クリシュナ意識への上昇2-20

とりあえず、第2段落が終わりました。ふう。。。読むのも結構大変ですね。楽しみにしてくだるので、やりがいがあります。まだあと第6章まで残っています。ちょうど60ページです。たった5ミリほどの厚さに過ぎないというのに、翻訳というのはずいぶん時間のかかる作業です。

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クリシュナ意識への上昇 第2章 第20段落より

第20段落

人間の人生は本質的に苦しみに満ちており、より低い生命体の人生はもっと惨めです。正しい分別を持った正気の者は誰でも、物質世界の人生は悲惨さに満ちており、そのような悲惨さの行為と反応から自由である者は誰もいない、ということを理解することができます。これは人生を悲観的に見ているわけではなく、私たちが盲目的であるべきではない実際の事実なのです。人生の悲惨さは3つに分類されます。すなわち、体と心に起因する悲惨さ、他の生命体に起因する悲惨さ、および自然な災害に起因する悲惨さです。正気な者は、これらの悲惨さを取り除いて人生で幸せになることを目指さねばなりません。私たちは皆、少なくとも無意識的には、これらの悲惨さから逃れて平和と自由を得ようとしています。そして、より高位の学識ある人々の間では、巧妙な計画とデザインによってこれらの悲惨さを捨て去ろうとする試みがあります。しかし、最も知的な人の計画やデザインでさえ、すべてくじく力がマーヤー・デヴィーの力、すなわち幻想エネルギーです。カルマの法則、すなわち物質界におけるすべての行為と反応の結果は、この絶大な力のある幻想エネルギーによってコントロールされています。このエネルギーの活動は原則と規則に基づいて機能しており、それらは至高主の指導の下で意識的に活動します。すべては自然によって完全な意識の中でなされます。盲目的に、あるいは偶発的に起こることは何一つないのです。この物質エネルギーはドゥルガーとも呼ばれます。それは、乗り越えるのが非常に難しい力であることを示しています。子供じみた計画をどれだけたくさん練っても、ドゥルガーの法則を乗り越えることは誰にもできません。

第21段落

人類の苦しみを捨て去ることは、とても難しいことであり、同時にとても簡単なことでもあります。自然の法則に縛られた制約された魂が三つの悲惨さを捨て去ろうとして計画を立てている限り、解決策はありません。唯一の効果的な解決策はバガヴァッド・ギーターに述べられているそれであり、私たちはそれらを私たち自身の利益のために、私たちの実際的な暮らしに取り入れなければなりません。物質自然の三つの悲惨さは、至高主の娯楽の中にはありません。前述のように、主は永遠に喜びに満ちており、主の超越的な娯楽は主ご自身と異なるものではありません。主は完全真理であるので、主の名、名声、形、性質および娯楽はすべて主と全く同じなのです。したがって、主の娯楽はいわゆるスヴァーミーが主張するように人類の苦しみと同一視することはできないのです。至高主の娯楽は人間たちの実際の悲惨さや苦しみを超越しています。

第22段落

人類の苦しみは、分別をつける力、すなわち個々の魂に与えられた小さな独立性の誤用によって生じます。詐欺的なスヴァーミーたち、あるいは精神的な推察をする人々は、一元論の理論に合致させるために、人類の悲惨さを神の娯楽として無視せねばなりません。しかし、実際にはこれらの悲惨さは、誤って導かれた制約された魂の上に科されたマーヤー・デヴィーの罰が執行されたものに過ぎないのです。

第23段落

生命体として、私たちは至高主の欠かすべからざる小片です。実に、私たちは本当は主の優性エネルギーに属しているのです。そのため、制約されていない状態の人生では、私たちは主の超越的な娯楽に参加することができるかもしれません。しかし、私たちがカルマの法則によって制約されている限り、劣性エネルギーに関係している限り、私たちの苦しみは、自分たちの小さな独立性を甚だしく使い間違えたことから生じた、自分で作り出した苦しみなのです。非人格主義者の一元論者たちは、三重の苦しみは主の娯楽の一部だと主張することによって単に人々を誤って導くだけです。そのような非人格主義者と一元論者は、至高主と個々の魂はすべてにおいて平等であると誤って考えるため、従う人々を誤って導いてきました。たしかに、個々の魂は至高主と性質においては同じです。しかし、量においては違います。もしも個々の魂が量において至高主と同じなら、そもそも物質自然の法則の下に置かれることはなかったでしょう。物質自然は至高主の意思に従属します。したがって、主は物質自然の法則の下には置かれ得ません。主がご自分の劣性エネルギーの法の下にあるというのは矛盾しているのです。

(サンスクリット引用)

「おお、富を征服する者(アルジュナ)よ、私に優る真実はありません。すべては私に依り従います。真珠が糸に繋がっているように。」(BG7.7)

第24段落

再び、クリシュナは述べられます。

(サンスクリット引用)

「三つの相(徳、熱情、無明)に惑わされ、世界全体が私を知りません。私は彼らの上にあり、無尽蔵です。」(BG7.13)

