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比類なき贈り物 第7章 後半

しかし、人はこの状態が単に人が何日も隅っこに座禅を組んで座っている陶酔状態だと考えるべきではありません。違います。解放は奉仕を意味します。人は単に「今、私はクリシュナに人生を捧げた。じっと座ってサマーディーに耽ろう」と言うことはできません。服従の水準はニシェヴァヤー、奉仕によって、維持されません。人が至高主に仕えると、主はご自分を心の中に明かしてくださいます。主への献身奉仕のプログラムは朝から晩まで実行されます。実に、クリシュナはバガヴァッド・ギーターにおいて、人は一日24時間主への献身奉仕に携わらねばならないとおっしゃいます。一日に15分間瞑想して、それからありとあらゆる下らないことをすべきであるというわけではないのです。奉仕すればするほど、私たちはよりクリシュナに献身的であるようになります。したがって、人は何であれ持てる能力をクリシュナのために使うべきなのです。献身奉仕には9つの方法があります―――聞くこと、マントラを唱えること、覚えていること、奉仕すること、寺院で神像を拝むこと、祈ること、命令を遂行すること、主に友人として仕えること、そして主のためにすべてを犠牲にすることです―――そして人はいつもこれらの9つの方法のうち、少なくとも一つにいそしんでいるべきでし。いつもクリシュナへの奉仕に携わっている者は、決してうんざりしません。(サンスクリット引用)奉仕は愛と共になされねばなりませんが、初めはそれは難しいかもしれません。だから人はうんざりするようになるかもしれません。しかし、クリシュナへの奉仕に秀でてくると、人はそれを喜ばしいと感じるようになります。これはクリシュナがバガヴァッド・ギーターにおいて示していらっしゃいます。
(サンスクリット引用)
「初めはちょうど毒のようであるけれど、最後には蜜のようであるもの、そして人を自己認識に目覚めさせるものは、徳の相における幸せだと言われます。」(BG18.37)

人がいったん霊的な水準に達すると、実際に嫌な感じになるのは物質的な奉仕です。例えば、もし人が生涯ハレ・クリシュナを唱えれば、その人はその名前に飽きません。しかし人が物質的な名前を繰り返し唱えると、程なくうんざりするでしょう。クリシュナの名前を唱えれば唱えるほど、人はそれに愛着を覚えるようになります。このように、スラヴァナムとキールタナム、クリシュナについて聞くことと唱えることは始まりです。次のプロセスはスマラナム、いつもクリシュナを覚えていることです。人が唱えることと聞くことにおいて完璧であるとき、人はいつもクリシュナを覚えているようになります。この三番目の段階で、人は最も偉大なヨギーになります。

クリシュナ意識での進歩は、決して失われることもありません。物質的な世界では、もし人が工場を建て始めて完成させないなら、その工場は全く何の役にも立ちません。もし工事が中止されて建物が未完成に終わるなら、投資されたお金はすべて失われます。これはクリシュナ意識にはあてはまりません。たとえ人が完成点に到達しなくても、彼が為したすべての働きは彼の永遠の財産であり、彼は来世においてその地点から始めることができます。クリシュナはバガヴァッド・ギーターにおいて、クリシュナ意識を始める者は何も失い得ないとも確認していらっしゃいます。
(サンスクリット引用)
「この努力においては、失うことや減ることはなく、この道におけるわずかな進歩は人を最も危険な種類の恐れから守ります。」(BG2.40)

バガヴァッド・ギーターの第6章では、アルジュナが不成功に終わったヨギーの運命について尋ねるとき、シュリー・クリシュナはこう答えられます。
(サンスクリット引用)
「プルサーの息子よ、縁起の良い行いに携わった超越主義者は、この世でも霊的な世界でも、破滅に遭うことはありません。我が友よ、善行をなす者は悪によって打ち負かされることはありません。」(BG6.40)

それから主は、不成功に終わったヨギーは来世において前に終わった地点から始めてクリシュナ意識の訓練を始めると示していらっしゃいます。言い換えると、もし人が人生で50%を終えたなら、来世では51%から始めるということなのです。しかし、私たちが人生で蓄える物質的な財産は、すべて死のときに滅ぼされます。私たちは物質的な富を持っていくことはできないからです。しかし、人は来世まで待ってクリシュナ意識になる方がいいと考えるべきではありません。私たちはクリシュナ意識という使命を今世において達成する努力をすべきです。クリシュナは、主の献身者になる者は間違いなく主のもとへ行けると約束なさいます。
(サンスクリット引用)
「いつも私のことを考えなさい。私の献身者になりなさい。私を礼拝し、あなたの忠誠を私に捧げなさい。その結果、あなたは間違いなく私のところへ来るでしょう。私はあなたにこのことを約束します。あなたは私のとても愛しい友達だからです。」(BG18.65)

