![]() ![]() ![]() 山車が3台もあって、空には「ハレ・クリシュナ」と書いた大きな旗をはためかせた飛行機まで飛んでいて、という風にもっとずっと盛大だった一昔前ほどの規模ではありませんが、ハレ・クリシュナのお祭りは今でも十分に派手で大きなお祭りです。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 会場の脇で一際大声で喋ってる集団はやっぱり中国人たちで、じつは彼らは法輪功の人たちなのです。法輪功について日本ではどれだけ知られているのか分かりませんが、中国では法輪功は激しく弾圧されているそうで、信者の人たちはもちろん長年に渡って激しく抗議しています。でも弾圧している中国政府にも言い分があり、とても危険なカルト集団なので厳しく取り締まっているのだそうです。 どっちがどうなのかは知りようもありませんが、少なくとも彼らがカナダで何か問題を起こしたという話は私は聞いたことがありません。ただ、この人たちは声がでっかいことは確かで、だいぶ離れたところからでも叫ぶようなその声ははっきり聞こえました。きっと中国人は肺がすごく丈夫なのだと私は思っています。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ■
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by ammolitering4
| 2017-08-22 08:29
第3章 主クリシュナは至高の統御者たる至高神である(Lord Krishna Is the Supreme Controller Godhead) 第1段落 ラーダークリシュナン博士は、「非人格的なブラーマンだけが、無尽蔵であり、滅びることがなく、生まれることもない、などの超越的な性質を持っている」(訳注:括弧は訳者)と言う(to imply、ほのめかす、暗示する、~という意味を暗に含む)ので、私たちは正しい答えを求めてギーターに目を向けなければなりません(to turn to~、頼りにする)。 事実は、非二重性の至高存在のすべての神聖な拡張体は、これらの同じ非常に優れた(superexcellent)性質を授けられています。アルジュナは、バガヴァッドギーター(11.18)において次のように宣言します。 (サンスクリット引用) 「あなたは至高の太古の(primeval)目的地(objective、目標)です。あなたはこの宇宙すべて(all this universe)の究極の休憩所(resting place、本来は一時的な休憩所を指すが、永眠の地、墓場も意味するが、この場合は「永遠の安らぎが得られる場所」)です。 あなたは無尽蔵であり、あなたは最も年長のお方です(You are the oldest)。あなたは永遠の宗教を維持する方、至高の人格神です。これが私の意見です。」 第2段落 私たちは、「パラブラーマンをアクシャラ(「滅ぼされることのない」)と描写するギーターの中のそれらの節は、主クリシュナ、至高の統御者である至高神を指しているものだ」と理解すべきです(訳注:括弧は訳者)。主クリシュナは一度も、クシャラ、制約されたジーヴァたちと同列に置かれることはありません(to be equated with ~)。 ラーダークリシュナン博士のような偉い(big、有力な、というような意味だが、偉そうな、傲慢な、という意味もある)哲学者だけでなく、主ブラーマーや主インドラのような強力な(mighty)半神たちでさえ、クシャラの区分の中にあります。 主はご自分の離れたエネルギーだけによって(merely by~)宇宙の顕現全体を維持なさいます。ちょうど、火が一ヶ所に位置していてもその光と熱をすべての方向に広げるように、生まれることのない至高主、クリシュナも、ご自分の完全な人格、永遠性、そして不滅性を維持しつつ、ご自分を無数のヴィシュヌの形、ジーヴァ、そして内的および外的な力へと拡張なさいます。 ご自分をこのように拡張することは、完全な全体としての主の立場を決して弱める(to diminish、小さくする、減らす、衰えさせる)ことも、それに何らの影響を与えることもありません。イショパニシャッド(祈り)は、(サンスクリット引用)と宣言します。 「完全な全体から作られる(to be produced of)ものは何でも、同じくそれ自体で完全です(complete in itself)。主は完全な全体であられるので、非常に多くの完全な個体(units)が主から放射しても、主は完全な均衡を保たれます。」 第3段落 主は永遠の至高の人格(Person)であり、したがって主の御名、形、性質、娯楽などはすべて永遠です。サンスクリットの「プルシャ」という単語は「楽しむ者」を意味します。楽しむ者は決して、形がなかったり、非人格的であったり、無力(impotent、無気力、能力や効果や体力がない、性的能力がない)であったりする存在ではあり得ません。 確かに主クリシュナには物質的な性質はありませんが、それでも主は楽しむ者であり、すべての霊的な性質の所有者です。 第4段落 バガヴァッド・ギーターにおいて、アルジュナは主クリシュナをクシャラ(訳注:アクシャラの間違い?原文は”a ksara”で、”ksara”の部分だけが斜体になっている)、パラブラーマン、そしてアーディ・デヴァ(もともとの至高の人格神)として称えます。(校正:,→.) ラーダークリシュナン博士は、アクシャラ、「無尽蔵な」という言葉はアヴャヤ、「劣化することのない(without deterioration)」という言葉と同義(synonymous)であると書きます。それでは(therefore)、なぜ彼は主クリシュナと主の体が異なっていると結論するのでしょうか? これは私たちには理解しかねます。275ページでラーダークリシュナン博士は、アルジュナが「主クリシュナはパラブラーマン、バーガヴァーン、完全真理である」と言う、と認めます(訳注:括弧は訳者)。 同じ本の同じページで、彼は大変つじつまの合わない(incoherent、支離滅裂)、虚構の(fictitious、想像上の)ことを書き、それをアルジュナのせいにします(to attribute to~、~に帰する、~の作だとする)。「アルジュナは、至高存在(シュリー・クリシュナ)はブラーマンであり、イーシュヴァラ、完全であり神である、と述べます。」 もしもラーダークリシュナン博士が、バーガヴァーンはブラーマンとは異なると考えるような、ギーターのそんなに不完全な(sketchy、うわべだけの、スケッチのように大雑把な)認識(perception)を持っているなら(訳注:ギーターをろくに知らないと言える程度の認識しかないなら)、それならどうして彼はギーターを読んだと主張することができるのでしょうか? 彼は、バーガヴァーンと超魂クリシュナ(Supersoul Krishna)はマーヤーの産物であり、他方でブラーマンはそうではないと論じるのです!シュリーラ・クリシュナダーサ・カヴィラージャ・ゴスヴァーミーは、そのような推量的な哲学を厳しく批判しました。 チャイタンニャ・チャリタームリタにおいて、彼はこう書きます。「ブラーマン、パラマートマー、そしてバーガヴァーンはすべてクリシュナの性質(features)であることを知らず、愚かな学者は様々に推量します。」 第5段落 私たちは、アルジュナとシュリーラ・クリシュナダーサ・ゴスヴァーミーの両者を、ラーダークリシュナン博士よりも優れた権威者として受け入れます。アルジュナはバガヴァッド・ギーターを直接聞き、そしてインドの大統領、ラジェンドラプラサッド博士は、シュリー・チャイタンニャ・チャリタームリタを正統で権威ある聖典として受け入れました。 バガヴァッド・ギーターを、それをアルジュナから伝わる(to come down)師弟継承の中にある者から受け取ることによって理解しようとする者は、実際にその深遠な(esoteric、奥義・秘儀の、難解な)知識を理解することができます。その他の者たちは惨めに失敗します。 バガヴァッド・ギーターとその他の権威ある(authorized)聖典が非人格的なブラーマンについて述べること(what~have to say)を人がよく注意して(attentively)聞くことは、ぜひとも必要なことです(imperative、必須、緊急)。(訳注:~において~について述べられていることを、注意深く学ぶ必要があります。) 聖典は、「ちょうど太陽光が太陽からの光り輝く放射であるように、非人格的なブラーマンは至高主の体の輝きである」と、詳細に(amply)証明します(訳注:括弧は訳者)。さらに、太陽の光が太陽に依存しており、太陽に従属している(subservient)ように、非人格的なブラーマジョティの光輝、主クリシュナの体の光は、主に依存しており、従属しています。ギーター(14.27)において、主はこうおっしゃいます。 (サンスクリット引用) 「そして私は、不死で不滅で永遠で、そして究極の幸せの本来の立場(constitutional position)である、非人格的なブラーマンの基盤(basis)です。」 第6段落 ギーターの中の、非人格的なブラーマンに関する主の言葉は明白(unequivocal、あいまいでない)ですが、それでもラーダークリシュナン博士はそれらに満足していないように見えます。彼は14章の27節を嫌々ながら(grudgingly、渋々と)こう翻訳します。「私は不死にして不滅(訳注:the Imperishableだけ最初が大文字。誤植?)のブラーマン、永遠の法、そして完全な喜びの住みかであるからです。」 (原文:“For I am the abode of Brahman, the immortal and the Imperishable, of eternal law and of absolute bliss.”) 主クリシュナは非人格的で形のないブラーマンの基盤であるので、主は確かにそれよりはるかに優れておられます。蚊帳(かや)は家の中にあるのであり、逆ではありません。インク壷はテーブルの上にあるのであり、逆ではありません。小さな少年でさえ、これを理解することができます。 それなら、なぜラーダークリシュナン博士はこの真理を受け入れるのをためらうのでしょうか?聖典の中には、主クリシュナの至高の完全な人格の無数の証明がありますが、ラーダークリシュナン博士は真理の日光の中のフクロウのようです。 彼は、言葉を操ることという暗い雲を作ることによって、真理の太陽を覆い隠そうとします。こうして、真理と知識の代わりに世界の前に困惑(confusion、混迷)がひけらかされます(to be paraded)。(訳注:この場合の「パレード」は、行列のパレードの性質である「次々に現れる、見せびらかす、行進する」という意味が含まれると思いますが、全体としては「困惑するようなことが次々に起こる」という意味かと思います。」 私たちはこの種の活動を強く非難します。直接的にであれ、間接的にであれ、ラーダークリシュナン博士は、主クリシュナがブラーマンの基盤であるという真理を巧みに回避しようとし(to circumvent、迂回、裏をかく)、その過程で彼は打ち負かされました。 もしもラーダークリシュナン博士が本当に主クリシュナを完全な神として受け入れるなら、それなら何が彼に、クリシュナの中にもう一つの存在を見て、「私たちが服従しなければならないのは、人格的なクリシュナではない、、、」と書かせた(to inspire、霊感を与えて何かをさせる)のでしょうか? 第7段落 真実は、主によって祝福された者だけが神に関わる霊的な科学を理解する(to fathom、本来は「水の深さを測る」という意味。見抜く、計り知る)ことができるというものです。ラーダークリシュナン博士の本は、反駁(はんばく)できないほどに(irrefutably、議論の余地のない)これを証明します。 マーヤーヴァーディーの哲学者たちは、至高主に対する(to)大変な(big)無礼者(offenders)であり、そして、したがって主は決してご自分を彼らに表わされません(to manifest、顕現)。主ご自身がギーター(7.25)において(サンスクリット引用)と宣言なさいます。 「私は決して愚かな者と非知性的な者の前には顕現しません。彼らにとって、私は私の内的な力によって覆われています。。。」 以前のすべての権威者はマーヤーヴァーディーを非難しましたが、主シュリー・クリシュナ・チャイタンニャ・マハープラブは、彼らを至高主に対する最大の無礼者(offenders)と呼んで、(彼らを)直接的に非難しました(to censure)。 主は、もしも人が単に哲学をマーヤーヴァーディー(a Mayavadi)から聞けば、彼の霊的な人生は危険にさらされている(in jeopardy)とおっしゃいました。シュリー・チャイタンニャ・チャリタームリタ(マデャー17.129-132および134-135)において引用されているように、主はマーヤーヴァーディーについてこのように語られます。 「シュリー・クリシュナ・チャイタンニャ・マハープラブはお答えになりました。『マーヤーヴァーディーの非人格主義者たちは、主クリシュナに対する大変な無礼者です。したがって、彼らは単にブラーマン、アートマー、そしてチャイタンニャ(訳注:など)の言葉を口にします(to utter)。 クリシュナの聖なる御名は、彼らの口の中には現れません(to manifest)。なぜなら彼らは、ご自分の聖なる御名と同一であられるクリシュナ、至高の人格神に対する無礼者だからです。主の聖なる御名、主の形、そして主の人格は、すべて一つであり、同じです。それらの間に違いはありません。 それらすべては完全なので、それらは超越的に喜びに溢れています。クリシュナの体と主ご自身の間、あるいは主の御名と主ご自身の間には違いはありません。制約された魂に関して言えば、すべてが異なっています。人の名前は体や人のもともとの形などとは異なります。 クリシュナの聖なる御名、主の体、そして主の娯楽は、鈍い(blunt)物質的な感覚によっては理解され得ません。それらは独立して顕現します。クリシュナの聖なる名、主の超越的な性質と娯楽および主クリシュナご自身は、すべて同等です。それらはすべて霊的で、喜びに満ちています。』」 第8段落 マーヤーヴァーディーはシュリーパーダ・シャンカラーチャーリャを真似しようとします。正統(orthodox)である振りをして、彼らは、「ジーヴァはパラブラーマン、至高主の欠かすべからざる一部である」という真理を退けます(訳注:括弧は訳者)。 彼らは、マーヤーの魔力(spell)の下に落ちるのはパラブラーマンご自身ではなく、パラブラーマンの欠かすべからざる小片の側面(ジーヴァ)だけである、という事実をも否定します。そして、最も悪いことに、彼らはパラブラーマンは至高の人格神に他ならないということを否定します。 彼らのいびつな(lop-sided、一方に傾いた)議論によれば、ジーヴァがムクティ(解放)を得るとき、彼は非人格的なブラーマンと同化し(to merge into~)、自分の個々の自己認識(identity)を失います。この論理によれば、至高主、パラブラーマンがこの物質世界に化身するとき、あるいは神像(theDeity)の形で現れるとき、主は普通のジーヴァになります。 このようにして(Thus)、愚かなマーヤーヴァーディーたちは主と主の形の間に区分をつけ(to draw a distinction)、そしてこうして(in this way)彼らは主に対して大変な非礼を働きます(to commit great offences)。 第9段落 そのため、主クリシュナと主の形の間にくさびを打ち込む(to knock a wedge)ことによって、ラーダークリシュナン博士は自分の知性の欠如を表しました(to demonstrate)。実に、マーヤーが彼の知性を奪ったのであり、主チャイタンニャ・マハープラブによれば、彼はもっともひどい非礼を為しました(he is the worst offender、最大の無礼者)。 バガヴァッド・ギーターにおいて、主はそのような無礼者をムーダーと描写なさいます。なぜなら、彼らは人間の脆さ(frailties、はかなさ)と欠点(faults)を至高主に帰する(to ascribe、~のせいにする)からです。今日、無神論者が多すぎるので(because of an excess of atheists)、世界は地獄になりました。 そして、これはひとえに、至高主の敵によるマーヤーヴァーダ哲学の布教が原因です。主チャイタンニャの使命は、これらの無礼者たちの呪縛(the clutches、しっかりと掴むこと)からジーヴァを救うことです。この使命のことを気にかけない(unconcerned about~)者は、主チャイタンニャに対して非礼を為します。 第10段落 マーヤーヴァーディーたちは霊性主義者のように見えようとして大変努力しますが(to try hard to look like ~)、事実は、彼らは全くの物質主義者です。彼らは言葉を操ることで(with word jugglery)大衆を惑わす(to confuse and mesmerize、困惑させ、催眠術にかけたようにする)ことができるかもしれませんが、本当は彼らのいわゆる放棄は猿のそれと同じくらい偽りです。 なぜなら、彼らは名声(distinction)、崇敬(adoration)、地位、そして富を求める単なる物乞いになってしまったからです。彼らは世俗的な発展だけにかまけており(to be busy with~)、霊的な言葉(message)と霊的な目的と理想は忘れられています。 シュリマッド・バーガヴァタム(1.1.2)は、そのような見せ掛けの(show bottle)宗教をカイタヴァ・ダールマ、「騙す(cheating)宗教」と定義しました。そのような騙す宗教団体に魅了される者たちは、彼ら自身、偽り(deceitful、欺瞞的)です。 彼らの霊性の見せびらかし(show)は言語道断(abominable、忌まわしい)です。彼らは解放も、献身と服従も欲しません。彼らは推量に執着しており(addicted、中毒)、決してクリシュナを理解することができません。 第11段落 マーヤーヴァーディーが、キールタンを行ったり個人的な名声(name and fame)のためにバーガヴァタムに関する講演(discourses、講話)を催したりするとき、彼らはブラーマン、チャイタンニャ、そしてパラマートマーについて歌ったり、話したりするかもしれませんが、彼らは主クリシュナの御名を口にする(to utter、声に出して言う)ことはできません。 シュリー・バーガヴァーン・ウヴァーチャ(「至高の人格神がおっしゃった」)という言葉がバガヴァッド・ギーター全体に現れますが、マーヤーヴァーディーはクリシュナの御名以外のすべてを言う用意があります(訳注:~だけは口にしようとしません)。 ブラーマンとパラマートマーという言葉は、究極的には主クリシュナを指し、そしてクリシュナは至高の完全人格の主要な名であるというのは、よく知られた聖典の真理です。しかし、マーヤーヴァーディーがクリシュナ、ゴヴィンダ、あるいはハリなどの神の御名を唱えるときでさえ、彼らは、これらは神の主要な名であること、そしてそれらは至高主と異なるものではないこと、という理解と信仰を持たず、そうではなく、それらを唱えることはサーダーナ、すなわち霊的な実践の一時的な方法(means、手段)であるという考えをもって、そうします。 彼らはまた、聖なる名をそのように唱えることは無礼であるということを認めません。もちろん、彼らの最大の無礼は、主クリシュナと主の形の間に区別をつけることです。そのためギーター(9.11)において、主クリシュナご自身がこれらの無礼者を非難なさいます。 (サンスクリット引用) 「私が人間の形で降臨するとき、愚か者たちは私をあざ笑います(to deride)。彼らは、すべてのもの(all that be)の至高の主としての私の超越的な性質を知りません。」 第12段落 ラーダークリシュナン博士がこの節をどのように翻訳したか見てみましょう。それは彼の本の242ページにあります。「幻惑された者は、すべての存在の主としての私のより高い性質を知らずに、人間の形をまとった(clad in human body)私を軽蔑します(to despise)。」 言い換えると、「すべての存在の主」である人(person)が「人間の体をまとう」とき、物質主義的な観点から見る者は、主を普通の、死を運命づけられた者(ordinary mortal)と受け取り、霊的な観点から見る者は、主は至高存在、すべての原因の原因であると理解します。 そのため、もしも主クリシュナを軽蔑する(to despise)のは幻惑された者であるなら、それならラーダークリシュナン博士は自身にとって、自分はこの罪を犯している(guilty of this crime)と認めるときではないでしょうか? 彼がいかに、主を単なる「死を運命づけられた者」(訳注:mortal、括弧は訳者)と同等において、「すべての存在の主」を不当に扱った(to abuse)かということを、彼に認識させましょう。そのような偉大な学者たちが主クリシュナに対して敵意を示す(inimical、反目)のを見るとき、ギーターに従って、私たちは、彼らの知性はマーヤーによって盗まれたと結論づけることができます。 第13段落 すべての以前の霊的な権威者たちは、主クリシュナを至高の人格神として受け入れました。シュリーパーダ・シャンカラーチャーリャでさえ、この真理を受け入れました。それなのにラーダークリシュナン博士は、あまりにも幻惑されているので、主クリシュナを普通のジーヴァ、あるいはおそらく卓越したそれと考えます。 第14段落 主チャイタンニャより多くの知識を持った人はいません。論理的で科学的なクリシュナ意識の知識は、主チャイタンニャから受け取られなければなりません。ラーダークリシュナン博士は、主チャイタンニャの直接の霊的な系統にあるシュリーラ・ジーヴァ・ゴスヴァーミーの教え(precepts、教訓)に基づいて、どこかで主クリシュナを論じたでしょうか?(訳注:~が~に基づいて~を論じたことが一度でもあるでしょうか?) 私たちはラーダークリシュナン博士に、シュリーラ・ジーヴァ・ゴスヴァーミーのサット・サンダルバーを学ぶ(to study、研究)ことをお願いします(to request)。彼は自分の霊的指導者によって、自分の文筆を学者や哲学者に向けさせ、彼らにこの深遠な(esoteric、難解、奥義)知識を理解させるように、特別に力を授けられました(to be empowered)。 彼の水準(stature、成長、進歩、達成、偉業、才能など)の別の(another)哲学者は、まだ生まれていません。事実、未来の誰も、学識(erudition)において彼を超えることはできないでしょう。ラーダークリシュナン博士は哲学者なので、彼がシュリーラ・ジーヴァ・ゴスヴァーミーの教え(precepts)を退けないことを私たちは望みます。 第15段落 ラーダークリシュナン博士の文章から、クリシュナ意識の科学を理解しようとする(to fathom、推し量る、見抜く)にあたって彼がいかに混乱している(perplexed)かを、人は簡単に証明することができます。彼は主クリシュナを、卓越した人間でありインドの歴史上の人物として表そう(to present)としますが、バガヴァッド・ギーターはそのような試み(task、課題)を不可能にします。 彼の「入門的な随筆」(30ページ)において、彼はこう書きます。「ギーターにおいて、クリシュナは 至高主、多くの(manifold)宇宙(訳注:複数)の背後に横たわる統一性(unity)、すべての表れ(appearances)の背後にある変化することのない真実、すべてを超越し、すべての中に内在する(immanent)、と記されています(tobe identified with~、~と同一視する、この場合は「描写されている」という意味と思われる)。 主は顕現した主、死を運命づけられた者が知るのを容易にします。なぜなら(for)、滅びることのないブラーマンを探し求める者は、疑いもなく、大いなる努力ののちに主に至るからです。主はパラマートマーンと呼ばれます。 (次の段落)どうして私たちは歴史上の個人を至高主と見なす(to identify)ことができるでしょうか?個人を宇宙の自己(the universal Self、普遍的な)と同一であるとすること(the representation)は、ヒンズー教の教えには馴染みのあるものです。ウパニシャッドにおいて、私たちは、完全存在との本当の関係を把握(to apprehend、理解)する完全に目覚めた魂は、それ(訳注:魂)は本質的に後者(訳注:完全存在)と一つであることを知り(to see)、自分はそうであると宣言する、と知らされます。」 (訳注:博士の文章の特徴であるようですが、原文の構造が詩的あるいは散文的で、かなり分かりにくいです。) 第16段落 しかし、ジーヴァが主と「本質的に一つ」になることは霊的な人生における最終目的(the last word)ではありません。もちろん、シュリーパーダ・シャンカラーチャーリャは、無神論者が少なくとも認識のこの水準にくるようにするために、この考えを広めました。 しかし、この向こうには至高の完全人格神の領域(realm、王国)があります。超越性の領域(sphere)に入り、もしも人が至高の超越的な人格(personality)を知覚しないなら、人の霊的な実践は汚染された知性が原因で不完全なままとなり、そして人は物質主義の領域(realm)へと戻らねばなりません。 世界は幻想である-ジャガン・ミッテャー-と主張するにも関わらず、そのような非成功な(unsuccessful)超越主義者たちは、やがて(then)政治的、社会的、そして利他的な(altruistic)事柄(affairs)に囚われる(to be entangled、もつれた毛糸のように絡まり、陥る様子)ようになります。 第17段落 ラーダークリシュナン博士は、決して直接、至高の超越的な人格、主シュリー・クリシュナを知覚したことはありません。主クリシュナは彼のまん前にいらっしゃるにも関わらず、彼は主を見ることができず、そしてそのため(thus)、幻想から(out of~、~が原因で)、彼は主を歴史上の人物と呼びます。 本物のインドの宗教哲学は、神との一体性と主との違い(difference from Him)の両方があると教えます。同時に一つであり、また異なる、というこの概念は、ヴィスィシュタードヴァイタ、ドゥヴァイタードヴァイタ、シュッダードヴァイタ、そしてアチンテャ・ベーダーベーダ・タットヴァと表現されています(has been termed)。 もしもこの深遠な概念が誤り(false)であれば、クリシュナはインド中で、ほぼすべての家庭で崇拝されることはないでしょう。主は歴史上の人物としてではなく、至高主として崇拝されます。至高の人格神としてのクリシュナの立場は、ヴェダーンタ・スートラとガーヤトリー・マントラの自然な解説(commentary)であり真髄である、権威ある文書シュリーマッド・バーガヴァタムによって堅固に確立されています。 ラーダークリシュナン博士よりも遥かに学識の深い多くの学究的な(scholarly)マーヤーヴァーディーたちが大衆(general populace)の信仰を揺るがそうとしましたが、記憶にないほどの昔から、クリシュナの寺院は何百万と築かれてきました(to have mushroomed)-主クリシュナは普通の、死を運命づけられた存在である、と主張するマーヤーヴァーディーと無神論者たちにとって、侮辱的な事実(a slap in the face、びんた、頬を激しく叩かれるにも等しい出来事や事実)です。 未来においても、もっと多くのクリシュナの寺院が不可知論的な(agnostic)人々と不信心者をくじく(to frustrate、挫折、妨げる、失敗させる)ために築かれるでしょう(訳注:~して、~は敗北感を味わうでしょう)。 すべてのヴィシュヌの寺院は聖典とアーチャーリャたちによって正統と認められています(authorized)。ラーダークリシュナン博士のためだけに言えば(just for the sake of~)、インドの人口全体がマーヤーヴァーダ哲学と妥協する(to strike a compromise with~)というのは、ほぼ考えられません(It hardly seems likely)。 第18段落 インドの歴史は、自らの名声で天を照らした(who lit up the heavens)多くのすばらしい勇者たち(heroes)の話(accounts、記述)で満たされています。多くの賢者や哲学者たちは、これらのまばゆい太陽たちをさておいて、至高新として崇拝するために、なぜシュリー・クリシュナ、シュリー・ラーマ、そして彼らの拡張体(訳注:複数)だけを選んだのでしょうか? この現象の公平な(unbiased、先入観や偏見のない)研究をするために聖典を詳しく調べた(to delve into~)霊的な教師たち(preceptor)は、ラーダークリシュナン博士よりもはるかに発達した学者たちです。それでも、天国のような惑星の住人でさえ主に関して幻惑されるので、ラーダークリシュナン博士のような普通の、死を運命づけられた存在が主クリシュナに関して幻惑されるのは、非常に理解できること(understandable)です。 シュリマッド・バーガヴァタム(1.1.1)には、ムヒャンティ・ヤット・スーラヤーと述べられています。「主によって、偉大な賢人たちと半神たちさえ幻想に入れられます。」地球(the earth planet)は、この宇宙の体系の中の14の惑星のうち、だいぶ下のほうの(way down)7番目の位置にあり、そのためその住人はほんの少しの(meager)力しか与えられていないのです。 第19段落 この貧弱な(meager)地球の国々のうち、バーラタヴァルシャ、すなわちインドは最も優れています。なぜなら、創造の初めから、インドの賢人たちは深遠な(esoteric)霊的な科学を追求する(to pursue)にあたって最も卓越した技を示してきたからです。 昔(In days of yore)、これらの賢人たちはより高い惑星系と意思の疎通を取ることができました。しかし今ではインドは非常に悪い状態にあるので、私たちは以前の賢人たちの教えに従おうとしません(not willing)。 私たちはクリシュナを歴史上の人物として受け入れる意思があります(willing)が、回りくどい(devious、率直でない、よこしまな)手段によって、私たちはややこしい(confusing)哲学的な専門語(jargon、悪い意味で難しい専門的な用語、ちんぷんかんぷん、わけの分からない言葉)で主の教えを歪ませようとします。 これはインドの望ましくない状態の証拠です。インドは今では、本当の神は無しで済まし(to do away with~)、主を多くの偽物の神で置き換えることに熱心になってしまいました。これはインドにとって最も大きな不運です。 ............................................................................ 本当に大変長々とお待たせいたしまして、まことに申し訳ございません。ようやく次の章ができましたのでお届けいたします。どうしてこう怠けているのだろうと考えると、仕事ばっかりしているからとか、いろいろ理由はあると思いますが、単にちょいと弱っているからかもしれません。今日はオーラが見える方とお会いして、青が多くて弱っている、森へ行ってエネルギーを貰え、と言われました。ほんとに、別に「はっきりと病気です!」ということもぜんぜんないのですが、多少弱ってるなということを実感することも多いこの頃なのです。 無理をせずに、ということを大事にしていきたいと思いますので、次が登場しますのはまたまただいぶ先のことになるかもしれませんが、どうぞ生暖か~く見守っていただけましたら幸いです。皆様もどうぞ体力気力が充実するように健康に気をつけておすごしくださいませ。 葉子 ■
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by ammolitering4
| 2016-10-11 15:10
皆様こんにちは。お元気でいらっしゃいますか。全然更新していなくて申し訳ございません。なんでだろうと自分でも不思議なのですが、あれほど熱心に描いていたガラス絵もすっかり描かなくなったし、波があるのだろうなと思っています。今でも本とノートは持ち歩いていて、隙間の時間などにちょこちょこと翻訳をしていることはしているのですが、以前のように進まないのです。アートのほうも全くやめたわけではなくて、キャンバスに夢の絵を描いてみたり雑誌の切り抜きでコラージュをしてみたりと、形を変えて細々とやっています。
今日はダウンタウンを歩いていてラスヤトラの広告を見つけました。ラスヤトラ、懐かしいなあ。お祭りにもお寺にももう何年も行ってないし、これからもまた行くことはないと思うのですが、こうして見かけるとやっぱり嬉しいです。それにしても、お金がかかってますね。バス停のこういう広告って、幾らくらいするものか分かりませんが、決して安いものではないと思います。バンクーバーの場合、市の政府、ラジオ局やテレビ局、銀行などが協賛していて盛大に行われ、カナダの首長であるイギリスの女王様の代理の人以下、各種の偉い人たちがこぞって祝辞を送ったりして参加し、パワフルなインド人社会に愛想を振りまきます。 一般市民の間ではハレクリシュナが広まっているという印象はあんまりなく、むしろ衰退する一方であるような気もするのですが、少なくともヒッピー時代からうん十年経った現在では「昔から続いている宗教」というイメージが定着していると言っていいと思います。今年もまたきっと行かないだろうとは思いますが、成功のうちに終わるといいなと思います。
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by ammolitering4
| 2016-08-08 06:00
