クリシュナ意識への上昇 第4章 4段落の途中から

第4段落 途中から

このことについて、ベンガル語の諺があります。「サクニ・サーペ・ゴルマラナ。」サクニという語はハゲタカを意味します。ハゲタカは動物の死体、特に牛の死体を好みます。時として、ハゲタカが何日も死体にありつけないかもしれません。したがって、この諺は「ハゲタカは牛が死ぬようにと呪いをかける。」と語っています。しかしこれは、牛は単にハゲタカを喜ばせるために死ぬ、ということを意味するのではありません。同様に、無神論者のハゲタカたちは、自分たちが「さあ、神は死んだ。これで何でも好きなことができる」と考えて喜ぶことができるように、神に死んで欲しいのです。

第5段落

それでは私たちは、統御者が存在するということをしっかりと知らねばなりません。それが知識の始まりです。なぜ私たちはこの真実を否定すべきでしょうか。すべての活動の場において、私たちは何らかの限られた統御者がいるのを見ます。それでは、どうして私たちはこの創造における無限の統御者の存在を否定できるでしょうか。したがって、主チャイタンニャ・マハープラブが特にこのジャガディーサ、宇宙の主という言葉をお使いになるのは、理由のないことではないのです。主はこの用語を作り上げられたのではありません。多くの異なるヴェーダのマントラの中にそれは見受けられるからです。例えば;

(サンスクリット引用)

「おお、わが主よ、あなたの手はとても美しく、ハスのようです。しかし、その長い爪であなたは毒蜂(悪魔のような者、という比喩。wasp)ヒラニャカスィプを引き裂かれました。宇宙の主よ、私はあなたに謹んで服従します。」

第6段落

ヒラニャカスィプは神の存在を否定した無神論者でしたが、神は半分が人で半分がライオンの化身、主ヌリスィムハデヴァとしておいでになり、彼を殺しました。したがって、主は宇宙とすべての生命体の統御者として称えられます。(ジャヤ・ジャガディーサ・ハレ)

第7段落

もう一つ、別の祈りがあります。(サンスクリット引用)「おお、宇宙の主よ、どうぞ私にお姿を見せてください。」これらすべての祈りにおいて、そして他の多くの祈りにおいて、宇宙の至高の統御者が認められています。皆が至高の統御者になろうとしていますが、それは個々の、共同体の、あるいは国家単位の努力では不可能です。皆が至高の存在になろうとしているので、世界には大いなる競争があります。しかし、世界は誰も至高にはなれないように創られています。どのような位置につこうとも、私たちは自分の下にも誰かがいて、自分の上にも誰かがいることに気がつくでしょう。どの個人も「私は至高だ。私の上に立つ者はない」とは言えません。また、誰も「私は最低だ。私より下にいる者はない」とも言えません。自分が一番低いと思ったとたんに、私たちは自分よりもっと低い者がいることに気がつくでしょう。そして、自分が至高だと思ったとたんに、私たちは自分より上の者がいることに気がつくでしょう。これが私たちの位置づけです。

第8段落

しかし、神の位置づけはこのようなものではありません。バガヴァッド・ギーターにおいて、クリシュナは自ら御自分の優位性について次のように確認しておられます。

(サンスクリット引用)

「おお、富を征服する者(アルジュナ)よ。私に優る真実はありません。すべてが私に依り従います。真珠が糸に繋がっているように。」(BG7.7)

第9段落

神はアサマウルダー、すなわち、主と同等の者や主に優る者は存在しません。もしも私たちが上に立つ者のない者を見つけるなら、私たちはその者を神として受け入れることができます。神は、上に立つ者がなく同等である者もない存在である、と定義できます。これがヴェーダの見方です。ウパニシャッドには(サンスクリット引用)、主に同等の者や主に優るものは見つけられない、と書いてあります。

第10段落

神のもう一つの性質は、何もすることがない、というものです。物質的な世界では、ある人が非常に重要な人物であると見なされる場合、その人はいつもすることが山ほどあります。たとえば、合衆国の大統領は国家で最高の人物だと考えられています。しかし、中央ヨーロッパや世界の他のどこかで何か騒動が起これば、彼は直ちに閣僚を集めて、その状況にどう対処すべきかと会議を開かねばなりません。つまり、彼でさえ多くのことをしなければならないのです。もしも彼が何もしなければ、彼はもはや至高の人物ではありません。しかしヴェーダ文献から私たちは神には何もすることがないということを知ります。(サンスクリット引用)クリシュナは世界でいろいろな行動をなさるかもしれませんが、それは主がそうすることを強いられているからではありません。これはバガヴァッド・ギーターに示されています。

(サンスクリット引用)

「おお、プルサーの息子よ。三つの天体系のどこにも私にあてがわれた仕事はありません。私には何も欲しいものはなく、何かを得る必要もありません。それでも私は仕事をします。」(BG3.22)

第11段落

このことに関して、おもしろい話があります。あるヨーロッパ人の紳士がカルカッタに行って、いくつかの寺院を訪ねました。女神カーリーの寺院では、神像が手に刀を持って悪魔たちの頭を切り落とし、それを首飾りにしているという恐ろしい姿をしているのを見ました。他の寺院でも、彼は神像が同様な活動をしているのを見ました。しかし、ラーダー・クリシュナ寺院に来たとき、彼は「この寺院には神様がいらっしゃいますね」と言いました。なぜそういう結論を出したのかと尋ねられたとき、彼はこう言いました。「どの寺院でも、神像は何かをしていました。しかし、ここでは神は単に楽しく笛を吹いておられます。明らかに主には何もすることがないのです。」これは実に知的な結論です。それはヴェーダの結論です。

第12段落

昨今は、瞑想によって神になりつつある、と主張するのがはやっています。これは、瞑想によって人が自分を神に変えることが可能であるということを意味します。言い換えると、神は瞑想をなさり、主は瞑想して神におなりになるのです。これは全く意味をなさないことです。神は神であり、主はいつも神であられたし、いつも神でいらっしゃるでしょう。幼児として母親のひざの上におられたときも、クリシュナは神です。瞑想も苦行も禁欲も必要とされません。魔女プータナーが赤ん坊のクリシュナに毒を盛りに来たとき、彼女は美しい若い娘としてやってきて、主の母ヤソダーに「おお、ヤソダーマイー。あなたの赤ちゃんはとても愛らしいですね。どうぞ私に赤ちゃんを抱いて乳を与えさせてください」と頼みました。ヤソダーはとても素朴な村の女だったので、「どうぞ。抱いて乳を与えてください」と言いました。プータナーは乳房に毒を塗っていました。クリシュナに乳を含ませて殺そうとしていたのです。これは悪魔的な精神です。悪魔たちは、「神は死んだ。神はいない。神は非人格だ」と言えるように、いつもクリシュナを殺そうとしています。


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今日はこれで終わります。また明日。。。あるいは明後日か。。。のんびり行きましょう。
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by ammolitering4 | 2009-05-28 13:48 | 「クリシュナ意識への上昇」


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