賭け事と陶酔物の摂取を避けることによって、厳格に規律と規則に従うべきです。

第17段落

人はまた、単にヴァイシュナヴァ(献身者)を冒涜するだけのマーヤーヴァーディーとの関わりも避けるべきです。物質的な幸せに興味のあるブークティ・カーミー、形の無い完全存在(ブラーマン)の存在に同化することによる解放を望むムクティ・カーミー、そして神秘的なヨガの修行の完成を望むスィッディー・カーミーは、アテャーハーリーに分類されます。そのような人々との関わりは、全く望ましくありません。

第18段落

神秘的なヨガの完成によって、ブラーマンの存在に同化することによって、あるいはいつ消えるか分からない(whimsical、気まぐれな)物質的な富を得ることによって心を拡大する欲求は、どれも貪欲さ(ローリャ)に分類されます。そのような物質的な利益や、いわゆる霊的な発達を得ようとするすべての試みは、クリシュナ意識の道における障害物です。

第19段落

資本主義者と共産主義者の間で争われている現代の戦争は、アテャーハーラに関するシュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーの助言を彼らが避けていることが原因です。現代の資本主義者たちは必要以上の富を蓄え、そして彼らの豊かさをねたむ共産主義者たちは、すべての富と豊かさを国有化したいと望みます。不幸にして、共産主義者たちは富とその配分の問題を解決するにはどうしたらよいかということを知りません。結果として、資本主義者たちの富が共産主義者たちの手に落ちるとき、何の解決も生じません。

これらの二つの哲学と反対に、クリシュナ意識の観念形態(イデオロギー)は、すべての富はクリシュナに属する、と述べます。このように、すべての富がクリシュナの管理の下に来ない限り、人類の経済的な問題に解決はあり得ません。富を共産主義者や資本主義者の手中に置くことによっては、何事も解決され得ません。

もしも道に100ドル札(訳注:一万円札に相当する)が落ちていれば、誰かが拾ってポケットに入れるかもしれません。そのような人は正直ではありません。もう一人の人は、そのお金を見て、他者の所有物を触るべきではないと考えてそのままにしておくかもしれません。この2番目の人は、自分自身の目的のためにそのお金を盗むことはしませんが、彼はその正しい使い方に気づいていません。

100ドル札を見た3番目の人は、それを拾って、落とした人を探して、それをその人のところに届けるかもしれません。この人は、自分のために使うためにお金を盗みもせず、無視して道に落ちたままにするでもありません。拾って落とした人に届けることによって、この人は正直であって賢くもあるのです。

第20段落

単に富を資本主義者から共産主義者に移動させても、現代の政治の問題を解決することはできません。共産主義者がお金を得ると、彼はそれを自分の感覚の満足のために使う、ということが証明されているからです。世界の富は実際はクリシュナに所属しており、そして人間も動物も、すべての生命体は自分の維持のために神の所有物を使う生来の権利を持っています。資本主義者であれ、共産主義者であれ、誰かが自分の維持のために必要な分以上を取るなら、その人は泥棒であり、そのため彼は自然の法によって罰せられます。

第21段落

世界の富は、すべての生命体の福祉のために使われるべきです。それが母なる自然の計画だからです。すべての人は、主の富を利用することによって生きる権利を持っています。人々が主の所有物を科学的に利用する術を学ぶとき、彼らはもはや互いの権利を侵害しないようになります。そして理想的な社会が形作られます。そのような霊的な社会のための基本的な原則は、シュリー・イーショパニシャッドの最初のマントラに述べられています。

(サンスクリット引用)

「宇宙の中の動的であるもの、あるいは動的でないもののすべては、主によって統御され、所有されています。したがって、人はすべてが誰のものであるかを良く知り、自分の割り当て分として取り分けられている、自分に必要なものだけを受け入れるべきであり、その他のものを受け入れるべきではありません。

第22段落

クリシュナ意識の献身者は、互いの人生や権利を侵害する必要無くしてすべての生命体が人生のすべての必要性を満たすことができるように、この物質世界は主の完全な配剤によってデザインされていることを非常によく知っています。この完全な配剤は、すべての者にそれぞれの本当の必要性に応じて富の適正な分け前をあてがいます。そして、このようにして、すべての者が簡素な暮らしと高い思考という原則に添って平和に暮らせます。

不幸にして、神の計画への信仰も、より高い霊的な発展への欲求もない物質主義者たちは、神によって与えられた自分の知性を、単に自分の物質的な所有物を増大させるためだけに誤用します。彼らは、自分たちの物質的な地位を向上させるために、資本主義や共産主義などの多くの体系を考案します。彼らは、神の法や、より高い目的地に興味がありません。感覚の満足のための無限の欲求を満たすことにいつも一生懸命で、彼らは自分の仲間である他の生命体を食い物にする能力が際立っています。

第23段落

人間の社会がシュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーによって列挙されたこれらの欠点(アテャーハーラなど)を放棄するとき、人間と動物、資本主義者と共産主義者などの間のすべての対立は終わります。さらに、経済的あるいは政治的な不調和(maladjustment、調整不十分、不適応)と不安定さのすべての問題も解決されます。この純粋な意識は、クリシュナ意識運動によって科学的に提供される正しい霊的な教育と修練によって呼び覚まされます。

第24段落

このクリシュナ意識運動は、世界に平和な状態をもたらすことのできる霊的な共同体を提供します。すべての知性的な者は、このクリシュナ意識運動を真剣に受け入れることによって(by taking wholehearted shelter of)自分の意識を浄化し、上述の献身奉仕への6つの障害物を捨て去るべきです。
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by ammolitering4 | 2009-12-04 20:22 | 「教えの甘露」

