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「霊的なヨガ」第7章

第7章 感覚的な快楽に時間を無駄にしてはならない。

第1段落

(サンスクリット引用)

たとえ非常に学識があって賢かったとしても、感覚の満足のための努力は時間の無駄であることを理解しないならば人は狂っています。自分自身の利益の何たるかを忘れ、人は自分の家に興味の中心を置き、物質世界で幸せになろうとします。家は性交に基づき、様々な物質的な悲惨さをもたらします。このようであるとき、人は愚かな動物に優るものではありません。(SB5.5.7)

第2段落

献身奉仕の最も低い段階では、人は純粋な献身者ではありません。(サンスクリット引用)純粋な献身者であるためには、人はすべての物質的な欲望から自由であって、結果を求める活動および推察的な知識からも自由でなければなりません。低い水準においては、人は時として多少の献身の念を持ちつつ哲学的な推察に興味を持っているかもしれません。しかし、人がまだ感覚を満足させることに興味のある段階は物質自然の相によって汚染されています。マーヤーの影響はとても強いので、発達した知識を持った人でさえ自分がクリシュナの永遠の従者であることを実際に忘れます。したがって、彼は性交を中心とした家庭人の生活で満足したままに留まります。性の生活に敗北を認め、彼は様々な物質的な悲惨さに苦しむことに同意します。無明によって人はこうして物質の法則の鎖で縛られます。

第3段落

私たちの本当の利益(スヴァルサ)は、この鎖を壊すことです。しかしこれを理解するためには、人はヴィパスチット、学識がなければなりません。結果を求めて働く者であれ、推察する者であれ、ヨギー、あるいは献身者であれ、すべての人は自分にとって利益であると考えるもののために働いています。しかし、献身者の場合は少し違います。彼は自己を超えた自己(Superself)の利益のために働き、他の者たちは個々の自己の利益のために働きます。自己の利益のために働くことと自己を超えた自己の利益のために働くことの違いは、欲望と愛、すなわちプレマとの違いです。チャイタンニャ・チャリタームリタの中で、クリシュナダーサ・カヴィラージャ’ゴスヴァーミーは、この違いを明確に説明なさいました。

(サンスクリット引用)

「人が自分の個人的な感覚の満足を欲するとき、それはカーマ、すなわち欲望です。そして人がクリシュナの感覚を満足させたいと思うとき、それはプレマ、すなわち愛です。」(チャイタンニャ・チャリタームリタ、アーディ・リーラー4.165)欲望と愛の対照はバガヴァッド・ギーターの中に表されています。バガヴァッド・ギーターの始めに、アルジュナはこう考えていました。「一体どうして私が自分の兄弟を、甥を、主人を、師を、祖父を殺せるだろう。私にはできない。私は戦うことを拒否する。」この計算、、、彼の家族と師の利益に関しての計算は、アルジュナの個人的な感覚の満足のためでした。言い換えると、それは彼の個人的な利益のためでした。しかし、バガヴァッド・ギーターの最後にアルジュナが戦うことでクリシュナを満足させることに同意したとき、彼は自己を超えた自己の利益のために行動していました。アルジュナはカーマからプレマに至ったのです。

第4段落

物質的な人にとっては、2種類の個人的な利益があります。一つは凝縮されており、もう一つは拡張されています。もしもあなたが子供に一切れのケーキを与えれば、彼の瞬間的な衝動はそれを全部一人で食べることです。しかし、もしも彼が少し気前が良ければ、彼は友達にいくらか分け与えます。子供がケーキを食べているとき、彼の友達が言います。「ケーキを食べているの?少しちょうだい。」子供は答えます。「いいよ。少しあげる。」最初は子供は凝縮された自己利益を示し、それから拡張された自己利益を示しました。もう一つの例は、偉い政治的な指導者です。彼は主に自分と自分の家族の幸福に興味があります。。。結局、自己の保存は自然の第一の法則なのです。。。しかし、彼は地域共同体や社会や国家のすべての人々の利益のためにも働きます。しかし、そのような拡張された自己利益は、決して完全ではありえません。共同体同士、社会同士、あるいは国家同士の間で、いつも何らかの戦いがあるからです。その拡張された自己利益がヴィシュヌまで届いたときに初めてそれは完全になるのです。そうすればそれは本当の自己利益、すなわち自己を超えた自己の利益になります。

