クリシュナ意識への上昇 第2章12段落より

第12段落

富は崇拝され、母なるラクシュミ、すなわち幸運の女神と称されます。すべてのナラ、すなわち生命体の、その源であるナーラーヤナに仕えることが彼女の役割です。ナラもまた、幸運の女神の指導のもとでナーラーヤナに仕えることになっています。生命体はナーラーヤナに仕えずして幸運の女神を享受することはできません。そのため、正しくない方法で幸運の女神を享受しようと望む者は、自然の法によって罰せられます。これらの法は、お金それ自体が平和と繁栄の代わりに必ず破壊をもたらすようにするのです。

第13段落

正しくない方法で集められたお金は、将来的な内戦と国家間戦争の資金のために、様々な方法による国家の税金によってケチな市民から取り上げられます。その資金は、無駄が多くて破壊的な方法による支出金です。市民はもはや、人間の生活にとって必要不可欠である二つのこと、すなわち、家族を適切に養い、霊的な知識を培うということに必要なお金だけでは満足しません。今、人々は皆、飽くことを知らない欲望を満足させるために際限なくお金を欲しがります。人々の不正な欲望に比例して、彼らが貯めこんだお金は、医療者、弁護士、収税人、社会、国家構造、いわゆる聖者、飢餓、地震、そのほか多くの類似する苦難という形をとった幻想エネルギーの代理人たちによって取り去られます。「バック・トゥ・ゴッドヘッド」を一部買うのを渋ったケチな人は、一週間の薬代に二千ドルを払い、そして死にました。主への奉仕のために1セント出すのさえ拒否した別の人は、家族内の法的なトラブルに何千ドルも無駄にしました。幻想的な自然の支配によって引き起こされた同様の事例はいくらでもあります。実に、それが自然の法なのです。もしお金が主への奉仕のために使われないなら、それは法的な問題や病気などの形で、駄目になったお金として使われねばならないのです。愚かな人々は、そのような事実を見る目を持ちません。したがって、至高主の法は彼らをたぶらかすのです。

第14段落

自然の法律は私たちに適切な維持に必要とされる以上のお金を受け取ることを許しません。自然の法によって、すべての生命体にそれぞれの相応な食べ物と住処の分け前を供給する、有り余るほどの配剤があります。しかし、人間の飽くことを知らない欲望は、すべての種の生命の万能の父によって整えられた配剤を乱しました。至高主の配剤によって、塩に満ちた海が存在します。塩は生命体にとって絶対に必要なものだからです。神は同様に、同じく必要不可欠である空気や光が十分になるようになさいました。誰でも自然の倉庫からいくらでも塩を取ることができますが、本来は私たちは自分たちが必要とする以上の塩を取ることはできません。もしも塩が多すぎると、スープが駄目になります。そして塩が足りないと、食べ物が味気なくなります。一方で、もし私たちが必要な分だけ塩を取れば、私たちの食べるものはおいしくなり、私たちは健康になります。現在、私たちの天然資源が汚されて使い尽くされることに関して多大な懸念があります。本当は十分に与えられているのです。しかし、誤った使い方と貪欲さによって、すべてが駄目にされています。自然保護論者と生態学者が理解していないのは、このクリシュナ意識のプロセスを人々が習慣づけない限り、すべては人類の止まるところを知らない欲望によって駄目にされ続けるということです。クリシュナ意識なくしては、存在のどの水準においても平和を得ることは不可能です。

第15段落

したがって、人は自らの飽くことのない欲望と貪欲さによって苦しんでいません。苦しんでいるのは、人だけではありません。人が住む天体、すなわちシュリマッド・バーガヴァタムの中で母なる牛として表されている母なる地球もまた、苦しんでいます。かつて、インドの著名なスヴァーミーが、人類の苦しみに対して神や摂理は責任があるのか、と尋ねられたことがあります。スヴァーミーは、これらの苦しみはすべて神の娯楽、リーラーだと答えました。質問した人は、なぜ生命体はカルマの法の支配の下に置かれるべきなのか、と尋ねました。スヴァーミーは、彼の問いが満足されるような答えを与えることができませんでした。至高主と生命体が一つであることだけに基づいて考える一元論者や非人格主義者は、そのような問いに対して満足な答えを与えることができません。そのような不完全な答えは、生命体の心をほとんど満足させることができません。