第2段落途中まで

第2課

(サンスクリット原文)

(翻訳)
献身奉仕は、人が次の6つの行いに捕らわれすぎると駄目になります。
1、必要以上に食べたり、必要以上にお金を貯めこんだりする。
2、得るのが非常に難しい俗世の物のために過度な努力をする。
3、俗世の事柄について必要以上に話す。
4、聖典が定める規則や規律を、霊的な発達のためではなく、単にそれらに従うためだけに実践する。あるいは、聖典の規則や規律を退け、独自に、あるいは気まぐれに行動する。
5、クリシュナ意識の興味のない、俗世的な心を持った人々と関わる。
6、俗世的な達成に関して強欲になる。

(解説)

第1段落

人間の人生は、簡素な暮らしと高い思考のためにあります。すべての制約された生命体は、主の第3のエネルギーの支配下にあるので、この物質世界はすべての者が働かねばなららないようにできています。至高の人格神は、3つの主なエネルギー、あるいは力をお持ちです。最初のものは、アンタランガ・シャクティ、すなわち内的な力と呼ばれます。2番目のものは、タタスター・シャクティ、すなわち中間的な(marginal、境界にある)力と呼ばれます。3番目のものはバヒランガ・シャクティ、すなわち外的な力と呼ばれます。

生命体は中間的なエネルギーを成しており、内的および外的な力の中間に位置しています。至高の人格神の永遠の従者として従属的であるジヴァートマー、すなわち原子サイズの生命体は、内的あるいは外的な力の支配の下に留まらねばなりません。内的な力の支配下にあるとき、彼らは自然な本来の活動、すなわち主への継続的な献身奉仕を顕わにします。これはバガヴァッド・ギーター(9.13)に述べられています。

(サンスクリット引用)

「おお、プリターの息子よ。惑わされていない者、偉大なる魂は、神聖なる自然の保護のもとにあります。彼らは完全に献身奉仕にいそしんでいます。彼らは私を至高の人格神、源であって無尽蔵であるとして知っているからです。」

第2段落

マハートマーという語は、歪んだ心ではなく広い心を持っている人を指します。いつも自分の感覚を満足させようとしている心の歪んだ人は、時として、国家主義、人道主義、あるいは愛他主義などの「主義」を通して他者のために善をなすために自分の活動を拡大します。彼らは、自分の家族、地域、国内、あるいは国際的な社会の構成員など、他者の感覚の満足のために自分の個人的な感覚の満足を退けるかもしれません。

実際には、これらすべては個人から地域から社会への拡大した感覚の満足です。これはどれも物質的な視点からは大変良いことかもしれませんが、そのような活動には霊的な価値はありません。そのような活動の基盤は、個人的な、あるいは拡大した感覚の満足です。至高主の感覚を満足させるときのみ、人はマハートマー、すなわち心の広い人と呼ばれます。

第3段落

上に引用したバガヴァッド・ギーターの節の中で、ダイヴィム・プラクリティムという言葉は至高の人格神の内的な力、あるいは喜びの力の統御を指します。この喜びの力は、シュリーマティー・ラーダーラーニー、あるいは彼女の拡張体であるラクシュミー、すなわち幸運の女神として顕現します。個々のジーヴァの魂が内的なエネルギーの統御の下にあるとき、彼らの唯一の仕事はクリシュナあるいはヴィシュヌを満足させることです。これがマハートマーの位置づけです。もしもマハートマーでないなら、人はドゥラートマー、すなわち心の歪んだ人物です。そのような精神的に歪んだドゥラートマーは、主の外的な力、マハーマーヤーの統御の下に置かれます。

第4段落

実に、この物質世界の中のすべての生命体はマハーマーヤーの統御の下にあり、マハーマーヤーの仕事は彼ら(訳注:生命体)が三重の悲惨さの影響を受けるようにすることです。それはアディーダイヴィカ・クレシャ(日照り、地震、嵐など、半神たちによって引き起こされる苦しみ)、アディーボーティカ・クレシャ(虫や敵など、他の生命体によって引き起こされる苦しみ)、そしてアデャートミカ・クレシャ(精神的および身体的な欠陥など、自分自身の体と心によって引き起こされる苦しみ)です。(サンスクリット引用)外的なエネルギーの統御によってこれらの3つの悲惨さの影響を受ける制約された魂は、様々な困難に苦しみます。

第5段落

制約された魂に直面する主な問題は、生老病死の繰り返しです。物質的な世界では、人は体と魂の維持のために働かなくてはなりません。しかし、人はどうやってそのような仕事をクリシュナ意識の遂行にとって好ましい方法で行うことができるでしょうか?誰もが体の維持に欠かせない穀物、衣類、お金、その他の所有物を必要としています。しかし人は自分の実際の基本的な必要性を満たす分以上に集めるべきではありません。もしもこの自然な原則が守られれば、体の維持には何の困難もありません。

第6段落

自然の配剤によれば、進化の段階の低いところにいる生命体は、必要以上に食べたり集めたりしません。結果として、動物の王国には一般に経済的な問題や必要なものの不足はありません。もしも公けの場所に米の袋が置かれれば、鳥が来て何粒か食べ、去ります。しかし、人間は袋を丸ごと持ち去ります。彼はお腹一杯食べられるだけ食べ、残りを蔵にしまいこみます。聖典によれば、この必要以上に集めるという行為(アテャーハーラ)は禁じられています。今ではそのために世界中が苦しんでいます。

第7段落

必要以上に集めたり食べたりすることは、プラヤーサ、すなわち不必要な努力の原因ともなります。神の配剤によって、もしもいくらかの土地と乳牛を持っていれば、世界中どこに住んでいる人でもとても平和に暮らすことができます。生計を立てるために、ある場所から別の場所へと移動する必要はありません。穀物をその土地で育て、牛から牛乳を得ることができるからです。それはすべての経済的な問題を解決することができます。