私たちがクリシュナのもとへ行くことを考えるとき、私たちは空虚さや非人格的な明るい光の前に立つのだと考えるべきではありません。クリシュナ、神は人格です。ちょうど私たちが人格であるようなものです。物質的に、私たちの父は人格であり、彼の父もまた人格であり、その父の父も、その前も、至高の父まで遡っても同じく人格でなければならないことを理解できます。これを理解するのはそれほど難しくありません。そして、神がヴェーダだけでなく聖書や他の聖典においても至高の父と呼ばれているのは特筆すべきことです。ヴェダーンタ・スートラもまた、完全真理は元々の父であってその人からすべてが生を受けた、すなわち放射された、と確認しています。これはヴェーダにおいても確認されています。
(サンスクリット引用)
「主はすべての永遠存在の中の至高の永遠存在であり、すべての生命体の中の至高の生命体である。主は他のすべてを維持している。」すべての生命体によって現されている欲求と生命の兆候は、単に至高の父の欲求と生命の兆候の反映に過ぎません。言い換えると、私たちの欲求は主が欲求を持っていらっしゃるから生じるのです。私たちは主の欠かすべからざる小片なので、私たちは神のすべての本能を微量に持っています。私たちが物質世界で目にする性的な遊戯と性生活は、霊的世界に見られる愛の歪んだ反映に過ぎません。この世界は、ここでは神が忘れられているので物質的ですが、一旦主が思い出されると世界は直ちに霊的になります。言い換えると、霊的な世界とはクリシュナが忘れられていない場所のことです。それはヴェーダ文献によって与えられている霊的世界の定義でもあります。したがって、私たちは一瞬たりともクリシュナを忘れることが不可能であるような生活を計画しなければなりません。このようにしてクリシュナへの奉仕に携われば、私たちはいつもヴァイクンサ、あるいはヴリンダーヴァナ、すなわちクリシュナのお住まいに住むでしょう。

現在では、私たちの汚染された意識によって、私たちは世界を物質主義的で地獄的な場所へと変えつつあります。そして私たちは本来の立場を知らないので、数え切れないほどの問題を作り出してしまいました。ちょうど、夢ではたくさんの問題を作り出すようなものです。しかし、本当は問題はありません。私は自分が大嵐の中にいるとか、追いかけられているとか、誰かにお金を盗られるとか、トラにむさぼり食われているとかいう夢を見るかもしれません。しかし、本当はこれらはすべて私の心が作り出したものです。(サンスクリット引用)ヴェーダには、プルシャ(アートマー、すなわち魂)はそのすべての夢に似た物質的な活動とは全く関係がない、と書かれています。したがって私たちはこの夢見る状態から目覚めるためにこのクリシュナ意識運動に携わらねばなりません。

バークタ、すなわちクリシュナの献身者は、結果を求めて働く人々、推量する人々、および神秘主義的なヨギーたちよりも上に位置します。バークタは完全に平安であることができますが、他の人たちはそうできません。純粋な愛を持つバクター以外のすべての人は欲求を持っているからです。スッダー・バークタには欲求がありません。彼は単にクリシュナに仕えることで幸せだからです。彼はクリシュナが神であるかどうか知らず、気にもかけません。彼は単にクリシュナを愛したいのです。彼はクリシュナが万能であるとか、あまねく存在するとかいう事実も気にしません。ヴリンダーヴァナでは、牛飼いの少年達やゴピーは、クリシュナが神であるかどうか知りませんでした。しかし彼らは単にクリシュナを愛しました。彼らはヴェダーンティストでもヨギーでもカルミーでもありませんでしたが、彼らはクリシュナに会いたかった純朴な村の少女たちや少年たちだったので幸せでした。これは、(サンスクリット引用)すなわち人がすべての物質的な自己認識から解放された純粋さの段階と呼ばれ、非常に高度な位置です。

ヨギーとジナーニーは神を理解しようとしていますが、彼らは自分たちの幻想的な立場に気づいていません。(サンスクリット引用)彼らは幻想的な幸せのためにあくせく働いているので、愚か者です。彼らには平和はあり得ません。ジナーニー、すなわち推量する者たちは、この物質世界の重労働から逃れたくてこの物質世界を拒絶します。(サンスクリット引用)彼らはカルミーより少し高い場所にいます。カルミーはこの物質世界がすべてだと思っているからです。彼らは「私たちはここで幸せになろう」と言います。そして彼らのダールマ、すなわち宗教は、この物質世界の中で平和的な雰囲気を作り出そうとすることで成り立っています。愚かな人々は、これが何億年でも試みられてきたけれど未だに実現せず、今後も決して実現しないということを知りません。クリシュナ、創造主ご自身がこの場所は困難と悲惨さのためにあるとおっしゃるとき、どうして物質世界に平和が可能でしょうか。
(サンスクリット引用)
「物質的な世界では、最高の惑星から最低のまで、すべてが悲惨な場所です。そこでは生と死が繰り返されます。」(BG8.16)
(サンスクリット引用)この世界は苦しみに満ちているだけでなく、一時的でもあります。人は単に三重の苦しみを苦しみ続けることに同意してここに留まることはできません。それさえも許されないのです。この世界では、人はここに留まっている間は罰を受けるだけでなく、最後には追い出されるのです。人は銀行の口座にたくさんのお金を貯めたり、高価な家や、妻や子供たちや、生活を快適にするためのたくさんの物を集めたりして、「私はとても平和に暮らしている」と思うかもしれません。しかし、彼はいつ「出て行ってください」と言われるか分かりません。