第16段落

主は、すべての聖典においてリーラー・プルソッタマ、すなわち、本来的にいつも超越的な娯楽に興じている至高の人格神と描写されています。ヴェダーンタ・スートラにおいては、主はアーナンダマヨ・ブヤーサートとも描写されています。一元論者と非人格主義者は、一つであるということと非人格であるということという、彼らの二つの不完全な理論を支えるために、このスートラを様々な方法で説明しようとして大変な苦労をしています。しかし、アーナンダ、すなわち快楽は一人では楽しめないという事実が残ります。多様性が喜びの母であるということは、よく知られた事実です。例えば、都会はそこに様々なものがあれば魅力的です。生命体は、魅力的な通りや建物、映画、公園、乗り物、会社、雇用、食べ物その他、多様性によって自然にひきつけられます。これらすべての多様性にも関わらず、イギリスの詩人パウパーは、かつてこう言いました。「都市は人間によって作られる。しかし、田舎(訳注、country、森などの人里離れた自然を含む)は神によって作られる」。田舎もまた、天然のままも形の多様性に満ちています。一方で、都市ではこの多様性は現代化された科学的な在り方で示されます。カウパーのような詩人は田舎の多様性にひきつけられます。そして都市に住む平凡な人々は人間によって作られた華やかな多様性にひきつけられます。どちらにしても、田舎や都市に人々をひきつけるのは多様性なのです。これがヴェダーンタ・スートラの節の正しい解説です。

第17段落

非常にしばしば都市にひきつけられる多くのいわゆるスヴァーミーたちは、しばしば社会と女性との関わりの中にある種の喜びを求めます。一般に、彼らは森に住むことに向いている者のような格好をするかもしれませんが、森の自然な美しさには魅了されません。そのようなスヴァーミーは、物質の中に様々な喜びを捜し求めています。彼らは霊的な生活の多様性について何の情報も持たないからです。彼らは一方では物質の多様性を楽しみ、他方で絶対存在に対しては霊的な多様性を否定します。彼らは一元論と非人格主義の理論に忠誠を誓っているので、物質に関するものは何であれ霊にも関係するということを否定します。彼らによると、霊は物質の否定です。しかし、事実は、霊は物質の否定ではなく、物質は霊の歪んだ反映であるのです。

第18段落

多様性の本当の喜びは、相対性を損なう(訳注、delude、あざむく)ことなく、霊の中に存在します。一方で、静的な物質は動的な霊との関わりによって、その霊的な多様性そのものの誤った複製、すなわち歪んだ反映を顕現します。いわゆるスヴァーミーの一元論的な階級の人々は、その霊的な多様性そのものを非常に頑固に否定します。

第19段落

以前に述べたように、至高主はサック・スィッド・アーナンダ・ヴィグラハ、すなわち本来的に喜びに満ちており、したがって主はご自分を、自らの異なるエネルギー、部分、および分離された分化体や完全体の部分によって、拡大なさいます。至高主は完全真理であり、比べるもののない唯一無二の存在であり、しかしまた、主はご自分と同時に一つであって異なる様々なエネルギー、部分、および完全な部分を含有なさいます。主は本来的に喜びに満ちていらっしゃるので、ご自分を様々な方法で拡大され、、これらの拡張体の活動は主の超越的な娯楽、すなわちリーラーと呼ばれます。しかし、これらの娯楽は盲目的で静的ではありません。それらは完全な感覚と独立性と、そして行為と反応の自由を示します。完全真理の様々なエネルギーの行動と反応の複雑さは、神の超越的な科学と呼ばれる膨大な科学の主題(subject matter)を成し、バガヴァッド・ギーターはその科学に興味のある学生のためのABC,すなわち知識の入門書です。すべての知性ある人間は、この超越的な知識に興味を持つべきです。実に、聖人たちの意見によれば、人間の生はこの科学を学ぶためだけにあるのです。ヴェダーンタ・スートラの始まりの言葉は、「今こそブラーマンについて問うときである」と宣言しています。
by ammolitering4 | 2009-05-18 05:19 | 「クリシュナ意識への上昇」


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