幸いにして、人間は、クリシュナ意識すなわち神の理解、自分と主との関係、そして人生の究極の目的地である神への愛を育むための、より高い知性を与えられています。不幸にして、神意識の興味のないいわゆる文明人は、自分の知性を必要以上に得ることと単に舌を満足させるために食べることのために使います。

神の配剤によって、世界中の人間のための牛乳と穀物の生産のための十分な余地が存在します。しかし、自分のより高い知性を神意識を培うために使うのではなく、いわゆる知性的な人々は多くの不必要にして望まれない物を作り出すために自分の知性を誤用します。こうして工場や屠殺場や売春宿や酒屋が作られます。

もしもあまり多くのものを貯めこまず、食べ過ぎないよう、あるいは生活を快適にするための人工的な物を所有するために不必要に働かないように助言すれば、人々は原始的な暮らし方に戻るように助言されているのだと考えます。一般に、人々は簡素な暮らしと高い思考を受け入れるのを好みません。それは彼らの不幸な立場です。

第8段落

人間の人生は神認識のためにあり、人間はこの目的のためにより高い知性を与えられています。このより高い知性がより高い水準を得るためにあると信じる者は、ヴェーダ文献の教えに従うべきです。より高い権威からそのような教えを受けることによって、人は実際に完全な知識を得ることができるようになり、人生に本当の意味を与えられます。

第9段落

シュリマッド・バーガヴァタム(1.2.9)において、シュリー・スータ・ゴスヴァーミーは正しい人間のダールマを次のように描写なさいます。

(サンスクリット引用)

「すべての意識的な行い(occupational engagement、ダールマ)は、確かに究極の解放のためのものです。それらは決して物質的な利益のために行われるべきではありません。さらに、究極の意識的な奉仕(ダールマ)にたずさわる者は、決して感覚の満足を深める(to cultivate)ために物質的な利益を使うべきではありません。」

第10段落

人間の文明における第一歩は、聖典に示された禁止命令に添ってなされる意識的な行いです。人間のより高い知性は、基本的なダールマを理解するために訓練されるべきです。人間の社会には、ヒンズー教徒、キリスト教徒、ヘブライ教徒、イスラム教徒、仏教徒などと分類される、様々な宗教的な概念があります。宗教がなければ、人間の社会は動物の社会よりも優れたものではないからです。

第11段落

前述のように(サンスクリット引用)、宗教は解放を得るためのものであり、糧を得るためのものではありません。時として人間の社会は物質的な発展を目的としたいわゆる宗教の体系を作り出しますが、しかしそれは本当のダールマの目的からはかけ離れたものです。宗教は神の法を理解することを伴います。これらの法を正しく遂行することは、究極的に人を物質的な呪縛から解放するからです。それが宗教の本当の目的です。

不幸にして、人々は物質的な豊かさのために宗教を受け入れます。アテャーハーラ、すなわちそのような豊かさへの過剰な欲望が原因です。しかし本当の宗教は、人々にクリシュナ意識を培う一方で人生に最低限必要なものだけで満足するように教えます。私たちは経済的な発展を必要としますが、本当の宗教はそれを物質的な存在に最低限必要なものだけを供給するためだけに許可します。(サンスクリット引用)人生の本当の目的は、完全真理について問うことです。もしも私たちの努力(スラサーヤ)が完全真理について問うためのものでなければ、私たちは単に自分の人工的な必要性を満足させるための努力を増加させます。霊的な大志を抱く者は、俗世の努力を避けるべきです。

第12段落

もう一つの妨害物は、プラジャルパ、すなわち不必要なおしゃべりです。2-3人の友人たちと会うと、私たちはちょうどゲロゲロと鳴くガマガエルのように直ちに不必要なお喋りを始めます。もしも喋らなければならないのなら、私たちはクリシュナ意識運動について喋るべきです。クリシュナ意識運動の外の者たちは、山ほどの新聞や雑誌や小説を読むこと、クロスワードパズルを解くこと、そして他の多くの無意味な事に興味があります。

このようにして、人々は単に自分の貴重な時間とエネルギーを無駄にします。西洋の国々では、活動的な暮らしから退いた老人たちが、トランプをしたり、魚釣りをしたり、テレビを見たり、無駄な社会政治上の計画について議論したりします。これらすべて、そして他のつまらない活動は、プラジャルパに分類されます。クリシュナ意識に興味のある知性的な人々は、決してそのような活動にふけるべきではありません。

第13段落

ジャナ・サンガは、クリシュナ意識に興味のない人々と関わることを指します。人は厳格にそのような人々との関わりを避けるべきです。したがって、シュリーラ・ナロッタマ・ダーサ・タークラは、私たちにクリシュナ意識の献身者との関わり(バークタ・サネ・ヴァーサ)の中でのみ生きるように助言なさいました。人はいつも主の献身者との関わりの中で主への奉仕にいそしむべきです。

似たような種類の仕事にたずさわる人々とのかかわりは、その仕事における発展にとって、とても有効(conductive、伝導性のある)です。結果として、物質的な人々は自分の努力を強化するために様々な協会やクラブを作ります。例えば、ビジネスの世界においては、私たちは証券取引所や商工会議所などの機関があるのを見ることができます。

同様に、私たちはクリシュナを忘れていない人たちと関わる機会を人々に与えるために、国際クリシュナ意識協会を設立しました。私たちのISKCON運動によって提供される霊的な関わりは、日々増加しています。世界の様々な場所から来た多くの人々が、自分の潜在的なクリシュナ意識を呼び覚ますためにこの協会に加入しています。

