人気ブログランキング | 話題のタグを見る

比類なき贈り物 第7章 前半

第7章比類なき贈り物、クリシュナ意識での解脱

もし私たちが単に根源の人(アーディプルシャム)を崇拝すれば、私たちは誰かに誤って導かれる心配はありません。シュリマッド・バーガヴァタムのもともとの解説者であるシュリーダーラ・スヴァーミーは、人は単に献身奉仕(ケヴァラヤー・バークテャー)だけによって人生の完成に至ることができると解説していらっしゃいます。人は他のどんな方法に頼る必要もないのです。スカデヴァ・ゴスヴァーミーは、人は物質的な人生を一打で終わらせることができるとおっしゃいます。まず厳しい苦行や禁欲をしたり、性生活を避けたり、心と感覚を統御したり、施しをしたり、大きな犠牲を捧げたり、非常に誠実で清らかになったりする必要はありません。単に一打によって―――クリシュナ意識を受け入れることによって―――人は直ちに最高の位置に上ります。単にクリシュナ意識を習慣づけることによって、人はすべての超越的な資質を培います。金職人は小さな金づちを使って何度も金を打ちますが、鍛冶屋は大きな金づちを使って一打で仕事を終わります。これは鍛冶屋の方法なのです。私たちは、バークティ・ヨガという大きな金づちをとって、すべての物質的な人生を終わらせます。多くのより低い訓練を耐え忍ぶ必要はなく、他のどんな方法に従う必要もありません。実際には、他のヴェーダの方法に従って完成に至る可能性は全くないのです。例えば、ハサ・ヨガの方法には次のようなものがあります。「あなたは厳格なブラーマチャーリーになり、森の中で体を地面に対して正しい角度にして座り、指で鼻を6ヶ月押さえていなければなりません。」誰がそんな指示に従えるでしょうか。そのような方法は今の時代には現実的でないので、金職人の方法は捨てなくてはなりません。解決策は、鍛冶屋のクリシュナ意識の金づちをとって、すべての罪深い結果を一打で終わらせることです。

献身奉仕によって、人はヴァースデヴァ・パラーヤナ、主ヴァースデヴァすなわち主クリシュナの献身者にならなくてはなりません。言い換えると、私たちはどうやってヴァースデヴァの恋人になれるかを学ばねばなりません。もし世界がこのクリシュナ意識を身につけるなら、この惑星は必ず平和になります。今は地球は急速に地獄的な惑星になりつつあり、もしこのクリシュナ意識が根付かないなら、この地獄的な状況は教育や経済的な発展におけるすべての進歩にも関わらず悪化するでしょう。したがって、思慮深い者はこの運動を非常に真剣に受け止めて、その価値を理解しようとすべきです。それは一人の人間や弟子達の集団によって作り出された何かではありません。それは権威的で太古から続いており、何千年も前に遡るヴェーダ文献に基づいています。

ニーハーラム・ィヴァ・バースカラー。バースカラは太陽を指します。太陽は闇だけでなく霧や霞も直ちに散らします。前述のように、私たちは心の中にクリシュナの太陽が昇るように努めるべきです。チャイタンニャ・チャリタームリタにおいても、クリシュナは太陽のようであり、マーヤー、幻想エネルギーは闇であると述べられています。(サンスクリット引用)クリシュナの太陽が昇ると、直ちにマーヤーの闇は消え去ります。この方法を辿らなければ、マーヤー、闇の大海を乗り越えることはとても難しいのです。もし私たちが単にクリシュナ、神に服従することを教えれば、すべての幻想の霧と霞は消えます。方法はとても単純です。ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ、と唱えるのです。