第16段落 そしてギーターのあとのほうで(15.15)、主はこうおっしゃいます。 (サンスクリット引用) 「私はすべての者の心臓の中に座っており、そして私から記憶(remembrance)、知識、そして忘却(forgetfulness)が来ます。すべてのヴェーダによって、私は知られるべきものです。(訳注:By all the Vedas, I am to be known. これは時々引用されますが、ヴェーダを通して知るべきことは私である、ヴェーダが書かれた理由は私を知ることにある、ヴェーダの真髄は私である、などの意味だと思います。) 実に、私はヴェダーンタを編纂した者であり、そして私はヴェーダを知る者です。」 第17段落 完璧な知識を持った賢者たち---例えば、自分の物質主義的な知性を浄化して、そしてそのため霊的な知識に位置している者たち---は、主クリシュナをすべてのものの源として理解することができます。 知性(intellect)が浄化され、霊化されていない限り、最も学識のある哲学者や最も偉大な神秘的なヨギーでさえ、主クリシュナを理解しようとして当惑するでしょう(perplexed、混乱する、困る)。主はバガヴァッド・ギーター(7.3)においてこうおっしゃいます。 (サンスクリット引用) 「完成を得た者のうち、ほとんど誰も私を正しく(in truth)知る者はいません。」 第18段落 至高主の名前、形、性質、娯楽、仲間たち、そして主に関わる諸々のものは、すべて同じ霊的な性質を持っています。事実、主クリシュナに関わるあらゆるものは、主と異なるものではありません。パドマ・プラーナには、こう述べられています。 (サンスクリット引用) 「クリシュナの聖なる御名は、超越的に喜びに満ちています(transcendentally blissful)。それはすべての霊的な恩恵を授けます。なぜなら、それはクリシュナご自身、すべての喜びの源(reservoir)であるからです。 クリシュナの御名は完全であり、それはすべての超越的な味わい(訳注:mellows、ときどき出てくるこの単語は、本来は「まろやかな」などを意味する形容詞ですが、プラブパーダの独特の言い回しでは「味わい」に準ずるような意味になります。昔のインドで限定的に使われていた表現かもしれません)の形です。 それは決して(under any condition、どのような状況であっても)物質的な名前ではなく、(それは)クリシュナご自身よりも力が弱いものではありません(no less powerful)。クリシュナの御名は物質的な性質によって汚染されていないので、それがマーヤーと関わっているということはありえません(there is no question of ~)。 クリシュナの御名は、いつも解放されていて霊的です。それは決して物質自然の法則によって制約されません。これはクリシュナの御名とクリシュナご自身が同一だからです。」 第19段落 聖人的な魂だけがこれらの言明の真理を知覚することができます。その知性がマーヤーヴァーダ哲学によって堕落させられている者(to have been corrupted、損なわれる、間違いが多くなる、など)は、理解することができません。 第20段落 一般に、一元論者(monists)は非二元論(nondualism)の難解な(intricate)哲学を理解する(to grasp)ことができません。そのためラーダークリシュナン博士は、それによって二元論(dualism)を非二元論(nondualism)において確立しようとする理論を、自分の空想から紡ぎ出しました。 (訳注:そのため~は空想をめぐらせ、非二元論において二元論を確立するための理論を編み出しました。) ラーダークリシュナン博士が私たちは「クリシュナを通して話す、生まれたことのない、始まりのない、永遠のもの」に服従しなければならないと書くとき、彼は、服従について話しているのはクリシュナの中にいる非人格的なブラーマンである、ということを暗示します(to imply)。 いったん、非人格的なブラーマンが話すことができるということが確立されれば(Once~)、それなら主(He)は話すための道具、すなわち舌を持っていなければならない、ということになります。こうして私たちは、ラーダークリシュナン博士の非人格主義の概念全体が直ちに根底から揺らぐ(undermined、侵食して土台が削られる)のを見ます(訳注:~が分かります)。 聖典の中には、話すことのできる者は歩くこともできると結論づける十分な証拠があります。そして、話すことと歩くことのできる存在は、実に必ずすべての感覚を授けられています(must indeed be endowed with ~)。 それなら、主(He)は食べたり眠ったりなどの他の活動も行うことができるに違いありません。それでは(So)、どうしてラーダークリシュナン博士は、彼の(訳注:述べる)始まりのない、永遠の存在(object)が非人格的であると主張することができるのでしょうか。 第21段落 自著「入門的な随筆」の62ページにおいて、ラーダークリシュナン博士はこう書いています。「私たちから自己がなくなると(When we are emptied of our self (?))(訳注:疑問符は原文のまま)、神が私たちを所有します(God takes possession of us)。 この、神が(訳注:私たちを)所有すること(God-possession)の障害は、私たち自身の美徳(virtue、善行)、自尊心(pride、誇り、思いあがり)、知識、私たちのかすかな要求(demand)、そして私たちの無意識な断定(assumptions、証拠もなく決め込む)と偏見(prejudices、先入観)です。」 第22段落 彼自身の議論から、私たちは安全に(safely)、ラーダークリシュナン博士は彼の不注意と以前の養育(upbringing、しつけ)から、主クリシュナの体と主の魂の間に違いを見ていると推量する(to surmise)ことができます(訳注:ラーダークリシュナン博士自身の議論から、彼は、その生い立ちと不注意さが原因で、~を見ている、と推量して問題ないでしょう)。 彼はまだ、「自己からなくなる」はずの偽りの自我から自由でないのです(He is still not free from false ego, that is, “emptied of self.”)。したがって、彼の美徳、誇り、知識、かすかな欲求、そして無意識な断定と先入観がすべて、彼が超越的な真理を理解するのを阻んでいるのです。 彼はマーヤーヴァーダの思想の雰囲気(atmosphere、環境)の中で育てられたに違いありません。この理由により、彼は真理を理解することができませんでした。 第23段落 マーヤーヴァーダ哲学の創始者(founder)であり宣伝者(propagator)であるシュリーラ・シャンカラーチャーリャは、物質の世界は幻想---ミテャー---であると証明し、そしてそのため、彼は熱心に(diligently)禁欲(austerity)と放棄(renunciation)の道を探求し、そして彼はそれを自分の教えの中で強調しました。 彼は、この幻想の物質世界を支配しようとして(to lord it over、偉そうに振舞う)貴重な時間を無駄にすることはしませんでした。しかし、もしも彼が自分が提議した(to propound)哲学の現在の状態を見たら、(彼は)恥ずかしく思ったことでしょう。 私たちは、ラーダークリシュナン博士が彼に影響されたことを疑いません。これは彼の著述から明らかです。それでも、自著「入門的な随筆」の25ページで、彼はこう書きます。「ギーターの重点は、ご自分の自然(Nature、プラクリティ)によって、知覚できる世界を創造なさる、人格的な神としての至高存在にあります。 主はすべての存在の心臓の中に住まわれます。主は享楽者であり、犠牲の主です。主は私たちの心を献身にかき立て(to stir ~ to devotion、強い刺激を与えてその気持をあおる)、私たちの願いを叶えられます(to grant prayer)。 主は価値の源であり、維持する者(retainer)です。主は崇拝と祈りにおいて私たちと個人的な関係に入られます。」 第24段落 これを書いて、このようにギーターの本当の意味(purport)を受け入れたあとで、どうして後からラーダークリシュナン博士は、主クリシュナの体と魂が異なっていると述べることができるのでしょうか?そのような考えは、彼の物質主義的な教育の結果に違いありません。 完全真理、非二元論的な(nondual)至高存在が推定では(supposedly、~と思われる)ご自分の内的な存在から離れているとは、何と奇妙な一元論を彼は提議するのでしょうか!(訳注:二元論的ではない完全真理、至高存在がご自分の内的な存在とは別個であるとするとは、~!) ラーダークリシュナン博士は、自分の哲学におけるこれらの明白な欠陥(flaws)を説明することができるでしょうか?至高主ご自身が全知の(omniscient)超魂として皆の心臓の中にいらっしゃるとき(訳注:when、~なら)、それなら他の誰が主の(訳注:斜線で強調)心臓の中に座ることができるでしょうか? ギーターにおいて、主クリシュナご自身がご自分の超越的な性質について語られ、自分の物質的な学識で武装したラーダークリシュナン博士が否定するための(to contradict、否認、逆らう、矛盾する)程度の低い試みをしただけだ(buta feeble)ということを述べられます(making statement)。 (訳注:ギーターにおいて主が~と語られたことからも、ラーダークリシュナン博士が自分の学識を頼りに下手にあがいて(ギーターの意味を)否定しようとしただけということが分かります。) そのような愚かさを通してラーダークリシュナン博士は教育を広める振りをしましたが(to make a show of)、事実は、彼は真実ではないこと(untruth)を教えたのです(to preach、布教)。 第25段落 ブラーマン、パラマートマー(超魂)、そしてバーガヴァーン(至高の人格神)---3つすべてが、同じ、非二元論的な至高の完全存在です。ラーダークリシュナン博士がこの主題を知らないと言うのは馬鹿げています(ridiculous)が、それでも私たちは、至高主が化身なさるとき主はマーヤーの影響(sway)の下にくる、という彼の主張の中に論理を見出しかねます。 主は疑いの余地なく(unequivocally)、ギーターにおいて、(ご自分が)顕現するとき、(主は)ご自分のもともとの超越的な形においてそうする、と述べられます。したがって、主と主の体の間には違いはありえないのです。主はさらに、ご自分の姿(appearance)、活動などはすべて超越的であり、物質の領域(realm)を超えている、と述べられます。 主は永遠であり、至高に純粋であり、もともとの至高の人格であり、至高のブラーマンです。私たちは皆、ジーヴァはマーヤーによって覆われていると同意しますが、もしも至高のブラーマン、すなわちパラブラーマンもまたマーヤーによって覆われているのであれば、それならマーヤーはパラブラーマンよりも優れているのでしょうか? ■
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by ammolitering4
| 2016-03-17 09:14
| 「英知による放棄」
第2章 超越的な献身奉仕は主の本当の姿を明らかにする 第1段落 私たちはシュリマッド・バーガヴァタムから、生命体が霊的な実践から堕落するようにさせるマーヤーが原因で、一部の(certain)不快な(obnoxious)無神論者たちは、主を一般大衆(generalpopulace)から隠し続けておくために、至高主のまわりに哲学的な専門用語(jargon、普通の人には分からないような難しい用語)の煙幕を作ろうとして大変な努力をする、ということを知ります(tolearn)。 (訳注:「無神論者の中には、生命体を霊的な道から堕落させるマーヤーに惑わされて、無駄に難しい言葉を多用して庶民を煙にまき、わざわざ主を理解できないようにしようとする鼻持ちならない者たちがいる」とSBに書いてあります。) この努力の結果もまた、バーガヴァタム(12.3.43)に描写されています。 (サンスクリット引用) 「おお、主よ!カリの時代において(in→In)、人々の知性は無神論によって(訳注:霊的な道から)逸らされるでしょう(tobe diverted)。そして彼らは、宇宙の至高の霊的指導者である至高の人格神に、ほとんど全く犠牲を捧げないでしょう。 三つの世界を統御する偉大な名士たちが皆、至高主の蓮の御足にひれ伏すにも関わらず、この時代の取るに足らない(petty、劣った)、惨めな人類はそうしないでしょう。」 第2段落 民衆(thepublic)を惑わすことを目的としたそのような哲学的な専門用語の良い例が、ラーダークリシュナン博士が「アーヌクーリャシャ・サンカルパー」を、正しい意味である「至高主に服従する」の代わりに「すべてのものへの好意」と訳したことです。 そのような解釈(interpretation説明、通訳)は、私たちが俗的な学者から期待することのできるものです(訳注:俗的な学者のすることです)。 第3段落 献身奉仕における最初の言葉は服従です(訳注:何よりも大事なこと、という意味)。服従の唯一の意味は、人が神の従者であると受け入れることです。ラーダークリシュナン博士のような偉大な学者や哲学者でさえ、(彼らが)服従の過程に従う(toyield to ~、身をゆだねる、この場合は「始める」という意味)前に、たくさんの(heapsof、山ほどの)禁欲(austerities、修行)や苦行(penances)を行わなければなりません。 これがバガヴァッド・ギーターの結論です。ラーダークリシュナン博士の、服従の6つの根幹(limbs、手足にあたるもの、主題)の説明は表面的(superficial)です。もともとはヴァイシュナヴァの文書(text)において定義された、服従のこれらの6つの根幹(limbs)は、主ヴィシュヌ、すなわちクリシュナに関わっています(topertain to ~)。 アヌクーリャは「主クリシュナへの愛情ある奉仕」を意味します。バークティ・ラサームリタ・スィンドゥーは、(サンスクリット引用)と述べます。「人は好意的に(favorably)主クリシュナに超越的な愛情ある奉仕をすべきです。それは純粋な献身奉仕と呼ばれます。」 第4段落 世界のすべての人は、何らかの形で(inone way oranother)主クリシュナに奉仕をしています。ある者たちは好意的にそれをしており、そして他の者たちは相反して(antagonistically、矛盾して、この場合は「非好意的に、悪意を持って」)そうしています。 悪意を持って(unfavorably)奉仕をしている者は有害な(inimical、敵意のある)無神論者、愚かな非献身者です。一方、喜んでそれをする者は、本当に知性的です。言い換えると、クリシュナの献身者は非常に知性的であり、一方で俗的な学者たちはカムサやジャラーサンダーを筆頭とした(ledby、~に率いられる)非献身者の無神論者と同じ区分の内にあります。 第5段落 バガヴァッド・ギーターにおける主要な教えは、完全に主クリシュナの庇護の下に入ることです。それなのに、主クリシュナご自身の蓮の唇から発せられたこの極めて重要な(cardinal、基本的な、主要な)結論は、ラーダークリシュナン博士が人は人格としてのクリシュナではなく「クリシュナを通して語る、生まれず、始まりがなく、永遠の存在」に服従すべきであると書くとき、彼によってさかさまにされています(tobe reversed、この場合は「完全に否定されている」という意味)。 自分の博識(erudition)を仰々しく(ostentatiously、これ見よがしに)ひけらかす(todislay)ために、ギーターを議論のためだけに取り上げ(totakeup)、そしてそのため愚かにも、バガヴァッド・ギーターの話者である主クリシュナが、単なる、死を運命づけられた存在であると結論するほどまでに文章を誤解するというのは、徒労(anexercise in futility、無駄に終わることが決まりきっている行為)です。 神は存在しないと宣言する(topronounce)ため、という、ヴェーダの知識のこの使い方は、悪意をもってクリシュナに奉仕することの明らかな例です。 第6段落 ヴェーダの名において無神論を広めるラーダークリシュナン博士のような学者を、主クリシュナはどのように描写なさるでしょうか。バガヴァッド・ギーター(7.15)において、私たちはこの言明を見出します(訳注:~には~と書かれています)。 (サンスクリット引用) 「全く愚かであり、人類のうちで最も低く、その知識が幻想によって盗まれていて、そして悪魔の無神論的な性質を持つ(topartake)それらの悪者たち(miscreants)は、私に服従しません。」 第7段落 カムサやジャラーサンダーのような主の敵たちは、いつもクリシュナのことを瞑想しますが、悪意を持ってです。これらの悪魔たちに似ているのが、いつもバガヴァッド・ギーターの本当の教えに挑戦し、それを誤って解釈する無神論的な学者たちです。 彼らは主について考えますが、(彼らは)敵意(enmity)を持ってそうします。なぜなら、彼らの知性はマーヤーによって覆われてしまっているからです。カムサとジャラーサンダーもまた、博識な(erudite)学者でしたが、敵意においてクリシュナに執着していた(obsessed)ので、彼らは悪魔でした。 第8段落 主チャイタンニャの教えと模範的な行動から、私たちは、バガヴァッド・ギーターの教えに好意的に従うのが私たちの義務であると理解します。主チャイタンニャの南インドの旅の間に、主がシュリー・ランガナーター寺院の構内(premises、建物あるいは敷地の中)に入ったとき、主は、バガヴァッド・ギーターを読むことに没頭していた(tobeengrossed)1人の単純な(simple、純真、お人好し、愚か、身分の低い、などの意味がある。この場合は「朴訥」か?)ブラーマナに出会いました。 主は、そのブラーマナがいかに注意深く(attentively)読んでいるか、そしていかに涙が彼の頬を伝って流れているかを見て、大変喜ばれました(overjoyed)。近くに座っていた他のブラーマナたちは、彼が文盲であることを知っていたので、いったいどうして彼がギーターを読むことができるのかと不思議に思いました。 第9段落 主チャイタンニャは、この問題を簡単に解決なさいました。主は、(もしも彼が)完全に服従した魂であるなら、教育のない人でさえ超越的な言葉を理解することができる、とおっしゃいました。しかし、服従の気持ち(mood)がなければ、バガヴァッド・ギーターは理解できないままです(toremain incomprehensible)。 第10段落 ブラーマナが泣いているのをご覧になったとき、主チャイタンニャは彼に、ギーターのどの部分に泣くほど感動したのかとお尋ねになりました。正しいヴァイシュナヴァの謙遜をもって、ブラーマナは答えました。 「私は単にギーターを読む振りをしているだけです。本当は私は文盲です。しかし、私のグルは、(私が)文字が読めなくても(unlettered)バガヴァッド・ギーターを定期的に読むようにと、(私に)お教えになりました。 (私の)グルに背き(todisobey)たくないので、私は自分の義務を遂行しようとします。そしてそのため、私はギーターを読んでいる振りをするのです。」 第11段落 主はそれから彼に、なぜ泣いていたのかとお尋ねになりました。ブラーマナは答えました。「私がギーターを読むために座るといつでも、パールター・サーラティー(アルジュナの戦車の運転手)としての主クリシュナの姿が私の心に現れます。 そしてこの姿を見たらすぐに、私は直ちに、いかに主がバークタ・ヴァツァラ(主の献身者に特に親切である)であるかを思い出します。この考えが私を泣かせます。」 第12段落 マーヤーヴァーディーはいつでも、非二元論的な(nondual)至高のブラーマンと同化して神になることに大変熱心です。しかし、彼らの小さな脳は、どうやって(how)至高の人格神がご自分の献身者の運転手(charioteer、戦車の運転手)になって彼の命令を実行するのかを理解することができません。 本当は、至高主とジーヴァは永遠に関係があり(related)、そしてこの関係のため、多くの素晴らしいことが可能です。しかしマーヤーヴァーディーはこの真実を理解することができず、彼らに理解させようと試みた多くの人々が惨めに失敗しました。 シュルティ(シュヴェターシュヴァタラ・ウパニシャッド6.23)において、私たちはこの言明を見出します(~と書いてあります)。 (サンスクリット引用) 主と霊的指導者の両方に絶対的な(implicit、盲目的な)信頼(faith)を持つ偉大な魂だけに、ヴェーダの知識のすべての意味(imports、重要性)が自動的に明かされます。 第13段落 ギーターを読んでいたときの南インドのブラーマナの献身を見て(uponseeing ~ as he read theGita)、主チャイタンニャは彼を抱擁し、それから彼に、彼はギーターを読むことを完成したとおっしゃいました。 主チャイタンニャの認定が何百万もの大学の博士号(doctorates)よりも遥かに優れていることを、どの愚か者が否定するでしょうか?(訳注:~であることを誰が否定するでしょうか?いくらなんでもそんな馬鹿なことは言う者はいません)。 主からのこの賞賛(accolade)は、バガヴァッド・ギーターは物質的な知性によって研究され得ない、ということを証明します。ギーターの知識は、師弟継承において伝わっている、アーチャーリャ、すなわち霊的指導者の鎖(chain)を通して受け取られなければなりません。 これが唯一の方法です。そうでなければ、ギーターを学ぶことは徒労に終わります(anexercise infutility)。聖典の結論は、至高主は超越的であるので主の言葉もまた超越的であり、そしてそのため、バガヴァッド・ギーターの深遠な(esoteric)主題は、等しく超越的である師弟継承を通してのみ受け取られ得る、というものです。パドマ・プラーナには次のように述べられています。 (サンスクリット引用) 「誰も自分の物質的に汚染された感覚を通してシュリー・クリシュナの名前、形、性質、そして娯楽の超越的な性質を理解することはできません。主への超越的な奉仕によって人が霊的に位置するようになるときだけ(訳注:~になって初めて)、主の超越的な名前、形、性質、そして娯楽が彼に明かされます。これはバガヴァッド・ギーター(5.38)において確認されています。 (サンスクリット引用) 「私は太古の主ゴヴィンダを崇拝します。主はシャーマスンダラ、クリシュナご自身であられ、計り知れない(inconceivable)無数の特質(attribute)をお持ちであり、純粋な献身者は彼らの心の中に愛の軟膏(salve)が薄く塗られた(tinge)献身の目で主を見ます。」 (訳注:軟膏うんぬんというのはときどき使われる表現で、ちょっと違いますが「色眼鏡」、または「媚薬」に当たるかと思います。これが塗られると心がその色や気持ちに染まる、というような意味で、物質としての軟膏とは関係ありません。) 第14段落 したがって、聖典の結論は、ラーダークリシュナン博士のような俗的な哲学者は霊的な主題を探求する(todelveinto~)資格がない、というものです。主の献身者だけが、主クリシュナを理解する資格があります。他の誰にも(その)資格はありません。バガヴァッド・ギーター(18.55)において、クリシュナご自身が次のように述べておられます。 (サンスクリット引用) 「人は、献身奉仕によってのみ、私をありのままに、至高の人格神として理解することができます。」 第15段落 ラーダークリシュナン博士のような学者は、主クリシュナの内には主クリシュナだけがある(onlyLord Krishna and nothingelse)ということを理解すべきです。主クリシュナの体と魂は同じです。ギーターの結論は、非二元論的な(nondual)真実はクリシュナ、完全至高存在である、というものです。 しかしラーダークリシュナン博士は、どういうわけかクリシュナの中にもう一つの、第二の存在を見つけました。それでは、この発見はラーダークリシュナン博士を二元論(dualism)の信者に変えます(toconvert)! すべてのジーヴァの心臓の中に住む完全真理の顕現は、主クリシュナによってバガヴァッド・ギーターの中に明瞭に(lucidly)描写されています。バガヴァッド・ギーター(10.8)において、主クリシュナは、すべてのジーヴァの心臓の中に住んでいる存在が誰であるかを説明なさいます。 (サンスクリット引用) 「私はすべての霊的および物質的な世界(worlds)の源です。すべてのものは私から放射します。これを完璧に知っている賢者は私への献身奉仕にいそしみ、心のすべてをもって(withall their hearts、心から)私を崇拝します。 ■
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by ammolitering4
| 2016-03-07 06:54
| 「英知による放棄」
第10段落 この物質世界に降臨し、それによって影響されないままでいて、それから離れているのは、至高主の特別な特権(prerogative)です。そして、主のように、主の純粋な献身者たちもまた、現象の(phenomenal)世界の華々しさ(glare、まぶしい光)によって惹きつけられないままで留まります(訳注:~に惑わされないでいることができます)。 至高主が永遠で、解放されていて、そして純粋であるように、主の献身者もまた、どのような状況にあっても同様です。これは単純な例を通して簡単に理解され得ます。技術的な発達は、自然が既に提供する(~has to offer、これは「~のすべて」を意味する熟語であり、義務などを表すhas to の意味はない)魅力的なもののすべて(attractions)に映画などを加えました。 (訳注:自然は既に様々な素晴らしいものを与えてくれていますが、技術的な発達によって、それに映画などの新しい魅力が加わりました。) そしてそれでも不思議なことに、今日に至るまで、これらの幻想的な誘惑(enticements)は本当の聖人や隠遁者(hermits、仙人)を魅了し損ねています。そして、私たちは一部のいわゆる現代の聖人たちや托鉢僧たち(mendicants)が大麻(cannabis)や煙草に中毒しているのを見るにも関わらず(訳注:~が見受けられますが)、彼らでさえ多くの他の現代の感覚的な、気を散らすようなもの(distraction)を跳ねつけています(tobe repulsed、拒絶、退ける)。 もしも幻想的な物質世界が主の献身者にほとんど何の(little or no)魅力もないなら、主ご自身はさらにどれほど少なくそれに魅了されておいででしょうか!したがって、無明のせいで人は単なる死を運命づけられた者(mere mortals)が神であると主張するかもしれませんが、それは現実を変えません---人はいつも人であり、神はいつも神であり、決してそうではないということはない(never otherwise)という現実を。 第11段落 かつて、私たちのアーシュラマのブラーマチャーリーの1人が、一種の霊性主義者(a spiritualist of sorts)であり博学な(erudite)学者であるサルヴァパリ・ラーダークリシュナン博士に会いました。ラーダークリシュナン博士は、私がこの随筆を書いている現在、インドの副大統領です。 彼に会ったとき、私たちのブラーマチャーリーは彼から贈り物としてバガヴァッド・ギーターを一冊受け取りました。ラーダークリシュナン博士はこのギーターを英語に翻訳し、それに解説を書いており、そしてそれは当時(1954年)、市場で10ルピーでよく売れました。 第12段落 そのブラーマチャーリーはその本を読み、その本自体は大変深遠であった(deeply esoteric)のですが、やや不満に感じて私たちのところに来ました。彼の不満の理由は、ラーダークリシュナン博士の文章が霊的な洞察(insight)に欠けていたということでした。 多くの箇所で、彼は文(text)を誤って扱ったり(to mishandle)、誤って解釈したり(to misinterprete)していました。そしてそのため、彼は自分の本を、純粋な献身を受け継ぐ(in the line of pure devotion)霊性主義者たちにとって受け入れられないものにしていました。 これは、「主によって、もっとも偉大な賢人たちや半神たちでさえ幻想の中に入れられます」(ムヒャンティ・ヤット・スーラヤー)というシュリマッド・バーガヴァタムの言明(1.1.1)の完璧な例です。主がいかにも簡単に主ブラーマー、主シヴァ、主インドラ、そして他の偉大な宇宙の統御者たちを惑わすとき、ラーダークリシュナン博士が幻想に入れられる(訳注:惑わされる)のは全く驚くべきことではありません。 第13段落 そのブラーマチャーリーは、彼の本の254ページに現れる、第9章第34文節(Text 34)の、ラーダークリシュナン博士の誤解釈によって特に衝撃を受け、傷つきました。彼は非常に陰鬱として、この一文(passage)を論じたいと思って私たちのところに来ました。 その本には、次のような言葉が書いてありました。「私たちが自分自身を完全に捧げるべきは(to whom we have to give ourselves up utterly)人格的な(personal)クリシュナではなく、クリシュナを通して話す、生まれたことのない、始まりのない、永遠の神です(the Unborn, Beginningless, Eternal)。」 第14段落 私たちは、ラーダークリシュナン博士のような世界的に有名な哲学者に議論を突きつける(to confront ~ with arguments)気は毛頭ありませんが、それでも、ブラーマチャーリーが再三頼むので、私たちは文を詳しく調べて(to scrutinize)矛盾(discrepancies)を指摘しなければなりません。 私たちは、ラーダークリシュナン博士に大いなる敬意を持っています。彼が私たちの国の副大統領であるからだけではなく、彼の学識と、ヒンズー教の哲学の博学な(erudite)師匠(master、指導者、熟練者)としての彼の立場のためでもあります。 さらに、彼は自分の出自(to hail from、出身)であるブラーマンの(brahminical)伝統に忠実で、マーヤーヴァーダの学派の学徒(follower)です。愚かな友よりも学識のある敵を持つほうが良いという、 たびたび引き合いに出される言葉(oft-quoted dictum)に照らすと(going by、基づく)、私はこの事柄に関して勇気づけられます。 知性的な敵(opponent、対抗者)は合理的な(reasonable、筋の通った)反証(rebuttals)を挙げますが、無知な友は彼のもがき(floundering、不器用にもがき苦しむ様子)をもって大きな災難(disaster)をもたらすかもしれません(訳注:訳の分からないことを言ってひどい結果をもたらすかもしれない)。 したがって、私たちはラーダークリシュナン博士がバガヴァッド・ギーターの解説において論じる事柄(to make points)に対して強く反論することに関して何の呵責(compunction、良心の咎め)も感じません。 第15段落 有名なベンガル地方の諺があります。「ラーマーヤナ全体を読んだあとで、あなたはシーターは誰の父かと尋ねるのか?」この問いは馬鹿げています(ludicrous)。なぜならシーターは主ラーマの妻であり、そしてそのため、そのような問い(query)は当然、皮肉(quips)と笑いを招きます(訳注:顰蹙を買う、嘲笑される)。 私たちは、ラーダークリシュナン博士のギーターの英語の解説において同じ不条理さ(absurdity、馬鹿馬鹿しさ)を見出します(訳注:~が見受けられます)。彼は、私たちは人格としてのクリシュナ(the person Krishna)ではなく、クリシュナの中の「生まれず、始まりがなく、永遠であるもの」に服従しなければならない、と書きます。 これは、主クリシュナと主の「内的な自己」が二つの異なる自己(identities)であることを暗示します(to imply)。ラーダークリシュナン博士によれば、クリシュナの体と主の魂の間には違いがあるので、私たちはクリシュナの体ではなく魂に服従しなければなりません。 宗教的な哲学の分野におけるこの新しい発見は、上で参照したラーマーヤナの「パンディタ」を私たちに思い起こさせます(訳注:彷彿とさせます)。バガヴァッド・ギーターを語ることにおける主シュリー・クリシュナの唯一の目的は、主の蓮の御足に服従することを私たちに納得させることです。 しかし、そもそもの最初から(right at the outset)、ラーダークリシュナン博士はこの点を受け入れる意思がありません。主クリシュナはバガヴァッド・ギーター(18.66)において中心的な教えを与えられます。 (サンスクリット引用) 「すべての種類の宗教を放棄し、ただ私に服従しなさい。私はあなたをすべての罪深い反応から救います。恐れてはいけません。」 第16段落 主クリシュナは、アルジュナが主に服従するようにするために、これらの言葉を彼に語られました。このギーターの文におけるサラナムというサンスクリットの言葉は、「服従する(to surrender)」を意味します。彼の「入門的な随筆」の62ページで、ラーダークリシュナン博士は服従に関する考え方もやや詳しく論じました。彼は次のように書きます。 「プラパッティ(服従)の内訳は、以下のようなものです(to have the following accessories)。(訳注:サンスクリットは省略しました。) 1.(校正:(i)が抜けている)すべてのものへの愛情(goodwill to all) 2.悪意がないこと(absence of ill will) 3.主が守ってくださるという信頼(faith that the Lord will protect) 4.救い主(savior)としての主に拠り頼むこと(resort to Him as savior) 5.完全な無力感(absence of utter helplessness、非力) 6.完全な服従(complete surrender) 第17段落 これらの服従の6つの根幹(limbs、手足)は、クリシュナ、すなわちヴィシュヌに関連して従われるべきです。なぜなら、服従の過程に関するこれらの教えは、ヴァイシュナヴァの聖典の中に見られるからです(to appear in ~)。 ラーダークリシュナン博士は、最初の教え(limb)(サンスクリット省略)を「すべてのものへの愛情」と訳しました。問い:すべての者に服従することは可能ですか?服従は、至高主のみに向けられるべきです。ラーダークリシュナン博士の提案は非現実的(impractical)であり、実際、不可能です。 ラーダークリシュナン博士がこの(his)解説を書くずっと前に、有名なヴリンダーヴァンのゴスヴァーミーたちを含む、自己を認識した多くの霊的な先人たち(preceptors)が、「アーヌクーリャシャ・サンカルパーという言葉は、人は至高主クリシュナに好意的に(favorably)奉仕をすべきである、ということを意味する」(訳注:括弧は訳者)と説明しました。 他のすべての霊的な権威者を無視して(to disregard)ラーダークリシュナン博士の見解(version)を受け入れようという本物の学者はいません(訳注:まっとうな学者であれば~はしない)。 第18段落 ラーダークリシュナン博士が「主への信頼(faith)」という言葉を使うとき、彼は確かに至高の人格神を指しています。どのような論理によって、彼は「主」が非人格的なブラーマンだけを意味するというのでしょうか(By what logic does he say “Lord” but mean the impersonal Brahman? この場合のbutは「ほんの~だけ」という意味)? アルジュナは、(サンスクリット引用)(BG 2.7)「今、私はあなたの弟子であり、あなたに服従した魂です。どうか私を導いてください(to instruct)」と言うとき、確かに人格としての(person)クリシュナを意味します。これらの言葉をもって、彼はバガヴァッド・ギーターの初めにクリシュナを呼びます。 ギーターのこの段階において、非人格的なブラーマンはまだ論じられていません。非人格的なブラーマンという主題がとうとう提示されたとき、主クリシュナは明確に(unequivocally、疑いの余地なく)ご自分が非人格的なブラーマンの源であると宣言なさいます。 堅固たる論理は、人は非人格的なものや形のないものに服従することはできないと言います(訳注:~というのは論理的に確かなことです)。非人格的なブラーマンに過度に執着している者は、この形のない概念に服従することを非常に辛く(painful)、そして実に、不可能であると感じ、そしてもしも彼らがこの道に沿って歩み続けるなら(to persist along this path)、彼らは自分の妻、家族、そして親戚に服従する結果になるでしょう。 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 どうも毎度お待たせいたしまして、、、ようやく第1章が終わりました。でもまだまだ手元には何十ページもある。。。まあそのうちにぼちぼちと続きをお届けいたします。皆様、どうか見捨てずに辛抱強くお待ちくださいませ。それにしても、今年もまた何かと荒れそうな気配が、のんびり漂ってるどころか充満して渦巻いて吹き荒れてますね。どうなりますやら分かりませんが、お手元の傘なりランプなりは手放さず、精神的な保身を第一にお過ごしくださいませ。ごきげんよう。 ■
