霊的なヨガ 第3章から6章まで

第3章 終わらない幸せを得る

第1段落

(サンスクリット引用)

クリシュナ意識を取り戻すことと至高神への愛を増すことに興味のある者は、何であれクリシュナに関係のないことをするのを好みません。彼らは、自分の体を維持すること、食べること、眠ること、性交すること、および身を守ることに忙しい者たちと交際することに興味がありません。彼らは家庭人(householder)であるかもしれませんが、家庭に執着していません。彼らは妻や子や友人や富にも執着していません。同時に、彼らは自分の義務を遂行することに関してはその限りではありません。そのような人々は、ただ体と魂をつなげておくために十分なだけのお金を集めることに興味があります。(SB5.5.3)

第2段落

非人格主義者であれ献身者であれ、実際に霊的に発達することに興味のある者は、いわゆる文明の発達という方法で体を維持することだけの興味のある者と関わるべきではありません。霊的な人生に興味のある者は、妻子や友人などに囲まれた家庭的な快適さに執着すべきではありません。たとえ家庭人で生計を立てなくてはならなくても、人は体と魂をつなげておくのに必要十分なお金を集めるだけで満足すべきです。人はそれ以上やそれ以下を持つべきではありません。ここで示されているように、家庭人はバクティ・ヨガ、すなわち献身奉仕の遂行のためにお金を稼ごうと努力すべきです。

(サンスクリット引用)

「九つの種類の献身奉仕とは、クリシュナについて聞くこと、主の名を唱えること、主を思い出していること、主の蓮の御足に奉仕をすること、寺院で主を崇拝すること、主に祈りを捧げること、主の従者として働くこと、主の友人になること、および無条件に主に服従することです。」(SB7.5.23)家庭人は、クリシュナについて聞いたり主の御名を唱えたりする機会が十分に得られるような人生を送るべきです。彼は言えで神像を崇拝し、まつりごとを催し、友人を招いてプラサーダム、すなわちクリシュナに捧げられた食物を彼らに与えるべきです。家庭人は、感覚の満足ではなく、この目的のためにお金を稼ぐべきです。

第3段落

しかし、一般に人々は体を維持することだけに興味があります。SB(2.1.3)には次のように書かれています。(誤植あり)

(サンスクリット引用)

夜には彼らは眠ることや性交にふけることで時間を無駄にし、昼間にはいくらかのお金を稼ぐために非常に忙しくしています。そして彼らはお金を得ると同時に家族を維持するために費やします。では、クリシュナ意識のための時間はどこにあるのでしょう。どこにもありません。

第4段落

人は、体に関する事柄だけで忙しくしている人々と関わることに興味を持つべきではありません。人は家庭人であるかもしれませんが、単に自分の家族を維持することだけではなく、クリシュナへの献身奉仕に興味を持つべきです。そのような家庭人のマハートマーは、体の事柄だけに興味を持つ人々と関わりたいという気持ちは全くありません。彼の唯一の望みは、クリシュナとの友情を培うことです。(サンスクリット引用)それでは、彼の家族についてはどうでしょうか。はい、彼には家があり、妻と子供がいて、お金を稼ぐ手段があります―――しかし、彼はあまり興味がありません。形式上は彼は家族のための義務を果たしますが、彼の主な興味はクリシュナ意識です。

第5段落

もちろん、家庭人のマハートマーは彼の家族に対する責任をないがしろにはしません。彼は子供たちや妻―――すべての面倒をみます―――しかし、非執着の精神をもってそうします。(サンスクリット引用)あなたには子供を教育して妻を養う責任がありますが、同時に非執着を培うべきです。人は「私は妻と子と家のためにすべてを犠牲にしよう」と考えるべきではありません。それはマハートマーの考えではありません。彼は彼らの運命を向上させることはできないと知っているからです。誰もが自分では変えることのできない運命と共に体を受け取りました。聖典にはこう書いてあります。(サンスクリット引用)賢い人は、物質的な発達ではなくクリシュナ意識のために努力すべきです。あなたは「もしも私が懸命に働けば、私は自分の物質的な地位を向上できるだろう」と考えるかもしれません。しかし、それは可能ではありません。あなたの物質的な地位は既に決まっています。誰も苦しみが欲しくて努力したりしませんが、運命に従って苦しみは自動的にやってきます。同様に、もしもあなたの運命に幸せがあるのなら、それは苦しみがやってくるように自動的に来るのです。(サンスクリット引用)だから、物質的な幸せや苦しみに惑わされてはなりません。それらは既に決まっているのです。単にクリシュナ意識を発達させて、終わることのない超越的な幸せを得ようと努力しなさい。それがあなたの本当の仕事です。
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第4章 肉体的な快楽の痛み