唱えれば唱えるほど、多くの生の闇が散らされます。(サンスクリット引用)唱えることによって、人は心の鏡から埃を払うことができ、物事を大変はっきりと知覚できます。そして人は、自分は何か、神とは何か、この世界とは何か、この世界での私たちの神との関係は何か、この世界においてどのように住むか、そして私たちの来世は何かを知るようになります。そのような知識は、人がいかにして感覚の満足のために物を作ったり得たりできるかが教えられる学校では教えられません。物質自然を支配するための人間の試みに関わる厳しい苦しみが、常に続いています。しかし、人が作り出し得たすべての利便に対して、不便が伴っているのです。例えば、近年、何人かのエンジニアたちが危険なく非常に高速で飛べる飛行機をデザインしました。しかし、その飛行機が飛ぶとき、町中の窓が壊れます。私たちの時間は、このように、相応の不便と引き換えに一時的で人工的な利益を与える非常に多くの機器を作ることに無駄に費やされます。これはすべて、カルマの法、動きと反動の法の一部なのです。私たちがなすことの全てに対して、私たちがそれによって呪縛される反動が存在しなければなりません。それはバガヴァッド・ギーターに述べられています。
(サンスクリット引用)
「ヴィシュヌへの犠牲としてなされる仕事が行われなければなりません。さもないと、仕事は人をこの物質世界に呪縛します。したがって、おお、クンティーの息子よ、主の満足のために規定された義務を果たしなさい。そして、そうすることであなたはいつも執着せずにいることができ、呪縛から自由でいられます。」(BG3.9)
人が感覚の満足のために行動するとき、仕事は良い仕事であっても悪いものであっても、その人を呪縛します。しかし、もし人がクリシュナのために働くなら、(サンスクリット引用)その人は彼の仕事が可能性として望ましいものであってもそうでなくても自由になります。

スカデヴァ・ゴスヴァーミーは、混じりけのない献身奉仕をお薦めになるだけでなく、さらに献身奉仕によって人の罪深い行いが打ち消されるとおっしゃいます。私たちの一人一人は、大なり小なり罪深いのです。もし私たちが罪深くなければ、物質的な体に入れられることはなかったからです。人は罪深い人生から自由になると同時に解放されて、霊的な体で霊的な世界に移行されます。プロセス全体が人が自分自身を罪深い、すなわち物質的な人生の汚染から清めることなのです。

スカデヴァ・ゴスヴァーミーはおっしゃいました。「親愛なる王よ、罪深い者は、タパ・アーディブヒフ、苦行をなすことによって汚染から清められることができます。」スカデヴァは、しかし、この苦行の方法を実行することで完全に清められる者はいないともおっしゃいました。苦行をしたけれど完全には純粋にはならなかったヨギーの例がたくさんあります。たとえば、ヴィスヴァーミトラ・ムニはブラーマナになりたいと望んだクシャトリヤだったので、苦行を始めました。しかし後に彼は天上の惑星の売春婦であるメナカーの被害者になりました。ヴィスヴァーミトラは純粋ではなかったので、彼女と関わってしまって子供をもうけました。したがって、たとえ人が苦行と禁欲を行っても、俗世の状況はとても強力に人をそそのかすので、何らかのあり方でそれは人を繰り返し自然の物質的な相に関わらせるのです。「私はブラーマンに帰依する」と言い、世界を虚偽であるとして放棄するサンニャースィーの例は多くありますが、彼らは病院を建てたり博愛主義的な仕事や慈善の活動をしたりするときに再び世界の仕事に呪縛されます。もし世界が虚偽なら、なぜ彼らは慈善活動に惹きつけられるのでしょうか。クリシュナ意識の哲学は、この世界は虚偽ではなく一時的であると主張します。神がこの世界をお作りになり、神は真実です。それなら、なぜ神の創造が虚偽でありうるでしょうか。これは神の創造であり神は完全真理なので、この創造も同じく真理です。私たちは単に幻想によってそうでないように見るのです。世界は事実です。しかし、それは一時的な事実です。