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by ammolitering4
| 2016-02-14 08:05
| 「英知による放棄」
第4部 ムニ・ガネラ・マティブラム - 幻惑された思考者たち(thinker、思想家、思索家) 第1章 基盤となる(fundamental)問いが博学な(erudite)学者を避ける(to evade、よける、当然すべきことを回避する)(訳注:この場合、「博学な学者が最も基本的なところを見落とす」という意味。) 第1段落 シュリマッド・バーガヴァタムの第1巻(canto)の、最初の章の一番初めの節において、最高の真理がこれらの言葉によって提示されました(to propound)。 (サンスクリット引用) 「私は主シュリー・クリシュナを瞑想します。なぜなら主は完全真理であり、顕現した宇宙の創造、維持(sustenance)、そして破壊のすべての原因の根源的な(primeval)原因であられるからです。主はすべての顕現を直接的に、そして間接的に意識しておられ、そして、主を超える(beyond)他のどんな原因もないので、主は独立しておられます。 もともとの生命体であるブラーマージの心(heart)にヴェーダの知識を最初に授けた(to impart)のは主だけです。ちょうど、人が火の中に見える水、あるいは水の上に見える土地の幻想的な投影(illusory representation)によって惑わされるように、主によって、偉大な聖人たちと半神たちでさえ幻想の中に入れられます(to be placed into~、惑わされる)。 主によってのみ(only because ofHim)、自然の3つの相の反応によって一時的に顕現している物質宇宙は、非現実(unreal)であるにも関わらず、本当(factual)であるように見えます。したがって私は、物質世界の幻想的な顕れ(representations)から永遠に自由である超越的なお住まいに永遠に存在しておられる神(Him)、主シュリー・クリシュナを瞑想します。主は完全真理であられるので、私は主を瞑想します。 第2段落 完全真理を定義し(to define)、ヴェーダ、プラーナ、そして膨大なその他の関連する(corollary、系、ある命題から当然引き出される結論、この場合は上記の二つに基づいた関連文献)文献において、それについてさらに詳しく述べた(toexpand upon~)あとで、シュリーラ・ヴャーサデヴァはそれでも不満(disconteted)に感じました。 彼の霊的指導者、デヴァルシ・ナーラダは、自分の弟子が非常に打ちひしがれている(dejected、落胆、しょげる)のを見て、彼に内側へ、深い瞑想に入る(to go)ように勧めました(to inspire、鼓舞、激励)。 その状態において、彼は何らの幻想にも惑わされない(free from the slightest illusion)最高の完全真理を知覚しました。上に引用した節は、シュリーラ・ヴャーサデヴァの霊的な知覚を反映しています。ナーラダは自分の弟子に、至高主の超越的な名前、形、性質(qualities)、娯楽、主に関わるもの(paraphernalia)、そして仲間たちの性質(nature)を明かすように教えました。 シュリーラ・ヴャーサデヴァの努力の結果は、完璧な(spotless)プラーナ、シュリマッド・バーガヴァタムです。 第3段落 シュリーラ・ヴャーサデヴァはバダリカーシュラマに行き、近くのサムヤープラーサというところでサマーディーに入り、至高の人格神を見ました。彼はまた、制約された魂を幻惑する、主の神聖なる力、マーヤーも見ました。この、真理を認識した(realized)意識において、シュリーラ・ヴャーサデヴァは完全真理、至高の人格神を、完全に独立しており超越的である、と描写しました。 これは、主に優るものはなく、主に等しいものもない、ということを暗示します(toimply)。物質的な世界においては、主ブラーマーは生命体の中で最も高い人格(personality、名士)として受け入れられています。 しかし、ここでアーディ・カヴィ、もともとの知性的な存在として描写されている主ブラーマーでさえ、完全に独立した至高主に従属しています(subservient)。実に、最初に主ブラーマーにヴェーダの知識を授けた(toimpart)のは至高主でした。 第4段落 普通の、死を運命づけられた存在(ordinary mortals)については、何をか言わんや?偉大な賢人たちや強力な半神たちでさえ、至高主を知ろうとする努力において完全に惑わされるのです(訳注:原文は長い一文。whatto speak of ~, (when) even ~)。 ディーマヒ、「私は~を瞑想する(Imeditate upon~)」という言葉の解説(purport)は、ガーヤトリー・マントラを唱えることを完成した者だけが至高に独立した主を理解することができる、というものです。ガーヤトリー・マントラを唱える資格があるのは誰でしょうか? 無明と熱情の相によって支配されている者は決してガーヤトリー・マントラを唱えることはできず、それを唱えることを完成する(attaining perfection in chanting it、この場合はおそらく「完璧に唱えられるようになる」という意味と思われます)ことは何をか言わんや? ブラーマーの性質を持ち、徳の相に位置する者だけが、ガーヤトリー・マントラを唱える資格があります。徐々に、常に唱えることによって、彼らはパラブラーマン(至高のブラーマン)、すなわち完全真理を理解できるようになります(to come to realize)。 そうしてはじめて、彼らは至高の人格神、そして(along with ~)主の超越的な名前、形、性質、娯楽と、主に関わる諸々のもの、さらに(aswell as)ヴァイクンターの惑星(訳注:複数)、そしてヴァイクンターの惑星(訳注:複数)の主、ナーラーヤナを知覚することができます。 そして、人が主への超越的な奉仕に正しく携わることを好むようになり(to develop a taste for ~)、献身の至高の味わい(mellows)をはっきりと理解する(torealize)とき、人は主ヴァスデヴァ、クリシュナを見ることができます。 第5段落 知識の上昇的な(ascending)過程(訳注:経験による学習から真理を求める)を通して至高存在に至ろうとする俗的な哲学者たちは、決して目的を達成することができません。当然(naturally)彼らを困惑させる、そのような試みの唯一の結果は、人は神であり、その逆もまたしかり、という彼らの誤解を確固たるものにし(they become rooted in the misunderstanding that~)、そうして彼らは地獄に落ちることになります(clearing their way to hell)。 彼らのうちのごく少数の者たち(a few)は、一瞬、超越性を見ることがあるかもしれませんが(mayhave a moment's glimpse oftranscendence)、すべてを逆に結論づけることになります。彼らは誤った(erroneous)非人格的な原則の餌食になります。 第6段落 完全存在のこの非人格的な概念(conception)の誤りを明らかにするために(to refute、論破)、シュリマッド・バーガヴァタムからの、先ほど引用した節は、明確に(unequivocally、疑いの余地なく)、完全真理は人格(a person)であると述べます。 この超越的な名士(personality、人格)は非常に強力なので、主は主ブラーマーにさえヴェーダの知識を授けることがおできになり(could)、主ブラーマーはそれから物質宇宙の創造を始められました(went on to create)。 主ブラーマーは創造の後にこの非凡なヴェーダの知識を受け取ったのではなく、創造の働きを始める前に受け取られました。俗的な自然が存在するようになる(comeinto being)前に存在した知識は超越的であり、サムヴィットとして知られます。 ヴィシュヌ・プラーナは、サンディーニー、サムヴィット、そしてフラーディニー、すなわち存在、知識、および喜びという主の力(the Lord's potencies of existence, knowledge, and pleasure)、という主題に分かれています(to delve into~)。 全部合わせて、これらは主の内的な力、すなわち霊的な力として知られます。シュリマッド・バーガヴァタムもまた、主の内的な力という主題を論じます。この優性なる力は3つの物質的な相によって特徴づけられる(to be qualified)主の劣性な、外的な力と相当に(quite)異なります。 主の優性な、霊的な力の一つの例は、ジーヴァです。ジーヴァは主の内的な力の産物であり、主の外的な力のそれではない、と理解することのできる者は、直ちにこれらの二つの力の間の違いを理解する(to grasp)ことができます。 第7段落 幻想(delusion)は現実の歪んだ映像(image)であり、主の外的なエネルギー、マーヤーの証明(hallmark、太鼓判)です。この幻想は、主の内的な、霊的な力の中には完全に不在です。ジーヴァは主の優性な、超越的なエネルギーの産物ですが、彼(ジーヴァ)は自分の体を自分自身であると見なす(to identify ~ as ~)ように幻惑されます(to become deluded into ~)。 いったんこの無明が消えると、彼らは直ちに体の実際の性質を理解することができます。幻想(illusion)は俗的な領域(plane)においては可能ですが、霊的なエネルギーにおいては決して可能ではありません。 第8段落 物質的な自然において可視的な多様性は、主の霊的なエネルギーの影響によるものです。言い換えると、物質自然は霊的なエネルギーの歪んだ反映に他なりません(~is but ~)。例えば、太陽光はいつも存在していますが(ever existing)、太陽光が水に反射されると、創造、維持、そして破壊という循環を受け入れなくてはならない、新しい光の源が生じます(there comes into being a new source of light)。 もともとの太陽は、もちろん、そのような変化によって縛られません。物質的な自然は幻想(illusory)です。時としてそれはあり、別のときにはありません。この幻想的で一時的な「あったりなかったりする」という存在が完全に取り除かれ、代わりに主の名前、形、性質、仲間、関連するもの、そして住みかが顕現するとき、人は、ここでニラスタクハカム、「物質的な世界の幻想的な顕れ(representation)から永遠に自由である」として(校正:has→ as)描写される、サテャムパラム、完全真理の水準(platform)にあります。 第9段落 ジーヴァは、主の周辺的な力と呼ばれてきています(has been referred to as)。ジーヴァは予測がつきません(unpredictable)。時として彼は物質的なエネルギーの統御の下にあり、そして別のときには霊的なエネルギーの庇護の下にあります。 しかし、至高の絶対に誤りのない(infallible)主は、ご自分のエネルギーのいずれの影響(sway、統治、揺れ動くこと)の下にも来られません。主は永遠に完全な独裁者(autocrat)、すべてのエネルギーの主人、至高の人格神、ヴァースデヴァであり続けられます。 すべてのエネルギーは主から放射し、そしてそのため主は至高のエネルギー的な原則でいらっしゃいます。スヴァ・ラート(「独立した」)とパラム(「至高の」)という二つの単語が、ある生命体(an entity)を描写するのに用いられるとき、そのとき彼(He)は必ず(must be)至高の人格神、すべての原因の永遠の原因です。 至高主が決してマーヤーの影響の下に来られないということは、シュリマッド・バーガヴァタムの他のところ(1.11.38)においても確認されています。 (サンスクリット引用) 「これは至高の人格神の神性(divinity)です。主は物質自然に触れられるにも関わらず、その性質によって影響されません。同様に、主の庇護の下に入った献身者も、物質的な性質によって影響されるようにはなりません(to become influenced)。」 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 。。。忘れた頃にやってくる災害のような頻度となっていて、まことに申し訳ございません。第1章の残り半分もできているので、近いうちに清書してお届けしようと思います。少数ながら熱心に読んでくださる皆様、いつもどうもありがとうございます。実は最近は私の年代者のコンピューターの調子があんまりよろしくなく、仕事に差し支えが出始めているのです。直りますように、というお祈りのほど、どうぞよろしくご協力くださいませ。 私は最近もまだ絵を描いていて、これは技術の上手下手に関わらず、ようやく絵が自分の道具と感じられるようになった感覚があって嬉しいです。せっかくですので無理矢理見せびらかすことにしましょう。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ■
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by ammolitering4
| 2016-02-10 10:06
| 「英知による放棄」
皆様、明けましておめでとうございます。ここカナダではまだ夕方ですが、日本はもう新年になりましたね。
一年間お付き合いくださいましてどうもありがとうございます。かなり停滞してしまってほとんど進まず、ほんとに申し訳ありません。趣味で描いている絵のほうもあんまり進んでなくて、それじゃあ仕事に心血を注いでいるのかといえばそうでもなく、なんとなくだらだらした一年でした。来年はもうちょっと真面目にやりたいと思いますが、どうもエネルギーの流れのようなものがあるような気がするので、無理せずマイペースでやっていこうと思います。またまたお待たせするかと思いますが、どうぞ気長にお付き合いくださいませ。 世相はますますカリユガの気配が濃厚になってきていますね。これからその方向性が変わるとも思えず、私たちにできることは何なのだろうと考えると、何よりもまず魂である自分の身を守ることなのだと思います。飛行機で事故のときに酸素マスクが下りてきますね。子供がいれば、あれをまず自分につけてから子供につけてやるというのが正しい順番です。これからの時代はゆっくりと落ちていく飛行機の中にいるようなものと覚悟していきたいものです。皆様の魂の未来が平安でありますように。 葉子
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by ammolitering4
| 2016-01-01 11:24
翻訳でなくて恐縮ですが、ラザロ様のガラス絵ができました。依頼主の方にお届けしたらとても喜んでくださり、これから教会に持っていく、とおっしゃいました。教会に21日間置いておくことで、ただの絵が本物のイコンとして認められるのだそうです。長年イコンが欲しかったとおっしゃる依頼主の方のもとで、私の描いた絵が本物のイコンになって彼の信仰のお役に立てると思うと、ほんとに光栄です。
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by ammolitering4
| 2015-11-29 10:46
こんにちは。相変わらず世界ではいろいろと不穏なことが起こっていますね。世界的な戦争が始まりそうな気配が濃厚になってきました。これから世界はどうなるのだろうと思いますが、長期的に見ればカリユガが進む一方ということを知っていることで一種の安らぎが得られる気がします。
翻訳が滞っていて申し訳ありません。ぼちぼち、ぼちぼちと進んでいます。いろんなことが停滞する時期なのかな、という気もします。アートのほうもちょこちょことやってますが、これは同じくのんびりと進んでいるガラス絵です。ご覧のようにテーマは聖書で、聖ラザロを描いたセルビア正教会の聖画をもとにして描いています。これで最初の層はできあがりなので、あとはこれに色を加えていこうと思っています。 聖ラザロは死んでましたが、しかも4日も経って死体が腐って臭くなってたはずだったのですが、イエス様が「出てきなさい」と言ったら蘇って、言われるままに墓から出てきました。死ぬ前に家族の人がイエス様に助けてくれるように頼んでいたのですが、イエス様は何かの用事で忙しかったらしくて、遅くなってしまいました。それで「ごめんね~」と言って家族のもとに行って、「今から治すから」とおっしゃいました。それを聞いた家族は「でももう腐ってます」と言いましたが、イエス様は「大丈夫」と言って、実際大丈夫だった、という顛末です。そのため、聖ラザロはセルビアでは家族の守り神として祭られているのだそうです。 この絵は、お店の常連さんであるセルビア人のおじいさんに頼まれたものです。おじいさんには妻や子はいらっしゃらないようですが、それでも甥や姪などの家族がいて、仲良くしていらっしゃるようです。彼の家族を守る絵になるように、心して丁寧に仕上げようと思っています。 ![]() ■
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by ammolitering4
| 2015-11-20 12:12
全然更新してないのに見捨てないで見に来てくださる皆様、こんにちは。いつもありがとうございます。お寺や献身者との関わりからすっかり遠ざかってしまって久しく、プラブパーダのお顔を見るのにも罪悪感が邪魔して直視できない情けない日々ですが、翻訳そのものはほんとに少しずつですが進んでいます。気持ちの波というのはあるようで、一瞬の暇も惜しんで訳していた頃のような熱意は影をひそめています。今は何を一生懸命にやってるのだろうと考えると、特にこれといってないのですが、関心のあることと言えば難民問題です。なぜか非常に気になっており、ヨーロッパのメディアのニュースに毎日べったり貼り付いて進退を注目しています。これを境にして新しい時代になるような気がするのです。
それから、彗星に酸素が発見されましたね。私は彗星のことにも強い興味があります。オカルトなのかもしれませんが、人間が数年前に彗星を破壊したのはとても不吉なことだったと思います。やってしまったことは仕方が無いので結果を受け入れるしかありませんが、あの事件の際に大多数の人々が拍手喝采をしたのを見たら、人間がこれほど馬鹿ならわざわざ破滅を招くのもむしろ良いことかもしれないと思ってしまいました。 魂と肉体のバランスをとり続けなければならない物質世界で生きている、終わりのあるこの人生。先日は健康そのものだったはずの比較的若い友人がころりと死んでしまいましたが、一方では「なぜまだ生きているのだろう」と不思議でならないお年寄りの友人もいます。いつでも終わりかねず、なかなか終われないかもしれない矛盾の中で、どうバランスを取ればいいのでしょうね。やっぱり、柔軟性のある長期計画を立てておくのが大切なのだろうと思います。そのために最近は多少遅ればせながらファイナンシャルアドバイザーの方からお話を聞いたりもしていますが、一方ではスピリチュアルアドバイザーであるプラブパーダのお話に耳を傾けることを忘れずにいたいものです。 ■
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by ammolitering4
| 2015-11-01 13:10
第5章 解放のための手段(The means to Liberation)
第1段落 ウパニシャッドにあるサルヴァム・カールヴ・イダム・ブラーマという言明を理解するために人は欲望を滅ぼさねばならないとは、ヴェーダの聖典のどこにも書いてありません。しかし、欲望の性質が変容されるべきであるということを勧める多くの言明があります。 世界の中のすべての活動が行われるのは欲望の力によるものであり、そしてバガヴァッド・ギーター(10.4-11)において主クリシュナは、欲望がこれらの活動に影響を与える様々な(multifarious)方法を論じられます。 (1)知性、知識、疑いと幻惑からの自由(訳注:~がないこと)、許すこと、正直であること、感覚の制御、心の制御、幸せと苦しみ、誕生、死、恐れ、恐れないこと、非暴力、落ち着き(equanimity、心の平静さ)、満足、禁欲、慈善、名声と不名誉(infamy)---これらの様々な生命体の性質は、私だけによって作られました。 (2)7人の偉大な賢人たちと、彼らの前の4人の他の偉大な賢人たちとマヌたち(人類の先祖たち(progenitors))は私から来ており、私の心から生まれました。そして、様々な惑星に住んでいるすべての生命体は彼らの子孫です(to descend from)。 (3)私のこの偉大さ(opulence)と神秘的な力を事実として(factually)納得している者は、純粋な献身奉仕に携わります。このことに疑いの余地はありません。 (4)私はすべての霊的および物質的な世界の源です。すべてのものは私から放射します。これを完全に知っている賢い者は私への献身奉仕にいそしみ、心をこめて(with all their hearts)私を崇拝します。 私の純粋な献身者の思いは私の中に住み(訳注:~はいつも私のことを考え)、彼らの人生は私への奉仕に完全に捧げられており、そして彼らはいつも互いを啓蒙し、私について語り合う(to converse)ことから大きな満足と喜びを得ます。 愛情をもって私に奉仕をすることにいつも献身的である者に、私はそれによって彼らが私のところへ来ることのできる理解を与えます。彼らに特別な慈悲を見せるために、彼らの心臓の中に住んでいる私は、知識の輝く灯りで無明から生じる闇を滅ぼします。 第2段落 人間の様々な(multifarious)欲望は至高のブラーマンの欲望の反映であるということを理解する者は、それらを捨てるのではなく主への奉仕において使うように注意を払います。はるか昔、7人の偉大な賢人たちとマヌたちは皆、神から与えられた自分たちの欲望を主への奉仕において(訳注~のために):使いました。 そして、今日これらの輝かしい(illustrious、有名、華々しい)先祖たちの例を見習う(to emulate)者は誰でも、決して欲望を俗的であるとも、霊的な発達への障害(impediment)であるとも見なさないでしょう。 もしもラマナ・マハーリシが私たちに欲望を打ち消す(to negate、否定)ように助言するなら、それなら私たちは、彼はサルヴァム・カールヴ・イダム・ブラーマというヴェーダの言明を誤解していると結論づけなければなりません。 すべての欲望と感情はももともとブラーマンであると理解した者、そしてそのためそれらを至高主への奉仕のために使うもの(to engage ~ in)は、完璧な魂と考えられるべきです。彼らは完全に無知(nescience)から自由です(訳注:~がない)。 これらの自己を認識した、高く上げられた、喜びに満ちた献身者たちの欲望は、非常に浄化されるので、何の無明も(not an iota of ~、~が少しもない)彼らの意識に影響を与えることができないほどです。なぜなら、主ご自身が彼らの心臓の中の無明を滅ぼされるからです。 第3段落 無明を無くす(to nullify、無にする)ための彼らの個々の努力と、至高主が慈悲深くもご自分の献身者を啓蒙なさる(to enlighten)のとの間には大きな隔たり(a wide gulf of difference)があると理解することに、マーヤーヴァーディーは悪戦苦闘しています(hard pressed)。 マーヤーヴァーディーはいつも、至高のエネルギー的なもの(the Supreme Energetic、神)から主の力を否定することに熱心です。彼らは、主の力を奪おうとしたラーヴァナ、そして主を公然と(outright)殺そうとしたカムサのような悪魔よりも優れたものではありません。 このような振る舞いは悪魔のそれです(is expected of demons、悪魔と聞いて予期されるようなもの)。邪悪な力を欲して、彼らは主への献身奉仕を放棄し、罪深い活動に手を染めます(to take to~、習慣的にし始める)。このようにして彼らはすべての知識を失います(to forfeit、没収される、権利を失う)。 主クリシュナはバガヴァッド・ギーター(7.15)において、いみじくも(aptly、適切に)彼らをマーヤーパーリタ・ジニャーナー、「その知識が幻想によって盗まれた者」と描写なさいます。たくさん、たくさんの哲学者、学者、そしていわゆる無敵の(invincible)勇者たち(heroes)が、至高主を無力で(impotent)形がなく、非人格的なものにしようとしましたが(to make ~ impotent, formless, and impersonal)、結局(in the end)彼らはいつもひどく苦しみました。 第4段落 そのためシュリマッド・バーガヴァタム(10.14.4)の中に、私たちは主ブラーマーによるこの言明を見出します。 (サンスクリット引用) 「我が親愛なる主よ、あなたへの献身奉仕は自己認識のための最良の道です。もしも誰かがその道を外れ(to give up)、推量的な知識を培うことに携わるなら、彼は単に苦しみの多い(troublesome)過程を辿り、望む結果を達成しないでしょう。 麦の空(empty、から)のもみ殻(husk)を叩く者が穀物を得られないように、単に推量する者は自己認識を得ることができません。唯一彼が得るものは困難です(His only gain is trouble.)。 第5段落 人はどこで、知性、知識、疑いからの自由(訳注:~がない状態)、喜び、悲しみ、恐れ、恐れのなさ、非暴力、落ち着き(equanimity)、満足(contentment)、禁欲、慈善、名声、そして不名誉(infamy)などの性質を見ることができるでしょうか? これらの性質は意識の暗示(indicative、表示、意識の存在を示すもの)であり、そのためそれらはどこであれ意識が存在するところに存在します。至高主は、これらの性質はご自分のものであり、そしてそれらはご自分から生じた(to have sprung)と宣言なさいました。 そして、カター・ウパニシャッドは(サンスクリット引用)と述べます。「すべての永遠の、意識のある生命体のうち、他のすべてのものに彼らの必要なものを供給する一つの至高の意識体(conscious being)が存在します。」 したがって、これらの性質はすべての意識体の中にもともとある(inherent、生来、内在)ことを否定し、そしてこのようにして微小な生命体と至高の魂の両方を生命のない物体(dead matter)と同列に置く(to equate)ことは、完全な困惑(confusion、混乱)という結果を招き、(訳注:そのようにして同列に置くことは)確かに、見識(insight、洞察力)の甚だしい欠落の証拠です(to demonstrate、証明する)。 マーヤーヴァーディーは、意識の存在を否定する(to refute、反論、論破)するか、またはそれを受け入れることが彼らに満足(contentment)を与えるかどうかということについて困惑しています(The Mayavadies are confused as to whether refuting the existence of consciousness or accepting it will give them contentment.)。 (訳注:文字通り訳すと、 whetherは「~であるかどうか」という意味なので、『否定するか、あるいは受け入れることが、自分たちに満足を与えてくれるかどうか』が分かりかねている、ということになります。どういう意味なのかどうもよく分からないのですが、「意識の存在を否定したとしても受け入れたとしても、どちらにしてもそれで満足できるかどうか分からない」という意味かもしれません。) 意識体はいつも不活性な物体を統御します。一つの単純な例がこの点を証明します。私たちは、カラスのような取るに足らない(puny)意識体が、ある勇者(some hero)の石の彫刻の頭の上に恐れ気もなく糞をし(to defecate)、そのようにして動的な霊による生命のない物体の支配を表しているのを見ます(thus demonstrating the conquest of ~ over ~)。 石のような知性を持った者だけが至高の意識体を感情のない、形のない物体(unfeeling, formless object)にしようとします。そのような試みは全くの愚かさです。 第6段落 シュリー・オーロビンドは、今日の学識のある社会(circles)に「新しい」概念を示すことによって、立派な(commendable、賞賛に値する)何事かを成し遂げました。意識の生来の性質を否定しようとする代わりに、主の神聖な力の指示のもとで至高主への奉仕に携わることによって、人は自分の俗的な意識を超精神的な(supramental)意識に変容させるべきです。 もちろん、昔(bygone ages)の自己を認識した魂(realized souls)よりも現代の哲学者たちを見習う(to emulate)ことのほうを好む者は、シュリー・オーロビンドの提示(presentation、発表)を奇抜(novel、目新しい)だと思うでしょう(will find)。 しかし、正当な(authorized)師弟継承に繋がった、主の純粋な、愛情ある献身者たちの足跡を辿る者は、シュリー・オーロビンドの言葉が古い(age-old)英知の記録(annals、年代史)をそのまま繰り返している(to echo)と知っています。実に、それらはヴェーダの真髄に似ています(sound close to ~)。 第7段落 ヴリンダーヴァンの6人のゴスヴァーミーたちは、ヴェーダのこの非凡で深遠な(esoteric、秘儀)真髄を発掘し(to excavate)、主の内的な力の働きを描写しました。主チャイタンニャのご降臨の前は、この性質の主題は、どの霊的な権威によっても、一度もこれほど詳しく論じられたことがありませんでした。 シュリー・ルーパ・ゴスヴァーミーは、ご自分の劇、「ヴィダグダー・マーダーヴァ」の中で、主チャイタンニャの人類への比類のない(unique)貢献を称えます。 (サンスクリット引用) 「シュリーマティー・シャチデヴィーの息子として知られる主が、あなたの心の一番中心のところ(the innermost core)に超越的に位置されますように。溶けた(molten)金の輝き(radiance)に輝き(resplendent)、主は、どの化身も以前に決して与えなかった(to offer)もの、献身奉仕の最も高い味わい(mellow、一般的な用法ではない)、恋人としての愛という味わいを授けるために、ご自分のいわれのない慈悲によって、カリの時代に降誕なさいました。 (訳注:「溶けた~」の部分では「輝き」を繰り返していますが、resplendentは特に「美しさ」を強調する意味合いがあるので、「溶けた金のように輝くばかりにお美しく」というのが自然な表現だと思います) 第8段落 「服従と(訳注:心を)開くこと(“Surrender and Opening”)」と題した随筆の中で、シュリー・オーロビンドはこう書きます。 (1)「このヨガの原則全体(the whole principle of yoga)は、自分自身(oneself)を完全に神(the Divine)だけに捧げ、そして他の何者にも何物にも捧げない、ということです。