第1段落

(サンスクリット引用)

人が感覚の満足を人生の目的であると考えるとき、その人は確実に物質的な生活を狂ったように追い求め、あらゆる罪深い行いにいそしみます。彼は、自分の過去の悪事によって現在のこの体、一時的ではあるけれど自分の悲惨さの原因である体を受け取ったのだということを知りません。本当は生命体は物質的な体を受け入れるべきではありませんでした。しかし彼は感覚の満足のために物質的な体を授けられたのです。したがって私は、再び感覚の満足のための活動に関わるのは知性ある者にはふさわしくないと考えます。それによって彼は永遠に次々と物質の体を得るのです。(SB5.5.4)

第2段落

感覚の満足のために物乞いすること、借りること、および盗むことは、この節において非難されています。そのような意識は人を暗い地獄的な状態に導くからです。四つの罪深い行いとは、不道徳な性交、肉食、陶酔物を摂取すること、および賭け事です。これらによって人は悲惨さに満ちたもう一つの物質的な体を得ます。ヴェーダには(サンスクリット引用)と書かれています。生命体は本当はこの物質的な世界とはつながりがありませんが、物質的な感覚を楽しむ傾向のために物質的な状態に入れられました。人は献身者と関わることで人生を完成させるべきです。さらに物質的な体に関わる(to implicate、もつれさせる)べきではありません。

第3段落

ここで、物質的な人はプラマッター、「非常に狂っている、あるいは陶酔物に酔っている」と描写されています。彼らは自動車であちらこちらに走り回っています。朝の五時半や、あるいはもっと早い時間から、主要な道路は自動車でいっぱいです。そして、そのような物質的な人の目的は何でしょうか。(サンスクリット引用)彼らの目的は感覚を満足させることです。食べて飲んで、いい気分になって楽しむ―――それだけです。お金を得て、レストランに行き、酒屋に行き、売春宿とナイトクラブに行きます。彼らはインドリヤ・プリーティ、感覚の満足の他に何も知りません。

第4段落

彼らは皆、狂っているのです。そして彼らは感覚の満足を求める気持ちのために非常に多くの罪深い行いに関わっています。その結果として、彼らは死後に別の物質的な体を得ます。誰もがそれぞれの罪と感覚の満足に対する特定の欲望に従って特定の体を得ます。そうえなければ、どうしてこれほどたくさんの種類の生命があるのでしょう。なぜある魂は人間として生まれ、別のものは豚として、またある者は半神として、あるいは木として、魚として生まれるのでしょうか。これらの生命の多様性は、すべて感覚の満足のための異なる欲望、および罪深い行いとの関わりの程度によるものです。クリシュナは超魂として心のうちに住み、私たちの欲望と行いを知っておいでです。主はバガヴァッド・ギーターの中でおっしゃいます。(18.61)

(サンスクリット引用)

「イースヴァラ、至高主は、超魂としてすべての者の心に位置し、生命体が物質世界でさまようのを目撃しておられます。」物質主義者は、いつもこう考えます。「もしも私がこんなふうに活動していたら、私はあの機会を手にすることができていただろう。そして私はこんなふうに楽しんでいたはずだ。。。」このような考えが続いているのです。そして神の仕事は―――神の感謝されることのない仕事は―――「よかろう。この悪者はこんなふうに楽しみたいのだから、私はそのための設備を与えよう」と書き留めることなのです。主はとても慈悲深いので、マーヤー、物質自然に命令します。「彼にこれこれの体を与えなさい。望み通り楽しめるように。」だから私たちは非常に多くの種類の体を見るのです。それらはすべて様々な欲望によるものです。

第5段落

不幸にして、これらの体はすべて悲惨さの源です。(クレサダ)物質的な体を持つ者は、誰でも苦しまねばなりません。億万長者であっても苦しまねばなりません。あるとき、カルカッタにほとんど食べることのできない大変な金持ちがいました。彼には全く食欲がありませんでした。大層なご馳走を並べられても、見るだけで食べることはできませんでした。ある日、彼は貧しい男が魚を抱えて大喜びで歌いながら道を行くのを見ました。金持ちの紳士はこう言いました。「私は金持ちだが、私に供される多くの豪勢な食べものに対して全く食欲がない。それなのに、あの貧しい男は、家に帰ってあの魚を料理しておいしく食べようと考えている。彼の何と喜びに満ちていることか!もしも私があの貧しい男だったら、少なくとも私はいくらかの食べ物を楽しめたはずだ。」彼は金持ちになったにも関わらず自分の感覚を満足させることができませんでした。彼の体は単に悲惨さの源だったのです。

