比類なき贈り物 第4章 後半

人が体を去ると同時に、彼がその体と関連して集めた金銭的な資源やその他のすべては終わります。霊魂は別の体に転生し、人は前の体で稼いだお金がどこに蓄えられているか、あるいはそれがどのように使われるか、知らないからです。人は息子達や子孫たちがお金をどのように使うか指定してこの世を去るかもしれませんが、たとえ人が何百万ドルものお金を残しても、来世においてそのお金の所有権を主張することはできません。したがって、お金の所有権を持っている限り、それを良い目的に使うのが良いのです。もしも悪い目的のために使うなら、呪縛されます。しかし、もし良い目的のために使うなら、人は良い見返りを得ます。これはバガヴァッド・ギーターに非常に明白に述べられています。

バガヴァッド・ギーターは、三種類の慈善があると説明しています。徳相の慈善、熱情相の慈善、無明相の慈善です。徳の相にある人は、慈善がどこに向けられるべきか知っています。バガヴァッド・ギーターにおいて、クリシュナは次のようにおっしゃいます。
(サンスクリット引用)
「私は誰をもうらやまず、誰をもひいきしません。私はすべての者に平等です。しかし、私に愛情を持って奉仕をする者は私の友であり、私の中にあり、私もその人の友です。」(BG9.29)

クリシュナはお金を欲してはいません。クリシュナはすべてのものの根源的な所有者だからです。(サンスクリット引用)しかし、それでもクリシュナは慈善を求めます。例えば、クリシュナは小人のブラーマナ、ヴァーナマの姿になって、バリ・マハーラージャのところへ物乞いにいらっしゃいました。主は(サンスクリット引用)すべての惑星の所有者でいらっしゃるにも関わらず、「私に恵んでください」とおっしゃいました。なぜでしょうか。それは私たちのためなのです。私たちがクリシュナのお金をクリシュナに早く返せば返すほど、私たちは良い状態になるからです。もちろん、これはあまり聞いて楽しいことではないかもしれませんが、本当は私たちは皆泥棒なのです。私たちは神の財産を盗んだからです。もしも何かを持っている人が神を意識していないなら、それは彼が神の財産を盗んだのだと考えられます。それが物質的な人生の性質です。もしもこのことが思慮深く考慮されて人が本当の知識を得れば、その人は気づくでしょう。もし私たちがその財産を使っているところの神を理解しないなら、私たちが持っているものは何であれ盗品であることを。バガヴァッド・ギーターには、また、もし人が巨額のお金を稼いだのに所得税を払うのを避けるためにそれを隠そうとすると、政府はその人を犯罪者と見なします。彼は「私はこのお金を稼いだのだ。なぜ政府に税金を払うべきだろう」とは言えないのです。いいえ、彼は払わなければなりません。さもないと、懲罰の危険を冒さねばなりません。同様に、より高い視点では私たちの持っているもののすべてはクリシュナすなわち神のものであり、それは神の望みに添って使われなければなりません。私たちは建物を建てたいと望むかもしれませんが、建設に必要な石や木材や土はどこから得られるでしょうか。私たちは人工的に木材を作ることはできません。それは神の財産です。私たちは金属を作ることはできません。それは鉱山から採らねばならず、それもまた神の財産です。土や土からできたレンガもまた神のものです。私たちは単に労働力を提供するだけですが、その労働力も神の所有物です。私たちは自分の手で働きますが、それは私たちの手ではなく神のものです。手を使うための力が神によって引き戻されれば、手は何の役にも立たなくなるからです。