そして、神聖なる母との結びつきによって私たち自身にすべての超越的な光、力、大きさ(breadth、幅、広がり)、場所、純粋さ、真実、意識、そして超精神的な神聖さのアナンダ(Ananda of the Supramental Divine)を招く(to bring down、下ろす)ことです。 (2)ラーダーは神への完全な愛の人格化、彼女の(Her)存在のすべての部分において完全で統合的(integral)、最も高い霊的なものから物理的なものまで、完全なセルフ・ゴーイング(self-going、これは何のことか分かりません)とすべての存在の完全な神聖化(consecration)をもたらし、体と最も物質的な自然に至高のアナンダ(the supreme Ananda)を祈り求めます(to call down)。」 第9段落 上の言明の中の結論には不一致(disparities、極端な不釣合いを指す。この場合は本文自体の意味がよく分からないので、どのような不一致または矛盾を指すのか私は分かりません)がありますが、それでもシュリー・オーロビンドは独自に(on his own)正しい方向を指し示しました。 服従の雰囲気(mood)なくしては、霊的な味わいのうちで最も高く輝かしい(brilliant、すばらしい)恋人の(conjugal)味わいを理解することは不可能です。マーヤーヴァーディーは、この服従の態度(attitude)が完全に欠落しています(bereft of)。 したがって、自分たちだけで非二重的な概念を理解しようとするとき、彼らは非人格主義者になってしまいます(to end up becoming)。これらのマーヤーヴァーディーについてシュリー・オーロビンドが述べるところを読んでみましょう。 「非人格的なものを求めるのは、人生から退きたい者の方法です。普通、そのような非人格主義者は、自分たちをより高い力に開くことによって、あるいは服従という方法によってではなく、独自の努力によって(訳注:非人格的なものを求めることを)試みます。 なぜなら、非人格的なものは導いたり助けたりするものではなく、得られるべきものだからです。そして、それはそれぞれの人がそれ(訳注:非人格的なもの)を自分の性質のあり方(way)と能力(capacity)に応じて得るに任せます(訳注:原文は「普通、~」からの長い一文。) 他方で、母なる存在に(訳注:心を)開いて服従することによって、人は非人格的な存在(the Impersonal)と真理の他のすべての側面も理解することができます。」 第10段落 マーヤーヴァーディーは、自分の独自の努力の力によっては、解放を得るための努力において決して成功しません。幻想を克服して解放を得るための唯一の方法は、6つの完全な富を完全に備えた(complete with six absolute opulences)至高主に服従することです。 主クリシュナはギーター(7.14)においてはっきりと述べられます。マーム・エヴァ・イェ・プラパデャンテ・マーヤーム・エターン・タランティ・テ、「私に服従する者は簡単にそれ(物質自然の相)を超えることができます。」 第11段落 主に服従する過程を学ぶことにおける最初の一歩は、主の純粋な献身者に服従することです。チャイタンニャ・チャリタームリタ(マデャー20.120および122)には、次のような言明があるのが見られます。 (サンスクリット引用) (1)もしも制約された魂が、自発的に霊的な教え(injunctions、普通は命令や禁止命令を指すが、プラブパーダの著書では「教え」という意味合いの用法が多い)を教える(to preach)聖人的な人々の慈悲によってクリシュナ意識になるなら、彼はマーヤーの呪縛から解放され、マーヤーは彼を放棄します(he is liberated from the clutches of Maya, who gives him up)。 (2)制約された魂は自分の独自の努力によっては自分のクリシュナ意識を蘇らせる(to revive)ことはできません。しかし、いわれのない慈悲によって(out of)、主クリシュナはヴェーダ文献とその補足、プラーナを編纂なさいました。 第12段落 すべてのヴェーダとプラーナは、主クリシュナの主題を扱います。バガヴァッド・ギーター(15.5)の中の主ご自身のお言葉にはこうあります。「ヴェダイス・チャ・サルヴァイル・アハム・エヴァ・ヴェデョ、「すべてのヴェーダによって、私は知られるべきものです(By all the Vedas, I am to be known.)。」 ................................................................. 大変長らくお待たせいたしました。これにてようやく第3部が終わりまして、さらに第4部、第5部と続いております。いったいいつになったら完成することやら。。。 いつだったか占いの人に「あなたはいろんなことに手を出してどれも中途半端になる傾向がある。どれか一つに絞れば大きな成果を残せる」と言われました。収入の道も複数ある、とも言われましたが、どうやらどっちもばっちり当たっているようなのです。半端に手を出していることと言ったら、万年下っ端で満足しているスタバのバイト、チャリティーショップでの折り紙ブックの販売、売る気の全くないガラス絵、全く営業活動をしないフリーランスの翻訳の仕事、門外漢なのになぜか首を突っ込んでいる都市計画における市民参加などというテーマ(ときたま市民ワークショップのボランティアもします)、そしてこのプラブパーダのご本の翻訳、、、二兎を追うものは一兎をも得ずといいますが、5匹も6匹も追う場合はどうなるでしょうか。 そしてその間にもやっぱり洗濯物は溜まるし、たまには掃除もしなくてはならないし、死なない程度に料理だってしなければなりません。私はときたまアルバムを作って実家に送るので、そういうのだってそれなりに時間と手間がかかります。自分が散り散りになっているようで、本気で人生を見直さないといけないという気持ちが募っています。 あと3日くらいで死ぬとしたら、いや、せめて3ヶ月くらいあったほうがいいかな、どっちにしても今の状態であとそれくらいで死んでしまったら、人生にどんな未練があるでしょうか。アートの技術を磨くことに全力を尽くさなかったことも後悔するだろうし、プラブパーダのご本の翻訳できてないのがまだ山ほどあることも悔やむだろうし、都市計画の本の出版に漕ぎつけなかったこともきっとすごく申し訳なく思うと思います。これは実はあるお友達の本で、そろそろ90歳になられる建築家です。寿命のことがあるのでご存命のうちに日本語の本にして差し上げたいのですが、とりあえず門外漢の私が適当な翻訳をしただけで終わってしまっていて、正直言ってそれだけで満足してしまってその後の努力をしていないのです。 こうやってだらだらと書きながら考えているわけですが、やっぱりここは都市計画の本を出版することに努力したほうがいいでしょうね。どなたか建築学や都市計画にお詳しい方はいらっしゃいませんか?英語圏では非常に高く評価されている手法に関する本で、今買うと古本で一冊3万円くらいします。この原稿をタダでご覧に入れますので、ぜひとも詳しくチェックしていただきたいのです。出版関係の方をご存知の方もいらしたら、どうかお尋ねいただけませんでしょうか。 スタンレー・キングさんという方が開発したコ・デザインという方法で、カナダをはじめとしてアメリカやイギリスなどで多数応用されていて、大きな成果を残しています。都市計画をかじった方であれば、世界的な成功例の一つとしてカナダのグランビルアイランドやフォールスクリークのことをお聞きになったかもしれません。スタンレーさんはこのプロジェクトのコンセプト作りの段階で非常に大きな役割を果たした方です。彼の手法はサステイナビリティー教育にも応用されていて、あちこちの学校で採用されているので、これを体験した若い後継者も育ってきています。最新の例としては、カナダ最後のフロンティアと称される土地で(未開の地というわけではありません)一から町を作るというプロジェクトや、広大な精神病院跡地での開発などがあります。後者のケースでは、精神病院そのものも縮小されて存続することが前提になっています。この手法は開発者と近隣住民の摩擦を最小限に抑える上で非常に有効で、座り込みなどの抗議活動が起こったときに慌てて声がかかったりしますが、ほんとはそうなる前に平和的に活用するのが一番です。 日本とは土壌が違うとはいえ、学ぶところの大きい手法であることは間違いありません。いいかげんで怠けるのをやめて次のステップを踏み出さねば、、、去年も同じことを言ってたのですよね、実は。このブログをご覧の皆様、どうかよろしくご協力をお願いします。 ブログサイトはこちらです。ちらっとでも興味のありそうな方がいらしたら、ぜひとも宣伝してください。そして、よろしかったらご感想をお知らせください。スタンレーさんは日本文化に大きな敬意を持っていらして、日本での反応はどうだろうかと気にしていらっしゃるのです。反応があればきっとすごくお喜びになると思います。 スタンレーさんと奥さんのマーガレットさん。私が描いたガラス絵ですが、この首のシワは何だ!と言って奥様には極めて不評でした。 ![]() ■
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by ammolitering4
| 2015-08-11 13:48
| 「英知による放棄」
第4章 本来、ジーヴァはクリシュナの永遠の従者である
第1段落 主チャイタンニャがシュリー・サナータナ・ゴスヴァーミーへの教えの中の二、三の(aphorism、警句、金言、教え、戒め)格言において明かされた、深遠な(profound)奥義の(esoteric、秘儀、難解な)結論は、シュリー・オーロビンドのすべての作品の中で、部分的に論じられているだけです。 複雑な構文(syntax、文法、語法)とあいまいな(obscure)用語(terms)に満ちた言葉で、シュリー・オーロビンドはヴァイディー・バークティ、(すなわち)権威ある霊的指導者と聖典によって与えられる規則に応じてなされる献身奉仕の(、その)実践を通じて簡単に得られる知識を表そうとします。 彼の大げさな(high-flown、誇張した)文体、そして他の技術的な理由により、シュリー・オーロビンドの著作は一般的な読者には容易には理解されず、そしてそのため彼の作品は、言ってみれば効果がありません(ineffectual、無駄、空しい)。 第2段落 主チャイタンニャは、主クリシュナの従者としてのジーヴァの永遠の、本来の立場と、至高の享楽者であろうとしたときにジーヴァがいかに幻想に入れられたかを、詳細に論じられます。主チャイタンニャはさらに、主クリシュナの従者としての自分の永遠の立場を忘れるとき、ジーヴァは永遠に制約され、幻惑される、と説明なさいます。 こうしてマーヤーはジーヴァに物質的な人生の悲惨さを与えます(to inflict ~ upon、傷を負わせる、罰を与える)。もしも人が不自然に(artificially。人為的に)違う何か(something he is not)であろうとすれば、それなら彼を待つのは悲惨さだけです(he can expect only misery、悲惨さだけを予期することができる、ろくなことにならない)。 このことに関して、子供の頃に学校で読んだ、孔雀になろうとしたカラスの短い話を思い出します。この宇宙の創造者と主人は、その正当な(rightful)所有者でもあります。そのため主はすべてのものの唯一の享楽者です。 しかし、もしも創造者の多くの従者のうちの一人が主の立場を奪って(to usurp、横領、王座や権力を奪う)主および享楽者の役割を演じようとしたら、彼はどうして苦しみ以外の何かを予期することができるでしょうか? 第3段落 シュリマッド・バーガヴァタム(10.87.30)において、4人のクマーラの一人、サナンダナは、ジャナロカに集まった賢人たちに、人格化されたヴェーダ(訳注:4人のクマーラのこと)が以前に至高主に吟唱した(to recite)祈りを吟唱します。 (one of the four Kumaras, Sanandana, recites to an assembly of sages in Janaloca the prayers the personified Vedas previously recited to the Supreme Lord.) (訳注:これは何のことだろうとしばらく考えてしまいました。原文を参照なさる場合はthe personified Vedasをtheyに置き換えて読むと分かりやすいと思います。日本語では「自分たちが」とするのが良いかと思います。) 祈りの一つは以下のようなものです。 (サンスクリット引用) 「もしも無数の生命体が、あまたに存在し(all-pervading)、決して変わることのない形を持っていたとしたら、あなたは決して彼らの完全な統御者ではありえません、おお、不変の(immutable)方よ。しかし、彼らはあなたの局地的な拡張体であり、彼らの形は変わり得るものであり(subject to change)、あなたは彼らを統御なさいます(do control、強調表現)。 実に、何かの発生(generation)に材料を提供する者は、必然的にその統御者です。なぜなら、産物は決してその材料の源(ingredient cause)から離れては存在しないからです。その拡張体のそれぞれにおいて平等に存在なさる至高主を自分は知っている、と考えるのは単に幻想です(It is simply illusion for someone to think that he knows~)。 なぜなら、何であれ人が物質的な手段によって得る知識は、必ず不完全だからです。」 第4段落 究極の知識(the last word in knowledge)は、確かに、自己認識(realization)やブラーマン認識ではありません。理解すべき(to realize、はっきり理解する)ことは他にもあります。すなわち、ジーヴァは主クリシュナの永遠の従者であるということです。 この認識は超精神的な(supramental)意識の目覚めであり、そしてジーヴァがそのような意識において行う活動は、彼の永遠の人生の始まりです。主の内的で霊的なエネルギーの指揮(direction)のもとでジーヴァが自分のすべての活動を行うとき、彼はブラーマンの認識の幸せよりも一億(a billion)倍大きな(訳注:比べ物にならないほど大きな)、永遠の超越的な喜びを楽しみます。 両者の間の超越的な喜びにおける違いは、広大な海と、子牛のひづめの跡に溜まった水の違いのようです。シュリー・オーロビンドが「神聖なる母」について書いたとき、彼はおそらく(likely)この内的な、霊的なエネルギー、(すなわち)永遠の超越的な喜び(bliss)の支配神(predominating Deity)を指していました。 彼はまた、劣性の、物質的なエネルギーの活動は、この霊的な力のそれと間違われるべきではない、と指摘しました。かつて、有名な非人格主義者であり一元論者であるサンニャースィー、マドラスのラマナ・マハリシは、外国人の弟子にこう尋ねられました。「神と人の間の違いは何ですか?」 彼のあいまいな(cryptic、謎めいた、暗号の)答えは、「神に欲望を足すと人に等しく、そして人から欲望を差し引くと神に等しい」というものでした。私たちは、人は決して欲望無しではいられない(can never be free of desire)と言います。 この永遠の制約された存在において、ジーヴァは物質を楽しむ欲望に満ちています。一方で、(自分の)永遠の解放された状態において、彼(ジーヴァ)は主に献身奉仕を捧げる欲望に満ちています(訳注:「永遠に解放された状態では、ジーヴァは~に満ちています」)。 このため(Thus)、ジーヴァは決して神になることはできません。人を神と同等にする(to equate、同等視する)こと、あるいはその反対は、全くの(sheer)狂気です。自分の意識的な自己の生来の性質を否定するというマーヤーヴァーディーの不自然な欲望は、彼を解放を得ることから遠ざけるその同じ欲望そのものです(訳注:まさに~というその欲望そのもののせいで、~は~を得られません)。 従って(Hence)、マーヤーヴァーディーの誤っていて傲慢な解放の主張は、単に彼らの歪んだ知性の証明(demonstration、論証)に過ぎません。 第5段落 シュリマッド・バーガヴァタムによれば、欲望は決して無にされ得ません(to nullify、破棄する、無効にする)。制約されている間、ジーヴァはチャトゥル・ヴァルガ、(すなわち)ヴェーダ文献において宣言(to enunciate)される人間の人生の4つの目的(宗教性、経済的な発展、感覚の満足、および解放)として要約される無限の物質的な欲望の貯蔵庫(repository、宝庫)です(訳注:~に満ち溢れている)。 しかし、主の内的な、霊的エネルギーの指揮のもとで活動することによって作られる解放された状態において、ジーヴァの本当の、霊的な欲望が顕現します。シュリー・オーロビンドはこの主題を(詳細ではないながらも)論じ、このため私たちは彼をラマナ・マハリシよりも評価します。 ラマナ・マハリシは、ほぼ(more or less)、欲望から命を完全に窒息(to choke)させようとしました(抹殺しようとしました)。この力ずくの欲望の排除(elimination、消去)は、霊的な自殺です。患者の病気を治すことなくその命を終わらせる(to finish off)ことには何の栄誉(credit)もありません。 医者は、病を癒し、患者を救うことができるとき、資格があります。上に述べられた4つのヴェーダの目的地を、非人格的な解放までさえも目指す(to pursue)者は、自分の感覚によって捕らわれ(to be imprisoned)、自分の欲望によって奴隷にされます。 他方で、(自分の)日々の活動を至高主への奉仕に使うための方法を人々に教えることのできる者は、人類の本当の恩人(benefactor)です。 第6段落 バガヴァッド・ギーター(9.4)において、主クリシュナはおっしゃいます。 (サンスクリット引用) 「私によって、私の非顕現なる形において、この宇宙全体が満たされています(to pervade、充満)。すべての存在(beings)は私の中にありますが、私は彼らの中にはありません。」 第7段落 その非顕現で非人格的な形において、主クリシュナはご自分の外的なエネルギーの変容であるこの宇宙全体を満たされます(to pervade)。したがって、物質的な創造の中のすべての生命体は、主のエネルギーに依存します(to rest)。 エネルギーは、エネルギー的な源無くしてそれ自身だけで(by itself)存在することはできません。このように(Thus)。物質エネルギーと至高のエネルギー的なもの、(すなわち)主クリシュナは、原則として(in principle)一つですが、エネルギー的なものは主のエネルギーの働きから遠く離れています。 ジーヴァは、周辺的であるため、主の外的なエネルギー---この物理的な世界---の顕現、または主の優性な内的な力の拡張体である霊的な世界において、主ご自身に奉仕をする、という欲望によって動かされます。 言い換えると、すべての状況においてジーヴァは従者としての自分の本来の立場を維持します。そのため彼は、奉仕をするという自分の欲望を人為的に放棄することによって、この物質自然の従者として経験する(to undergo、変化を経験する、苦しみを耐え忍ぶ、手術などを受ける)苦しみを和らげる(to relieve)ことはできません。 本質的に(inherently)従者であるので、ジーヴァは奉仕をするという自分の欲求を捨てる(to forsake、習慣などをやめる)ことは決してできません。しかし、もしもそう望むなら、彼は悪い奉仕をやめて良い奉仕をすることができます(to quite ~ for ~)。 彼は、奉仕をするという自分の欲求を完全に抑圧する(to throttle the life out of、息の根を止める、窒息させる)非人格的な解放を含むヴェーダの4つの目的への(of)奉仕を放棄し、注意深く、主に奉仕をするという自分の本来の霊的な欲求を顕現しようとすべきです。 (訳注:ヴェーダの目的への奉仕、というのは、それに向けて努力する、自分のエネルギーをその目的のために注ぐ、ということを指すのだと思います。) オーロビンドは、上に引用した一文の中で、この同じ点に言及しています。 もしも超心(the supermind)が私たちに、より低い段階(planes、平面、水準)のいずれよりももっと大きな、そしてもっと完全な真理を与えることができないなら、それに至ろうとすることには、それだけの価値がありません(not worthwhile)。 」(第3章14段落(3)) 第8段落 もしも人間が自我、欲望、感情、嫌悪など無しで存在しようとすれば、彼は不活性な(inert、自動力のない)物体に変えられるでしょう。これは霊的な上昇ではありません。人が物質的な知覚から霊的な知覚へと徐々に進歩するとき、彼はそれまでずっと(so long)無明によって汚染されていた自分の俗的な欲求、感情、嫌悪などがいかに取るに足らない(trivial、つまらない、ささいな)かを明らかに理解することができます。 この無明が消えるにつれて、俗的な欲求は些細になっていきます(to become insignificant、重要でなくなる)。欲求は残りますが、それらはもはや俗的ではありません。それらは超越的になります。その状態において、人はブラーマン、超魂、そして至高主を一つのものとして知覚します。 そのようなより高い知覚は、一足飛びに至ることは不可能である状態、(すなわち)人の心と感覚が超越的であるときだけ、可能です。不可能なことを試みる者は非合理的で、過度に野心的です。誰でも、次の歩を進める前に先の一歩を確実に地に着け(to place)、徐々に進まねばなりません。このようにして、人は究極的に目的地に到達します。 第9段落 「ヨガ」と題する随筆において、シュリー・オーロビンドは欲望を滅ぼすことを勧めてはおらず、そうではなくその性質を変えることを勧めています。ジーヴァはもともと主クリシュナの永遠の従者であるというのは、永久の(perennial)真理です。 制約されていようと解放されていようと、ジーヴァは他のどんな自己認識(identity、正体、アイデンティティー)も持ちません。彼の立場は、ある国の市民のそれに似ています。彼はいつも、牢屋に入っていようがいまいが、政府の法律の影響下にあります(subject to)。牢屋の中にいるとき、彼のすべての活動は苦痛を伴いますが、自由な市民として、彼は自分のすることのすべてにおいて満足(content)に感じます。それは単に自分の性質を変えることに関わります(merely a matter of changing his character)。 (訳注:多少意訳になりますが、「悪事を働けば牢屋に入れられて苦しめられ、悪事を働かなければ閉じ込められもせず、罰を与えられて苦しめられることもありません。すべては自分の行い次第です」という意味かと思います。) 第10段落 同様に、ジーヴァが至高のエネルギー的なもの、(すなわち)シュリー・クリシュナに奉仕をすることを拒否して、代わりに主の幻想エネルギー、マーヤーに奉仕をするときでさえ、彼は主の従者であり続けます。 しかし、その状態においては、彼は主への献身奉仕の喜びを知りません(to be ignorant of)。ジーヴァが自分の俗的な性質を投げ捨てる(to cast away)ときにだけ、彼は献身奉仕において超越的な喜びを経験することができます。 それでも、どんな状況ででも、ジーヴァは決してクリシュナの永遠の従者としての自分の生来の性質を放棄することはありません。なぜなら、彼は主の周辺的な力から放射しているからです。 ............................................................ 皆様、こんにちは。いつもながら長らくお待たせしてしまいまして、申し訳ございませんでした。怠けていてほんとにすみません。それでも熱心に読んでくださる方が小数ながらいらっしゃることをとてもありがたく思っています。もとより大勢の人に受けいれられることは期待していませんが、プラブパーダの声が届くべきところに届くための一助となっているのは、考えてみたらすごいことです。私ってラッキー、と思います。たぶん、前世でクモを3匹ばかり助けたのでしょう。奉仕が喜びであるというのはなんだか実感できる気がします。 そういえば、シングルマザーだった私の友だちは子供の手が離れてからネズミを飼い続けています。それはそれは私も飼ってもらいたいほどの扱いで、わざわざ特別製のケージを輸入するわ、四季折々のオーガニック野菜や山羊のヨーグルトを与えるわ、オーガニックレモンとヒマラヤの塩のお風呂に入れるわで、完全にねずみの召使状態です。一緒に出かけていても、ネズミに薬を飲ませる時間だから、と言って急いで帰ります。病気をしたら医療費も高いので、自分の食費を削ってまでネズミの治療に費やしてました。それにしても、世の中にはネズミの脳腫瘍手術というのが存在するのです。ご存知でしたか?そういう離れ業ができる医者は人間の脳移植なんか踊りながらでもできそうですね。 ネズミの命は短いので、彼女が飼っているネズミたちは3代目です。先代で家計が相当傾いたので、しばらくはネズミは飼わないと心に決めていたようですが、愛を捧げる相手がいないと耐えられない、と言って3ヶ月ももたずに次のを飼い始めました。魂の本来の姿は、物質世界の波打つ水面にいろんな形で映っていますね。 ■
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by ammolitering4
| 2015-07-31 06:12
| 「英知による放棄」
先日、ふらふらとインターネットで人生の貴重な時間を無駄に費やしておりますと、こちらのサイトに行き当たりました。名古屋の動物園にいるゴリラの記事です。探したらこっちのサイトにもいろいろ写真が出ています。
シャバーニという名前のそのゴリラ、なんとものすごくハンサムなのです。ネギを食べてるところもしぶいわ、精悍だわ、たくましいわ、シャバーニさま~!すてき~!!!と、道ならぬ恋に落ちてしまいそうです。 ![]() ファッションブランドのモデルにもなれます。今時の頼りない人間のオスなど足元にも及ばぬ風格があります。地球の男には飽きたと思っていたけれど、まだまだ素敵な男性はいたのですね。 ![]() さて、こんなにかっこいいシャバーニさんの姿を見て、あのお方を思い出したのはこちらの読者の方であれば少なくないはず。そう、ハヌマン様です。あの方はお猿さんとのことですが、きっとシャバーニさんのようなお顔でいらしたのだろうなと思います。そういえばクリシュナの6番目だか7番目だかのお妃様もゴリラでしたね。お父様がゴリラの王様でいらして、それもまたきっとシャバーニさんみたいだったはず。姫のご容貌はあんまり想像がつきませんが、その息子さん、つまりクリシュナの息子のたしかサンバ様とおっしゃる方は、大層かっこよかったとどこかに書いてありました。いいなあ、どんな感じだったのかなあ。昔は熊とか牛とか狼とかも人間のように話ができて、人間と意思の疎通もできていたようですね。おとぎ話みたいなことではありますが、シャバーニさんを見ているとさにあらんという気がしてきます。 ところで、ときどき出てくる「40万種類の人間」という描写について、何のことだろうかと考えた方も多いと思います。これを「人間の心のあり方によって40万種類に分けられる」と解釈している方もあるようですが、それは違います。これは文字通りの解釈をすべきで、プラブパーダのご発言からもホモサピエンスを一つと数えることは明らかです。そうすると残る39万9999種は何なのでしょうか。とりあえず地球に限定するとして、ネアンデルタール人、北京原人、クロマニョン人、ジャワ原人、えーと、それから、、、コロボックル、妖怪、妖精、巨人、、、どこまで拡大解釈しても数が足りません。たぶん、別の次元にいるのだろう、時間というのは関係なくて、地球ができたときから壊れるときまで含むのだろう、ということで納得するしかありません。 逆にその他の生き物の種類は数が足りません。460万のうちの40万が人間で、その残りをさらに幾つにも分けていくので、微生物だけで終わってしまいます。こういうところも???と思うのですが、それでもやっぱり単なる与太話として片付けられないという気持ちがあるのだから不思議なものです。 それにしてもハヌマン様、実際にどんな感じで生きていらしたのでしょうね。私にとって、ヴェーダのいろんな話の中でも一番気になる存在です。 ■
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by ammolitering4
| 2015-06-29 02:28
第12段落
自分たち自身の取るに足らない(puny、小さくて弱々しい)努力を通して至高存在を知ろうと試みた現代の霊性主義者(spiritualists)のうち、シュリー・オーロビンドはある程度の悟り(realization)を得たというのが一般的な意見です。 彼の成功の理由は、彼の研究の対象(object)が物質的な知識ではなかったからである、とされています(it is claimed、主張)。マーヤーヴァーディーはすべてのものの一体性を知ろうと試みますが、彼らの研究は非人格的で非二元論的な(nondual、二重性がない)ブラーマンの認識にしか繋がりません(~ takes them only up to ~)。 彼らは、「病から自由になることは完成ではなく、病んだ物質的な状態(condition)の後には霊的な存在という(of)健康的な状態(state)がきて、そこでは解放された魂は変わらず(still、それでもなお)人格を持った個人である」ということを知りません(訳注:括弧は訳者)。この事実は彼らにとって理解不能です。 第13段落 シュリー・オーロビンドは、この限られた思考の領域(limited sphere of thinking)を超え、「神聖なる人生(Life Divine)」などの本において「超精神的な(supramental)意識」について語りました。私たちはこの本を、至高主の超越的な力を表す(to present、提示)ための漠然とした(hazy、かすみがかかったようにぼんやりしてよく分からない様子)試みであると考えます。 彼は至高主には超越的な力がある(~ is endowed with ~)ということを受け入れました。そしてそのため私たちは多少は彼を評価します(we have some appreciation for him)が、私たちは、多くの人はシュリー・オーロビンドの本における超越性に関する彼の説明を理解することができない、と感じます。 彼は比較的簡単な(simple)英語を用いますが、読者は困惑したままです(to remain puzzled)。ヴィシスタードヴァイタ、スィダードバイタ、ドヴァイタードヴァイタ、そしてついには主チャイタンニャのアチンテャ・ベーダーベーダー・タットヴァなどのヴァイシュナヴァ哲学に馴染みのない(unacquainted)者は、シュリー・オーロビンドを理解することができません。 そして、非人格的な哲学だけを学んだ者(are learned only in~)、非二元論的なブラーマンを探している者は、シュリー・オーロビンドの研究(works、著作)をますます理解できません(to have even less access to ~'s works)。 第14段落 シュリー・オーロビンドの一連の思考の多くはヴァイシュナヴァ哲学から借り出されています。「ヨガに光を当てる(Light on Yoga)」、および「目的地(“The Goal”)」と題した随筆において、次の文(passages)が見出されます。 (1) 動的な悟り(dynamic realization)を得るためには、プルシャをプラクリティへの従属(subjugation、征服された状態)から救うだけでは十分ではありません。人はプルシャの忠誠(allegiance)を、無知なる力というその働きをもって(with its play of ignorant forces)、より低いプラクリティから至高の神聖なるシャクティ---母なる存在へ移行(to transfer)しなければなりません。 (訳注:「その働き(play)を持って」という部分の「その」は、シャクティを指すものと思われます。なお、番号は引用部分の段落番号を示します。) (2) 母なる存在(the Mother)を、より低いプラクリティとその力の仕組み(mechanism、機能)と同一視するのは間違いです。ここでプラクリティとは無明の進化のために形成された仕組みに過ぎません。無知なる精神的、生体的(vital、生命の)、あるいは肉体的な存在が、神(the Divine)から来ているにも関わらず自らは神ではないように、プラクリティの仕組みは神聖なる母(the Divine Mother)ではありません。 彼女(訳注:ここではherとなっており、Herと大文字表記ではないが、神を指す)の何かが、それを進化という目的のために維持し、この仕組みの中と背後にある(存在している)ことは、疑いの余地がありませんが、彼女自身はアヴィデャのシャクティではなく、神聖なる意識、力(the Power)、光、そしてパラ・プラクリティで、その存在に(to whom)私たちは解放と神聖なる満たしを求めます(to turn for)。 (3) もしも超心(the supermind)が私たちに、より低い段階(planes、平面、水準)のいずれよりももっと大きな、そしてもっと完全な真理を与えることができないなら、それに至ろうとすることには、それだけの価値がありません(not worthwhile)。 それぞれの段階に独自の真理があります。これらの真理のいくつかは、私たちがより高い段階に上がると、もはや必要ありません。たとえば、欲望と自我は精神的、生体的(vital)、そして肉体的な段階の真理です。 なぜなら(as)、その段階にあって自我または欲望のない人は単なる機械人間(automaton)だからです。より高く上がるにつれて、自我と欲望はもはや真理ではないように見えるようになります。それらは、本当の人格(person)と本当の意志(will)を歪めている(to disfigure)偽り(falsehoods)です。 光の力と闇の力の間の戦い(struggle、せめぎ合い)はここでは真理ですが、人がより高く上がるにつれてそれはだんだん真理ではなくなっていき、そして超心(supermind)においてはそれは何の真理も有しません。 他の真理は留まりますが、(それらは)その性質、重要性、そして全体における位置づけを変えます。人格性と非人格性の対照は上心(overmind)の真理です。超心(supermind)の中には、それらの切り離された真理(separate truth of them)はありません。 (訳注: supermindと overmindの訳語は他に思いつかないので適当にあてはめています。適切なものがあればお知らせください。) それらは切り離され得ず、一つです。しかし、より低い段階を克服(to master、完了)していない者は、超精神的な(supermental)真理に至ることができません。人の心の無能な(incompetent)奢り(pride、自尊心、思いあがりなど。「誇り」よりも否定的な意味合いのある言葉)は、鋭い区別(distinction)をつけ、他のすべてのものを非真理と呼びたがり、直ちに最高の真理へと、それが何であれ、飛び跳ねたがります(to leap、段階をすっとばしていく)。 しかし、それは野心的で奢り高ぶった間違いです。人は、頂に至るためには、階段を上り、一歩ごとにしっかりと足を踏みしめなければなりません。 第15段落 もしも人が人生の本当の意味について真剣であるなら、それならマーヤーの壊滅的な(crippling、機能不全にさせるようなひどい打撃)呪縛を逃れるための単純な努力(endeavoring)は、唯一の仕事(undertaking)ではありません。 究極の目的は、私たち自身を幻想エネルギーの魅惑(enthrallment)から解放し、超越的な霊的エネルギーに完全に従属的(subservient)になることです。 第16段落 チャイタンニャ・チャリタームリタにおいて(マデャー20.108-09、111、117-8、120、および122)、主チャイタンニャはサナータナ・ゴスヴァーミーに幾らかの啓発的な(illuminating、無明の闇に光を当てるような)助言をなさいます。 (1) クリシュナの永遠の従者であることは、生命体の本来の立場です。なぜなら、彼はクリシュナの周辺的なエネルギーであり、ちょうど太陽光や火の原子の粒のように、主と同時に一つであって異なる顕現であるからです。 (2) 主クリシュナはもともと3つのエネルギー的な変容体を持っておられ、これらは霊的な力、生命体の力、そして幻想の力として知られます。。。クリシュナを忘れて、生命体は記憶にないほどの昔から外的な特徴に惹き付けられてきました。 したがって、幻想エネルギー(マーヤー)は彼に、その物質的な存在において様々な悲惨さを与えます。物質的な状態において、生命体は時としてより高い惑星系と物質的な豊かさに上げられ、そして時として地獄のような状況において溺れさせられます。 彼の状態はちょうど、王が水につけたり引き上げたりして罰を与える犯罪者のようです。。。もしも制約された魂が、自発的に霊的な命令(injunctions、この場合は「教え」)を教えて彼がクリシュナ意識になるのを助ける聖人的な人の慈悲によってクリシュナ意識になるなら、制約された魂はマーヤーの呪縛から解放され、マーヤーは彼を放棄します。 (訳注:修飾語が長くて分かりにくいですが、「もしも聖人的な人が現れて、慈悲深くも率先して霊的なことを教えてくれて、そのおかげで彼がクリシュナ意識になったら」という意味。) 制約された魂は、自分自身の努力によってクリシュナ意識を蘇らせることはできません(to revive)。しかし、いわれのない慈悲によって、主クリシュナはヴェーダ文献とその補足、プラーナを編纂なさいました(to compile、一つにまとめる)。 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 わたくし、、、困惑しております。皆様はいかがですか?オーロビンド様の言葉、分かりにくいですね。やっぱりプラブパーダのすっきりした文体が一番、と改めて思いました。 ■