第25段落

物質世界の悲惨さの中に入れられた個々の魂は、自らの許されない活動の結果である反応に苦しんでいます。これがバガヴァッド・ギーターの判断です。

(サンスクリット引用)

「うらやましがり、有害な、人類の最低の者たち。これらの者たちを、私は永遠に物質存在の海へ、様々な悪魔的な種類の生命の中に入れます。」(BG16.19)

第26段落

部分は全体に奉仕するのが本楽の役割です。そして、彼らが自分の独立性を誤用すると、物質の法則の悲惨さの影響を受けます。ちょうど犯罪者が警察の行動の影響を受けるようなものです。国家は、その市民を欠かすべからざる構成部分と考えます。そして、市民が自分の相対的な独立性を誤用するとき、国家はその人を警察の権威のもとに置きます。刑務所の外の市民の生活と中の市民の生活は同じではありません。同様に、物質自然という刑務所の中の生命体の苦しみは、サック・スィッド・アーナンダの完全な自由の中に存在する至高主の娯楽と同一視することはできません。

第27段落

市民が刑務所に行って苦難しなければならないような行動をすることを望む政府はありません。刑務所は、もちろん国家政府が建てたものです。しかし、これは国家がぜひともその市民をそこに放り込みたいと思っていることを意味するのではありません。間接的に、法に従わない市民は政府に刑務所を建てることを強制しているのです。それは政府の楽しみのためになされているのではありません。政府は刑務所を建てて維持するために多額の出費をしなければなりません。反対に、もしも国家に法に従わない市民が一人もいないなら、政府は喜んで刑務所を取り壊すでしょう。同じように、この物質世界は至高主によって作られましたが、至高主は生命体がそこに入れられることを望んでおられません。生命体自身がその決断をするのです。この物質世界の住人は、したがって、至高主の超越的な娯楽に永遠に関わっている人たちとは違うのです。

第28段落

非人格主義者の一元論者たちは、永遠なる霊的な王国における十分に発達した独立の生活に関して、何の情報も持ちません。彼らによれば、霊的な王国は単なる虚空です。これは、囚人が刑務所の外には生活がないと考えるようなものです。刑務所の外の暮らしには、確かに刑務所の活動はありませんが、活動がないわけではありません。魂は本来的に活動的であり、しかし、非人格主義者たちは霊的な王国における魂の活動を否定しようとします。こうして彼らは刑務所の生活の悲惨さを至高主の娯楽であると誤解します。これは彼らの知識が乏しいことに起因します。

第29段落

至高主は個々の魂の活動と反応を創られることはありません。バガヴァッド・ギーターには、この事項は以下のように明確に定義されています。

(サンスクリット引用)

「体に入れられた霊、すなわち自分の体という街の主人は、活動を作り出しません。人々に活動を促すこともありません。活動の結果を作り出すこともありません。これらすべては、物質自然の相によって引き起こされます。至高主が誰かの罪深い行動や敬虔な行いの責任を負うこともありません。しかし、体に入れられた存在は、彼らの本当の知識を覆う無明のために惑わされます。」(BG5.14-15)

第30段落

これらの節から、人類の苦しみは至高主の娯楽と同一視されるものでないことや、至高主がそれらの責任があるのではないことは明らかです。主は決して誰の悪徳や美徳に対しても責任はありません。悪い行いによって、私たちはますます苦難に満ちた状況に置かれます。一方で、敬虔な行いによって私たちは自分を幸せへの道に置きます。このように、人は自分自身の物質的な苦しみや幸せの建築家なのです。主は、生命体が活動の反応にからまることを望まれません。それが良い反応であれ、悪い反応であれ。主は単に皆が家に帰ることを望んでいらっしゃるのです。私たちが神との純粋で永遠の関係に目覚めない限り、私たちは必ず自分の行いにおいて惑わされます。私たちの行いは、善悪に関してすべて無明の水準で行われます。私たちは純粋な知識の水準に上がらねばなりません。それは、私たちが至高主の永遠の従者であって、主の超越的な娯楽の享受者であるという純粋な認識です。至高主はそれらの娯楽を主として楽しむ方であり、私たちは従者として楽しむ者であるのです。

第31段落

バガヴァッド・ギーターに描写されているように、超越的な知識は超越的な献身奉仕によってのみ得ることができます。

(サンスクリット引用)

「常に変わらず献愛の念を持ち、愛情をもって私を崇拝する者に対して、彼らが私のところへ来ることができるように、私は必要な理解を与えます。」(BG10.10)

第32段落

そのような献身奉仕をすることによってのみ、そして、ただ単に大量の識別的な知識を得ることによってではなく、私たちは至高主をありのままに知ることができます。私たちが至高の人格神を本当に知るとき、そのとき私たちは主の娯楽に入ることができます。それがすべての明かされた聖典の判断です。
by ammolitering4 | 2009-05-19 03:06 | 「クリシュナ意識への上昇」


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