第14段落

シュリーラ・バークティ・スィッダーンタ・サラスヴァティ・タークラは、アヌヴリッティの解説の中で、精神的な推察をする者たちや無味乾燥な哲学者たちが行う知識を得るための過度な努力はアテャーハーラ(必要以上に集める)に分類される、と書いています。シュリマッド・バーガヴァタムによれば、クリシュナ意識が抜け落ちた無味乾燥な哲学に関してたくさんの本を書く哲学的な推察者たちの努力は、完全に無駄です。

経済的な発展に関してたくさんの本を書くカルミーたちの仕事もまたアテャーハーラに分類されます。同様に、クリシュナ意識に対して何の欲求もなく、単に科学的な知識あるいは金銭的な得という形をとった物質的な物をもっともっと所有することに興味のある人たちは、皆アテャーハーラの統御の下に含まれます。

第15段落

カルミーは次の世代のためにもっともっと多くのお金を蓄えるために働きます。それはひとえに彼らが自分の未来の立場を知らないからです。息子たちや孫息子たちのためにもっともっと多くのお金を貯めることだけに興味のある、そのような愚かな人々は、来世において自分の立場がどのようなものになるかということさえ知りません。この点を例証できる多くの出来事があります。

あるとき、一人の偉大なカルミーが自分の息子たちと孫息子たちのために莫大な富を蓄えました。しかし後に、彼は自分のカルマ(業)のせいで、前世において自分の子供たちのために建てた建物の近くにある靴直し職人の家に生まれました。この靴直し職人が彼のかつての家に来たとき、彼のかつての息子たちと孫息子たちが彼を靴で殴ったのでした。

カルミーとジニャーニーがクリシュナ意識に興味を持つようにならない限り、彼らは単に自分の人生を無益な活動をすることで無駄にし続けます。

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なんだか半端ですみません。続きはまたそのうちに。。。ところで皆さん、お耳は大丈夫ですか?私はどうもかなり激痛が走るんですけど。。。これが11課まで続きます。耐えられるでしょうか。不安です。
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by ammolitering4 | 2009-12-04 08:14 | 「教えの甘露」

第1段落

第1課

(サンスクリット原文)

(翻訳)
話したい衝動、心の要求、怒りにまかせた行い、そして舌と胃と性器の衝動に耐えることのできる冷静な人は、世界中に弟子を作る資格があります。

(解説)
第1段落

シュリマッド・バーガヴァタム(6.1.9-10)において、パリークスィット・マハーラージャは、シュカデヴァ・ゴスヴァーミーの前に多くの知性的な問いを提示しました。これらの問いの一つは、「もしも自分の感覚を統御することができないのなら、なぜ人は償いを行うのですか」というものでした。例えば、泥棒は自分の行う盗みのために逮捕されるかもしれないと、完全に知っているかもしれません。そして彼は、実際に泥棒が警察に逮捕されるところを見たことがあるかもしれません。それでも彼は盗み続けます。

経験は、見ることと聞くことによって集められます。より知性に劣る者は、見ることによって経験を集めます。そして、より知性に優る者は、聞くことによって経験を集めます。知性的な人が法律の本やシャーストラ、すなわち聖典から、盗むことは良くないことであって、盗んだ人は逮捕されたときに罰せられると聞くとき、彼は盗みを慎みます。

知性に劣る者は、まず盗みによって逮捕されて罰せられなければ、盗みを止めることを学べないかもしれません。しかし、悪人や愚かな者は、聞くことと見ることの両方の経験を持っていて、しかも罰せられたことさえあるかもしれませんが、それでも盗み続けます。たとえそのような人が償いをして政府によって罰せられても、彼は刑務所を出るとするにまた盗みます。もしも刑務所での罰が償いだと考えられるなら、そのような償いの益は何でしょうか?このようにパリークスィット・マハーラージャは問いました。

(サンスクリット引用)

第2段落

彼は償いを象の水浴びに例えました。象は川で水浴びをしてすっかり綺麗になるかもしれませんが、土手に上がるとすぐに体中に泥をかけます。それでは、水浴びの価値は何でしょうか?同様に、多くの霊的な実践者(practitioner、修練者、修行者)がハレ・クリシュナを唱え、同時に多くの禁じられたことをします。マントラを唱えることで罪が相殺されると考えているのです。

主の聖なる御名を唱えているときに人が犯す10種の罪のうち、この罪はナームノ・バラード・ヤシャ・ヒ・パーパ・ブッディー、すなわちハレ・クリシュナ・マハー・マントラを唱えることの力に頼って罪深い行いをする、というものに当たります。同様に、一部のキリスト教徒は、自分の罪を懺悔するために教会に行きます。神父に罪を懺悔して、何らかの贖罪を行うことによって、毎週の罪の結果から解放されると考えているのです。土曜日が終わって日曜日が来れば、来週の土曜日にはまた許されることを期待して、再び罪深い行いを始めます。(訳注:宗派によっては礼拝は日曜日ではなく土曜日に行われる)

このようなプラーヤスィッタ、すなわち償いは、当時の最も知性的な王であったパリークスィット・マハーラージャによって非難されています。マハーラージャ・パリークスィットの霊的な指導者にふさわしく同じく知性的であったシュカデヴァ・ゴスヴァーミーは、王に答えて、償いに関する彼の言明は正しいと確認なさいました。罪深い行いは、徳ある行いによって相殺され得ません。したがって、本当にプイラーヤスィッタ、すなわち償いは、私たちの潜在的なクリシュナ意識を呼び覚ますことです。