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by ammolitering4
| 2015-06-20 09:31
| 「英知による放棄」
第3章 心が物質への執着から清められる(訳注:心が清められ、~がなくなる)
第1段落 ウパニシャッドの格言(aphorism、金言、名句、警句)、「サルヴァム・カールヴ・イダム・ブラーマ」の意味により多くの光を当てる(to shed、何かに対して光を発する、放つ)ために、ヴィシュヌ・プラーナからの一節(1.22.56)を引用します(to cite、例証)。 (サンスクリット引用) 「火は、一つの場所に留まっているにも関わらず、あたり一面に光を放ちます(to radiate、放射)。同様に、至高のブラーマンはどこにでもエネルギーを放ち、それはこの物質世界として顕現します。」 第2段落 彼らの哲学的な議論において、マーヤーヴァーディーは至高主の多面的な(multifarious、様々な)エネルギーの存在を否定します。そのような基準値以下の(sub-standard)討論は、実に、幼稚園の水準にあります。 シュリーラ・バークティスィッダーンタ・サラスヴァティー・タークラによれば、マーヤーヴァーディーは知識に乏しく(to have a poor fund of knowledge)、そしてそのため、至高のブラーマンは6つの富を完全に備えているということを理解できません(to be prevented from understanding ~)。」 これらの気の毒なマーヤーヴァーディーの非人格主義者たちを哲学的な疲弊(impoverishment、窮乏化、衰え)から救うために、主クリシュナは慈悲深くもバガヴァッド・ギーター(7.19)において彼らにお教えになりました。 (サンスクリット引用) 「多くの誕生と死のあとで、本当に知識のある(in knowledge)者は、私がすべての原因とすべての存在(all that is)の原因であると知って、私に服従します。そのような偉大な魂は非常に稀です。」 第3段落 「つながれた牛は縄の長さの分だけ動く(A tethered cow goes as far as the rope)」と、ことわざにもあります。同様に、究極的な知識を探求するために帰納的な(inductive)方法を使う者は失敗します。人は、俗的な心をもって超俗的な(the supermundane)ことを知ることはできないので、彼の努力は無駄(futile、無益)です。 完全真理の完全な理解は、神聖ではない(unholy、不浄、邪悪、罪深い)、悪魔的な心をもってしては不可能です。 人が、究極的に万能な(supremely omnipotent)至高の人格神を非人格的なブラーマンに引き落とそう(to reduce)とする悪魔的な精神性を持っているとき(to be possessed of)、すべてのいわゆる哲学的な討論は、完全な知識の領域(realm)、あるいは二重性でないもの(nondual substance、二元論的でないもの)に関する真理を発見しそこなうでしょう(訳注:どれだけ議論しても見つかりはしない)。ヴァイシュナヴァだけがそのような知識を培う資格があります。 第4段落 もちろん、すべての非人格主義者が悪魔的なのではありません。非人格主義者が、完全真理はすべての超越的な性質を持った(to be endowed with)人格(a person)であるとはっきり理解すれば(to realize)、彼は直ちに神に奉仕をし始めます。これはシュリマッド・バーガヴァタム(1.7.10)において次のように確認されています。 (サンスクリット引用) 「すべての異なる種類のアートマーラーマ(アートマー、すなわち霊的な自己に喜びを感じる (to take pleasure)者)、特に自己認識の道において確立している者は、すべての種類の物質的な呪縛から解放されているにも関わらず、至高の人格神に純粋な献身奉仕を捧げたいと欲します。 これは、主が超越的な性質を持っておられ、そしてそのため、解放された魂を含め、すべての者を惹きつけることがおできになるということを意味します。」 第5段落 主の超越的な性質によって魅了され、そのため主に服従する、その偉大な魂を見つけるのは稀です。至高主に服従することのできる唯一の人は、主から主の人格を奪おうとはせず、そうではなく、物質自然を主の様々な(multifarious)エネルギーの変容と見なす者です。 そのため、マーヤーヴァーディーは決してマハートマー、すなわち「偉大な魂」とは呼ばれ得ません。非二元論的な(nondual)完全真理が6つの富を完全に備えた至高の人格神に他ならないということをはっきりと理解するときにのみ、彼らはマハートマーと呼ばれ得ます。 第6段落 ヴァイシュナヴァのマハートマーは、「サルヴァム・カールヴ・イダム・ブラーマ」という格言(aphorism)を次のように説明しました。ヴィシスタードヴァイタとして知られる哲学的な学派は、「至高主はチット・シャクティ、すなわち霊的な力、そしてアチット・シャクティ、すなわち物質的な力という、ご自分の二つの主要な力をもって永遠に存在なさる」という考えを提議しました(to propound)(訳注:分かりやすくするために括弧をつけました)。 一つの非二元論的な存在(one nondual entity)でいらっしゃるにも関わらず、主はご自分が完全に統御なさるチットとアチットの力という主な区分(headings、見出し、項目)の下でご自分の様々なエネルギーを顕現なさり、動的に(dynamically)存在なさいます。 無限の力の源であられるにも関わらず、主はご自分の超越的で個人的なお姿において永遠に存在なさいます。この形は3つの側面において顕現します。すなわち、主がご自分自身をご覧になるように、愛情ある献身者が主を見るように、そして主がご自分の競争者と敵によって見られるように、です。 シュリー・ラーマーヌジャーチャーリャによって率いられるシュリー・ヴァイシュナヴァの師弟継承(disciplic succession)は、主と主のエネルギーの立場(situation、状態)を説明するために、私たちが先に引用したものと同じ文を引用します。「火は、一つの場所に留まっているにも関わらず、あたり一面に光を放ちます(to radiate、放射)。同様に、至高のブラーマンはどこにでもエネルギーを放ち、それはこの物質世界として顕現します。」 第7段落 このように、創造全体が主の存在の証拠です。完全な知識を持っている(in complete knowledge)者は、完全真理はすべてのエネルギーの源ならびに統御者として永遠に存在する至高の人格神である、ということを理解します。 マハートマーはこの知識を完全に理解し、そして主の超越的なエネルギー(チット・シャクティ)の庇護の下に入って、永遠に主に愛情ある献身奉仕を捧げます。主クリシュナはバガヴァッド・ギーター(9.13-14)においてこれを確認なさいます。 (サンスクリット引用) 「おお、プリターの息子よ、幻惑されていない者、偉大な魂は、神聖な自然の保護の下にあります。私を至高の人格神、源(original)であって尽きることがない(inexhaustible)として知っているので、彼らは完全に献身奉仕に携わります。 いつも私の栄光を唱え、大いなる決意をもって努力し、私の前にひれ伏し(to bow down)、これらの偉大な魂たちは永遠に献身の念をもって私を崇拝します。」 第8段落 精神的な推量者と論理学者、そして経験主義的で(empirical)帰納的な(inductive)過程に拠り頼む初心者であるマーヤーヴァーディーは、完全真理をはっきりと理解した、主の純粋な献身者の立場を正しく理解すべきです。バガヴァッド・ギーター(4.23)において主クリシュナは献身者の活動について(of)このような説明をなさっています。 (サンスクリット引用) 「物質自然の相に非執着であり、完全に超越的な知識のうちに位置している者の仕事は、完全に超越性に同化します。」 第9段落 犠牲として行われた活動は、すべて献身奉仕です。ヤジニャというサンスクリット語の単語は「犠牲」を意味しますが、それはまた主ヴィシュヌご自身を意味するものでもあります(it can also mean)。自分の活動を超越的な献身奉仕として行うことは、完全真理に完全に位置した、発達した魂にとってのみ可能です。再び、クリシュナはご自分の献身者をバガヴァッド・ギーター(7.17)において描写なさいます。 (サンスクリット引用) 「これらの中で、完全な知識を持ち、いつも純粋な献身奉仕に携わっている者が最良です。なぜなら、私は彼にとって非常に愛しく、そして彼は私にとって愛しいからです。」 第10段落 もしもいくらかの徳(piety、敬虔さ)によって非人格主義的な哲学者が至高主への献身奉仕にいそしむなら、そのとき初めて(then only)彼は主にとって愛しくなります。しかし、非人格主義者が至高主から主の神聖な力を奪おうとする限り、彼らは決して主にとって愛しくはあり得ず、また、マハートマーとも呼ばれ得ません。 彼らは、主の幻想の力によって幻惑された悪魔的な無神論者のうちに数えられ続けます。これらの無神論者たちは賢人ではありません。彼らは単に、主に無礼を働く、普通の、死を運命づけられた存在です(ordinary mortals who are offenders against the Lord)。 第11段落 ヴェーダ文献の中でジニャーナという言葉が現れるところではどこでも、サムバンダー・ジニャーナ、主と主のエネルギーの間の関係に関する知識を意味する、と理解されるべきです。それは至高存在に関する非人格主義的な(impersonalist)概念を指すのではありません。 サムバンダー・ジニャーナを理解したあと、人はアビーデーヤ・ジニャーナ、至高主との(自分の)関係においていかに振舞うか、ということに関する知識の段階に来ます。これが解放された魂によって実践される献身奉仕です(This is devotional service, practiced by ~)。 アビーデーヤ・ジニャーナという(of)成熟した段階は、人を至高神への愛、すべての生命体の究極の目的地に導きます。 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 ほんのちょこっとだけお届けします。アパートの掃除と片付けに忙しい毎日なのです。狭いのによくもまあ要らない物がたくさんあるものです。残りもできるだけ早く清書しようと思います。 ■
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by ammolitering4
| 2015-06-19 09:11
| 「英知による放棄」
今日、バスに乗っていたらハリナムの歌声が聞こえてきました。あっ、ハリナムだ!と思いましたが、なにぶんバスの中からなので写真もちょっとしか写らなかったし、音もものの20秒くらい聞こえただけです。それでも、たったそれだけでも今日は良い日だったという気持ちになります。
なかなか更新していなくてすみません。1章分の翻訳ができてはいますが、まだ清書していないのです。先日までは3週間ほど日本に行ってました。日本は人がフレンドリーで清潔でとても過ごしやすかったのですが、社会からの無言のプレッシャーというのも大きいですね。不気味だなと感じる要素は多々あります。実家の近所には高齢化と過疎化に伴う空き家が多く、ある家では犬がつながれたままになっています。空き家の主が時折やってきてエサをやったり散歩に連れて行ったりしているそうですが、その「時折」というのがどれくらいのものなのかは分かりません。田んぼの真ん中のその家は、前を通る人もあまりなくて犬は一日中淋しい思いをしていることでしょう。犬はやせていて、まわりにはたくさんのフンが落ちています。これは明らかに動物虐待なので、どこかに通報するなり保護を求めるなりしたいのですが、そう言うと母は「誰にも何も言うな」と言いました。 母も犬をかわいそうに思っているのに、明らかな問題に対して声を上げると「誰が言ったのか?」という問題になることを恐れているのです。事情があるのだろう、仕方がないのだろう、と言う母の意見を無視して、ちょっと訪れただけの私が何かすることはできません。私は去っていきますが、母は私の言動の結果を受け止めて狭い田舎の社会で生きていかなくてはならないのです。犬は近所の人が見かねてときたま散歩に連れ出したりもしているようですが、このままだとそのうちに死ぬでしょう。かわいそうな人生だったなと思います。 明らかにおかしいことがあるのに、誰も何も言えない空気が充満している気がします。 ![]() ■
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by ammolitering4
| 2015-06-14 12:45
夕方ダウンタウンに行ったら、ハリナムをしている人たちがいました。このあともう一人増えて3人でなさってましたが、この前は女性一人でなさっていました。毎日夕方から行っているそうです。
![]() いろんな国の言葉で書かれた本も並んでいます。 ![]() 日本語のもありました!古い本なのでしょうか。誰か適切な人の手元に届けばいいなと思います。 ![]() ハリナムの方にプラサーダムを頂きました。スパイシーで酸っぱくて塩味で予想外の味でしたが、けっこうおいしかったです。 ![]() ■
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by ammolitering4
| 2015-04-30 13:03
皆様、こんにちは。翻訳はどうした、お絵かきサイトに変わったのか、とのご不満もおありのことと思いますが、どうもすみません。なんとなくアートを振り返る気分なのです。そういえば、5月の上旬からしばらく日本に行く予定です。今回は一人じゃないし、あちこち行って家族や親戚に会うので、お寺にも行けませんし日本のお友達ともほとんどお会いできませんが、それでもやっぱり久しぶりに日本に帰るのは楽しみな気持ちがあります。ただ、手放しで嬉しい、わくわくして期待で一杯!という気持ちになれないのは、これは年のせいなのでしょうか。。。何かと落ち着かないご時勢です。とりあえず無事に行って戻ってくることができたら上等、と思っています。
子供の頃はわら半紙や広告の裏などに絵を描くことが多く、よく覚えていないのですが、たいていは可愛い(はずの)女の子を描いていたと思います。目玉が異様に大きくて口は三角で、というよくあるパターンです。自画像というつもりでなくても、そういう架空の人物にはその時なりの自分の理想が反映されているのでしょう。そういうわけで、今回は特に誰もモデルでない人物画を集めてみようと思います。いろいろありますが、本当は写真に撮ることもなく捨ててしまったもののほうがずっと多いです。鉛筆やペンで描いたものなどたくさんあって、そんなのは絵を使って自分の心を分析しているような構図のものが多かったです。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() これはあえて昔描いていたように目を巨大化させたもの。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() この変なのは一体何でしょうね。上から描いていて、下の方が入りきらないことが分かったので脚を曲げてしまいました。ご想像がおつきかもしれませんが、実は私はけっこうファッションに興味があります。自分の容姿には全く無頓着で、髪はぼさぼさ、着るものは作業着なのに、人にあれこれ着せるのとかファッションデザインをしたりするのが好きなのです。かつては古着のバイヤーをしていたこともあり、ファブリックデザインの真似事をしてみたこともあります。誰か私のモルモット、いや、モデルになってくれないかな、といつも思っています。ある人に似合うものを探すのはコラージュに通じるものがあり、これだ!と思うものが見つかるととても嬉しいものです。 ![]() ■
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by ammolitering4
| 2015-04-29 13:37
さてさて、、、第2章ができたところで、脱線の続きと参りましょう。プラブパーダのお話の中でも家族や親戚や家や財産や、考えうるあらゆるものへの執着のことが出てきますが、自分の生への執着、家族、親戚、そして友人たちなど、私の絵もそれをそのままに表しているなと思います。というわけで、どういうわけか今回の人生において関わりの深かった人たちの絵など続けてご紹介しようと思います。
これはお友達。一番最初の頃の肖像画です。ほんとはとても色白なのですが、メキシコ人のようになってしまいました。 ![]() 地球人のお友達。宇宙人風に仕上がりました。 ![]() 以前お世話になった方です。セミプロの天文学者なのです。 ![]() ロシア語コーラスの指揮者だったおじさん。最初に会ったときはお兄さんだったのですが。。。 ![]() ロシア会館のメンバーだった方。遺影です。 ![]() これも遺影です。ロシア語コーラスのお友達でした。 ![]() 遺影のつもりじゃなかったのに遺影になってしまった絵。ロシア会館のボスでした。 ![]() 右側の方がお亡くなりになったときに、左側の方のために描きました。どちらのロシア語コーラスのお友達で、おじいさんのほうが私にキリル文字の読み方を教えてくださいました。 ![]() こちらはまだ生きてるお友達。 ![]() こちらも。でも、やがてどれも遺影になるのです。100%の当たりクジと考えれば、宝くじよりずっといいですね。 ![]() 同じくまだ生きているロシア人の友達。若くて可愛かった彼も今ではすっかりおじさんです。 ![]() お会いしたことのない方の肖像画を頼まれたことがあります。そういうのは嫌なのですが、長年の知り合いであるロシア人のおばあさんから頼まれたので、断るに断れずに描きました。でも、ぼんやりした古い写真だけを元にして描いたためか、似てないと言って極めて不評でした。 ![]() 90歳近いイギリス人のご夫妻。いつもとても可愛がってくださいます。 ![]() 縁あってしばらく一緒にいた人物と、、、 ![]() そのお母様と、、、 ![]() お父様。かっこいいと思うのですが、ご機嫌斜めのときでいらしたようで、息子さんには不評でした。「これは僕に説教しているときだ」とのことです。 ![]() 似てないのがはっきりと分かる作品。この方もロシア人ですが、お会いしたことはありません。でも、私はこの人に大きな敬意を持っているのです。NASAが行った取り返しのつかない愚行、ディープインパクトの事件のときに、世界中のメディアで笑いものにされたマリーナ・バイさんという方です。覚えていらっしゃいますか? ![]() ■
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by ammolitering4
| 2015-04-23 14:07
第2章 献身の念は至高存在に関する完全な知識の中に宿る
第1段落 もしも微小な魂が自分の個別性(individuality)、すなわち生来の(inherent)人格を無限大の存在と同化させるなら、それならその個別性は無価値になります(to render)。自分の個別性を犠牲にすることによって霊的な自殺をしたがる者は、特殊な人々です(a breed by themselves、自分たちだけの種族)。 そのような自己破壊者(self-destroyers)は純粋な一元論者(monists)として知られます。他方で、自分の個別性を維持したいと欲する者は、二元論者、すなわち人格主義者です。 第2段落 ジーヴァがいったん自分のもともとの超越的な性質を顕現すると、彼は簡単に物質的な制約から解放されますが、それでも、そのような高い(elevated)状態においてさえ、彼は霊魂としての自分の個々の自己認識(identity)を失いません。 事実、その純粋な状態において彼は至高主への永遠の奉仕に携わり、荘厳な(sublime、気高い、卓越した)喜びの不滅の蜜を味わいます。 第3段落 遠い昔から(For eons、eonは無限に長い時間を指す)、世界中でクシェトラとクシェトラ・ジニャという主題(subject)に関する研究が続いています。インドでは6つの哲学的な学派(注)がこの主題(topic)を広範に(extensively)論じましたが、この議論は単に、賢人たちの間での多くの異なる意見につながった、論理(logic)と詭弁(sophistry)における練習(exercise)であるに過ぎません(to have been、今も続いていることを示す)。 そのため、これらの学派のうちのいずれも、本当にジニャーナ・ヨガ、完璧な知識への道を実践していません。クシェトラとクシェトラ・ジニャの議論が主への奉仕に適用される(to apply)ときだけ、その練習(the exercise)はジニャーナ・ヨガになります。 (注)6つの哲学的な学派とその提唱者(proponants、これはproponentsのラテン語綴りであり、一般的ではない)は以下の通り: サー・キャー --- カピラ(無神論的) パタンジャリ・ヨガ --- パタンジャリ ニャーヤ --- ゴータマ ヴァイシェスィカ --- カナーダ ミマムサ --- ジャイミニ ヴェダーンタ --- ヴャサデヴァ 第4段落 ジニャーナ・ヨガの過程はヴェダーンタ・スートラ、ヴェーダの哲学的な真髄の中において詳述されています(to be delineated)。至高主クリシュナはヴェダーンタ・スートラの権威を受け入れられ、(その)哲学的な提示を正しい(proper)と考えられます。 現在(present day)まで、非人格主義者の学派においてさえ、すべての霊的な系統(line)がその哲学的な権威をヴェダーンタ・スートラにのっとっています。そして、シュリマッド・バーガヴァタムはヴェダーンタ・スートラに関する自然で欠点のない論評(commentary、記録、解説)です。これが主チャイタンニャのご意見です。 第5段落 学識のある階層の人々(circles)は、ヴェダーンタ・スートラに関する論評(commentary)の欠けた(bereft of)師弟系統(desciplic line)を、正統ではなく無益であると考えます。シュリーパーダ・シャンカラーチャーリャの「シャーリーラカ・バーシャ」と題したヴェダーンタの論評は、非人格主義的で一元論的な学派の主な論評です。 ヴァイシュナヴァの中では、シュリーパーダ・ラーマーヌジャーチャーリャの論評の他には、マードヴァー・ゴーディーヤ・サムプラダーヤとして知られる主チャイタンニャの系統において、シュリーラ・バラデヴァ・ヴィデャーブーサナの「ゴヴィンダ・バーシャ」が主な論評です。 第6段落 聖典の深遠な(esoteric、奥義、難解)結論に関する深い議論に携わることを好む(keen)者は、確かに、ヴェダーンタ・スートラの哲学を掘り下げるべきです(to delve into)。強調されるべき点は、造詣の深い(well-versed、精通)ヴェダーンタの哲学者はシャンカラーチャーリャの系統に属する(in)哲学者ではなく、実際はヴァイシュナヴァの霊的な教師(preceptor)、解放された魂であるということです。 第7段落 ヴェーダと賢人たちによれば、5つの「密度の濃い(gross)要素」は、「土、水、火、空気、そしてエーテル」です。物質自然は、「偽りの自我(アハンカーラ)、物質エネルギーの材料(マハット・タットヴァ)、そしてマハット・タットヴァの原因(プラクリティ)」の組み合わせから作られます。 5つの「知識を集める感覚」と、5つの「働く感覚」が存在します。心は内的な感覚、六つ目の「知識を集める感覚」です。「形(form、姿)、味、匂い、触感(touch)、そして音」が5つの「感覚の対象」です。(訳注:分かりやすくするために括弧をつけました。これらの要素を合計すると24個になります。5+3+5+5+1+5=24) 第8段落 私たちは既に、無心論者カピラのサーンキャー哲学の描写において、これらの物質的な材料を列挙しました(to enumerate)。クシェトラ、すなわち「場」は、上記の24個の材料の組み合わせです。これらの24個の材料が関わりあう(to interact、相互作用)とき、結果は物質自然の変容(transformation)であり、それは、物質的な欲望、嫌悪、楽しみ、嘆きなどの結果として、5つの密度の濃い要素(パーンチャ・マハーブーター)からなる密度の濃い体を生じさせます。 心と意志(will)の形を取った意識の影(shadow)がその場(field)の変容です。 (原文は”The shadow of consciousness in the form of mind and will are transformations of that field. ” ここで主語となる The shadowは単数となっており、述語の複数形と呼応していません。mind and will に引きずられた単なる間違いなのかもしれませんが、この一文自体が難解で意味がよく分かりません。意識の影、すなわち意識の反映が、心と意志という二つの形で現れ、それらが「場」、すなわち物質自然を変容させる、または変容そのものである、というような意味なのだと思います。そうであれば述語が複数形になるのも理解できますが、やはり多少文法的に整っていない感じがするので、私は以下のように読もうと思います。”The shadows of consciousness are manifested in the form of mind and will, and they are transformations of that field.” ご意見があればお寄せください。なお、この場合のformは不加算名詞なので単数形です。) 第9段落 まもなく論じられるのは、クシェトラ・ジニャはクシェトラおよびその変容と全く異なるということです。しかし、クシェトラとクシェトラ・ジニャに関する知識を正しく理解するためには、人はまず、バガヴァッド・ギーター(13.8-2)に挙げられている少なくとも20個の良い性質を培わねばなりません。 「謙虚さ、奢らないこと、非暴力、忍耐、簡素さ、真正なる霊的指導者に近づくこと、清潔さ、堅実さ、自己統制、感覚の満足の対象の放棄、偽りの自我がないこと、生老病死の悪を知覚すること、非執着、子・妻・家庭その他とのもつれからの自由、喜ばしいことと喜ばしくない事々にあって心が安定していること、私への継続的で混じり気のない献身の念、孤独な場所に住むことを欲すること、一般大衆から離れること、自己認識の重要性を受け入れること、そして完全真理を求める哲学的な探求---これらすべてを、私は知識であると宣言します。そして、この他のものは何であれすべて無明です。」 (Humility; pridelessness; nonviolence; tolerance; simplicity; approaching a bona fide spiritual master; cleanliness; steadiness; self-control; renunciation of the objects of sense gratification; absence of false ego; the perception of the evil of birth, death, old age and disease; detachment; freedom from entanglement with children, wife, home, and the rest; even-mindedness amid pleasant and unpleasant events; constant and unalloyed devotion to Me; aspiring to live in a solitary place; detachment from the general mass of people; accepting the importance of self-realization; and philosophical search for the Absolute Truth – All these I declare to be knowledge, and besides this whatever there may be is ignorance.) 第10段落 これらの性質を持たない(bereft of)人々は、霊的な話題を論じる資格がありません。偽者の論理学者(logician)は、制約された魂を解放に導くためにある上記の性質を、欲望、怒り、嫌悪などの、心の変容の結果として得られる俗的な性質と取り違えます(to mistake ~ for ~)。しかし事実は、上記の性質は霊的な知識を表します(to represent)。 たとえ人が、完全な知識のための必要条件(prerequisites、前提、予備知識)として、「主クリシュナがギーターにおいて列挙なさった性質は精神的な(mental)変容である」という、偽者の論理学者の議論を受け入れるにしても、それでも私たちは、「これらの変容は全くの無明から結果として生じる欲望(lust)、強欲(greed)、怒り、そして幻想などの性質と同等である(equivalent)」ということに同意することはできません。(訳注:ややこしいので分かりやすくするために括弧を入れています。) ある種の精神的な変容は魂を堕落(depravity)へと引きずりおろし、他方で他(の精神的な変容)は魂を破滅(doom)から救います(to redeem)。病気も薬も物質自然の産物ですが、一つは人を死の淵(the jaws of death、死に脅かされた状態)に押しやり、他方は彼を破滅から救います。 そのため人は、ヤタ・マタ、タタ・パトー、「すべての道は真理に通じる」という愚かな理論を受け入れて、これに基づいて薬と病気は全く同じである(one and the same)と公言する(to profess)ことによって社会の笑いもの(laughing-stock)になることを避けねばなりません。 第11段落 クリシュナが挙げられた20個の性質の中で、特に注目すべき(noteworthy)一つの性質があり、そしてそれは(サンスクリット引用)です。「私への継続的(constant)で純粋な献身の念」です。他の性質は意識を清めるために必要とされます。 いったん心の鏡が浄化され、物質的な存在の燃え盛る火が消されると、主クリシュナへの継続的で純粋な献身の念が心(heart)の地平線上に現れ始めます。