私たちはこの偉大な機会、人間の人生を、シュリマッド・バーガヴァタムやバガヴァッド・ギーターのようなヴェーダの知識の権威ある書物に書かれているこれらの全ての要点を理解するために使うべきです。バーガヴァタムにおいてスカデヴァ・ゴスヴァーミーは本当の償いには思慮深さと冷静さと瞑想が必要だと宣言なさいます。人は自分が体であるか、あるいは体を越えたものであるかを考えねばならず、神とは何であるかを知ろうとしなければなりません。これらの概念はクリシュナ意識において学ばれるべきものです。私たちは、浅はかであったり時間を無駄にしたりすべきではありません。もし人がこの知識を欲するなら、人は苦行、タパシャを実行しなければなりません。そして、すでに説明したように、タパシャの始まりはブラーマチャルヤ、性生活を避けること、あるいは制約することです。物質的な魅了の中心点は性行為です。人間の社会だけでなく、動物の社会においても同じです。スズメやハトは厳格な菜食主義者ですが、毎日三百回も性行為をします。そして菜食主義者でないライオンは一年に一回性行為をします。霊的な生活は菜食主義の問題ではなく、より高い知識の理解の問題なのです。高度な知識の水準に至ると、人は自然に菜食主義者になります。(サンスクリット引用)高い学識のある人は、学識のある学者、ブラーマナ、象、犬、牛を区別しません。彼はサマ・ダルスィーです。彼はそれらすべてを平等に見ることができるのです。これはどういうことでしょうか。彼は体を見ず、魂、霊的な火花(ブラーマン)を見ます。彼は考えます。「ここに犬がいるが、これもまた生命体だ。過去のカルマによって犬になってはいるけれど。そして、この学識のある学者もまた生命体だ。しかし彼は過去のカルマによって良い生まれを得たのだ。」この位置に来ると、人は体を見ず、霊的な火花を見ます。そしてある生命体と別の生命体の間の区別をしなくなります。

本当は、私たちは肉食主義者と菜食主義者の区別もしません。牛や子羊と同じように、草もまた命を持っているからです。しかし、原則はイソパニシャッドに与えられているヴェーダの指導であるべきです。
(サンスクリット引用)
「宇宙の中のすべての動くもの、および動かないものは主によって統御され、所有されている。したがって、人は自分の取り分として取り分けられている必要なものだけを受け入れ、他のものはそれが誰に属するかをよくわきまえて、決して受け入れてはならない。」(イソパニシャッド、マントラ1)

すべてのものは至高主の所有物なので、人は主によって自分のために割り当てられたものだけを楽しんでよく、他の者の所有物を触ってはなりません。ヴェーダ的な生活とすべてのヴェーダの聖典によると、人間は果物と野菜によって生きるべきです。人間の歯は、これらのものを非常にたやすく食べて消化することができるように作られているからです。生き物が他の生き物を食べて生きなければならないのは自然の法ですが、(サンスクリット引用)人は思慮分別を持たねばなりません。果物、花、野菜、米、穀物、および牛乳は、人間のために作られています。例えば牛乳は動物性食品、動物の血が変化したものですが、牛は子牛が必要とするよりも多くの乳を出します。牛乳は人間のためにあるからです。人は単に牛乳を取って、牛を生かすべきです。そしてこのように自然の法に従うことによって、人間は幸せになるのです。(サンスクリット引用)人は何であれ神がその人に割り当てなさったものを取って、こうして心地よく暮らすべきです。

私たちは、このクリシュナの科学を通して私たちの意識を高めねばなりません。慈善はすべての人の心の中にありますが、私たちはどのようにしたら最善に活用できるか知りません。私たちが使うエネルギーは、すべてクリシュナのためであるべきです。それはすべてクリシュナに属するからです。クリシュナのために使うことによって、人は失うということはありません。クリシュナはとても情け深いので、私たちが食べ物を捧げるとクリシュナはそれを受け入れ、しかし私たちが食べるためにすべてを残してくださいます。単にクリシュナに食べ物を捧げることによって、私たちは献身者になることができます。私たちは余分なお金は一文も使う必要はありません。より高い視点では、すべてのものはクリシュナに属しています。しかし、もし私たちがクリシュナにすべてを捧げれば、私たちは高められます。これは純粋な人生において進歩するための至高にして証明された方法です。
[PR]
by ammolitering4 | 2008-12-12 05:09 | 「比類なき贈り物」


<< 原典について 比類なき贈り物 第4章 前半 >>