第3段落

本当の償いは、本当の知識を得ることに関わっており、このためには標準的な過程があります。規律された衛生の基準に従えば、人は病気になりません。人間は、もともとの知識を取り戻すために、特定の原則にしたがって訓練を受けるようにできています。そのような秩序ある人生は、タパシャとして描写されます。禁欲と性生活の回避(ブラーマチャーリャ)によって、心を統御することによって、感覚を統御することによって、持ち物を慈善において放棄することによって、公然と正直であることによって、清潔であることによって、そしてヨガ・アーサナを実践することによって、人は本当の知識、すなわちクリシュナ意識へと徐々に上げられます。

しかし、もしも人が幸運にも純粋な献身者との関わりを持つことができれば、神秘的なヨガの過程によって心を統御するためのすべての訓練を、彼は簡単に飛び越えられます。それは単に、クリシュナ意識の規律的な原則―――不正な性生活、肉食、陶酔物、および賭け事の回避―――に従うこと、真正なる霊的指導者の指示のもとで至高主への奉仕にたずさわることによってなされます。この簡単な過程は、シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーによって勧められています。

第4段落

まず人は自分の話す力を統御しなければなりません。私たちの一人一人が話す力を持っています。私たちは機会があればすぐに話し始めます。もしもクリシュナ意識について話さないなら、私たちは様々な無意味なことについて話します。野原のカエルはゲロゲロと鳴くことによって話します。そして、同様に、舌を持つ者は誰でも話したがります。たとえその口から出るのが無意味なことばかりであっても。しかし、カエルはゲロゲロと鳴くことによって単に蛇を招き寄せます。「ここに来て私を食べてください。」それでも、それが死を招いているにも関わらず、カエルはゲロゲロと鳴き続けます。

物質的な人々と非人格主義者のマーヤーヴァーディー哲学者たちの語りは、カエルがゲロゲロと鳴くことに例えられます。彼らはいつも無意味なことを話していて、そうして死が彼らを捕まえに来るのを招いています。しかし、話すことを統御するというのは、マーヤーヴァーディー哲学者たちが考えるような、自分に強いる沈黙(モーナの外的な過程)を意味するのではありません。沈黙は、しばらくの間は有効であるように見えるかもしれません。しかし、究極的にはそれは必ず失敗します。

シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーがお伝えになる「統御された発話」(訳注:括弧は訳者)の意味は、肯定的な過程、すなわち発話の過程を至高主シュリー・クリシュナを讃えることにたずさわらせること、を指します(to advocate)。(訳注:直訳するとちょっと難解ですが、余計なお喋りは慎んで、クリシュナへの賛美だけに舌を使いなさい、ということです。)

こうして舌は、主の名前、形、性質、および娯楽を讃えることができます。クリシュナ・カターを述べ伝える者は、いつも死の手を逃れたところに存在します。これが話したい衝動を統御することの意味(significance、意味、重要性)です。

第5段落

心の落ち着きのなさ、あるいは変わりやすさ(マノ・ヴェガ)は、人が自分の心をクリシュナの蓮の御足に固定することができるときに統御され得ます。チャイタンニャ・チャリタームリタ(マデャー22.31)には、次のように書かれています。

(サンスクリット引用)

クリシュナはちょうど太陽のようであり、マーヤーはちょうど闇のようなものです。もしも太陽があれば、闇はありえません。同様に、もしも心にクリシュナがいれば、心がマーヤーの影響によって乱される可能性はありません。すべての物質的な想念を無にするというヨガの方法はうまくいきません。心の中に真空を作り出そうとするのは人工的です。真空は持続しません。しかし、もしも人がいつもクリシュナのことを考えて、どうすれば最良にクリシュナに奉仕できるかと考えるならば、人の心は自然に統御されます。

第6段落

同様に、怒りも統御され得ます。私たちは怒りを完全に止めることはできませんが、もしも私たちが単に主や主の献身者を冒涜する者に対して怒るなら、私たちはクリシュナ意識において自分の怒りを統御します。主チャイタンニャは、ニテャーナンダ・プラブーを冒涜して殴ったジャマーイとマーダーイという堕落した兄弟に対してお怒りになりました。シクシャーシュタカにおいて、主チャイタンニャは(サンスクリット引用)「人は草よりも謙虚で木よりも忍耐強くあるべきです」と書かれました。それでは、人はなぜ主がご自分の怒りを表されたのかと聞くかもしれません。

要点は、人は自分自身に対するすべての侮辱を耐える用意ができているべきですが、クリシュナ、あるいは主の純粋な献身者が冒涜されるときは、本物の献身者は怒って、無礼な者に対して火のように行動するということです。クロダー、すなわち怒りは止められません。しかし、それは正しく適用されます。ハヌマーンがランカーに火を放ったのは怒りによるものでしたが、彼は主ラーマチャンドラの最も偉大な献身者として崇拝されています。これは彼が自分の怒りを正しく使用したということを意味します。

アルジュナはもう一つの例です。彼には戦うつもりがありませんでしたが、クリシュナは彼に怒りを起こさせました。「あなたは戦わねばなりません!」怒りを持たずに戦うことは不可能です。しかし、怒りは主への奉仕のために使われるときには統御されます。

第7段落

舌の衝動については、私たちは皆、舌がおいしい食べ物を食べたがるということを経験しています。一般に、私たちは舌にそれが選ぶにまかせて食べさせるのではなく、プラサーダを与えることで舌を統御すべきです。献身者の心がけは、クリシュナが彼にプラサーダを与えてくださるときだけ食べる、というものです。それが舌の衝動を統御する方法です。

人は規則正しい時間にプラサーダを食べるべきであり、単に舌や胃の気まぐれを満足させるためだけにレストランや菓子屋で食べるべきではありません。もしも私たちがプラサーダだけを食べるという原則を固持するなら、胃と舌の衝動は統御され得ます。