偉大で聖人的な霊的指導者シュリーラ・ナロッタマ・ダーサ・タークラはこう歌われました。 「私の心はいつ浄化されて物質から離れるのでしょうか?おお、いつ、その清められた状態で、私はヴリンダーヴァンの超越的な領域(realm)を見ることができるでしょうか?」 第12段落 いったん主クリシュナへの継続的で純粋な献身の念が人の心の中に花開くと、他の19個の性質は彼の中に自動的に現れる、ということに気づく(to note、言及、注意する)のは興味深いことです。シュリマッド・バーガヴァタム(5.18.12)には、次のように述べられています。(サンスクリット引用) 「すべての半神たちと、宗教、知識と放棄などの彼らの高貴な(exalted)性質は、至高の人格神、ヴァースデヴへの純粋な献身の念を育んだ者の体の中に現れるようになります。」 第13段落 毎日根気良く10、20、30ルピーを集めることで、人はいつの日か百万ルピーを持つようになります。しかし、もしも一度に百万ドルを得るなら(to come upon、出くわす)、人は別途に10、20、あるいは30ルピーを集める努力をして貴重な時間を無駄にする必要はありません。 同様に、人が主クリシュナへの純粋な献身の念を育むとき、他のすべての上記の性質は、さらなる努力なしに、自動的にその人を飾ります(to adorn)。他方で、主クリシュナへの純粋な献身の念を脇に置いて(to leave aside、取り残す)、他の19個の性質を別に育もうとする者は、一時的に富と名誉を得るかもしれませんが、彼は最高の目的を達成する資格を失います(to become unqualified)。 上記のシュリマッド・バーガヴァタムの同じ節の中で(5.8.12)、プラーラーダ・マハーラージャはこうおっしゃいます。(サンスクリット引用) 「他方で、献身奉仕をせず(devoid of)、物質的な活動に携わっている人は、何の良い性質も持ちません。たとえ彼が神秘的なヨガの実践、あるいは自分の家族と親戚を養うための正直な努力に長けていた(to be adept at、熟達)としても、彼は必ず自分の独自の(own)精神的な推量によって突き動かされ(driven)、必ず主(校正:lord → Lord)の外的なエネルギーへの奉仕にいそしみます。そのような人に、どうして何らの良い性質があり得るでしょうか?」 第14段落 主の蓮の御足に敬意を払わず、献身奉仕の過程を非難する(to denounce)一方で、謙虚さ(humility)や非暴力などの良い性質を見せびらかす(to make an external show)のは無駄 (futile)です。そのようないわゆる良い性質は、何らかの物質的な価値があるかもしれませんが、究極的にはそれらは役に立たず、一時的です。 事実、他の19個の性質は、そこから純粋な献身の念が統率する(may rule)ための王座を作るために組み合わさります(訳注:~は組み合わさって~のための王座となり、~はそこに鎮座して~します)。これらの性質は、完全真理の様々な側面(limbs、大枝)であり、この完全な知識以外のすべてのものは無明(nescience、無知)です。 第15段落 これらの知識の側面(limbs)を培うことによって、人は自己認識を得ます。言い換えると、人はクシェトラの俗的な知識からクシェトラ・ジニャの霊的な知識へと上げられます。私たちは先に、クシェトラ・ジニャという言葉は生命体と至高のブラーマンの両方を指す(to imply、暗示)と論証しました(to establish)。 時として、物質自然、すなわちプラクリティは、ブラーマンと呼ばれます(to be referred to as~)。その理由は、ブラーマンは物質自然の原因だからです。ある意味では、原因とその結果(effect)は同一です。しかし主クリシュナはブラーマンの究極の源です。 主は、ジーヴァとして知られるブラーマンの種を、物質自然の形を取ったブラーマンに撒きます(to impregnate ~ with~、はらませる)。(原文:The Lord impregnates Brahman in the form of the material nature with the seed of Brahman known as the jiva.) クリシュナはバガヴァッド・ギーター(14.3)においてこうおっしゃいます。 (サンスクリット引用) 「ブラーマンと呼ばれる全体的な(total、総体的、完全、絶対的)物質的な物体(substance、実体)は、誕生の源であり、私がはらませ(to impregnate)、すべての生命体の誕生を可能にするのは、そのブラーマンです、おお、バーラタの子孫(scion、御曹司)よ。」 第16段落 この節は「すべてのものはブラーマンである」を意味する、ウパニシャッドからの有名なことわざ「サルヴァム・カールヴ・イダム・ブラーマ」を説明します。言い換えると、それらがすべてブラーマンであるという点では(in that ~)、至高のブラーマン、主クリシュナは、ジーヴァおよびプラクリティの両方と同一です。 そのため、ある意味では、ヴァイシュナヴァは純粋な一元論者です。先に私たちは、バガヴァッド・ギーターからの別の節(9.10)を論じました(to deliberate、熟考、審議)。 (サンスクリット引用) 「私のエネルギーの一つであるこの物質自然は、すべての動くものと動かないもの(beings)を作り出し、私の指揮の下で働いています、おお、クンティーの息子よ。その統御の下で、この顕現は何度も何度も作られ、滅ぼされます。」 第17段落 論じられているギーターの節(14.3)は、もう一つの節(9.10)の、より明らかな理解を与えます。 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 う~ん、小難しいですねえ。。。禅問答ですか、と思いながら訳しております。この本はプラブパーダがインドの言葉で書いたのを明らかに教養のある人物が格調高い英語にしたもので、それを私が偉そうに修正するなどものすごーくおこがましいのですが、やっぱりどうも一箇所だけ腑に落ちないのです。ご意見があればぜひお寄せいただきたいと思います。 ■
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by ammolitering4
| 2015-04-23 13:07
| 「英知による放棄」
自然農ダースひっきいさん、コメントありがとうございます。正教会の賛美歌もいろいろあって面白いですよ。これはロシアの男声のもので、とても低いバッソプロフンドと言われるものです。女声もいいし、ギリシアやセルビアなど他の地域の賛美歌もそれぞれに特徴があって良いものです。
翻訳と関係ないついでに、こちらも紛れ込ませようと思います。お友達でファンシーラットというペットを飼っている人がいて、要するに大きなネズミなのですが、とにかく溺愛していました。わざわざ特別なケージを輸入するわ、オーガニックの季節の野菜を与えるわ、という扱いです。それも栄養のバランスを考えて選び、年とって弱ったら裏ごししてあげます。彼らはオーガニックの山羊のヨーグルトなんてのも食べていたのです。誕生日には高級食材店で買ったクレムブリュレが与えられたこともありましたが、これはネズミにかこつけて飼い主が食べたかったのだと思います。 ネズミでもやっぱり病気になりますが、その内容は人間とあんまり変らないようで、癌とか心臓病とかリュウマチとか、お馴染みの病名が並びます。ネズミは特に腫瘍ができやすいらしく、脳腫瘍になることも多いそうです。そうなるとやっぱり脳外科手術になりますが、あの大きさの脳外科手術をこなせる人がこの世に存在するのだと思うと、やっぱり世界は広い、と思ってしまいます。まあ、中国あたりには毛髪にお経を彫ったりする人がいるそうですから、それに比べればネズミの脳外科手術とかバイパス手術とかは大したことないのかもしれませんね。ネズミの医療は保険が利かないので、飼い主は自分の食費を削ってネズミの医療費を捻出していました。 この家のネズミたちは食生活と医療だけでなく、住環境その他も恵まれていました。定期的にお風呂に入れてもらってましたが、それもヒマラヤの塩とオーガニックレモンの入った特別なスパだったりしていました。物質世界に生まれついた生命体というところは同じでも、実験動物としてひどい目に遭わされたり、害獣として駆除されたり、そうかと思うとこうしてあらん限りの愛情を注がれたりします。人間の形を取っても、このネズミたちよりはるかに劣悪な人生を送る人は数限りなくいます。 先日、とうとう最後のラットが大往生したので、飼い主のためにラットたちの肖像画を描きました。肖像画と言ってもご覧のように簡単に描いた漫画のようなものですけれど、思い出のよすがになればと思っています。 ![]() こっちはしばらく前に一応ちゃんと頑張って描いた肖像画。人間で、ロシア系です。 ![]() 第2章の翻訳も一応できているのですが、最後の段階がまだなので、今日のところはとりあえず気持ちの赴くままに絵を載せていきます。どうぞしばらくお付き合いください。これは祖父母です。祖父は学校の先生をしていて、漢詩を詠むのが好きだったそうです。一度でいいから中国へ行きたいというのが夢だったそうですが、あいにく国交が回復したころ(1972年)には旅などできる体調にはなかったようです。お二人とも私がまだ子供の頃に亡くなったので、あまりよくは存じ上げません。敬語を使うのも変かもしれませんが、そんな感じです。 ![]() 伯母。私が子供の頃から「トクハインになれ」と言い続け、数年前に日本の田舎で亡くなりました。海外特派員とは彼女にとって現代的で自立した女性の象徴のようなものだったのでしょう。 ![]() 両親。なんでこんな絵を描くのかと怒られました。銀歯なども正直に描いたのが悪かったのか、モデルにした写真のタイミングが悪かったのか、あるいはその両方か。。。 ![]() 91歳まで生きた祖母。 ![]() 自画像。色が多少人間ばなれしているかもしれませんが、子供の頃の写真を基にしたものです。 ![]() 自画像3バージョン。机の上に置いたガラスに写った顔をマジックでなぞり、さっさと適当に仕上げたものです。 ![]() 自画像半分半分バージョン。写真を半分に切って下絵にしました。 ![]() 自画像目だけバージョン。漫画風に仕上がりました。私の眉毛はこんなに濃くはないのに、やたらとがっしりと仕上がりました。ガラス絵というのは修正が効かないのが難点です。 ![]() 自画像写実バージョン。もう10年近く前になるでしょうか。 ![]() 自画像お稚児さんバージョン。 ![]() これも一種の自画像でしょうか。恐ろしげなお化粧をして写真を加工してみました。 ![]() 祖父。国鉄でSLを運転していました。 ![]() 同じく祖父母。人間でもネズミでもそのうちに死んでしまいますが、若くて元気で動いていたことがあるのだなと改めて思います。 ![]() その他にもお世話になった方々など人物画はけっこうたくさん描きました。お亡くなりになったときに頼まれることもあります。人物を描くのはやっぱりどこか気持ちに強く影響するものです。それは動物でも同じことで、これは18年飼っていた犬です。 ![]() カナダから日本に連れて行った猫は、、、 ![]() かわいそうに、ノミだらけになりました。 ![]() これも飼っていた猫。太く短く、大量のエサを食べて11年生きました。そのうちにまた他の絵も無理やりお目にかけようと思います。翻訳は今週中に第2章をお届けしたいと思っています。 ![]() ■
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by ammolitering4
| 2015-04-21 14:00
第3部 ジニャーナ・カター 霊的な科学に関する主題(Topics of Spiritual Science)
第1章 物質的な存在の炎を消す (サンスクリット引用) 「何百万もの(many millions upon millions)誕生の後で、完全な知識をすべて身につけたとき(complete in absolute knowledge)、人はそれでも(still)解放を得ないかもしれません。それなのに(yet)この男(man)は、単に聖なる御名を一見すること(glimpse、ちらりと見ること)の目覚め (awakening)によって人はそれを得るだろう(may)、と言います。」(訳注:原文は長い一文。「~を一見することの目覚め」というのは、ちらりとでも触れること、というような意味と思われる。) 第1段落 シュリーラ・ラグーナーター・ダーサ・ゴスヴァーミーの父親と叔父(訳注:または伯父)---それぞれヒラニャ・マジュムダラとゴヴァルダーナ・マジュムダラ---は、サプラグラーマの太古の村チャーンダプラの大地主でした。 彼らの雇い人の一人、ブラーマナの生まれのゴパーラ・チャクラヴァルティーという名前の者は、聖典に関する討論において偉大なヴァイシュナヴァの聖人シュリーラ・ハリダーサ・タークラとしのぎを削りました(to lock、かぎを掛けて動けなくするようにがっちりと取っ組み合う様子)。 そのブラーマナは全くの(sheer)経験主義者で、そしてヴァイシュナヴァの聖人は、神、クリシュナの聖なる御名を唱えることに関する完全な権威者でした。ブラーマナはシュリーラ・ハリダーサに、悟り(realization、認識)のどの段階で解放が得られるのかと尋ねました。 聖典(訳注:複数)から多くの適切な節を引用しながら、シュリーラ・ハリダーサは、ちょうど、夜明けの最初の光で(at、~のときに、~と共に)泥棒、幽霊、そしてお化け(hobgoblins、悪さをする小さな妖怪)などの夜行性の生物(creatures)への恐怖が消える(to evaporate、蒸発)ように、純粋な唱名(chanting)のはるか前に訪れる、ナーマ・アーバーサと呼ばれる、聖なる御名を唱えることの最初の (clearing、物事が始まる前に障害物を取り除く様子。「露払い」と似たような意味)段階において、すべての罪と無礼が消され、解放が得られる、と説明しました。 解放された、高く上げられた魂だけが主の御名を純粋に唱えることができ、そうして最高の悟り(realization)、至高主へのけがれない(untainted)愛を得ることができます。詭弁法(sophism)に強く執着していた推量的な哲学者のブラーマナは、聖人の教えを分かるようになる(to fathom)ことができず、そしてそのため、彼に無礼をはたらいてしまうことになりました(to end up ~ing)。 愚かなブラーマナは、聖なる御名の素晴らしさ(excellences、長所、美点)に関する自分の独自の解釈を押し付けようとし(to impose)、そしてシュリーラ・ハリダーサ・タークラは単なる感傷主義者だと結論づけました。彼は無礼にも(insolently、横柄な態度で)公衆の面前で聖人を非難し(to rebuke)、彼の解説と人格を笑いものにしようとしました(to ridicule、あざ笑う)。 第2段落 議論好きな(argumentative、理屈っぽい)非人格者たちは、まず完全真理の科学を正しく理解することなくしては人は決して(cannot possibly)至高主への堅固な献身の念を育むことはできない、ということを理解(to grasp)し損ないます。 そのため、人が純粋な献身奉仕の水準に位置しているのが見られるとき(訳注:~していれば)、彼の無明は滅ぼされたと理解されます(it is to be understood、やや格式ばった表現)。 私たちはこの点を先の随筆(essay)「献身の科学」(訳注:第2部のこと)において少し詳しく(in some detail)論じました。経験主義的な哲学者は一般に、人間の人生は完全な知識を得るためにあるという考えを唱えます(to put forward)。 彼らにとって、知識とは現実と幻想を見分ける(to discern ~ from ~)能力を意味します。幻想を根こそぎにし(to eradicate、撲滅)、真理と現実はブラーマンと異なるものではない(nondifferent)ということを確立することによって、彼らはブラーマンの存在に同化することを欲します。 それならこれが、彼らが何度も生まれ変わって(birth after birth)得ようとする(to aspire to attain)完全な知識の、彼らの(訳注:彼らによる)定義です。彼らは、知る者、知識、そして知識の対象が一つの存在(entity)になるとき知識の最高の段階に至る(~ is reached)、そしてその一つの存在はついにはブラーマンに同化して解放を得る、と宣言します(When ~ become one entity, which is then finally merges into Brahman, attaining liberation)。 主チャイタンニャは解放のこの段階をバーヴァ・マハーダーヴァーグニ・ニルヴァーパナム、「物質的な存在の炎を消す」と描写なさいました。主は、純粋な献身者は神の聖なる御名を唱えることによって簡単に解放のこの段階に至る、ということを証明する多くの節を、明かされた聖典から引用なさいました。 第3段落 不幸にして、頑固な非人格主義者は、ヴェーダの4つの目的(宗教的な熱意(religiosity)、経済的な発展、感覚の満足、そして解放)さえも超えた最終的な霊的な目的地(destination)は、至高神への完全に純粋で超越的な愛だ、ということを理解することができません。 彼らは誤って、主の献身者を感傷主義者だと考え(to mistake ~ for ~)、彼らを自分たちの哲学的な敵対者(opponents)と見なします。これらの全くの(out-and-out、純然たる、徹底した)非人格主義者の他に、純粋な献身の道から逸れて見せかけ(pretension、気取ってもったいぶった様子)に陥った(to fall prey to~、犠牲になった)一群の献身者たちがいます。 これらのペテン師(cheaters、ずるいことをする人、騙す人)は実際は、至高主と同化しようとする非人格主義者の道を辿ることになります(to end up)。そのような物質主義的な感傷主義者は、主の献身者のうちに数えられません。 彼らの非人格主義者の片割れ(counterparts、互いに良く似て対をなすもの)のように(Like their impersonalist counterparts、この場合は「似たもの同士である~と同様に」というような意味)、彼らは至高主の御名、形、性質、娯楽、仲間、あるいは主に関する諸々の本当の立場を理解することができません。 なぜなら、彼らは誤って、これらの超越的な主題を幻想であると考えるからです。彼らは気まぐれに(capriciously)振る舞い、大衆を惑わせます(to confuse)。 第4段落 これらの物質主義的な感傷主義者はシュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーの霊的な結論を退け、非人格主義の庇護の下に入ろうとします(訳注:~主義を奉じようとする)。しかし彼らは惨めにも、非人格主義者の学識と修養(discipline、訓練、修行、規律)に欠けています。 彼らは、聖典に関する議論を無味乾燥な推量であると、そして自分たちの無知で感傷的な感情の爆発(outburst)を自然に起こる(spontaneous、思わず何かをしてしまう様子)献身の情熱(fervor、取り乱すほど激烈な様子)であると見なして、自らを非人格主義者の聖典の学習と哲学的な議論から切り離します(to divorce、この場合は「怠る」と同義と思われる)。 第5段落 これらの偽者(pretenders、何かの振りをする人)の一部は、非人格主義者の足跡を非常に近く辿り(訳注:非常によく似ている、真似している)、そしてそのため、非人格主義者の系統(line)の狂った(deranged)分家(offshoot、横枝)として受け入れられるかもしれません。 しかし、彼らは確かに、シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーの系統の中にいる者によって辿られる(ヴァイシュナヴァの門下(discipline、学問などの分野、修行)の一部ではありません(訳注:決して~の流れを汲む~の一員ではありません)。 これらの偽者たちは、献身者の特定の特徴(mannerisms、「マンネリ」、固定化した特有の習慣など)をせっせと(diligently、こつこつ、勤勉に)培い、表します。そしてそのため、非人格主義者は彼らを自分たちの集団(fold、特定の信仰や思想を持つ集団)から退けます。 こうして非人格主義者とヴァイシュナヴァの両方から追放(to ostracize、排斥)され、彼らは発狂した(demented)感傷主義者の宗教集団(cult)を形成します。シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーは、そのような偽者たちは霊的な社会に暴力(outrage、不名誉で残虐な行為、憤り)を作り出す、と宣言なさいます。ブラーマ・ヤマーラにはこう述べられています。 (サンスクリット引用) 「ウパニシャッド、プラーナ、そしてナーラダ・パンチャラートラなどの権威ある(authorized)ヴェーダ文献を無視している、主への献身奉仕は、単に社会における不必要な妨害(disturbance、騒動)です。」 そのような偽者、非人格主義者、経験主義者、そして結果を求めて働く者たちに慈悲を見せるため、至高主、クリシュナは、バガヴァッド・ギーターにおいて、ジニャーナ・ヨガ、すなわち知識を通してのヨガを論じられました。したがって私はこの随筆において、同じ主題に取り組みます(to embark upon)。 第6段落 本当の知識とは、真実と幻想の違いを見分ける(to discriminate between ~ and ~)ことを意味します。ジニャーナ・ヨガは、超魂とブラーマンの源である至高主への超越的な献身奉仕の道に、人が永遠に定まるようになる過程です(~ is the process by which one becomes ~)。 ジニャーナ・ヨガは決して、問い(enquiry、知識を得るための研究)の上行性の(ascending)過程、帰納的な(inductive、個別的な事例から一般的な法則を見出そうとする論理的推論)方法、それによって人が、徐々に本当でないもの(unreal)を退けることによって現実を幻想から離すことだけを目的とする、ということを意味すると解釈されるべきではありません。 (訳注:ジニャーナ・ヨガは決して、身近な事例から類推して高い真理を導きだそうという方法ではなく、そうすることによって徐々に現実から幻想を拭い去ることだけを目的としているのでもなく、誤解のないようにしなければなりません。) すべての富と力に満ち、その身体的な輝き(luster)はブラーマンの光輝であり、そしてその部分的な拡張体が超魂でいらっしゃる至高主に奉仕をすることなくして、完全な知識を得るのは不可能です。 ゴパーラ・チャクラヴァルティーというこのブラーマナは(the brahmana Gopala Cakravarti)、ジニャーナ、完璧な知識は、主への献身奉仕よりもはるかに優れていると信じていました。しかし、チャイタンニャ・チャリタームリタ(アンテャ3.201)には、次のように記録されています。 (サンスクリット引用) 「バララーマ・アーチャーリャという名前の僧(priest)が、ゴパーラ・チャクラヴァルティーを叱責しました(to chastise)。『あなたは愚かな論理学者(logician)です』と彼は言いました。『あなたは主への献身奉仕について何を知っているのですか?』」 第7段落 もしも人が主の献身者である振りをし、しかし無味乾燥で推量的な知識と、至高の完全真理に関する(of)知識の間の違いを理解しないなら、それならそのような人の献身の念は非人格主義すれすれであり(to border on ~)、シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーの霊的な教えに完全に反している安っぽい感傷主義と同格です(to rank with)。 したがって、ジニャーナ・ヨガは推量や経験主義的な研究ではありません。また、それは献身者の振りをしている成り上がり者(upstarts、横柄で傲慢な人)の唐突な感情の爆発(outbursts)でもありません。本物のジニャーナ・ヨガを実践することによって、経験主義的な哲学者さえ、聖典から純粋に霊的な話題を聞くことへの好みを育みます。 やがて彼は至高主の超越的な立場と力を理解するようになり、そして究極的には彼は、永遠であり、知識と喜びに満ちた主のお姿(form)を喜ぶ(to relish、味わう)ようになります。彼は主をすべての超越的な味わい(mellows)の体現として知覚します。 そして、経験主義者の真似をするのを好む、見せ掛けの(pretentious)非献身者の感傷主義者たち(訳注:非献身者であり、見かけを取り繕うばかりの感傷主義者たち)が本当のジニャーナ・ヨガを実践するなら、それなら彼らも完全真理に関する正確な認識(perspective、見方)を得るでしょう。 彼らは、至高主の形は霊的で超越的であるという理解において堅固に確立するようになり、そしてそのとき彼らは断固たる(unflinching、ひるまない)献身奉仕を捧げ始めるでしょう。 第8段落 チャイタンニャ・チャリタームリタ(アーディ2.117)においてシュリーラ・クリシュナダーサ・カヴィラージャが次のように助言なさいます。 (サンスクリット引用) 「真摯な学徒は、それらは議論の余地がある(controversial、諸説ある、物議をかもす)と考えて、そのような(聖典の)結論に関する議論をないがしろにすべきではありません。なぜなら、そのような議論は心を強めるからです。こうして人の心はシュリー・クリシュナに執着するようになります。」 そのような議論と問いを通して、私たちは自分はジーヴァ、個々の魂であり、その上において(upon which)自分の体と心は一時的で幻想的な重荷(imposition、不必要な負担)であるということに気づくようになります。 聖典は、主の優性で霊的なエネルギーの産物であるジーヴァを指して、クシャトラ・ジニャ、すなわち「場を知る者」と呼びますが、他方で聖典は一時的で物質的な体と心をクシェトラ、すなわち場と呼びます。 ちょうどジーヴァが彼の個々の体と心との関係においてクシェトラ・ジニャであるように、主はご自分の広大な普遍的な形(His vast universal form)との関係においてクシェトラ・ジニャです。主クリシュナはバガヴァッド・ギーター(13.3)において次のように教えられます。 (サンスクリット引用) 「おお、バーラタの御曹司(scion)よ、あなたは私がすべての体における知る者であると理解すべきです。」 第9段落 したがって、ジーヴァと至高主は、どちらもクシェトラ・ジニャ、「場を知る者」であるという点では(in the sense that ~)異なるものではありません。しかし、彼らのそれぞれがどのクシェトラを知っている(is knowing)かを見るとき、ジーヴァと至高主の間の違いは計り知れないほど(incalculably)大きい(wide)ように見えます(to be seen to be)。 至高主は無限大(infinite)であり、他方でジーヴァは微小(infinitesimal)です。意識として、ジーヴァは自分のカルマ、すなわち結果を求める活動によって(due to、~が原因で)得た自分の体と心に広がります(to pervade、充満、浸透)。 同様に、至高主はご自分の意識で創造全体---主の普遍的な体---に広がります。ジーヴァは自分の体に非人格的な意識として広がります(to permeate、充満、浸透)が、彼はいつも人格(a person)です。 同様に、ご自分の非人格的なあまねく広がる(all-pervasive)特徴において、至高主はご自分の意識で宇宙の顕現を満たされますが、ご自分の個人的な特徴において、主は永遠にゴロカ・ヴリンダーヴァナに留まり、娯楽をなさいます(performing)。 この点はブラーマ・サムヒター(5.37)によって実証されています(to substantiate)。(サンスクリット引用)「いつもゴロカと呼ばれるご自分のお住まいに住んでいらっしゃいますが、主はあまねく広がるブラーマンであり、局所的なパラマートマーでもいらっしゃいます。」 そして、バガヴァッド・ギーターにおいて主ご自身が場と場を知る者の機能(functions、役割)を説明なさり、そして主は、ご自分が知る者として創造全体に存在している、とおっしゃいます。 第10段落 無味乾燥な推量者は、場とそれを知る者を自分の偏った(lopsided)論理に応じて描写します。彼らは、体は容器のようなものであり、ブラーマンはあまねく広がる空のように、この容器に入ります。いったんこの容器が壊れると---というのは、解放のとき---ジーヴァは空によって象徴されるブラーマンに戻って同化します(to merge back into)。 この議論には多くの逃げ道(loopholes、抜け穴、義務などを逃れるためのあいまいさ)があります。何よりもまず、ジーヴァは霊的なエネルギーであり、他方で空は物体です。霊的な主題(subject)を物質的な主題と比べるのは間違っています。 これは、霊的な実体(substance)を俗的なものと同列に並べ(to equate)ようとして、非人格的な推量者がどのように自分の時間を無駄にするかということの典型的な例です。そのような経験主義的な実践(exercises)は、決してジニャーナ・ヨガ、完璧な知識への(of)道とは呼ばれ得ません(to be termed)。 非人格主義者によれば、微小なジーヴァは解放のときに無限大のブラーマンに同化します。しかし、そのような同化は無限大の存在(the infinite)にどのような影響も与えません。不幸にして、非人格主義者たちはそのような解放が微小な生命体に引き起こす途方もない(tremendous)打撃に気づいていません(oblivious)。 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 お待たせしました。第3部の始まりです。実はこのあと第5部まであるのです。それにしても、イソップ物語のコウモリのようなどっちつかずの熱狂的な人々は、もうどうあっても救われませんね。いったいどんな人たちなのだろう、数十年前のインドの宗教事情はけっこう恐ろしげだな、と思います。今もあんまり変わらないのかな。 それから、文章の小難しいことと言ったらありませんね、ほんと。特にこのへんとかはひどいです。「彼らにとって、知識とは現実と幻想を見分ける能力を意味します。幻想を根こそぎにし、真理と現実はブラーマンと異なるものではないということを確立することによって、彼らはブラーマンの存在に同化することを欲します。それならこれが、彼らが何度も生まれ変わって得ようとする完全な知識の、彼らの定義です。彼らは、知る者、知識、そして知識の対象が一つの存在になるとき知識の最高の段階に至る、そしてその一つの存在はついにはブラーマンに同化して解放を得る、と宣言します」。。。 なんのこっちゃ、と思います。平たく言えば何なのだ、一体何が言いたいのだ!?という気になりますが、これはおそらくインド人のもともとの理屈っぽさと言葉数の多さに加え、プラブパーダの古風な原文と翻訳者の古風な英語が組み合わさった結果なのだと思います。腰をすえてよーく読めばどことなく意味が通じることと思いますので、どうぞ皆様努力して読解し、心の中で平易な日本語に直しながら読んでくださいませ。 ■
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by ammolitering4
| 2015-04-09 04:28
| 「英知による放棄」
皆様こんにちは。お元気でいらっしゃいますか?私はおかげさまで元気に怠けており、翻訳はいつもながらのんびりペースで進んでいます。ここ数日は家にこもる時間が長かったので、絵を描いていました。ガラス絵ではなく、傘に表から普通に描いています。面白いもので、もちろん今でもガラス絵は好きなのですが、およそ20年続いた執着とも言える熱意は最近ではすっかり影をひそめていて、そもそもビジュアルなものへの関心そのものも収まってきたような気がします。ろくにスケッチもできないくせに一時期はガラス絵でプロの絵描きを気取っていたことも、今となっては気恥ずかしい思い出です。
傘にはこれまでも何度か描いたことがありますが、けっこう大変です。腰が痛くなるし、それに私は布に描くのはあまり好きではないのです。それじゃあなぜ描く?誰にも頼まれてないし、一文にもならないではないか?と理性は問うのですが、答えはないのです。なんででしょうね。デザインはある程度決めてから描き始めましたが、あくまである程度に過ぎず、いったん描き始めるとどんどん変っていって、結局は行きあたりばったりになります。この傘も既にしっかりとその穴にはまってしまい、これからどうなるか見当もつきません。 ![]() これを描きながら、前世瞑想のオーディオを聞いてみたり、、、 真言を聞いたり、、、 もちろんハレ・クリシュナのマントラを聞いたりしています。これは最後がぶちっと切れてるのが残念ですが、とてもいいです。皆様のマントラコレクションにぜひどうぞ。 前世のは、作業をしながら聞いてるのでちゃんと瞑想しているわけではないのですが、それでもなんとなく脳裏にイメージが途切れ途切れに浮かびます。思いも寄らないような情景が現れるので面白いです。何度かやってみたら、中庭があるような立派なおうちに住んでいる淋しい女の子とか、ハワイのようなところに住んでいる男の子とか、いろいろ浮かびました。女の子のときは家に使用人がいたりして裕福だったようですが、病弱だったようです。外から聞こえてくる子供たちの遊ぶ声がとてもうらやましく感じられました。空襲で家が壊れた情景も見えました。 ハワイのでは幸せそうで、家の窓にガラスがなくて、畑仕事の手伝いをしていました。妹が籠に入っていて、まだ赤ちゃんです。畑仕事に連れてきて、近くに置いてあります。この妹が死んで悲しかった情景も浮かびました。台風が来た様子もちらっと浮かびました。 そのほかにも、恋人を置いて戦争に行く若者だったり、足が悪くて物乞いをしていて凍え死んだ子供だったり、どうもあんまり長生きしているのはないようです。兵士であるらしいのでは、すごく寒くて、駅舎のようなのに入って仲間と一緒に黙りこくってストーブで暖をとっているところとか、楽しげに小屋の修理をしているところとか、線路の近くで撃たれて死んだところとかが浮かびました。夢で浮かんだのもあります。 こういうのって、どこまでが妄想でどこまでが記憶なのでしょうね。どっちにしても絵を描いているときに嫌な雑念がぐるぐる回るのを多少抑えてくれるのでありがたいですし、リラックス効果もあるようですから楽しんで聞いています。 ■
