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クリシュナ意識への上昇 第6章16段落より

クリシュナ意識への上昇 第6章16段落より

第16段落

私たちがこの「クリシュナ意識」という言葉を作り出したのではありません。クリシュナ意識とは、世界の歴史の中で一番古い言葉です。

(サンスクリット引用)

「いつも私のことを考えていなさい。私の献身者になりなさい。私を崇拝し、あなたの臣従の礼を私に捧げなさい。結果として、あなたは間違いなく私のところにやってきます。私はあなたにこれを約束します。あなたは私のとても愛しい友達だからです。あなたの心でいつも私のことを思いなさい。あなたの体でいつも私に奉仕をしなさい。そして私に服従しなさい。完全に私に夢中になれば、確実にあなたは私のもとに来ます。」(BG18.65,9.34)

第17段落

マン・マナー・バーヴァ・マッド・バークトは、「ただいつも私を意識していなさい」という意味です。これがすなわちクリシュナ意識です。バガヴァッド・ギーターの中で、クリシュナは繰り返し、私たちが主を崇拝し、主に服従し、主のもとに来る(行く)べきである、とおっしゃいます。(訳注、英語および日本語の一部の方言では「来る」ですが、日本語の標準語表現では「行く」のほうが正しいかもしれません。)バガヴァッド・ギーターはクリシュナ意識の絶対的な必要性をはっきりと指し示しており、バガヴァッド・ギーターはウパニシャッドの真髄として受け入れられています。歴史的な観点から見ても、比類すべきものはありません。考古学的な証拠に基づいて、クリシュナは五千年以上前にクルクシェトラの戦場でバガヴァッド・ギーターを語ったと計算されています。つまり、このクリシュナ意識運動は、歴史的な観点からも五千年の歴史があるのです。その哲学は世界の歴史の中で最も古いものです。もしも私たちがもっと遡りたいと望むなら、私たちはシュリー・クリシュナがこのバガヴァッド・ギーターをかつて太陽神に語られたということを知ります。クリシュナは永遠であり、クリシュナ意識もまた永遠です。クリシュナ意識はこのようにして近づかれるべきであり、単なる理論であると考えられるべきではありません。

第18段落

クリシュナ意識が何らかの意識で覆われているとき、私たちは汚染されて制約された人生を経験します。空が澄んでいるとき、私たちは太陽の明るく輝く光を見ることができますが、雲に覆われているときは見ることができません。私たちは太陽光を知覚することはできるかもしれませんが、太陽そのものを見ることはできません。空が澄んでいるとき、それは自然な状態にあります。同様に、私たちは永遠にクリシュナの欠かすべからざる小片なので、私たちの意識は永遠にクリシュナ意識なのです。これはバガヴァッド・ギーターの15章に断言されています。

(サンスクリット引用)

「この制約された世界にいる生命体は、私の微細な一部であり、彼らは永遠です。しかし、制約された人生によって、彼らは心を含む六つの感覚に大変な苦労をしています。」(BG15.7)

第19段落

どういうわけか、私たちは物質自然に関わることになってしまいました。そして、心と六つの感覚のために、存在するのに大変な苦労をしています。それがダーウィンの理論―――生存のための苦労、最も強い者が生き残る、というものです。しかし、本当の事実は、私たちの本来の立場は、苦労するようなそれではない、ということです。苦労は動物の人生の立場です。人間の人生は喜びに満ちている(blissful、幸せ、至福、天上の喜びに溢れた状態)べきであり、霊的な発達を目的としているべきです。かつて、それがインドにおいて人生の原則でした。そして、霊的な文化だけにいそしむ階層の人々、ブラーマナがいました。ブラーマナの文化生活はインドの聖典に明確に述べられていますが、それはインドだけのものではなく、すべての人間のためのものです。ヴェーダはすべての人類のために書かれましたが、ヴェーダが書かれたときには、たまたま現在インド文化として知られているものが存在する唯一の文化だったのです。その頃は、惑星全体がリシャバーデヴァの息子、皇帝バーラタ・マハーラージャにちなんでバーラタヴァルシャと呼ばれていました。バーラタ・マハーラージャは惑星全体を統治していましたが、徐々に惑星は分割されていきました。つまり、ヴェーダ文化のダルマは単に宗派的な意味でインドやヒンズーのものであると考えられるべきではないのです。