第8段落

同様に、性器の衝動、性的な一時の衝動も、不必要に使われないときに統御され得ます。性器はクリシュナ意識の子供を得るために使われるべきです。そうでなければ使われるべきではありません。クリシュナ意識運動は、性器の満足のためでなくクリシュナ意識の子供を得るために、結婚を奨励します。少し大きくなれば、子供たちはテキサスのダラスにある私たちのグルクラ学校に送られ、そこで完全なクリシュナ意識の献身者になるように訓練されます。(訳注:現在は親元で育てながら地元の寺院の日曜学校などに通わせるのが普通です。)

多くのそのようなクリシュナ意識の子供たちが必要とされています。そして、クリシュナ意識の子供を作る能力のある者は性器を使うことが許されます。

第9段落

クリシュナ意識による統御に完全に精通したとき、人は真正なる霊的指導者となる資格ができます。

第10段落

ウパデシャームリタのアヌヴリッティ解説において、シュリーラ・バークティスィッダーンタ・サラズヴァティー・タークラは、私たちの物質的な自己認識は3種類の衝動―――話す衝動、心の衝動あるいは欲求、そして体の欲求―――を作り出す、と書いておられます。生命体がこれらの3種類の衝動に負けるとき、彼の人生は縁起の良くないものとなります。これらの欲求や衝動に抵抗することを実践する者は、タパスヴィー、すなわち禁欲を実践する者と呼ばれます。そのようなタパシャによって、人は物質エネルギーの犠牲となることを乗り越えることができます。

第11段落

話す衝動に言及するとき、私たちは非人格主義者のマーヤーヴァーディー哲学者や結果を求める活動(正しくはカルマ・カンダという)にたずさわる人々や、単に制約なしに人生を楽しみたい物質主義的な人々の無駄なお喋りを指します。そのようなお喋りや(訳注:それらの人々による)書物は、話す衝動の実際的な表出です。多くの人が無意味なことを喋り、大量の無駄な本を書いています。そしてこれらすべては話す衝動の結果です。この傾向を相殺するため、私たちは自分の語りをクリシュナに関することに向けねばなりません。これはシュリマッド・バーガヴァタム(1.5.10-11)に説明されています。

(サンスクリット引用)

「ただ一人、宇宙全体の雰囲気を清めることのできる方である主の栄光を描写しない言葉は、聖人たちによってカラスが巡礼にでかける場所と同じように考えられます。すべてに完全なる人々は、超越的な住まいの住人であり、彼らはそこでは何らの喜びも得ないからです。」

(サンスクリット引用)

「一方で、無限の至高主の超越的な名前、名声、形、娯楽などの描写にあふれた文献は、異なる創造物です。それは、この世界の誤って導かれた文明の不信心な生活に革命をもたらすことを目的とした、超越的な言葉に満ちています。そのような超越的な文献は、たとえ不完全に書かれていても、完全に正直な浄化された人々によって聞かれ、歌われ、受け入れられます。」

第12段落

結論は、至高の人格神への献身奉仕について語るときのみ、私たちは無駄で無意味なお喋りを避けることができるということです。私たちはいつも自分の話す力をクリシュナ意識を認識するという目的のためだけに使うべきです。

第13段落

移り変わりやすい心の乱れについては、それらは二つに分けられます。最初のものはアヴィロダー・プリーティ、すなわち無節操な執着と呼ばれ、もう一つはヴィロダーユクタ・クロダー、すなわち欲求不満(フラストレーション、苛立ち)から生じる怒りと呼ばれます。マーヤーヴァーティーの哲学、カルマ・ヴァーディーの結果への信仰、そして物質的な欲望に基づいた計画への信仰に固執することは、アヴロダー・プリーティと呼ばれます。

ジナーニー、カルミー、および物質主義的な計画を立てる者たちは、一般に制約された魂たちの注目を集めます。しかし、物質主義者たちが自分の計画を全うできないとき、そして彼らの計画が行き詰るとき、彼らは怒ります。物質的な欲望の行き詰まりは怒りを生じさせます。

第14段落

同様に、体の欲求は3つに分類されます。舌、胃、および性器の欲求です。人は、体に関して言えば、これらの3つの感覚が物理的に一直線に並んでいることを観察できるかもしれません。そして、身体的な欲求は舌から始まります。舌の活動をプラサーダを食べることだけに制限することによって、もしも人が舌の欲求を制約することができれば、胃と性器は自動的に統御できます。このことに関して、シュリーラ・バークティヴィノダ・タークラは次のようにおっしゃいました。

(サンスクリット引用)

「おお、主よ!この物質的な体は無明のかたまりです。そして、感覚は死につながる網目のような道です。どういうわけか、私たちは物質的な感覚の喜びの海に落ちてしまいました。そして、すべての感覚の中で、舌は最も貪欲で統御不可能です。この世界では、舌を征服することは非常に困難です。しかし、親愛なるクリシュナよ。あなたは私たちに非常に親切です。あなたは、私たちが舌を征服するのを助けるために、このおいしいプラサーダを送ってくださいました。ですから、心ゆくまでこのプラサーダを食べて、主シュリー・シュリー・ラーダとクリシュナを讃え、愛において(in love)主チャイタンニャとプラブー・ニテャーナンダの助けを乞い求めましょう。」

第15段落

6種類のラサ(taste、趣向)があり、もしもそのどれかによって乱されるなら、人は舌の衝動によって統御されるようになります。一部の人々は、肉、魚、カニ卵、その他、精液と血によって作られて死体の形で食されるものに魅了されます。他の者たちは、野菜、つる草、ほうれん草、乳製品などを食べることに惹かれますが、まったく舌の欲求を満足させるためです。そのような感覚の満足のために食べるという行為は、チリやタマリンドなどのスパイスの大量の使用も含めて、クリシュナ意識の人々は避けるべきものです。