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by ammolitering4
| 2015-03-30 14:15
第13章 すべての完成はバークティ・ヨガから来る
第1段落 何であれ存在しているもの---顕現しているもの、あるいは顕現していないもの、物質的なもの、あるいは霊的なもの---は、一つの最初の(primary)源を持っています。至高主クリシュナです。主は太古の(primeval)、至高の統御者、すべての原因の原因、すべての主の主です。 心臓の中の超魂として、主は超越的に位置する献身者のすべての活動を促します(to inspire、人に何かをする気持ちにさせる)。完全存在に関する本当の知識を持っている者は、従者、友人などの気持ち(mood、気分、雰囲気)で主クリシュナに奉仕をすることができます。 彼らの心はいつも主クリシュナに関する考えに夢中になっており、そして彼らは主の永遠の、超越的な娯楽を知覚して味わうことを切望します(to yearn)。 第2段落 至高主の恵みによって、これらの純粋な献身者たちは主の親密な崇拝(His intimate worship、主を親密に崇拝すること)の神秘を解明する(to unravel、もつれたものをほどく)ことができます。すると、自分たちの主への愛によって(due to、~が原因で)、彼らは主の御名、形、性質、娯楽、仲間、そしてその他諸々の主に関わるものの栄光を聞いたり唱えたりすること無くして自分の暮らしを維持することを困難に感じます。(訳注:~無しでは生きられないようになる) 彼らは心を同じくする(like-minded)献身者との関わりを捜し求め、そして彼らと共に献身の蜜の海に飛び込みます。霊的な自己認識に位置しているので、彼らは霊的な交換(exchange、この場合は他の献身者との関わり)を味わい、主クリシュナの超越的な娯楽の(of、~という、~に関する)完全に縁起の良い話題を聞き、論じ、そして思い出し、そうして九重の献身の過程を実践します。 第3段落 彼らはこの九重の献身奉仕をサーダーナ、すなわち実践の段階において遂行し、そして完成した、すなわちスィッダーの段階において深い満足を感じます。彼らは従者や友人などとしての(servitorship, friendship and so on)超越的で霊的な味わい(mellows )で満たされるようになり(to be saturated、飽和)、そこから神聖な恍惚感を得ます。 (訳注:mellows、一般的な用法ではない。本来は果物などが「円熟した」という意味の形容詞だが、プラブパーダは「円熟した甘く穏やかな関係、およびその味わい」という意味の名詞として使われる。) 主クリシュナは、絶え間ない献身奉仕を通して霊的な満足と神聖な喜びを経験する献身者に、本物の超越的な理解、ブッディー・ヨガを授けます。徐々に彼らの特定の献身の態度(attitude、気持ち、姿勢)は、彼らが神への純粋な愛(pure love of God)を味わうことができるところ(point、地点)まで増します。 (訳注:それによって徐々に献身の念が高まり、彼らは神への純粋な愛を味わうことができるようになります。) 第4段落 バーカ、すなわち恍惚における自発的な(spontaneous、自然に起こる)献身奉仕の段階において、主クリシュナと主の純粋な献身者の間には、関係性の甘い味わい(mellows)の直接的で超越的な交換があります(訳注:~の間では、超越的で円熟した関係の甘い味わいが直接取り交わされます。) 至高主ご自身がご自分の献身者にブッディー・ヨガ、すなわち霊的な知性をお与えになり、そして献身者はその知性をもって活動し、徐々に主の至高のお住まいに近づくまで主に奉仕します。そのような献身者は決して無明によって影響されません。 第5段落 非人格主義者と経験主義的な哲学者は、主の純粋な献身者を感傷的な愚か者と考え、そしてそのため、彼らは献身者をあざ笑います。これは大変な無礼(offense、侮辱)です。そのような無礼は、非人格主義者と偽の(pseudo-)献身者がゆっくりと悪魔的になるようにします(to cause、原因となる)。(訳注:そのような無礼を犯していると、~はだんだん~になっていきます。) 良い感覚と安定した心を失って、彼らは徐々に至高主への敵意(animosity、反感、憎しみ)を育み、自分の人生でのすべての努力(all their life's endeavor)が苦しみと無益さ(futility)に引き下げられる(to be reduced)のに気づきます。(訳注:彼らが人生で為す努力のすべてが苦しみと徒労に終わることになります。) これらの惑わされた悪魔的な非人格主義者が純粋な献身者に触れて(to come in contact with)、彼の慈悲によって自分の失われた洞察(insight)を取り戻すなら、それなら彼は、自分が侮辱した純粋な献身者は主クリシュナと霊的な味わいを交換しており、そしてそのため永遠に無明と幻想から自由である、ということを理解し始めることができます。 非人格主義者は、超魂として内から活動している至高主は献身者の心からすべての無明を取り除く、ということを理解しなければなりません。主クリシュナはバガヴァッド・ギーター(10.11)において次のように述べられます。 (サンスクリット引用) 「彼らに特別の慈悲を見せるために、私は、彼らの心臓の中に住みながら(I, dwelling in their hearts,)、無明から生まれる暗闇を知識の輝く明り(lamp、光明)をもって滅ぼします。」 第6段落 無味乾燥で推量的な哲学者たちは、どうか一つの要点に留意してください(may kindly note one point)。「テシャーム」という単語を使うことによって、主クリシュナはご自分がいつも、(ご自分に)服従した献身者に慈悲深い、と公けに宣言なさいます。 主がご自分を超魂として拡張してすべての者の心臓にお入りになる理由は、経験主義的な哲学者とヨギーを祝福するためではなく、献身者を内から祝福するためです。もしも至高主ご自身が献身者を霊的な知識で啓蒙して彼らを徐々にご自分に近づけたい(to draw ~ closer to ~)と望まれるなら、それなら、そのような献身者が一度でも(ever)無知(nescience、正しい信仰を知らない状態)の魔力(spell)の下に来ることがあり得るでしょうか?(what question is there~?)(訳注:~なら、献身者が無知の闇に陥るということは決してあり得ません) むしろ、経験主義的な哲学者が自分自身の知性(intellect)の力によって至高の真理に近づこうとすることが、無知だけによるものです(out of nescience only)(訳注:無知そのもの、というような意味合い)。私たちは、至高主はご自分の身体から放射する霊的な光輝で無明の闇を消す(to dissipate)ことがおできになるのを知っています。 経験主義者(empiricists)も同じことをすることができますか?人は、自分自身の努力によってはけっして無知の闇(gloom)を取り除く(to lift)ことができません。無神論者カピラのような経験主義者は、自分自身の努力によって悟り(enlightenment)に至ることができないので、完全真理を不可知であり非顕現であるとして言いくるめ(to explain away、ごまかしやこじつけで言い逃れる)ようとすることに大きな安堵を感じます。(訳注:~だと言って切り捨てて安心してしまっています) しかし、主クリシュナがバガヴァッド・ギーター(12.5)において確認なさるように、非顕現なる完全存在という理論に執着したこれらの無味乾燥な推量者たちに大変な苦しみが降りかかります(to befall)。 「その心が至高存在の非顕現にして非人格的な特徴に執着している者にとって、発達は大変困難です。その道(discipline、修行法、分野)において発達することは、身体に閉じ込められた(embodied、身体という形態を持った)者にとっていつも困難です。」 第7段落 一元論者(monist)が行う苦行は、実践(サーダーナ)の最初の段階の間も、完成に達したとされるときも、苦しみを伴います(painful)。非人格主義者は、推量的な理論を通して物体と霊の一体性を確証しよう(to establish)として、大変な(excruciating、耐え難い、激しい苦痛)痛みに苦しみます。 ブラーマンは無力(impotent、無能、男性の性的能力がない)であると考え、詭弁(sophistry)を通して、彼らは主の劣性な物質エネルギーと主の優性な霊的エネルギーを同等に並べようとし(to equate)、こうして本当に学識のある層(circles、職業などの仲間、この場合は知識層)からあざけり(ridicule)を受けます(to reap、報いを受ける)。 完全真理は無限のエネルギーを持った至高の人格神ではあり得ないと証明しようとして、彼らは、これは「不変の(immutable)ブラーマンは実際は変り得る(mutable)」ということを意味するだろう(this would mean、この場合のwould は可能性や推量を表す)、と論じます(訳注:原文は括弧無し)。 こうして彼らの理論はすべての結合力(cohesion、まとまり)を失い、彼らは笑いものになります。パリナーマ・ヴァーダ、すなわち「エネルギーの変容」という確立した理論を論破(to refute)しようとして、シュリーラ・ヴャーサデヴァが「物質宇宙と生命体はすべて主のエネルギーの変容であり、したがって偽り(false、非実在、仮)ではなく本物(real、実在、実存)だ」とおっしゃるとき、間違っているとして彼ら(一元論者)は彼を非難します(訳注:原文は括弧無し)。 そのため、(彼らの)哲学的な議論において、一元論者はすべてのヴェーダの聖典とそれらの必然的な結果(corollaries、ある命題から自然に導かれる結論)の主な意味(purport)と真髄を退け、「タット・トヴァム・アスィ」、「あなたはそれである」などの非本質的な(nonessential)教え(injunctions、命令)にしがみつきます(to hang on to、固執)。 彼らはこれらの副次的な要点(subpoints)を論じる(to deliberate)ことを好みますが、学識のあるヴァイシュナヴァの議論に直面すると(to be confronted with)、彼らは背を向けて戦線(battlefront)から逃げます(to run from)。 第8段落 至高主は超越的な人格(personality。名士)であると理解することなく、一元論者は、究極的でもともとの完全真理としての主の非人格的な側面を瞑想し、自分の感覚を制御する(to restrain、抑制)という無益で非常に(grossly、悪いことを強調する様子)俗的な試みをします。 溢れている川をせき止めることが不可能であるように、非人格的なブラーマンを瞑想することによって感覚を統御することは不可能です。偉大な聖人サナット・クマーラはシュリマッド・バーガヴァタム(4.22.39)においてこうおっしゃいます。 (サンスクリット引用) 「主の蓮の御足の指への奉仕にいつもいそしんでいる献身者は、結果を求める活動への強い(hard-knotted、結び目が固い)欲望を簡単に克服することができます。これは大変難しいので、感覚の満足の波を止めようとしているにも関わらず、非献身者---ジニャーニーとヨギー---は、そうすることができません。 したがって、あなたはクリシュナ、ヴァスデヴァの息子への献身奉仕に携わることを助言されます(訳注:~するのが良いでしょう)。」 第9段落 主ヴィシュヌの非人格的な側面はブラーマンとして知られます。そのため、ジーヴァ魂、すなわち主ヴィシュヌの優性で霊的なエネルギーがブラーマンと融合することによってサーユジャ・ムクティ、すなわち解放を得るとき、それは全く驚くべきことではありません。 エネルギー的な原則はいつも、それ自身の中に主ご自身のエネルギーを抱える(to enfold、包む、巻き込む)という特権(prerogative)を楽しみますが、それはエネルギーの永遠の個人性(individuality)を滅ぼしません。(訳注:エネルギー的な原則(魂)はいつも主ご自身のエネルギーを内包していますが、それは~滅ぼすものではありません) ブラーマンと融合することを欲し、それが実現可能(feasible)であると知っている非人格主義者は、それでも、ブラーマーナンダ、「ブラーマンの喜び」に至るための努力において、激しい苦しみを経験します。主の献身者たちは、そのような解放の喜びを地獄よりも悪いと考えます。 非人格主義者は、物質的な形の中に内在する(inherent、固有の、つきものの)幻想を滅ぼそうとして、永遠の霊的な形さえ取り除きます(to do away with、終わらせる、殺す)。それは本当に、大変愚かです。病を癒すために患者を治療するのは一つのあり方(one thing)ですが、病と共に患者(の命)を終わらせるのは馬鹿者の仕業(work)です。(~するために、~ではなく~をするのは、愚か者のすることです) そのため私たちは、シュリマッド・バーガヴァタム(10.14.4)の中に偉大な権威者ブラーマーからのこの教えを持っています(そのため、~は~において、このように教えられます。) (サンスクリット引用) 「我が親愛なる主よ、あなたへの献身奉仕は自己認識のための最良の道です。もしも人がその道を放棄して推量的な知識を培うことにいそしむなら、彼らは単に困難な過程を辿り(to undergo、変化を経験する、困難を耐え忍ぶ)、自分の望む結果を得られないでしょう。 空の麦の殻を叩く者が実(grain、穀物)を得ることができないように、単に推量するだけの者(who simply speculates)は自己認識に至ることができません。彼の唯一の得るものは苦しみ(trouble、困難、悩み)です。(訳注:彼が得るのは苦しみだけです)」 第10段落 非人格主義者になって不運と悲惨さを招く代わりに、献身者は主クリシュナに服従し、この世界において決して苦しみません。現在の体を去るとき、彼は物質的な水準を超越し、主の永遠の娯楽に参加することができるようになります(to become eligible、資格を得る)。 超魂として、主クリシュナは心臓の中から献身者を啓蒙し、無明の闇を散らされます(to disperse)。主は献身者に、ご自分に至るための霊的な知性をお与えになります。無知の海は横切るのが大変困難ですが、献身者がそれを横切ろうとするとき、主ご自身が助けるために手助けなさいます(to intervene、介入)。 一人では献身者は必ず溺れますが、主の助けがあれば(with)彼は簡単に横切ります。このように、主の庇護の下に入ることは物質的な存在の海を乗り越える(to surmount)ための最も確実な方法です。主はバガヴァッド・ギーター(12.6-7)においてこうおっしゃいます。 (サンスクリット引用) 「しかし、すべての活動を私に捧げ(giving up ~ onto Me)、逸れることなく私に献身的であり、献身奉仕に携わり、いつも私を瞑想し、心を私に定めて私を崇拝する者---おお、プリターの息子よ、彼らにとって私は生と死の海からのすばやい救済者(swift deliverer)です。」 第11段落 主クリシュナに服従する者、至高主の人格的な形に(自分の)断固たる(unflinching、to flinchは「ひるむ、たじろぐ」など)信仰を寄せる(to repose)者は、他のすべてのものと共に、自分の精神的(mental)および身体的な活動を主に捧げます。 経験的な知識への欲望、結果を求める活動、あるいは厳しい苦行によって邪魔されない(unencumbered)純粋で一途な献身の念を持って、彼らは笛を吹いておられる主クリシュナの永遠の、美しい、二本の腕を持ったお姿を崇拝し、瞑想します。 そのような純粋な献身者は、心(hearts)がクリシュナへの愛で満たされ、主クリシュナが自ら(personally)彼らをお助けになるので、すばやく、そして簡単に、物質的な存在の循環を超越します。慈悲深い神は、(彼の)献身の程度に応じて一人ひとりに報いを与える(to reciprocate with each one)と約束なさいます。 第12段落 非人格主義者は、至高存在は非人格的であり、最終的な目的はそのブラーマンの存在と融合することであるという考えに取り付かれています(to be obsessed with、夢中になる、思い込む)。もちろん(naturally)、主は反対なさいません(to object)。 もしも患者が自分の人生を終えることによって自分の病を終わらせたがるなら、彼の他に誰が苦しむでしょうか?もっと知性的な人はもちろん(surely)自分の命を終わらせることなく自分の病を癒したいと思うでしょう。 そして、そのためにも(to that end)、彼は自分のもともとの健康を取り戻そうと努力するでしょう(to strive)。同様に、物質的な病に侵された魂は、(自分の)個々の自己認識を滅ぼすことなく、自分の純粋な、もともとの状態に戻ろうと欲すべきです。 主クリシュナはそのような人々を神と一つになろうとするという悪魔的な考え(conception、構想)の顎(jaws、この場合は「噛み付いて離れない危険なもの、呪縛」)から救います。霊魂にとって、自分の本来の(inherent、内在)個別性(individuality)を失おうとするのは自殺行為(suicidal)です。 物質的な存在の呪縛(knots、結び目)から自分自身を解放する(to disentangle、もつれていたものをほどく)ことによって非人格主義者が感じる幸せは、献身奉仕の副産物として、主の献身者には自動的に得られます(available)。ナーラディーヤ・プラーナにはこう述べられています。 「人は、結果を求める活動にいそしんだり、精神的な推量によって知識を培ったりすべきではありません。至高主、ナーラーヤナに献身的な者は、ヨガ、精神的な推量、儀式、犠牲、そして慈善などの他の過程から得られる(to be derived)すべての利益を得ることができます。それが献身奉仕の特定の恩恵(benediction、祝福)です。」 第13段落 そしてクリシュナ・カルナームリタ(107)において、ビルヴァマンガラ・タークラがこうおっしゃいます。 (サンスクリット引用) 「おお、主よ。もしもあなたへの私たちの献身が逸れないなら、それならあなたの永遠に若々しいお姿が私たちの心の中に自然に(spontaneously)現れるでしょう。そのとき、人格化した解放が女召使(maidservant)のように私たちに奉仕をし、そして信仰心(religiosity、宗教的な熱意)、経済的な発展、そして感覚の満足(ヴェーダの外の3つの目的)は、つつしんで私たちの命令(bidding)を待つでしょう。」 (サンスクリット引用) 「人生の完成を得るための普通の必要事項(requirements)が無くても(訳注:欠けていても、満たしていなくても)、もしも彼が単にナーラーヤナの服従した献身者であるなら、人は完成を得るでしょう。」(ナーラディア・プラーニャ) 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 ようやく第2部が終わりました~!!!だらだらとやってましたので、長々とお待たせして申し訳ございませんでした。あと、第3部が残っています。これも完成するのはいつになることやら分かりませんが、ぼちぼち進めますのでどうぞ最後までよろしくお付き合いください。皆様、編集のほうもどうぞよろしくお願いいたします。可能であれば原文と照らし合わせていただき、間違いや抜けがあれば修正してください。そして、読みやすい平易な日本語になって、プラブパーダのお言葉が広まればいいなと思います。まあ、広まったって猫に小判、いや、大判という場合がほとんどだと思いますが、中にはほんの一人か二人、何度も生まれ変わってこの出会いを待っていた、という方がいらっしゃると思うのです。長くも闇路を辿ってました、ろくろっ首になって待ってました、という誰かに本訳文を捧げます。 ■
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by ammolitering4
| 2015-03-19 05:47
| 「英知による放棄」
第12章 「すべての種類の宗教を放棄して私に服従しなさい」
第1段落 いわゆる進歩的な現代の文明は、その罪が多くの生を通して蓄積している堕落した(reprobate、不道徳的、邪悪な)人間を作り出しました(訳注:「いわゆる進歩的な現代の文明が作り出した堕落した人間は、その罪が幾生にも渡って蓄積しています」)。 それでも、もしも彼らが主クリシュナに服従するなら、彼らでさえ、そのすべての罪を永遠に根こそぎにされるでしょう(to be eradicated、撲滅)。献身奉仕の過程と主クリシュナを覚えていることは、彼の心の中から徐々に、望まれない、卑しい(base)欲望を消します(to dissipate、霧が晴れるような様子)。 そして、かつて不滅の切望(yearnings、憧れ、満たされない長期的な強い欲望)を宿していたそれらの心は、完全に清められ、幸先が良くなります(auspicious、縁起が良い、吉祥、めでたい)。 第2段落 罪深い者と困窮した者(the destitute)は、主クリシュナの慈悲によってのみ、自らの過ちと不運を理解します。いったん自分の罪を悔い改め始めて(to repent for)主に服従すれば、彼らは救われます。彼らは浄化され、聖人的な性質を現し始めます(to manifest)。 そして、もしも、たとえ人が献身の過程を始めた(to take to~、習慣的に何かをし始める)あとでさえ、不滅性の痕跡(vestige)(訳注:この場合は「尽きることのない欲望の名残」)が彼の性質の中に残るなら、それもまたすぐに主の恵みによって根こそぎにされるでしょう(to be eradicated)。 決して至高主あるいは主の献身者を傷つけない(to offend、憤慨させる、機嫌を損ねる)一途な(single-minded)献身者は、聖人的な魂であると考えられます。たとえそのような聖人がまだすべての罪深い性質(propensities、傾向)を捨て去っていない(to be rid of、取り除く)ように見えても、彼は決して滅ぼされません。似たような状況にあるヨギーとカルミーも同様です。これを至高主ご自身が宣言なさいます。 第3段落 シュリマッド・バーガヴァタムの中にあるアジャーミラの救済(deliverance)の記述(account)は、この事実を決定的に(conclusively、結論的、確証的)に証明します。主クリシュナへの献身奉仕における揺るぎない(undeviating)信仰(faith)がいったん人の心を貫くと、たとえ彼の外的な活動が罪の名残(residue)を見せるかもしれないとしても、浄化の過程は確実に進んでいます(underway、進行中)。 主クリシュナはバガヴァッド・ギーター(9.31)において、主の服従した献身者(His surrendered devotees、「ご自分に服従した献身者」)は決して打ち負かされ(to be vanquished、征服)得ないというご自分の約束を堂々と(boldly、大胆、高らかに)公言なさいました(to broadcast)。(サンスクリット引用) 主クリシュナはいつもご自分の献身者をお守りになるということが、この節において証明されています。特に、主が、約束を自ら宣言する代わりに、ご自分の代理としてそうするように勇敢な(valiant、立派な)王子アルジュナにお頼みになるからです。(訳注:「そうするように」というのは「宣言するように」という意味。) 主はご自分自身の約束を破られるかもしれませんが、主はご自分の献身者に好意的であられる(be favorable to)ので、いつも彼らの約束(訳注:この場合は彼らが他者に対してした約束)を守ろうと(to uphold)なさるでしょう。 クルクシェトラの戦場において、ご自分自身の約束を破り、ビーシュナデヴァのを守ることによって、主は疑いもなく、ご自分に服従した献身者に肩入れなさる(to favor、好意、助力、偏愛、大事にする)ことを証明なさいました。 第4段落 ブラーマナ、あるいは美、富、そして学識に恵まれた高貴な生まれの者は、献身者の中にまだ見られる堕落した習慣の排除(elimination)はアジャーミラのようなブラーマナの場合だけに起き得ると、誤った推論に基づいて(fallaciously)結論するかもしれません。 アジャーミラはブラーマナの生まれでしたが、自分の過去生からの悪い反応によって生じた罪深い活動のせいで(on account of)、彼は忌まわしい活動を始めました。しかし、人生の終わりに彼の至高主の記憶(remembrance、追憶、想起)が彼をすべての罪から放免(to absolve him of)しました(訳注:人生の終わりに至高主を思い出したことで、彼のすべての罪が許されました)。 しかし、救い(deliverance)は高い生まれの者だけでなく、すべての人にとって可能です。もともと(naturally)卑しい活動をしがちな(to be given to、~にふける)最も低い人々でさえ、もしも彼らが単に主の蓮の御足に(at)服従するなら、主クリシュナの霊的なお住まいに至ることができます。主はバガヴァッド・ギーター(9.32)においてこうおっしゃいます。 (サンスクリット引用) 「おお、プリターの息子よ、私の庇護の下に入る者は(to take shelter in Me)、低い生まれ---女性、ヴァイシャ(商人)、そしてシュードラ(労働者)であっても、至高の目的地に至ることができます。」 第5段落 人間のうちで最も低いものが主クリシュナに服従することによって至高の目的地に至ることができるとき、身分の高い生まれのブラーマナについては言うまでもありません(what to speak of~?、言わずもがな。直訳すると「何をか言わんや?」に近いですが、これは「言葉もない」、「呆れてものが言えない」というような意味らしく、どうやら少し違っているようです)。 至高主への献身奉仕の道を辿る者は、カーストと色(訳注:肌の色など)の差別によって悩まされる(to be hounded、猟犬に追い回されるようにしつこく攻撃される様子)ことがありません。一神教(monotheism)---一つの宗教と一つの信条(creed)---は、主クリシュナの蓮の御足の庇護の下でのみ可能で、他のどの方法によってでもありません(and not in any other way)。 第6段落 幻想の力、マーヤーは、常に現在の争い(Quarrel、口げんか、いさかい)の時代、カリ・ユガの(in)人々を恐怖に陥れ(to terrorize)、束縛します(to shackle、鎖でしばりつける)。霊魂としての自分の本当の自己認識を忘れ、彼ら(訳注:カリ・ユガの人々)は世界に大惨事(disaster)をもたらします。 そのような包囲攻撃(siege)の下で、現代の(modern-day)思想家と哲学者は社会に純粋さ(purity)と統一(unity)をもたらそうと必死に(desperately、絶望的、という意味合いがある)試みています。彼らはこの問題に関する(into)詳しい研究を行っています。しかし主クリシュナははるか昔にバガヴァッド・ギーター(9.34)の中で私たちに、私たちの現代の問題への解決策をお与えになりました。 (サンスクリット引用) 「いつも心で私のことを考え(Engage your mind always in thinking of Me)、私の献身者になり、私に服従し(to offer obeisances)、私を崇拝しなさい。完全に私に夢中になれば(Being completely absorbed in Me)、必ずあなたは私のところに来るでしょう。」 第7段落 おお、世界の人々よ!どうかギーターのメッセージを行動へと替え(to translate、別の形に直す)、あなたの思考を主クリシュナの蓮の御足に向けようと(to channel、水路で繋ぐ様子)してください。あなたの心と身体で主に奉仕をしなさい。 もしもあなたが自分のすべてのエネルギーを主への奉仕に向ける(to dovetail、ぴったり合わせる)なら、そうすればあなたはこの人生において強い喜び(exhilaration)を感じるだけでなく、霊的な世界においても、永遠に主に奉仕をして、永遠の喜びに浸る(to be immersed)でしょう。 至高主の最も寛大な(munificent)化身、主チャイタンニャ・マハープラブは、最近(recently、1486年)このメッセージを広めるためにカリの時代に降臨なさいました。すべてのベンガル人の大いなる幸運によって主はベンガルにお現れになり、ベンガル人(Bengali race)を祝福なさいました。 そのため(Thus)ベンガル人は主の使命と教えを人類全体に説き(to preach、布教)、この惑星(the planet)の人々と自分たち自身を救うことができます。系統的で(systematic)科学的な方法(manner)におけるこの知識の提示(presentation)は普遍的な至高の平和をもたらします(訳注:この知識を系統的かつ科学的に示すことで、~が得られます)。 それでも(Yet)、衝撃的な事実は、13の非公式な(unauthorized)新興宗教(cults)が雨後の筍のように現れ(to mushroom into prominence、”prominence”は目立った様子を指す。”to mushroom”はキノコが生えるように急に現れること)、考えの甘い(naïve、世間知らず、騙されやすい)弟子と共にその不正な(illegitimate、違法)集団(fold、領域、囲いに囲まれた部分、宗教的な集団)を急速に広げていることです。 (訳注:この場合の「~と共に」は「~という」という程度の意味。「しかし、驚くべきことに、13もの非公式な新興宗教が乱立しており、騙されやすい弟子たちを取り入れて急速にその不正な勢力を増しています。」) (訳注:”cult”は「新興宗教」としていますが、本来は単に儀式や宗派を指す言葉です。近年は「偽宗教」とさえする否定的な意味合いが強まっていますが、プラブパーダもハレ・クリシュナのことを随所で”cult”と自称していらっしゃいます。) 人が理解し損ねるのは(to comprehend)(訳注:「解せないのは」)、どの真正なる霊的指導者からの指導(discipleship、弟子として修行すること)も監督(tutelage、指導、後見)も一度も受け入れたことのないこれらの新興宗教の指導者たちが、どうやって突然自ら霊的指導者の立場に上がることができるのかということです。 人々の間で広められる(to be promulgated)必要のある主題は、彼らを騙すためにある(to be meant to deceive them)何かの安っぽい感傷的なでっちあげではありません。それは、事実、非常に(deeply)深遠で(profound、重大)難解な(esoteric、秘儀)神学です。 主チャイタンニャのお言葉は、愚かな大衆(ignorant mass of people)を感動させる(to impress)ための霊的な感傷を偽る(to fake)無節操な(unscrupulous、非良心的な)自己流の「グル」によっては、決して広められ(to be disseminated)得ません。すべての聖人的な人々よ、気をつけなさい(beware)! 第8段落 私たちの一般的な経験は、推量と詭弁(sophistry)にふけりがちなので(given as they are to ~ and ~)、非人格主義者は主クリシュナを至高の人格神として受け入れることを躊躇する、というものです。そのため彼らはいつも、自分自身の知性の力によって(by dint of)至高の完全真理を知るための努力において、挫折します(to be frustrated)。 彼らは自分たちの中のこの欠点(shortcoming)を知覚することができず、そして、たとえそれがクリシュナ意識の科学を知る人々によって指摘されても、彼らはそれを理解することができません(to grasp)。そのような汚染された意識は主クリシュナへ服従しないことの結果です。 主の名前、形(form、姿)、性質(qualities)、娯楽、そしてその他の主に関わる諸々のこと(paraphernalia)は、すべて超越的で非凡(extraordinary)です。そのため、鈍い(blunt)物質的な感覚はそれらを知覚することができません。 太陽は太陽光の助けによってのみ可視的になります。同様に至高主は、主への献身奉仕に携わっている者だけにご自分を明かされます。 第9段落 私たちの物質的な状態において得られる設備は多数あります。徳の相における私たちの設備は、かすかな要素を見分け(to distinguish)、物質と霊の間の違いを認識し(to discriminate)、そしてこのようにして幻想の下に入ることを避ける能力を私たちに与える、知性です。 徳の相には、忍耐、正直さ、感覚の統御、心の平静(equanimity)、そしてその他のそのような性質があります。加えて(Added to the list)、強い欲望、大胆さ(fearlessness、恐れを知らない様子)、そして揺るぎない決意などの熱情の相における性質、さらに、恐れ、狂気、そして生老病死の(over、~に関する)苦しみ(distress)もあります。 これらすべての設備は、主の外的で物質的なエネルギーの産物です。マーヤーは至高主の統御の下にあるので、上記のすべての性質もまた、クリシュナご自身から放射します。しかし、主クリシュナは私たちの感覚的な体験の枠(periphery、周囲、外周)を越えていらっしゃり、そしてそのため、単に---徳の相にある---より高貴な性質を培うことは、私たちを主の蓮の御足へと上げるための十分な霊的な実践ではありません。 (訳注:単に徳の相に分類されるようなより高貴な性質を培っても、それだけでは主の蓮の御足へと上がるために十分な霊的な実践とはなりません。)マーヤーに打ち勝つ(to overcome、克服)唯一の方法は、主の蓮の御足の完全な庇護の下に入ることです。 クリシュナはギーター(7.14)において、ご自分に服従する者は簡単にマーヤーを越える(to cross beyond)ことができるとおっしゃいます。いったんマーヤーが乗り越えられると(to be surmounted)、人の努力は主クリシュナが至高の人格神であるという認識を授けられます(to be crowned with、栄誉を与える、冠を被せる)。(訳注:「努力は~という至上の認識をもって報われます」)。主ブラーマーは、ブラーマ・サムヒター(5.1)においてこうおっしゃいます。 (サンスクリット引用) 「ゴヴィンダとして知られるクリシュナは至高の人格神です。主は永遠の、喜びに満ちた霊的な身体をお持ちです。主はすべてのものの源です。主は他のどの源も持たず、主はすべての原因のもともとの(prime、主要な、根本的な)原因です。 第10段落 マーヤーの影響から自由であるときだけ、人は至高主の超越的な富、力、名声、美、知識そして放棄を知覚することができます。この超越的な理解をもって、人はバガヴァッド・ギーター(10.8-10)の中の至高主ご自身のお言葉を理解する(to fathom)ことができます。 「私はすべての霊的および物質的な世界の源です。すべてのものは私から放射します。これを完璧に知る賢者は私への献身奉仕にいそしみ、心から(with all their hearts)私を崇拝します。私の純粋な献身者の思考は私の中にあり(to dwell、住む)、彼らの人生は完全に私への奉仕に捧げられ(to be devoted)、そして彼らは、いつも互いに啓蒙し合い(to enlighten)、私について語り合うことから、大いなる満足と喜びを得ます。 常に愛情をもって私に奉仕をすることに(自分を)捧げている者に、私はそれによって彼らが私のところに来ることのできる理解を与えます。(訳注:~には、(私が彼らが)私のところへ来ることができるように、必要な理解を与えます。) 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 ごちゃごちゃと訳注が多くて、読みづらくて申し訳ありません。内容は可能な限り原文に忠実に写し取っているので、適宜編集して読みやすくしてご活用ください。それにしてもプラブパーダ、怒ってらっしゃいますね。ふざけるな!たわけもの!!という声が聞こえてきそうです。 ■
