バガヴァッド・ギーターには、平和のための方法が明確に与えられています。私たちはクリシュナが唯一の享楽者であることを理解しなければなりません。すべての活動の中心点がクリシュナであるクリシュナ意識の寺院では、この意識が育まれます。すべての料理はクリシュナのためになされます。人が自分のために作るのではありません。最後には私たちはプラサーダ(捧げられた食物)を食べますが、料理をするときは自分のためではなくクリシュナのために作るのだと思うべきです。寺院のメンバーが街頭に出るときは、自分のためではなく、人々にクリシュナの存在を気づかせるためにクリシュナ意識の書物を配りに行くのです。得られたお金は、すべてクリシュナのために、クリシュナのメッセージを様々な方法で広めるために使います。そのような生き方、すべてがクリシュナのためになされる生き方は、生命体のなかにクリシュナ意識の発達を促します。私たちの活動は同じであり続けるかもしれません。私たちは単に、自分が自分自身の満足のためではなくクリシュナのために活動しているということを理解しなければならないだけです。このようにして、私たちは本来の意識になって幸せになることができます。本来の意識を、すなわちクリシュナ意識を確立しない限り、人は多かれ少なかれ狂っていることは確かなのです。クリシュナ意識でない人は皆狂っていると考えられます。彼らは一時的ではかない水準に存在しているからです。生命体として私たちは永遠なので、一時的な活動は私たちの関心事ではありません。私たちは永遠なので、私たちの行いも永遠であるべきです。そしてその永遠の行いとは、愛を込めてクリシュナに奉仕することです。
クリシュナは至高の永遠存在であり、私たちは下位的な永遠存在です。クリシュナは至高の生命体であり、私たちは下位的な生命体です。指は体全体の欠かすべからざる一部であり、その永遠の機能は体に奉仕することです。本当に、それが正に指にとっての目的であり、もし指が体全体に奉仕できないなら、それは病気であるか、役に立ちません。同様に、欠かすべからざる一部として私たちはクリシュナに奉仕し、主に従属的でなければなりません。至高の父として主は私たちのすべての必要を満たしてくださるからです。そのようなクリシュナに従属した人生は普通(訳注、本来的で正しい)の人生であり、本当に解放された人生です。クリシュナを否定して主と全く関わらずに生きようとする人は、本当は罪深い人生を送っているのです。 スカデヴァ・ゴスヴァーミーとマハーラージャ・パリクスィットはこの議題について話し合い、マハーラージャ・パリクスィットはどうやったら制約された魂たちがその地獄的な暮らしから逃れられるかを知りたがりました。苦しんでいる人類を救うのは、ヴァイシュナヴァの自然な欲求です。一般に、他の人たちは人々が苦しんでいようがいまいが、気にかけません。しかし、ヴァイシュナヴァ、主の献身者たちは、どうしたら人々の堕落した状態を改善できるか、いつも考えています。キリスト教徒たちは、イエス・キリストは十字架に架けられることによって世界の人々のすべての罪深い行いを打ち消された、と信じています。主の献身者は、いつも他の者たちの苦しみを打ち消すにはどうしたらいいかと考えています。同様の献身者に、主チャイタンニャの仲間であったヴァースデヴァ・ダッタがいらっしゃいます。彼は主にこうおっしゃいました。「今こうしてあなたはこの世にいらっしゃいました。ですから、どうぞこの地上のすべての人々を解放し、ヴァイクンサ、霊的な世界にお連れください。そして、もしあなたが彼らはあまりにも罪深くて解放はできないとお考えであれば、どうぞ彼らの罪をすべて私に移してください。私が彼らの身代わりになって苦しみます。」これがヴァイシュナヴァの慈悲なのです。しかし、イエス・キリストやヴァースデヴァ・ダッタが私たちの罪のために契約を結んで、私たちは罪を犯し続けるべきだというわけではありません。それは最も憎むべき提案だからです。ヴァイシュナヴァ、すなわち献身者は、すべての人類のためにお苦しみになるかもしれませんが、人類や特定の献身者の弟子たちは、この便宜を乱用して罪を犯し続けるべきではありません。むしろ人は主イエス・キリストやヴァースデヴァ・ダッタが自分のために苦しんでくださったことを知って罪を犯すことを止めるべきです。 実際には、すべての人が自分自身の罪深い行いに責任があります。したがって、スカデヴァ・ゴスヴァーミーは次のようにお薦めになります。(サンスクリット引用)罪深い行いのすべての反応から自らを自由にするためには、人が体の中にいる限りは償いをすべきです。(サンスクリット引用)それぞれの人の罪深い行いに応じて、人は償いのプログラムを受け入れるべきです。