パン(訳注:ビンロウの実を同じくビンロウの葉で巻いて作った麻薬の一種。ビンロウはキンマ椰子やベテル椰子とも言う)、ハリタキー(訳注:サンスクリット)、ベテル・ナッツ(訳注:ビンロウの実)、パンを作るのに使われる様々なスパイス、タバコ、LSD、マリファナ、アヘン、酒、コーヒーおよび茶は、不正な欲求を満たすために摂取されます。

もしも私たちがクリシュナに捧げられた食べ物の残りだけを受け入れることを実践するなら、マーヤーの犠牲になることから解放されることができます。主ご自身が定められるように、野菜、穀物、
果物、乳製品および水は、主に捧げるための正しい食べ物です。しかし、もしも人がプラサーダを単においしいから受け入れ、そして食べ過ぎるならば、それによっても人はまた舌の欲求を満足させようとすることの犠牲となります。チャイタンニャ・チャリタームリタ(アンテャ6.227)には、次のように述べられています。

(サンスクリット引用)

「自分の味覚を満足させるために方々走り回り、いつも胃と性器の欲求に執着している者は、クリシュナに至ることができません。」

第16段落

前述のように、舌、胃、性器は、すべて一直線に並んでいます。そしてそれらは同じところに分類されます。主チャイタンニャは(サンスクリット引用)とおっしゃいました。「華美な服装をしてはなりません。また、おいしいものを食べてはなりません。」(CCアンテャ6.236)

第17段落

少なくともこの分析によれば、(訳注:美食の食べすぎによる)胃の病気に苦しむ者は、胃の欲求を統御できないでいるのに違いありません。私たちが必要以上のものを食べたいと望むとき、私たちは自動的に人生に多くの不便さを作り出します。しかし、もしもエカーダシーやジャンマーシュタミーなどの断食の日を守れば、私たちは胃の欲求を制約することができます。

第18段落

性器の欲求に関しては、正しいものと正しくないもの、すなわち正当な性交と不正な性交があります。十分に成熟すると、人はシャーストラの規則と規律に従って結婚して、良い子供を得るために性器を使うことができます。それは正しく、宗教的です。そうでなければ、人は性器の欲求を満たすために様々な人工的な方法を取るかもしれず、何の節制もしないかもしれません。

シャーストラに定義されているように、性交について考え、計画し、話し、あるいは実際に実行することによって、あるいは人工的な手段で性器を満足させることによって不正な性生活にふけるとき、人はマーヤーの爪に捕らえられています。これらの教えは、家庭人だけでなく、テャーギー、すなわち放棄階級にある者にもあてはまります。自著プレマヴィヴァルタの7章において、シュリー・ジャガダーナンダ・パンディタは次のように述べています。

(サンスクリット引用)

「親愛なる兄弟たちよ。あなたがたは放棄階級にあり、普通の俗世の事柄について聞いたり話したりすべきではありません。他の人たちに会うときにも、俗世のことについて話すべきではありません。夢の中でさえ女性について考えてはなりません。あなたがたは、女性と関わることを禁ずる誓いをもって放棄階級となることを受け入れました。

もしもあなたがたがチャイタンニャ・マハープラブと関わりたいなら、あなたはいつもチョタ・ハリダーサのことを、そして彼がいかに主によって拒絶されたかを覚えていなければなりません。豪華な食事をしたり、華美な服装をしたりしてはなりません。そうではなく、いつも謙虚であり、真心をもって(in your heart of hearts)主シュリー・シュリー・ラーダー・クリシュナに奉仕をしなさい。」

第19段落

結論は、これらの6つのもの、すなわち発話、心、怒り、舌、胃、および性器を統御できる者は、スヴァーミーあるいはゴスヴァーミーと呼ばれる、というものです。スヴァーミーは主人を意味し、ゴスヴァーミーは、「ゴ」、すなわち感覚の主人を意味します。放棄階級を受け入れるとき、人は自動的にスヴァーミーという称号を得ます。これは彼が自分の家族、地域あるいは社会の主人であることを意味するのではありません。彼は自分の感覚の主人でなければならないのです。

自分の感覚の主人でない限り、彼はゴスヴァーミーと呼ばれるべきではありません。そうではなく、ゴ・ダーサ、感覚の従者なのです。ヴリンダーヴァンの6人のゴスヴァーミーたちの足跡を辿り、すべてのスヴァーミーとゴスヴァーミーは主への超越的な愛情ある奉仕に完全にいそしむべきです。この反対に、ゴ・ダーサは感覚への奉仕や物質的な世界への奉仕にいそしみます。他には何もしません。

プラーラーダ・マハーラージャは、さらにゴ・ダーサとアダーンダ・ゴを描写しました。それは自分の感覚が統御されていない者を指します。アダーンダ・ゴは、クリシュナの従者になることはできません。シュリマッド・バーガヴァタム(7.5.30)において、プラーラーダ・マハーラージャは次のようにおっしゃいました。

(サンスクリット引用)

「自分の感覚を満足させるためにこの物質世界に存在しつづけることを決めた者にとっては、個人的な努力によっても、他の人々からの教えによっても、あるいは共同した協議によっても、クリシュナ意識になれる可能性はありません。彼らはタガの外れた(unbridled、馬などから馬具を外した)感覚によって、無明の最も暗い部分へ引きずられ、そうやって彼らは狂ったように「既に噛まれたものを噛む」と呼ばれる事柄にいそしみます。
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by ammolitering4 | 2009-12-04 03:14 | 「教えの甘露」