第6段落

もしもあなたがこれらの様々な物質的な体を止めたいなら、それならあなたはあなたの全ての無意味な物質的な欲望を諦めなければなりません。私たちは既に悲惨さの原因である体を持っています。誰でも経験があります。「私の体は決して痛みを感じません。私は完璧です」と言える者は誰もいません。それは不可能です。あなたが物質的な体を得ると同時に、それは幾多の苦しみの影響を受けることになります。試練が必ずあるのです。従って、あなたはこれらの物質的な体を得るのを止めようとすべきです。そして、そうするためにはあなたはクリシュナへの献身奉仕を実行しなければなりません。そうでないと、あなたは生と死の道を歩み続けることになります。クリシュナはバガヴァッド・ギーターにおいてこうおっしゃいます。(9.3)

(サンスクリット引用)

もしもあなたがクリシュナ意識の過程に信頼(faith確信、信頼、信仰)を持たないなら、あなたはクリシュナのもとへ行くことはできません。そしてあなたは生と死の道を歩み続けなければなりません―――ある体を得て再び死に、もう一つの体を得てまた死にます。

第7段落

現代では、これらの主題に関する教育はほとんど皆無です。これはとても残念なことです。しかし、ヴェーダ文献の中に情報はあります。そして、知性ある者はこの科学、クリシュナ意識を活用し、クレサダ、すなわちすべての悲惨さの源である体を繰り返し受け入れるというこの過程を止めることができるように、それに従って自分の人生を形作ります。それが人生の完成です。

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第5章 完全存在について問いなさい。

第1段落

(サンスクリット引用)

人生の霊的な価値について問わない限り、人は敗北して無明から生じる悲惨さの影響を受けます。罪深いものであれ、敬虔なものであれ、カルマにはその結果的な活動があります。もしも人がいかなるものであれカルマにいそしんで(to engage)いれば、その人の心はカルマートマカ、すなわち結果を求める行いに染まっていると呼ばれます。心が不純であり、意識が不透明であり、結果を求める活動に没頭している限り、人は物質的な体を受け入れなければなりません。(SB5.5.5)

第2段落

一般に人は悲惨さから開放されるためには非常に敬虔に行動すべきであると考えますが、これは事実ではありません。たとえ敬虔な活動と推察にいそしんでいても、人はどちらにしても敗北します。彼の唯一の目的は、マーヤーの支配とすべての物質的な活動からの解放であるべきです。推察的な知識と敬虔な活動は、物質的な人生の問題を解決しません。人は自分の霊的な立場を理解しようとして問うべきです。バガヴァッド・ギーターには、次のように述べられています。(4.37)

(サンスクリット引用)

「燃え盛る火が薪を灰にするように、おお、アルジュナよ、知識の火も物質的な活動に対するすべての反応を焼いて灰にします。」

第3段落

自己とその活動を理解しない限り、人は物質的な呪縛の中にあると考えられねばなりません。シュリマッド・バーガヴァタム(10.2.32)には(サンスクリット引用)と書かれています。献身奉仕の知識がない者は、自分が解放されていると考えるかもしれませんが、実際には彼は解放されていません。(サンスクリット引用)そのような人々は、非人格のブラーマンの光輝に近づくかもしれませんが、再び物質的な楽しみに落ちます。彼らには献身奉仕の知識がないからです。カルマとジナーナに興味を持っている限り、人は物質的な人生の悲惨さ、、、生、老、病、死、、、を耐え続けます。カルミーは確実に次々と体を得続けます。ジナーニーに関しては、最高の理解に上げられない限り、彼らは物質世界に戻らねばなりません。バガヴァッド・ギーターには次のように説明されています。(7.19)(サンスクリット引用)要点は、クリシュナ、ヴァースデヴァをすべてであると知り、主に服従することです。カルミーはこれを知りません。しかし主への奉仕に100%携わっている献身者はカルマとジナーナが何であるか完全に知っており、したがって純粋な献身者はもはやカルマやシナーナに興味がありません。(サンスクリット引用)本当のバークタは、ほんのわずかでもカルマとジナーナに染まっていることはありません。彼の人生の唯一の目的は主に奉仕をすることです。したがって彼の心はいつもクリシュナのことを考えていて、彼は物質的な体への呪縛から自由です。(サリーラバンダー)物質的な体は本当は魂にとってひどい重荷です。しかし現代のいわゆる文明にはこれらの事柄に関する教育はありません。