前述のように、異なる罪深い行いによって異なる償いがあります。つまり、来世まで罪深い行いを持ち越して苦しまなくていいように、死の前に償いをすべきなのです。もし罪深い行いに対して何らかの償いがなされないならば、自然は私たちを許してくださいません。私たちは自分の罪の影響を来世において苦しまねばなりません。そのような物質的な活動への呪縛はカルマ・バンダーナーと呼ばれます。 (サンスクリット引用) 「ヴィシュヌへの犠牲としての仕事がなされねばなりません。さもないと仕事は人をこの物質世界に縛り付けます。ですから、おお、クンティの息子よ、主の満足のためにあなたの義務を遂行しなさい。それによってあなたはいつも執着することなく呪縛から自由でいられます。」(BG3.9) 人は食べるのを楽しむために動物を殺すかもしれませんが、その人はそのような行いによって縛られます。こうして来世にはその人は牛や山羊になり、牛や山羊は人になって彼を食べるのです。これがヴェーダに述べられていることであり、すべてのヴェーダの記述と同様、人は信じるのも信じないのも自由です。不幸にして、現在では人々は来世を信じないように教育されています。実に、人は「教育」を受ければ受けるほど神や神の法や来世や、罪深い行いや敬虔な行いを信じなくなるように見えます。このように現代の教育は単に人々を動物になるように準備しています。もし人間に自分が誰であるか、そして自分が体であるかどうかを教える教育が無ければ、人はロバより何ら優れたところのない存在であり続けます。ロバも他の動物たちも「自分はこの体だ」と思っているからです。このように、もし人が同じように考えるなら、その人は他の動物たちとどう違っているでしょうか。シュリマッド・バーガヴァタムには次のように述べられています。 (サンスクリット引用) 「三つの要素からなる体を自分自身として受け入れる者、妻と子供たちとの親密は身体的な関係を好む者、自分の国を崇拝に値すると考える者、そして聖なる巡礼の地の水を受け入れるけれどそこにいる聖人たちの知識を吸収しようとしない者は、幻想の中にいて、ロバより何ら優るところがないと考えられます。」(BG10.84.13) アーユルヴェーダによると、物質的な体は(サンスクリット引用)粘液、胆汁、および空気という三つの要素からなります。体の中には、食物を液体に変える複雑な機械があります。非常に多くの複雑な身体的なプロセスが起こっていますが、私たちはそれについて何を知っているでしょうか。私たちは「これは私の体です」と言いますが、私たちは体について何を知っているでしょうか。ある人々は「私は神です」と主張します。しかし、彼らは自分の体の中で何が起こっているかということさえ知りません。 体は糞と尿と血と骨の入った袋です。もし人が知性は糞と尿と血と骨から生じると信じるなら、その人は愚か者です。私たちは糞と尿と血と骨を混ぜることで知性を作り出すことができますか?それでも人々は「私はこの体だ」と考えます。したがって聖典は、この体を自分自身だとして受け入れ、妻や子や家族との身体的な関係を自分のものとして受け入れる人は誰でも惑わされているのだと言います。カラトラという語は妻を意味し、アーディは始まりを意味します。人は孤独だと感じるので妻を娶り、たちまち子供たちが生まれ、やがて孫たちが生まれます。このようにして拡張していきます。ストリーは「拡張するもの」を意味し、したがってカラトラーディスは「妻から始まる自己の拡張」を意味します。バーウマという語は人の生まれた土地を指します。無知な人々はそれを崇拝に値する(イジャディーフ)と考えます。人々は自分の生まれた土地のために命を捧げようとしますが、彼らは、土地や体、妻、子供たち、国家や社会は本当は自分とは全然関係がない、ということを知らないのです。私たちは霊魂です。(アハム・ブラーマースミ)これが知識の悟りであり、この知識の地点に至ると私たちは幸せになるのです。 (サンスクリット引用) 「超越的なところに位置する者は直ちに至高のブラーマンを悟る。彼は何ものをも嘆いたり欲したりしない。彼はすべての生命体に平等に好意を持ち、その状態で彼は私への純粋な献身奉仕を達成する。」(BG18.54)人は「私は霊魂である。私はブラーマンである。私はこの物体ではない」と理解すると、直ちに幸せ(スラサナートマー)になります。この喜びの兆候は、もはや何かを追い求めたり嘆いたりする気持ちがなくなることです。この世界では、すべての人が失ったものを嘆いたり得なければならないものを追い求めたりする傾向がありますが、本当の利益とは自分自身を理解して自分の本当の自己を知ることです。 私たちが人生の身体的な概念を維持する限り、私たちは国家その他のすべての法律に併せて物質自然の法律にも従わなければなりません。