第20段落

ダルマという語は往々にして宗教を意味すると翻訳されますが、ダルマを宗教として受け取るのは語の誤解です。一般的な使い方では、宗教という言葉はある特定の信仰を指します。ダルマという言葉はそうではありません。ダルマは生命体の自然な職業(occupation、この場合は属性)を指します。例えば、火があれば熱と光もあります。そのため、熱と光は火のダルマだと言われます。火は自分のダルマを変えることはできません。同じように、液体性は水の本源的な性質であり、この性質は変えられません。もし変えられるなら、それはもはや水とは考えられません。個々の魂のダルマは決して変えられません。そしてそのダルマとは至高主に奉仕をするという職業的な義務です。信仰と宗教は変えられ得ます。今日は私はヒンズー教徒であるかもしれませんが、明日はキリスト教徒やイスラム教徒になるかもしれません。このように信仰は変わることがありますが、ダルマは自然な帰結、自然な職業、あるいは繋がりなのです。

第21段落

クリシュナは、生命体のダルマの遂行に食い違いが起こって不自然な活動の急激な高まりがあるときは直ちに降臨するとおっしゃいます。主の降臨の主な目的の一つは、宗教的な原則を再確立することです。最も優れた宗教制度とは、私たちを至高主に服従するように最も良く訓練するものです。これがバガヴァッド・ギーターの底に流れる基本原則です。私たちは、宗教の本当の目的を知っている限り、自分の宗教を選んでヒンズー教徒になったり、イスラム教徒や仏教徒やキリスト教徒になったり、他の何かになったりすることができます。実際のところ、シュリマッド・バーガヴァタムは私たちが今持っている宗教を放棄することを薦めていません。しかし、宗教の目的を示します。目的は至高神の愛であり、至高神を愛するにはどうしたらいいかを最もよく教える宗教が最上の宗教です。

第22段落

現代では特に、大衆の意識に一般的な衰退があります。神が存在することを覚えている人は少しはいますが、ほとんどの人は主を忘れています。だから彼らは幸せになれません。人々は神に対して何の恩義もないと考えたり、神はいないと考えたりしています。このような考えは、決して幸せを作り出しません。今日のように文明が無神論的であるとき、神あるいは主の代理人は人々に至高の意識との関係を思い出させるためにおいでになります。

第23段落

サナータナ・ゴスヴァーミーが主チャイタンニャに「私は何ですか?なぜ私はいつも惨めな状態にいるのですか?すべての生命体の立場は何ですか?」と聞いたとき、シュリー・チャンタンニャ・マハープラブは直ちに、本当の自己認識は神の従者というそれである、とお答えになりました。私たちは「従者」という言葉を物質的な従者のような意味で理解すべきではありません。神の従者になるというのは偉大な立場です。人々は、いつも何かの政府の地位や有名な企業の役職を得ようとしています。そのような地位で奉仕をすると、大きな利益があるからです。私たちは政府への奉仕の中でいい地位を得ようとして躍起になりますが、神への奉仕の中で地位を得ようと立ち止まって考えることをしません。神はすべての政府の中の政府なのです。