第4段落

呪縛された状態にあっては、あなたが自分のいわゆる物質的な発展のためにすることは、最終的に打ち負かされます。(パラーバーヴァ)人々は昼も夜も自分は物質的な進歩をしちえるのだと考えて忙しくしています。しかしそれは進歩をしているのではありません。退行なのです。彼らはこれを知りません。なぜでしょうか。彼らは決してアートマ・タットヴァ、人生の霊的な価値について問うことをしないからです。大変偉い教授たちでさえ、自分たちはこの体を偶然受け取ったのであり、体が終わると同時にすべてが終わるのだと考えます。これは、彼らがアートマ・タットヴァの初歩を、、、魂、あるいは自己は永遠であることを、、、知らないということを意味します。そして、この誤った概念に基づいて、彼らは非常に多くの「主義」を、、、共産主義、愛他主義、人道主義などを作り出します。

第5段落

最近、私たちはハンセン病の治療法を見出そうとして働いている医療者と話しました。それは良いことなのですが、しかし、なぜそもそもハンセン病が存在するのでしょうか。なぜある人はハンセン病に苦しみ、別の人は苦しんでいないのでしょうか。誰がこの配剤をしているのでしょうか。現代の人々は、これらの問いかけをしません。彼らは鈍くなってしまったからです。そして、そのため彼らの立てる計画はどれもしばらくすると行き詰ります。(パラーバーヴァ)彼らは自分たちの究極の利益のためにどんな計画を立てるべきか知りません。たとえば、子供は「こんなふうに遊んだら、とても楽しいだろう」と考えます。そのため彼はしばらくある遊びをします。そしてやがて不満を抱いてその遊びをやめ、別の遊びをします。無明(アボダー)が原因で、子供はどこに終わることのない幸せがあるのか知らないのです。

第6段落

この無明を消すために、人はアボダーではなくボダー、知識に満ちた人に近づかねばなりません。そのような人は、ブダー、賢者と呼ばれます。彼は人生の本当の目的地と、どうやってそこに辿り着けるかということを知っているからです。このブダーという言葉が主ブッダの名前の由来です。主はすべてを理解しておられました。初めは彼はブダーではありませんでした。彼は王子であり、宮殿から出たことがありませんでした。しかし、ある日彼は宮殿を出て、一人の年老いた男が杖をついて大変な苦労をして歩いているのを見ました。それで彼は従者に尋ねました。「これは何ですか?」従者たちは答えました。「これは老人です。誰もがこうならねばならないのです。」それが彼にとって理解を捜し求めるきっかけでした。彼は問いました。「なぜ彼はこんなふうであるべきなのだろう。なぜ人は老人になって杖をついて歩くことを強いられなければならないのだろう。」これらの問いが彼をしてブダーとなし、彼は瞑想によって主ブッダとなりました。もちろん、それは彼の娯楽(pastime)でした。しかし彼は、苦しみの究極の原因を知ろうとすることがいかに人を正しい知識に導くかということを自ら模範となって示されました。そして、その正しい知識はどこで得るのでしょうか。グルからです。ヴェーダには、(サンスクリット引用)と書いてあります。「もしもあなたが完全真理に関する正しい知識が欲しいなら、あなたは真正なるグルに近づかねばなりません。」

第7段落

人々は完全真理を認識するための過程についてグルに問うことを奨励されるべきです。サッド・ダールマ・プリチャート。生徒は意欲的に知ろうとすべきです。グルをファッションとして受け入れようとするのではありません。近頃では、多くの人がそうします。「みんなが犬を飼っているし、みんながグルを持っている。だから私もグルを持とう。」それは本当の理解のための方法ではありません。人は熱心に知ろうとすべきですが、同時にグルに奉仕をしなければなりません。クリシュナはバガヴァッド・ギーターにおいてこうおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「単に霊的指導者に近づくことによって真実を学ぼうとしなさい。彼から受動的に問い、彼に奉仕をしなさい。自己を認識した魂は、真実を見たために、あなたに知識を授けることができます。」あなたはグルに奉仕をする準備ができていなければなりません。その上であなたには質問をする権利があります。まず、あなたは自分が完全に服従できる人物(プラニパーテナ)を探さねばなりません。それからあなたは彼にアートマ・タットバ、霊的な科学についてたずねることができます。そして問いは奉仕を伴わねばなりません。あなたがグルに奉仕をすればするほど、多くの真実が明かされます。

(サンスクリット引用)