人はこの世界の何かを自分の財産であると主張するかもしれません。しかし、それは誤った主張です。それが誰かの財産であるというのは事実ですが、しかしそれは神の財産です。(サンスクリット引用)しかし、これは財産が虚偽であるということを意味するのではありません。誤りであるのは、財産に対する所有権の主張です。それは個人が所有者、主人、あるいは神であるという、驕り高ぶった謝った意識に基づいているからです。すべての人が、何かの主人や所有者、それから大臣、それから大統領、それから神になりたいと望みます。他のすべてが失敗するとき、生命体は神になりたいと思うのです。すべての中で最も偉大なものになりたいという傾向はそこにありますが、神が最も偉大であり生命体は主に比べると小さいという事実は変わりません。最も小さいものは虚偽ではなく、最も偉大なものも虚偽ではありませんがm小さなものが自分は偉大だと考えるとき、それは誤りです。

私たちはヴェーダ文献から、ブラーマン、すなわち霊はアノル・アニーヤームサム、原子より小さく、かつマハト・マヒーヤームサム、最も大きなものより大きい、と理解します。私たちが近くできる限り、宇宙を含有する空間が最大のものです。しかし、クリシュナはご自分の口の中に無数の宇宙をお見せになりました。神の偉大さは、神の欠かすべからざる一部である生命体によっては理解され得ません。生命体として、私たちは大変小さく、無限小であり、神は無限大なのです。実に、個々の霊魂の大きさはとても微細なので、見ることができません。人は自分の物質的な感覚では創造することさえできません。したがって、霊魂は原子より小さいと言われます。(アノル・アニーヤームサム)

生命体とクリシュナ、至高主はどちらも霊なので、両者は質的には同一です。量的には、しかし、主は偉大で生命体は微小です。この事実はヴェーダの情報に基づいて直ちに受け入れることができます。ブラーマ・サムヒターには、(サンスクリット引用)神が息を吐くとき無数の宇宙が主の体から出てきて、それらは主が息を吸うとき再び消える、と述べられています。単に主の呼吸によって無数の宇宙が作られ、滅ぼされます。もしそうであれば、どうして生命体が何ものに対しても所有権を主張できるでしょうか。人の地位は、その人が神や所有者であるという虚偽の宣言をしない限りにおいて安泰です。神であると主張することはファッショナブルになり、愚かな者たちはそのような主張を受け入れます。しかしヴェーダ文献から私たちは神はそう安くないと理解するのです。

驕り高ぶった自己中心的な主張をしない限り、私たちはすでに解放されています。実際に解放を探し求める必要はないのです。しかし、「自分はこの体である」と考える限り、人は解放されません。解放とは、人の自己は体とは離れたものであることを完璧に知ることを意味します。したがって、スカデヴァ・ゴスヴァーミーはおっしゃいました。(サンスクリット引用)「あなたの知識を培いなさい。それは慰めをもたらします。」私たちの知識は、私たちは霊的な火花のとても小さな粒であって、神、至高存在は最も偉大な霊的な自我であり、私たちの必要なもののすべてを供給していると知るようになるときに完成します。(サンスクリット引用)私たち自身を小さな粒として、神の欠かすべからざる小片として知ることによって、私たちは私たちの義務が神に仕えることであるのを理解することができます。神はすべての創造の中心であり、宇宙全体の中心です。主は享楽者であり、私たちは主の従者です。この概念が明らかになると、私たちは解放されます。