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by ammolitering4
| 2015-03-14 05:42
| 「英知による放棄」
第11章 葉、花、果物あるいは少しの水を捧げる
第1段落 人はいつも、主クリシュナ以外の方を崇拝する必要はないということを心に留めておくべきです。特にこのカリの時代においては、贅沢な(opulent、富裕、壮麗)犠牲や崇拝を行うことは不可能です。最近(Of late)、派手に(with great pomp、豪華で華やかな様子だが、虚飾という意味合いを含む)表立って(publicly、公けに)半神たちを崇拝することがよく行われるようになりました(to become a popular practice)。 そのような崇拝は、聖典の規定に従わず、気まぐれに行われます(to be conducted whimsically)。それは、無明の相の中にいる人々のための、卑しい(base)感覚の楽しみと悪魔的な(fiendish、ひどく不快な)どんちゃん騒ぎ(revelry)にいそしむための口実です。 何の倫理(ethics、道徳)も守られず(to be maintained、意見など主張する、擁護する)、豪勢な(sumptuous)公共のご馳走(feasting)のための何の手配もなされず、何の正統なマントラも唱えられず、神像に何の正しい捧げ物もありません。 これらの催し(occasions)は単に騒々しい(wild、狂乱、興奮)歌や踊り、そして羽目を外す(misbehaving)ための口実です。すべてのそのような崇拝は、正統ではありません(unauthorized)。 第2段落 従って、知性的な人々は神の神聖なる御名を皆で唱える(congregational chanting)という過程を辿り、このようにして、黄金色の肌色(complexion)をしたクリシュナご自身である主ゴーラーンガを崇拝します。主チャイタンニャを崇拝することは高い費用のかかるものではなく、そして主クリシュナを崇拝することよりもっと簡単で、費用も少なくて済みます。 その理由は、一枚の葉、一つの花、一つの果物、あるいは幾らかの水を集めるのに要する少しの(little)努力が、主チャイタンニャの崇拝においては必要とされてさえいないからです。(訳注:~さえ必要とされていない) しかし、どちらにせよ(in any case)、どちらの至高主も簡単に、どの国でも、どんな状況ででも、誰によっても---その人が愚かであろうと賢かろうと、罪深かろうと敬虔であろうと、身分の高い生まれであろうと、低い生まれであろうと、豊かであろうと、貧しかろうと---簡単に崇拝され得ます。(訳注:どの国でも、どんな状況ででも、誰でも、簡単に~を崇拝できます。) このため、私たちは主クリシュナがバガヴァッド・ギーター(9.26)においてこうおっしゃるのを見出します(訳注:~は~とおっしゃいます。) (サンスクリット引用) 「もしも人が愛と献身の念をもって私に(一枚の)葉、(一つの)花、(一つの)果物、あるいは水を捧げるなら、私はそれを受け取ります。」 第3段落 いったん至高主が満足なさると、世界全体が自動的に満足します。なぜなら(for)主を崇拝することによって人は他の誰もを崇拝するからです。ちょうど、いったん木の根が水を与えられると、木全体---枝、葉など---が水を受け取るように、同じく(so)、主クリシュナが崇拝され満足させられるとき、そのときすべての半神と人間が崇拝され、満足させられます。 第4段落 主クリシュナの崇拝が大きな費用(expenditure)と派手さ(pomp)と共に執り行われねばならない(to be conducted)という言及はどこにもありません。また、時間、場所あるいは状況の、何らの規制もありません。ちょうど、誰もがガンジス河で沐浴する権利を持っているように、同じく誰もが主クリシュナに奉仕をする権利を持っています。 花、果物、葉、そして水はどこででも手に入ります(available)。非常に貧しい者(pauper)でさえ、ほとんど何の努力も要せず(with very little effort)、お金も全くかけずに、これらの4つのものを見つけるために手配をすることができます。このように、主クリシュナを崇拝する過程(process、方法)はとても単純なので、どこの誰でも参加することができます。 第5段落 主クリシュナは生まれたことがなく(unborn)、それでも主は想像し得るいかなる形でも受け入れることがおできになります。そして、主はすべての生命体の至高の主でいらっしゃるので、誰でも---身分の高い生まれのブラーマナ、あるいは社会的に排斥されている者(outcast)でも---主に花、果物、葉、そして水を、愛と献身の念をもって捧げることができます。 そうすれば、主クリシュナ、すべての原因の原因は、この捧げものを受け入れ、そしてそのような霊的な活動によって崇拝者は主の永遠のお住まいに入る資格を得ます(to become eligible)。この簡単で喜ばしい(joyful)過程を退け、そして物質的な存在の蜃気楼(mirage)と、一時的で世俗的な設備(facilities、この場合は「諸々」というような意味)への渇望によって魅了されるようになって(to become captivated)半神たちの庇護の下に入る者よりももっと愚かな者があり得るでしょうか(Who could be more foolish)? 最近の時代は、世界に一体化(unity)、平和、そして調和をもたらす(to bring about)ための、すべての側面(front、活動などの場)での組織だった(concerted、コンサートのように各種のものが協同する様子)、崇高な(noble)努力を目撃しましたが(訳注:近年は~のための~がなされましたが)、これらは人々が主クリシュナを崇拝して主に献身奉仕をするときにのみ可能です。 第6段落 そのような提案は、不合理な(preposterous、途方も無い、馬鹿げた)ものでも、こっけいな(comic)ものでもありません。事実、もしも誰かが完全真理の誠実な探究者(seeker)であるなら、それなら、彼の現在の状況がどのようなものであれ、定期的に至高主に愛と献身の念をもって花、果物、葉、そして水を捧げることによって、彼はたやすく(readily、すぐに)、至高の完全真理、主クリシュナが徐々に自分に近づいていらっしゃることを経験するでしょう。 私たちは、つつしんで(humbly、身を低くして丁重に頼む様子)、私たちのすべての読者に、どうか(kindly)この、主クリシュナの蓮の御足に近づくためのすばらしい方法を試してみることをお願いします。この方法にはお金がかからず(no monetary expenditure)、身体的な努力(exertion)、哲学的な知識、高貴な生まれも必要ありません。 第7段落 半神崇拝者と主クリシュナの献身者の間の違いは大きく(wide)、たくさんあります(numerous)。一般に、人々は一時的で物質的な欲望からのみ半神に近づきますが、他方で献身者は至高主と自分の永遠の愛情ある関係を再び築こうと志します(to aim)。 その目的のために(to that end)、献身者は主に、愛と献身の念と共に、崇拝、贈り物(gifts)、そして何であれ自分が集められるものを捧げ、そして主はこれらすべてをおいしい味わい(relish)と共に受け入れます(訳注:喜んで受け入れる)。そのような献身的な捧げ物は、物質的な利益のための何らの欲求(craving)からも自由です(~には~がない)。 第8段落 対照的に、物質的な利益(gain)のための利己的な動機にまみれた(to be laden with)多神論者(polytheists)の捧げ物は、たとえそれらの捧げ物が豪華(opulent)で手の込んだ(elaborate)ものであっても、決して至高主によって受け入れられません。 半神を崇拝する者は、自分が崇拝する特定の半神への本当の愛や献身の念を持っていませんが、それでも主クリシュナは非常に慈悲深くていらっしゃるので、愚かな半神崇拝者たちの物質的な欲望を満たされます。 第9段落 主クリシュナは決して愛と献身に欠けた(bereft of)何らの捧げ物もお受け取りになりません。空腹でない人は、たとえおいしそうな(delectable)食べものを与えられても、突然食欲を出す(to develop)ことはできません。 同様に、主は愛と献身の念なくして作られた豪華な(opulent)捧げ物に何の魅力も感じられません(to have no attraction for)。私たちは既に、至高主の正統でない崇拝は献身の念の欠如と物質的な欲望の存在から派生する(to stem from)、と論じました。 献身の念に満ちている者は、至高主の感覚を満足させる(to satisfy)ことを目指しますが(to aim)、他方で、物質的な欲望に満ちている者は自分自身の感覚を満足させる(to gratify)ことを目指します。自分の心の中に自分自身を満足される欲望を持っている(to carry)のに至高主に奉仕を捧げる振りをする(to make a show of)者は、決して本当の献身者であることの喜びを経験することができません。 聖典は適切に(aptly、ふさわしく)彼らを金銭ずくで働く人々(mercenaries、傭兵)と描写しました(訳注:聖典には~と描写してありますが、言い得てしかりです)。献身の主要な目的(objective)は、神に至ること(attainment)です。 したがって人は、カルマ・ヨガ、ジニャーナ・ヨガ、神秘的なヨガ、禁欲、瞑想などの結果を含み、自分の所有しているものすべて(everything in one's possession)を主に捧げなくてはなりません。この完璧な服従の過程は神への到達に繋がります(to lead to the attainment of God)。このため主クリシュナはバガヴァッド・ギーター(9.27)において公けに(openly)宣言なさいます(to proclaim)。 (サンスクリット引用) 「何であれあなたがすること、食べるもの、捧げ、あるいは与えるもの、そして行う苦行(austerities、禁欲)(のすべて)を---それを、おお、クンティーの息子よ、私への捧げ物として行いなさい(whatever you do, whatever you eat~)。」 第10段落 もしも人がこの命令に従い、愛情をもって主に自分の持っているすべてのもの---妻、家、家族、知性、学識、仕事(business)、宗教心(religiosity)、労働、食べ物、水、何であれ身体を維持するために必要なもの、そして欲望(lust, greed、ほぼ同義の繰り返し)や怒りさえも---を捧げるなら、そうすれば主はこれらの捧げ物をお受け取りになり、捧げた人を完全に満足させます。そして死のときに主はそのような服従した魂をご自分の至高のお住まいにお連れになります。 第11段落 半神は、特定の種類の捧げ物だけを受け取る力を授けられていますが、他方で主クリシュナはすべての人のカルマ・パーラ、すなわち「結果を求めて行う活動の結果」(訳注:fruitive results、分かりやすくするために括弧をつけています)を受け取ることができます。 至高主だけが互いに矛盾する(conflicting)「結果を求めて行う活動の結果」と崇拝の雰囲気(mood)を受け取るだけの力をお持ちです。これは、クリシュナの至高の覇権(lordship)と完全な立場を示します。 人類全体が純粋な献身奉仕の科学を理解できるようになるのは考えにくい(unlikely that ~ will be able to~)ですが、それでもすべての人はいつも、主の蓮の御足に至る能力を持っています。 (この一文には”even in the face of striking odds”、「たとえ際立った確率に直面していても」という一節が入りますが、これは文脈から考えると、誰にでも一縷の望みがある、というような意味でしょうか。) したがって、最良の道(course)はすべてのものを至高主に捧げることです。 第12段落 ニシュカーマ・カルマに関して私たちが論じたすべての要点は聖典に詳細に言及されています。パンディタはニシュカーマ・ヨガを「結果(fruitive gain)あるいは経験的な(empirical)知識への欲望を伴わない(to be free from)活動」と定義します。 そのような超越的な活動だけが主クリシュナに捧げられ得ます。しかし、すべての活動は---言葉によるもの(verbal)、身体的なもの、あるいは精神的なものであれ---、愛と献身の念をもって主に捧げられるなら、超越的です。そして主はそのいわれのない慈悲によって、これらの捧げ物をきちんと(duly)お受け取りになります。 第13段落 しかし、この命令(injunction、この場合は「愛と献身の念をもって主にすべてを捧げなさい」というもの)において、私たちは間違いを犯すことを避けなくてはなりません。私たちの現在の議論は、物質主義的なブラーマナ階層(caste brahmana)が主ナーラーヤナに供物(oblations)あるいは「結果を求めて行う仕事」を捧げることを含みません(訳注:これまでの議論では、~には触れていませんでした。) そのような捧げ物には欲望が伴うので(not devoid of lust)、それらには愛も献身の念もありません。私たちは既に、主への正しい捧げ物の主な基準(criterion、特徴)は、それが主の感覚の満足のために愛と献身の念をもってなされるということである、と論証しました(We have earlier established that~)。 そのため私たちは、至高主の喜びのためだけに捧げられた物や奉仕(service)だけが実際に主によって受け取られると理解せねばなりません。 第14段落 自分自身の飢えを満たすために努力すること(exerting oneself)はカーマ・カルマ、結果を求める活動ですが、至高主においしいご馳走(delicacies)を捧げるための疲れを知らぬ努力はニシュカーマ・カルマ、主を喜ばせることを目的とした超越的な仕事です。 主を喜ばせることが商業(commerce)と交易(trade、この場合はほぼ同義の繰り返し)、そしてまた研究、科学、慈善活動、禁欲(austerity、苦行)、そして他のすべての活動の唯一の目的であるべきです。そのような実践は人に、主クリシュナに関わる超越的な話題を聞き、唱える気持ちにさせます(to inspire)。 そして、この聞くことと唱えることは、九重の献身活動の最たるもの(foremost)です。ヴェーダの時代には、すべての人間の活動は至高主への献身奉仕と強く結びついていました(to be affiliated)。今日(も)、同じ永遠の原則が当てはまります。すべてのものは主への奉仕のために使われねばなりません。 第15段落 主クリシュナはすべての犠牲の至高の享楽者です。そのため主はすべての者の働き(labor)の結果をお受け取りになり、そしてそうすることによって主はご自分のすべての献身者の努力に輝かしい(glowing、赤々と燃えるような)成功を授けられます(to crown ~ with~、栄冠を与える)。 それが万能の主がお持ちの超越的な力です(Such is ~ possessed by~)。しかし私たちは、献身奉仕を行っている間に、自分の意識に自己増大(self-aggrandizement、増長)や感覚の満足への欲望を決してこっそりと(surreptitiously)滑り込ませないように、注意深い用心(heed)をしなければなりません。 私たちは単に、かつての霊的指導者たちの足跡を辿るべきです。主の存在において(訳注:主の御前では)すべての者が平等です。したがって、ゆるぎない(unwavering)専心(single-mindedness)を持って主に奉仕をする者は、主の親しい仲間のうちに数えられます(to be listed)。 彼らは本当にハリ・ジャナ、主ハリの側近(own men)です。前提となる必要条件(prerequisite、この場合は「資格」)---献身奉仕---を持たない人をハリ・ジャナと呼ぶ(to rubberstamp、ゴム印を押す、深く考えずに認める)のは、献身的な服従の道における馬鹿げた(farce)やっかいな(onerous)妨害物(hindrance)です。 第16段落 主クリシュナはバガヴァッド・ギーター(9.29)においてこうおっしゃいます。 (サンスクリット引用) 「私は誰もうらやまず、誰にも肩入れしません(partial to )。私はすべてのものに平等です。しかし、誰であれ献身の念をもって(in devotion)私に奉仕をする者は友であり、私の中にあり、そして私もまた彼にとって友です。」 第17段落 人は「サマー」、”平等”という単語の意味を誤解してはいけません。それは、主が非人格的であり、どんな気まぐれな行い、始末に終えない(unruly、節操がない、乱暴)振る舞いであっても祝福なさるということを意味するのではありません。 主は完全に人格的で、神聖な情念(sentiments)の宝庫(reservoir)であり、超越的な娯楽の至高の演者(performer、行う人)です。そして主はすべての生命体の幸せを願う友です。しかし、友情には異なる程度の親密さ(intimacy)があります。 そのため、主の平等の性質(disposition、気持ち、傾向)は、個々の違い(varieties of personalism)のないものではありません。言い換えると、主は私たちの主への愛の強さ(intensity)に応じて私たちに報われます(to reciprocate)。 ギーター(4.11)において、主は(サンスクリット引用)とおっしゃいます。「すべての者が私に服従するとき(As all surrender ~)、私は彼らに相応に報いを与えます。」主は、すべての異なる献身的な関係(mellow)---従者の愛(servitorship)、友の愛(fraternity)、親の愛(parental affection)、そして恋人の愛(conjugal love)---にお応えになります。 同様に、主は(校正:he →He)ご自分を普通の「死を運命付けられた存在」(mortal、括弧は訳者)だと見なして敬意を払わない者を無視なさいます。逆に(Conversely)、主はいつも、過去の聖人的な指導者たちの足跡を辿って、主を至高主として受け入れ、愛情ある献身の念をもって主に奉仕をする者を庇護し、守られます(to shelter, to protect)。 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 クリシュナって、水のようだなという感じがします。おいしい材料を入れればおいしくなるし、まずいものをぶちこめばとても飲めたものではなくなる。。。ちょっと違うかな。鏡のようだ、とも言えるのかもしれませんが、これはやっぱり上等のクリームを見れば鏡の向こうに資生堂のモデルのような自分が見えるというわけにもいかず、、、残念ですね。立ち止まって深く考えてみようと思います。 ■
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by ammolitering4
| 2015-03-08 06:13
| 「英知による放棄」
こちらのページに便利なプログラムが紹介されているのを見つけました。ウェブページ上で単語の上にカーソルを置くだけで意味が表示されます。使わないときは画面右上に出てくるアイコンでオフにしておくこともできます。
プラブパーダの資料は圧倒的に英語が多いので、原文そのままで読みたいときなど便利だと思います。いちいち辞書を引くのはめんどくさいときなど、使ってみて下さい。 私はただいま手作りの折り紙ブックの売り込みと副業である技術翻訳と本業であるコーヒーショップのおばちゃんの仕事で忙しくしています。折り紙ブックはチャリティーショップに置いてもらって、売り上げの4割は寄付、ということになるのです。飛ぶように売れて笑いが止まらない、ということになりますでしょうか。ぜひともそうなってほしい、という現世利益を渇望しておりますが、そういう下心でクリシュナに取り入って良いものか。。。これに対しては、下心があったとしても神様の御足元に寄り付かないよりは寄り付いたほうがよろしい、とプラブパーダがおっしゃいましたし、それをいいことに神頼みとしようと思います。 折り紙ブックとは何ぞや、と思われる方のために説明しますと、これはそのへんの紙を10枚集めて折って組み合わせて作る小さなノートです。雑誌のページを使ってもいいし、綺麗な包装紙でもいいし、折り紙でも作れます。私はしばらく前にYouTubeで探偵ナイトスクープのビデオを次から次に見ながら、これを無駄に大量生産してしまったのです。こんなのが何百冊もあってどうする!?と我ながら思います。仕方がないので実益を兼ねてチャリティーショップに押し付けてしまおう、というわけです。手のひらサイズで色とりどりだし、けっこう可愛いです。たくさん売れるように皆様からもクリシュナによろしくお口添えくださいませ。 ■
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by ammolitering4
| 2015-02-28 02:54
| 英語の勉強法
第11段落
人々は一時的で物質的な欲望を満たすために半神を崇拝し、そして彼らがそのような崇拝から得る結果は、同じく一時的で物質的です。しかし、もしも人が、半神は至高主のエネルギーであるという知識をもって彼らを崇拝するなら、それならこの崇拝は正統的(authorized、公認、検定、権威者によって正当・正統であると認められた)であるとして受け入れられ、そして徐々にそのような崇拝者は主クリシュナ、至高神の献身者になります。 しかし、もしも人が、半神は主クリシュナと等しい水準にあるという考えをもって彼らを崇拝するなら、それならそのような崇拝は正統的ではありません(unauthorized)。なぜなら、主クリシュナは至高の人格神、比類するものなく(unequalled、匹敵するものがない)、主より優れたものもないからです(unsurpassed、卓絶)。 したがって、どんな半神も主クリシュナから独立して存在することはできません。主クリシュナはちょうど王のようであり、そして半神たちは彼の大臣のようなものです。大臣は王座(throne)に座って(訳注:統治権を持って)国家の業務(affairs)を管理する(to manage)かもしれませんが、彼は独立してはいません。彼の力は王から来るのです。 第12段落 至高の完全真理であることの力によって(by virtue of)、主クリシュナは永遠に、この物質世界を超越した知識と喜びに満ちていらっしゃいます。物質世界において、私たちはしばしば、立場と力という点で(in terms of、~に関して、~の見地から)、ある人を別の人と比較します。 そしてそのため私たちは、人間と比べると半神は非常に高い立場にあると正しく(rightly、確かに、当然ながら)言うことができます。しかし、至高神と、人間と同じ区分に属する単なる生命体とは、比較になりません(there is no comparison between)。 生命体、すなわちジーヴァは、主の超越的で内的な力から放射する、主の周辺的な力に属しています。したがって、誰であれ半神たちを独立した至高神たちであると考える者は推量しており、完全に間違っています。なぜなら、ジーヴァであるため(as jivas)、彼らは一時的な力と立場を授けられている(to be invested)に過ぎないからです。 第13段落 もしも王の宮廷(court)における地位の高い従者が誤って王として敬われる(to be honored)なら、それは王が従者になることを意味するのではなく、逆もまたしかりです(vice versa)。同様に、主クリシュナは唯一の至高の人格(Supreme Person)であり、他のすべての者は主の従者です。 ブラーマ・サムヒターは主クリシュナと半神の間の関係を明らかに説明します。ヴィシュヌ・タットヴァーの部類に属する存在(訳注:beings、複数)---主ヴィシュヌの水準にある至高の人格たち---は最高の完全存在(訳注:複数)であるという、多数の(numerous)証拠があります。 シュリマッド・バーガヴァタムはこの真実を、すべての種類の崇拝の中で主ヴィシュヌ、すなわちクリシュナの崇拝が最も高い、と宣言することによって確認します。 第14段落 インドでは、ヒンズー教徒は太陽神、月の神など、多くの神を崇拝します。しかし、崇拝の儀式はいつも主ヴィシュヌの崇拝で始まり、そして最後にすべてが主ヴィシュヌの蓮の御足に捧げられます。主が至高の人格神でいらっしゃるからです。 聖職者階層(priestly class)の一員であるブラーマナは、すべての儀式を至高存在としての(as)主ヴィシュヌに祈る(to invoke)ことによって始めなければなりません。そうしなければ、彼のすべての崇拝と儀式は無駄になります(to be rendered useless、to renderは「~を~にする」というような意味)。 この同じ主ヴィシュヌは、実は(in fact)すべての原因の究極の原因であり、もともとの至高主である主クリシュナの部分的な拡張体です。したがって主クリシュナはすべての捧げ物(oblations)と犠牲の受取人であり、すべての崇拝の究極の恩恵を施す人(benefactor、崇拝の結果として恩恵が施されるが、(それが誰から与えられているように見えても)究極的にそれを施すもともとの人、という意味)です。主はバガヴァッド・ギーター(9.24)においてこうおっしゃいます。 (サンスクリット引用) 「私は唯一の享楽者であり、すべての犠牲の主人(master)です。したがって、私の本当の超越的な性質を認識しない(to recognize、認める、はっきり知る)者は堕落します(to fall down)。」 第15段落 半神を崇拝するときに、主ナーラーヤナ、すなわちクリシュナを儀式あるいは犠牲の至高の享楽者として王座にすえる(to place)理由は、様々な半神たちもまた主を崇拝し、主に犠牲を捧げるからです。したがって主(He)は王(the Lord)であり、すべての犠牲の主人(master)です。 至高主は半神を通して(through the agency of)半神を崇拝する者の望みを叶えます(to fulfill)。半神を崇拝する者は至高主の超越的な立場を知らないので(to be ignorant of)、彼らの正式に認められない(unauthorized)半神崇拝は、彼らを混乱(confusion、困惑、混同)と幻想に導きます。 第16段落 半神を崇拝する者はしばしば、こう考えることによって自分たちの半神の崇拝を合理化しようとします(to rationalize、正当化)。「私はこの半神の献身者であるから、彼はきっと私に恩恵を下さり(to shower his grace upon me)、私の心のすべての望みを叶えてくださるだろう。したがって彼はまことに至高主である。」 しかし、正統な(authorized)聖典はそのような半神崇拝者と彼らの崇拝を、道理的でなく(unethical。非倫理的、非道義的)哲学的に間違っているとして非難します(to condemn)。そのような崇拝者は、クリシュナが至高主、すべてのエネルギーの究極の源であると理解することができません。 半神は、実は(in fact)主のエネルギーの顕現です。しかし(~, though、それなのに)、幻惑された半神崇拝者にとっては、彼らは自分たちの崇拝と献身の究極の対象であるように見えます。この誤解を続ける者は(to persist in~、やめる様子もなく繰り返し行う)、決して完全真理にたどり着けません。 他方で、厳密に聖典の命令に従って(according to)半神を崇拝する者は、自分たちの崇拝の対象は至高主クリシュナに従属している(to be subordinate to~)とすばやく理解します(to realize)。この理解をもって、彼らの幻想は滅ぼされ、彼らは主クリシュナの蓮の御足の庇護の下に入ります。 ■
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by ammolitering4
| 2015-02-25 01:56
| 「英知による放棄」
皆様こんにちは。お元気でいらっしゃいますか?いつも辛抱強く翻訳を待っていてくださってありがとうございます。あんまり怠けなければ進むんだけどな、と思いつつ、ついつい漫画を読んだり猫のサイトを見たり、しなくていいことばっかりしています。
ところで、先日ふと思い立ってこれまでのガラス絵その他の作品をまとめてみました。このページから次へ次へと「懐古趣味シリーズ」と題して29ページに渡って続いています。)まとめたと言ってもあんまり脈絡はなく、膨大なガラス絵サイトに数百ページに渡って載せていたのをできるだけ一箇所にまとめたというだけです。製作時期もごちゃごちゃで、そもそも自分でも覚えていません。写真が残っているだけでもほんとにたくさんあって、過ぎてしまうとあっという間でもやっぱり20年という時間は長かったのだなと思います。私はよほどヒマだったのだな、ともいえますが。。。振り返ってみると、アルバイトを3つくらい掛け持ちしながら働いていたのでそれほど暇でもなかったはずなのですが、子供もいないし、仕事をしているときと寝ているとき以外は、他にすることがなかったのでしょうね。 なお、古い作品などは写真がないのもあるし、私の記憶にさえ残ってないのもあるだろうから、そういうのがどんな運命を辿ったかなと少し思います。他に、下絵にした写真の著作権の関係で公表できないのもありますし、最近では商品デザインの仕事をしたので、そういうのも公表できません。商店のガラス窓に描いていたこともあり、そのときの絵などは実家のどこかにプリント写真が残っていると思うので、いつかデジタル化して取り込んでみたいと思っています。他に、鉛筆でいろいろと心象風景ふうに、あるいは正確には心理分析のためにと言ったほうがいいかもしれませんが、そんなふうなのは描いては捨ててきたし、公表もしていません。 作品そのものは私の手元にはほとんど全く残っていません。残念ながら、最後まで残っていた古い練習作品の数々は数年前にすべて処分してしまいました。泣いて悲しむというのでもありませんが、正直なところ、人生がとりあえず一旦終わったような気がしました。自分でも不思議なのですが、私の人生はどうもリセットして一からやり直しということがたびたびあるのです。 並べてみたもののなかには、正直なところ、我ながら実にしょうもない練習作品や失敗作もたくさんあります。でも、そういうのも含めて練習を重ねてきたのだなと実感しますし、よろしかったら時間のあるときにでものんびりご覧ください。人物画などは特に、最初の頃のはほんとに下手くそです。モデルが気の毒です、ほんと。 今は傘に絵を描くというのをやってますが、既に行き詰っています。幸い、これはガラス絵と違って気に入らないなら何度でも塗り重ねてやり直せるし、その点では気が楽です。ガラス絵というのは人生と同じで、やってしまったことは消えません。どんなに覆い隠しても、向こう側から見たら丸見えです。下絵をひたすらなぞるだけという、言うなれば「木を見て森を見ない」ようなところもガラス絵の特徴です。そういうところは翻訳にそっくりで、私が単語の一つ一つを厳密になぞるのはガラス絵を描くときの気持ちと似ているのかもしれません。 ■
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by ammolitering4
| 2015-02-20 13:59
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