「なぜですか」と彼は尋ねます。「これは私の家で、支払いも終わっています。私にはお金も仕事も責任もあります。なぜ私が出て行くべきでしょうか。」

「いいから出て行きなさい。黙りなさい。出て行きなさい。」

その日に、人は神を見ます。「おお、私は神を信じなかった」と彼は思うかもしれません。「しかし、今ここに神がいて、すべてを終わらせている。」こうして、悪魔的な人はクリシュナを死として認識すると言われます。その時に主は彼らからすべてを取り去られるからです。

私たちが神を死として見たいということがあるでしょうか。悪魔ヒランヤカスィプがクリシュナを見たとき、彼は主を人格化された死として見ました。しかし、献身者プラーラーダは、主を自分の愛する主人として主の個人的な姿で見ました。神に挑戦する者は、主をそのぞっとするほど恐ろしい顔つきにおいて見ます。しかし、主に献身的な者は主をその個人的な形で見ます。どちらにしても、すべての人が究極的には神を見るのです。

正直な者は、いつもあらゆるところにクリシュナを見ることができます。クリシュナは「私を理解しようとしなさい。私をいたるところに見るように努めなさい」とおっしゃいました。この方法を容易にするために、主は(サンスクリット引用)「私は水の味である」とおっしゃいました。喉が渇いてコップ一杯の水が必要なとき、私たちは自分の渇きを癒す水の力がクリシュナであることを知って、飲んで幸せに感じることができます。同様に、太陽や月の明りを見ると同時にクリシュナを見ることができます。(サンスクリット引用)「私は太陽であり月である。」さらに進んだ段階では、私たちはクリシュナをすべてのものの中の生命力として見ることができます。クリシュナはこれをバガヴァッド・ギーターの中に示していらっしゃいます。
(サンスクリット引用)
「私は地球のもともとの香りであり、炎の明りです。私はすべての生けるものの生命であり、すべての苦行者の苦行です。」(BG7.9)

すべてのものが存在のためにクリシュナに依存していることを知ると、私たちが主を見失う可能性はなくなります。バガヴァッド・ギーターにおいて、主は、「すべてのものは始まりと終わりと、また中間の状態でも主の中に住む」と示していらっしゃいます。
(サンスクリット引用)
「この世界のすべての物質的なものと霊的なものについて、私がその始まりであり終わりであると確かに知りなさい。おお、富を征服する者(アルジュナ)よ、私に優る真理はありません。真珠が糸に通っているように、すべては私に依っています。」(BG7.6.7)

クリシュナは簡単に見ることができますが、主に献身的な者だけが見ることができます。うらやましがる者、愚かな者、知性的でない者には、主はご自分をマーヤーのヴェールで覆い隠されます。
(サンスクリット引用)
「私は愚かな者と知性的でない者の前には決して顕現しません。彼らにとっては私は私の永遠の創造力(マーヤー)に覆われています。このように、騙された世界は、生まれることなく誤りのない存在である私を知ることがありません。」

知性的でない者からクリシュナを隠すこの永遠の創造力、すなわちヨガ・マーヤーは、愛によってかき消されます。これがブラーマ・サムヒターの意見です。
(サンスクリット引用)
「クリシュナへの愛を育んだ者は、心の中に一日24時間クリシュナを見ることができます。」

このようにクリシュナを見る者は、死に際して自分がどこに行くか知っているので、不安ではありません。クリシュナ意識という贈り物を受け取った者は、自分がこの物質世界に戻って別の体に入る必要はなく、クリシュナのところへ行くのだということを知っています。クリシュナのそれのような体、(サンスクリット引用)永遠性と知識と幸せに満ちた体を得なければ、クリシュナのところへ行くことはできません。人は自分自身が火にならなければ火に入って死なずにいることはできません。そして同様に人は霊的でない体を持って霊的な王国に入ることはできません。霊的な体では、ゴピーや牛飼いの少年たちのようにラーサの踊りでクリシュナと一緒に踊ることができます。これは普通の踊りではありません。至高の人格神と共に踊る永遠性の踊りです。クリシュナへの愛の中で清められた者がけが参加することができます。したがって人はこのクリシュナ意識の方法を安いものと受け取るべきではなく、主ご自身が苦しんでいる人類に賜った比類なき贈り物として受け取るべきです。単にこの方法に携わるだけで、本当は死の恐怖を中心に回っている人生のすべての不安と恐怖は軽減されます。
by ammolitering4 | 2008-12-15 15:38 | 「比類なき贈り物」


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