解放はすべての誤った概念からの自由を必然的に伴います。解放されると十本の手が得られるというようなものではありません。シュリマッド・バーガヴァタムにおいて、解放はムクティル・ヒトヴァーニャサー・ルーパムと定義されています。ムクティは「放棄すること」を意味し、アニャサー・ルーパムは人生の誤った概念を指します。これは、人がすべての誤った概念を放棄して本来のあるべき立場に位置するとき人は解放されているということです。シュリマッド・バーガヴァタムには、知識を得ることによって人は直ちに解放されるとも書かれています。その知識は単純なので、とても簡単に得られます。神は大きく、私はとても小さい。主はすべての必要なものを供給する至高の所有者で、私は主の従者である。誰がこれに反論することができるでしょうか。それは事実なのです。私たちは単に、自分たちはあれである、これである、という誤った印象の下にあり、これが私たちを自分たちが神であるという至高の誤った印象に導きます。それなのに私たちは自分たちがどのような種類の神であるかを考えません。体の小さな不調で私たちは医者にかからねばなりません。至高存在であると主張する者は、したがって、マーヤーの最後の罠に陥ったのだと理解されるべきです。このように堕落した者は、解放されることさえできません。彼は誤った印象によって縛られているのです。

正しい知識を得たときだけ、人は本当に解放されることができます。解放の段階はブラーマ・ブーダーの段階とも呼ばれます。この段階に達した者は、バガヴァッド・ギーターにおいてクリシュナが次のように特徴づけていらっしゃいます。
(サンスクリット引用)
「このように超越的に位置する者は、直ちに至高のブラーマンを悟ります。その人は決して嘆かず、何かを得たいと望んだりしません。彼はすべての生命体に対して平等に好意を持ちます。そしてその状態で彼は私への純粋な献身奉仕を達成します。」(BG18.54)

悟りに続く喜びは、次のような理解から生じます。「私はとても長い間誤った考えによって幻惑されていた。何と愚かだったのだろう!私は自分が神だと思っていたが、今は神の永遠の従者だと理解できる。」そのような悟りを得ると、人は解放され、プラサンナートマー、すなわち喜びに溢れます。これが生命体の本来の立場だからです。

人が純粋な意識にあるとき、嘆きはありません。彼は自分が至高主に守られた小さな部分、霊的な火花だと知っているからです。それではどこに嘆きの余地があるでしょうか。小さな子供は、父親がそこにいると知っている限り自由に感じます。彼は「お父さんがそばに立っているから、僕は自由だ。誰も僕を傷つけることはできない」と考えます。同様に、人がクリシュナに服従するとき、彼はクリシュナが彼を守っているので危険はないという完全な信頼を持っています。このようにクリシュナに服従したものは、嘆きにも欲望にも無関係です。一方で、神意識でない者は単に欲望の対象を追い求め、嘆きます。彼は持っていないものを追い求め、持っていたけれど無くしたものを嘆きます。神意識の人はそのような悲惨さに左右されません。もし何かが無くなれば、彼はそれが神の意思であると知っています。そして「神がこれを望まれた。だからいいのである」と考えます。彼は何も欲しません。必要なものはすべてクリシュナ、至高の父が与えてくださっていることを知っているからです。

人が神と自分の関係を理解するとすぐ、彼は普遍的な兄弟愛に気づきます。彼はすべての人と動物―――実に、すべての命そのもの―――が、すべて至高の全体の部分であり、したがってすべてが平等であることを理解するからです。これを見ると、人は他の生命体をうらやましがったり搾取したり、侵害したりしません。このように、クリシュナの献身者である者は自動的にすべての良い資質を培います。彼は正しい意識にあるからです。(サンスクリット引用)

発達したクリシュナ意識を持つ者は、半神たちのすべての良い資質を現します。実に、(サンスクリット引用)ヴァイシュナヴァすなわちクリシュナの献身者は他者への慈悲の大海である、と述べられています。彼は社会へ最も偉大な贈り物を与えます。社会はクリシュナ意識を緊急に必要としているからです。ヴァイシュナヴァは、マハーマントラという値段の付けようのない貴重な贈り物を授けます。ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ。単にこのマントラを唱えることによって、人は解放された状態に留まることができます。
by ammolitering4 | 2008-12-15 15:37 | 「比類なき贈り物」


<< 比類なき贈り物 第7章 後半 比類なき贈り物 第6章 >>