初めに

ずいぶんお待たせいたしました。待たせた上に、リクエストとは違う本のご紹介です。都合により、というのは、「主チャイタンニャの教え」は重いから、という軟弱な都合により、旅行には別の本を持っていったのです。初心者のためにクリシュナ意識入門書、というか、初心者のための心得、みたいな内容です。
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教えの甘露

太古のバクティ・ヨガの科学に関する11課

500年の時間を超えて、地球の反対側(訳注:インド)から非常に重要な霊的な教えに関するこの小さな指導書が届きました。どうやって霊的指導者を選ぶか、どうやってヨガを実践するか、そしてどこに住むかということさえ、あなたはすべてをこの非常に価値のある書物の中に見出すことができます。本書は、もともと、中世インドの最も偉大な霊的な天才であるシュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーによってサンスクリット語で記されました。

この本は、ルーパ・ゴスヴァーミーの現代の継承者である尊師ACバクティヴェダーンタ・スワミ・プラブパーダ睨下によって翻訳され、(訳注:師の解説によって)彩られた(to illuminate、問題に光明を投じる、という意味のほか、写本などを彩色するという意味もある)ものです。「教えの甘露」は、霊的な完成の途上にあって真理を探究するすべての者にとって、悟りへの鍵となります。


中表紙

シュリー・グルとゴーラーンガにすべての栄光あれ。

「教えの甘露」

シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーによる「シュリーラ・ウパデジャームリタ」の正統なる(authorized)英語版

もともとのサンスクリット語の文章、アルファベットによる音訳、語彙説明(synonym)、翻訳、および詳細な解説

ISKCON創設者、尊師ACバクティヴェダーンタ・スワミ・プラブパーダ睨下著


前書き

第一段落

クリシュナ意識運動は、シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーの監督のもとで運営(to conduct)されています。ゴーディーヤ・ヴァイシュナヴァ、すなわちベンガルのヴァイシュナヴァたちのほとんどは、ヴリンダーヴァンの6人のゴスヴァーミーたちがその直接の弟子であるところのシュリー・チャイタンニャ・マハープラブの信者(follower、後に従う者)です。したがって、シュリーラ・ナロッタマ・ダーサ・タークラは次のように歌いました。

(サンスクリット引用)

「私がゴスヴァーミーたちによって与えられた文献を理解したいと熱望するとき、そのときには、私はラーダーとクリシュナの超越的な愛情ある交換(loving affair)を理解するでしょう。シュリー・チャイタンニャ・マハープラブは、人間の社会にクリシュナの科学の恩恵をもたらすためにお現れになりました。主クリシュナのすべての活動のうちで最高のものは、主のゴピーたちとの恋人同士としての(conjugal、通常は夫婦間、婚姻上の)愛の娯楽です。

シュリー・チャイタンニャ・マハープラブは、ゴピーの中で最も優れたシュリーマティー・ラーダーラーニーの心情(mood)でお現れになりました。したがって、主シュリー・チャイタンニャ・マハープラブの使命を理解して主の後に続くためには、人はシュリー・ルーパ、サナータナ、バーッタ・ラグーナーター、シュリー・ジーヴァ、ゴパーラ・バーッタ、およびダーサ・ラグーナーターという6人のゴスヴァーミーの足跡を非常に真剣に辿らなければなりません。

第2段落
シュリー・ルーパ・ゴスヴァーミーは、すべてのゴスヴァーミーたちの指導者でした。そして、私たちの活動の指針とするため、彼は私たちが従うための、このウパデシャームリタ(教えの甘露)を下さいました。シュリー・チャイタンニャ・マハープラブがシクシャーシュタカと呼ばれる8節をお残しになったように、ルーパ・ゴスヴァーミーは私たちが純粋なヴァイシュナヴァになれるようにウパデシャームリタをお与えくださいました。

第3段落

すべての霊的な事柄において、人の最初の義務は自分の心と感覚を統御することです。心と感覚を統御しない限り、人は霊的な人生において発達することはできません。この物質世界のすべての者は、熱情と無明の相に没頭しています。人は、ルーパ・ゴスヴァーミーの教えに従うことによって、徳、すなわちサットヴァ・グナの水準に自分を引き上げなければなりません。そして、そうすれば更なる発達をするためにはどうしたらよいかということは、すべて明らかになります。

第4段落

クリシュナ意識における発達は、従う人の心がけ(attitude)によります。クリシュナ意識運動に従う者は、完璧なゴスヴァーミーになるべきです。ヴリンダーヴァンでは、それぞれの寺院の寺院長は、この肩書きで呼ばれます。クリシュナの完全な献身者になりたい者は、ゴスヴァーミーにならねばなりません。「ゴ」は感覚を意味し、「スヴァーミー」は主人を意味します。ゴスヴァーミーになり、そしてさらに主の純粋な献身者になることによって人生の最高の成功を達成するためには、人はシュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーによって与えられたウパデシャームリタとして知られる教えに従わねばなりません。

ルーパ・ゴスヴァーミーは、他にもバークティラサームリタ・スィンドゥー、ヴィダグダー・マーダーヴァ、そしてラリタ・マーダーヴァなど、多くの本をお与えくださいました。しかし、ウパデシャームリタは、初心者である献身者のための最初の教えです(to constitute)。人はこれらの教えに非常に厳密に従うべきです。そうすれば、人生を成功させることがより容易になります。ハレ・クリシュナ。

A.C.バクティヴェダンタ・スワミ

1975年9月20日
ヴィシュヴァルーパ・マホトサヴァ
クリシュナ・バララーマ・マンディラ
ラマナ・レティ
ヴリンダーヴァン、インド
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by ammolitering4 | 2009-12-04 02:06 | 「教えの甘露」