第24段落

神への奉仕はダルマです。このダルマは、異なる文化的および気候的な状態あるいは状況によって、異なる国々で異なるように描写されるかもしれませんが、すべての宗教的な聖典において、神への服従が教えられています。神はいない、とか、私たち生命体は独立している、などと説く聖典はありません。聖書や、コーラン、ヴェーダ、仏教徒の聖典でさえそうです。一般に、仏教徒の哲学では、個々の魂というものはなく、至高の魂もありません。しかし実際には主ブッダはヴェーダ文献によって神の化身として受け入れられているので、主ブッダに従うことによって人は実際は神に従っています。シュリマッド・バーガヴァタムには、神の化身の表があり、主ブッダはその一人として受け入れられています。シュリマッド・バーガヴァタムはヴャーサデヴァによって五千年前に編纂され、主ブッダは2600年前にお現れになりました。したがって、シュリマッド・バーガヴァタムは実際に主の来臨を予言していました。主ブッダは、神も魂もなく、この体は物質の複合であり、この物質の複合が分解すれば悲惨さや幸せなどの感覚はもはや無くなる、と教えられました。そしてサンカラーチャーリャが現れ、ブラーマンの外的な特質、すなわち体は、単なる幻想である、と教えました。すべての宗教において、寺院での崇拝と権威の受容が存在します。私たちは、クリシュナや主イエス・キリストやエホバや主ブッダやサンカラーチャーリャやグル・ナナクなどを受け入れるかもしれませんが、どの場合でも権威を受け入れることが要求されます。

第25段落

バガヴァッド・ギーターにおいて、主シュリー・クリシュナは至高の権威として受け入れられています。時にはクリシュナは自ら降臨され、時には化身として降臨されます。時には主は音の振動として降臨なさり、時には献身者としておいでになります。アヴァターには多くの異なる分類があります。今の時代においては、クリシュナはご自分の聖なる御名、「ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ」としていらっしゃいました。主チャイタンニャ・マハープラブも、今のカリの時代にクリシュナは音の振動として降臨された、と確認なさっています。音は主がお取りになる形の一つです。したがって、クリシュナと主のお名前に違いはないと述べられています。

第26段落

今日では、人々は神との関係を忘れてしまいましたが、この、主の聖なるお名前という形のクリシュナの化身、このハレ・クリシュナを唱えることは、世界のすべての人々を彼らの忘却から救い出すでしょう。主チャイタンニャ・マハープラブは、もしも私たちが(このマントラを)唱えれば、あるいはクリシュナの聖名を唱えることに関われば、私たちは人生の全き完成の水準に至る、とおっしゃいます。シュリマッド・バーガヴァタムによると、異なる時代のための異なる課程が存在しますが、それぞれの過程の原則はすべての時代において有効であり続けます。ハレ・クリシュナを唱えることが、今の時代には有効だけれど、サチャ・ユガではそうではない、ということではありません。また、サチャ・ユガでは人々がクリシュナの聖名を唱えていなかったというわけでもありません。サチャ・ユガにおいては、瞑想が主な課程であり、偉大なムニたちは6万年以上も瞑想しました。しかし、今の時代には私たちの寿命はとても短いので、この方法で完成を得ることは不可能です。結果的に、この時代では特に私たちが皆で座ってハレ・クリシュナを唱えることが勧められているのです。それはとても簡単です。誰でも参加することができます。教育の必要もなく、あらかじめ何らの資格が要求されるわけでもありません。今の時代は、人々は大変鈍くて、不運でもあり、悪い関わりによって汚染されています。チャイタンニャ・マハープラブは、神の愛を広めるための素晴らしい宣伝手段として「ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ」を導入なさいました。それはカリ・ユガだけに薦められているわけではありません。実際はすべての時代において薦められているのです。すべての時代を通して、マントラを唱えて完成に至った献身者がたくさんいます。それがこのクリシュナ意識運動の美点です。それは一つの時代や一つの国や、一つの階層の人々のためのものではありません。ハレ・クリシュナは、どのような社会的な地位の、どのような国の、どんな年齢の人でも唱えることができます。クリシュナは、すべての社会的な地位と、すべての国々と、すべての年齢の人々の至高主であられるからです。

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これで終わりです。今日は休みだったので、タイプを済ませることができました。次はSpiritual Yogaという小冊子を翻訳する予定です。
by ammolitering4 | 2009-06-13 07:19 | 「クリシュナ意識への上昇」


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