第5段落

不幸にして、今日では人々は至高主、ヴィシュヌ、あるいはクリシュナに奉仕をすることが究極の自己利益であるということをまったく知りません。(サンスクリット引用)彼らは、もしも人が自分の自己利益を自分の国や、あるいは全人類にまでも広げれば、その人は偉大な人物となって人々が彼をその博愛主義のために尊敬すると考えます。しかし、それは本当の博愛主義ではありません。本当の博愛主義はクリシュナの利益に奉仕することです。そうでなければ、それはすべてカーマ、欲望です。今日のいわゆる博愛主義、利他主義、および人道主義は、すべて不完全です。それらは私たちの究極の自己利益に役立たないからです。私たちはもう一度ケーキの例を使うことができます。私たちが指でおいしいケーキをつまみあげたと仮定しましょう。もしも指が「さあ、ケーキを手に入れた。自分で楽しもう」と考えれば、ケーキは駄目になります。しかし、もしも指がそれを口に入れれば、そうすれば指の自己利益は本当に満たされます。ケーキが胃に入れば、直ちにエネルギーは右手の指だけでなく左手の指にも、実に体全体に行き渡ります。同様に、人がクリシュナの利益のために奉仕をするとき、すべての人の利益が満たされます。クリシュナはすべてのものの根源だからです。人々はこの法則を知りません。したがって、ここで主リシャバーデヴァはおっしゃいます。(サンスクリット引用)「人々は自分の本当の自己利益を知りません。」誰もが個別に、共同体として、そして国家として、自分の自己利益を満足させようとしてますが、彼らは自分たちの本当の自己利益はクリシュナに奉仕することにあると知りません。

第6段落

人間の形の人生においてのみ、私たちは自分の本当の自己利益を理解することができます。プラーラーダ・マハーラージャは次のようにおっしゃいます。(7.6.1)

(サンスクリット引用)

「十分な知性のある者は、人間の形の体を人生のまったくの最初から、、、言い換えると、幼い子供の頃から、、、ほかのすべての活動は放棄して献身奉仕の活動を実行することに使うべきです。人間の体を得られるのは非常に稀有なことです。そしてそれは他の体のように一時的ではありますが、意味深いものです。人間の人生では人は献身奉仕を行うことができるからです。ほんのわずかな量の誠実な献身奉仕でさえ、人に完全な完成を与えることができます。」生理学的、解剖学的、および心理学的な構造においてさえ、人間の体は犬のそれとほとんど変わりません。犬には感覚があり、私たちにも感覚があります。犬には心があり、私たちにも心があります。犬には知性があり、私たちにも知性があります。犬は食べ、私たちも食べます。犬は眠り、私たちも眠ります。同様に、もしもあなたが動物の体を切れば血が出て、もしもあたなが人間の体を切れば同じく血が出ます。しかし、違いは動物は自分の本当の自己利益を理解できないけれど人間はできるということです。そしてもしもあなたがそれに応じて行動すれば、あなたは人生を成功させることができます。それが人間の形の人生の特別な利点です。私たちはこれを無駄にすべきではありません。ナロッタマ・ダーサ・サークラは、制約された魂の立場に立って次のように詠われました。

(サンスクリット引用)

「おお、主クリシュナよ。私は自分の人生を無駄にしました。この稀なる人間の生を受けたにもかかわらず、私はラーダーとクリシュナに奉仕をしていません。そしてこうして私はそれと知りつつ毒を飲みました。」時として私たちは知らずに毒を、、、食べ物の毒や他の何かの毒を飲みます。しかし、もしも人が「それと知りつつ」毒を飲むなら、それは彼が自分自身を殺していることを意味します。同様に、この人間の形の人生において、もしも私たちがクリシュナ意識なくしては私たちの人生は無駄になるということを理解するに至らなければ、私たちは単に毒を飲んでいるのです。そうなれば私たちの人生は駄目になります。私たちは何度も生まれ変わって悲惨な状態に置かれます。それが自然のやり方なのです。あなたは物質自然の厳格な法則を逃れることはできません。クリシュナはバガヴァッド・ギーターにおいて次のように述べておられます。(9.3)

(サンスクリット引用)

「この献身奉仕において誠実でない者は、私に至ることができません。おお、敵を征服する者よ。したがって、彼らはこの物質世界の中の生と死の道に戻ります。」偽りの名誉と偽りの知識と偽りの教育によって、人々は自分が神から独立していて何でも好きなことができると考えます。私たちはこの考え方をj放棄しなければなりません。そうでなければ私たちは悲惨な生と死の循環の中で生き続けなければなりません。私たちが自分の本当の立場を忘れてしまったからです。

第7段落

ここで主リシャバーデヴァは、人々が愚かにもクリシュナの従者としての立場を忘れて物質的な苦悩に苦しむ主な理由は性交であると述べられます。(サンスクリット引用)私たちは人々が昼も夜も懸命に働くのを見ます。時として、彼らは早朝5時から仕事に行き、夜の10時まで戻りません。なぜ彼らはそれほど一生懸命に働いているのでしょうか。性交にふける喜びのため、それだけです。彼らの主な幸せは、夜になって性交を楽しむことです。プラーラーダ・マハーラージャは、物質主義的な家庭人が楽しむ性を中心とした喜びは非常に取るに足らないものだとおっしゃいます。(トゥッチャム)実に、そのような人の家は牢獄となり(アガーラ)、彼は性という鉄の鎖につながれたままで留まります。愚かな者だけがこの最も低い水準の幸せを人生の目的として受け入れます。だから、愚かであってはなりません。知性的であり、あなたの本当の自己利益はクリシュナを崇拝することにあるのだと理解しなさい。
by ammolitering4 | 2009-07-03 07:14 | 「霊的なヨガ」 | Comments(0)
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