そのため、この体は制約されていると呼ばれます。それは様々な異なる制約に影響されるからです。様々に異なる制約が存在し、どんな制約に影響されていても私たちは責任があります。もし私たちがこの体にいる間に犯した罪深い行いの償いをしないなら、来世で苦しまねばなりません。私たちはカルマに従って別の体を得るからです。(サンスクリット引用)それが自然の法です。したがってスカデヴァ・ゴスヴァーミーは人が自分の罪深い行いの重さに相応した償いをすることをお薦めになります。人はサーストラに規定された償いの方法に従わねばなりません。そうでなないと救われません。 非常に知性的でいらしたマハーラージャ・パリクスィットは、「償いによって人は罪深い行いから自由になることができますが、例えばある人が殺人をして、それから殺されたとします―――彼の殺人の罪深い反応はこうして中和されますが、来世において彼がまた誰かを殺さないということは保証されません」とおっしゃいました。このように、マハーラージャ・パリクスィットは償いの後で人々が再び同じ罪を犯すということに気づかれました。もし人が病気になれば、医者が薬を当てて治すかもしれませんが、それはその人がまた同じ病気に冒されないということを保証するものではありません。性交による病気は、しばしば治療しても繰り返し生じます。そして、泥棒は何度も何度も盗むかもしれません。何度刑務所に放り込まれても。これはなぜでしょうか。したがってマハーラージャ・パリクスィットは、償いはすでに犯された罪深い行いを相殺するには良いかもしれないがそれらが再びなされるのを防ぐわけではないと気づかれました。誰もが殺人を犯した者は罰せられることを理解できますが、それを知っていても殺すことを思い留まらせるには十分ではありません。すべての聖典とすべての法律書において、人は殺さないように警告されています。それでも誰もこれらの法律を気にしません。これに対する治療法は何でしょうか。 (サンスクリット引用)実際的な経験、および権威から聞くことによって、誰もが罪深い行いとは何かを知っており、「私は罪とは何か知らない」と言える人はいません。もし人が償いの後で繰り返し同じ罪を犯すなら、償いに何の価値があるでしょう。(サンスクリット引用)(BG6.1.9)人は罰せられると、「私はなんという過ちを犯してしまったのだろう!私はもう二度とこの罪を犯さない」と考えます。しかし彼は危険が去るとすぐにまた同じ罪を犯します。 習慣は第二の本能です。それはとても壊しにくいのです。(サンスクリット引用)人は犬を王座に座らせることができるかもしれませんが、犬は靴を見るとすぐに飛び降りてそれに向かって走っていきます。犬だからです。犬としての性質がそこにあり、それは単に犬を王座につけるだけでは変わりません。同様に、私たちは物質自然の三つの相(サンスクリット引用)と関わることで物質的な性質を身につけました。そして私たちの習慣はこれらの三つの性質、すなわち徳、熱情、無明、と関わることで形成されました。しかし、もしも私たちが物質自然の三つの相との関わりを断ち切れば、私たちの本当の霊的な性質が呼び覚まされます。それがクリシュナ意識の過程です。もし人がクリシュナ意識であれば、その人が物質自然の三つの相と関わる可能性はなく、人がクリシュナを意識しているときは、その人の霊的な性質は自動的に呼び覚まされます。それが秘密です。クリシュナ意識の過程を真剣に辿る者は、たとえかつては様々な良くない習慣を持っていたとしても、単にクリシュナ意識を実行することの徳によって物質的な汚染のない水準に留まることができます。 このように、クリシュナ意識は非常に優れた薬です。人がクリシュナに目覚めない限り、物質自然の三つの相との関わりにおいて形成する習慣は続き、人はそれを変えることはできないでしょう。もし本当に生と死の繰り返しからの自由を望むなら、人はクリシュナ意識にならねばなりません。バガヴァッド・ギーターにおいて、主クリシュナは次のようにおっしゃいます。 (サンスクリット引用) 「完全な献身奉仕にいそしむ者、どのような状況でも堕落しない者は、ただちに物質自然の相を超越して、そうしてブラーマンの水準に至ります。」(BG14.26) クリシュナ意識のプロセスは、「あの償いやこの償いをしなさい」と勧めたりはしません。人は償いをして実験を続けることはできますが、魂の病は人が愛情をもって献身奉仕を捧げ、自分の人生を浄化する水準に至らない限り、そのまま変わりません。
by ammolitering4
| 2008-12-10 16:34
| 「比類なき贈り物」
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