「主と霊的指導者に確固たる献身の念を持つ者だけに超越的な知識が明かされます。」
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第6章 神聖な愛を通しての自由

第1段落

(サンスクリット引用)

生命体が無明の相で覆われているとき、彼は個々の生命存在と至高の生命存在を理解せず、彼の心は結果を求める活動によって操られます。したがって、他でもない私(リシャバーデヴァ)である主ヴァースデヴァへの愛を持たない限り、彼は決して繰り返し物質の体を受け入れなければならないことから解放されません。(SB5.5.6)

第2段落

心が結果を求める活動によって汚染されているとき、生命体は一つの物質的な地位から別のそれへと上げられたがります。一般に、誰もが自分の経済的な状態を向上させるために昼も夜も懸命に働いています。ヴェーダの儀式を理解している場合でさえ、自分の本当の利益は家へ、至高主のもとへ帰ることであると知らず、人は天上の惑星へ上げられることに興味を持ちます。結果を求める活動の水準で行動することによって、人は宇宙のあちこちを異なる種や形でさまよいます。主の献身者、グルに巡り合わない限り、人は主ヴァースデヴァへの奉仕に執着することができません。ヴァースデヴァに関する知識を理解するには多くの生が必要です。バガヴァッド・ギーターには、次のように確認されています。(サンスクリット引用)(7.19)数多くの人生を通して存在のために苦労をしたあと、人はヴァースデヴァ、クリシュナの蓮の御足に拠り頼むようになるかもしれません。そうなったとき、人は本当に賢くなり、主に服従します。それが生と死の繰り返しを止める本当の方法なのです。これはチャイタンニャ・チャリタームリタの中の、シュリー・チャイタンニャ・マハープラブがシュリラ・ルーパ・ゴスヴァーミーにダサースヴァメダー・ガータにおいて授けられた教えの中で確認されています。(マデャー19.151)

(サンスクリット引用)

生命体は異なる惑星の間を異なる形と体でさまよいますが、もしも偶然にも真正なる霊的指導者と巡り合えれば、霊的指導者の恵みによって彼は主クリシュナの庇護を得て、彼の献身的な人生が始まります。

第3段落

物質的な人生においては、生命体の問題は物質的な体との接触です。しかし、誰もこれを知りません。特に今日では人々は、物質の体は私たちにとっては異質であることと、私たちがその中に閉じ込められて被害を被っていることを理解できません。これが私たちの本当の問題です。しかし、アヴィデャー、無明のために、人々はこれを知りません。人が熱情(ラジョ・グナ)あるいは無明(タモ・グナ)にあるとき、アヴィデャーは大変強力です。徳(サットヴァ・グナ)の相には光があります。これは人がブラーマンの資格を得たことを意味します。この段階においては、人は「私はこの体ではない。私はそれとは異なる」と理解することができます。徳の相にある者にとっては、献身的な人生において進歩することはより容易です。

第4段落

人間の文明は、徳の相にある者を無明の相に引きずり下ろすべきではありません。しかし、現代の文明はそれをします。現代の物質的な文明の誘惑はとても強くてとても悪質なので、敬虔な行いによって良い家庭に生まれた者でさえ罪深い行いに引きずり下ろされています。彼らは酒を飲むことや肉を食べることや不正な性交をすることを学んでいます。これらは最も低い種類の無明の特徴です。本当の文明は向上を意味します。言い換えると、人間の人生は皆が無明の相に引きずり下ろされるのではなく、皆が徐々に徳の相に引き上げられるようにしつらえられているべきです。しかし今日では社会的、政治的および経済的な仕組みがとても悪いので、誰もが無明の相に引きずり下ろされています。これは文明ではありません。これは退化です。人間の人生の目的は物質的な体から解放されることであり、人々をその水準に引き上げる文明が本当の文明です。そうでなければ、それは文明ではなく動物の人生です。

第5段落

クリシュナ意識運動は、人間の社会を本当の文明の水準に至らせようと試みています。それはとても科学的な運動です。ここで主リシャバーデヴァはおっしゃいます。(サンスクリット引用)「私への愛を育むまでは、人は物質的な体から解放されません。」私たちの問題は物質的な体に閉じ込められていることなので、体から解放されるように、それによってヴァースデヴァすなわちクリシュナへの愛を育むことができるところの過程が必要です。その過程がバクティ、すなわち献身奉仕です。献身奉仕の過程を辿る者は徐々にクリシュナを愛する水準に至ります。それが―――人をクリシュナを愛する水準に引き上げるのが文明なのです。
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by ammolitering4 | 2009-06-25 07:33 | 「霊的なヨガ」


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