比類なき贈り物 第3章 前半

第3章愛することを学ぶ

罪深い行いに汚染されたら、相応の償いが必要です。それが聖典の規定です。スカデヴァ・ゴスヴァーミーは、もし人が死ぬ前に償いをすれば来世で堕落しないで済むとおっしゃいます。もし償いをしないなら、その人は自分の罪深い行いの結果として生じる反応を引きずり、苦しまねばなりません。法によると、もし人が誰かを殺すなら、その人は殺されねばなりません。生には生を、という概念はあまり新しいものではなく、人類のためにヴェーダの法律書であるマヌ・サムヒターに見られます。そこには、「王が殺人者を絞首刑にすると、それは本当は殺人者にとって益となる。なぜなら、もし殺されないなら彼は自分の犯した殺人の反応を引きずり、多くの形で苦しまねばならないからである」と書かれています。

人々は知りませんが、自然の法則はとてもかすかで、とても熱心に執行されています。マヌ・サムヒターでは、生には生、という概念が承認されており、それは実際に世界中に見られます。同様に、人はたとえアリ一匹でもその責任を負わずに殺すことはできない、と述べた他の法律もあります。私たちには作り出すことができないので、私たちはいかなる生命体をも殺す権利を持ちません。したがって、人を殺すことと動物を殺すことの間に違いを設ける人工的な法律は不完全です。人間の作る法律には不完全さがありますが、神の法律には不備はありえません。神の法によると、動物を殺すことは人を殺すことと同じく懲罰に値します。二者の間に違いを設ける者は、自分たちの独自の法律を作り出しているのです。十戒においても、それは規定されています。「あなたがたは殺してはならない」、これは完璧な法ですが、人間は区別化と推量によってそれを歪めました。「私は人間は殺さないが、動物は殺す」。このようにして、人は自分自身を欺き、自分と他者の上に苦しみを課します。どちらにしても、しかし、神の法はそのような振るまいをお許しになりません。

異なる体や衣類をまとっていても、すべての者は神の創造物です。神は唯一の至高の父と考えられています。父にはたくさんの子供がいるかもしれず、そのうちのある者は知性的で、他の者はあまり知性的でないかもしれません。しかし、もしも知性的な子供が父に「私の兄弟はあまり知性的ではありません。殺していいですか?」と言えば、父は同意するでしょうか。単に、ある子供があまり知性的でなく、他の子供が重荷を避けるために彼を殺したいと望んでも、父は決して同意しません。同様に、もし神が至高の父であれば、なぜ神は同じくご自分の子供である動物たちを殺すことを承認なさるでしょうか。バガヴァッド・ギーターにおいて、神はアルジュナに840万種のすべての生命体はご自分の子供であると宣言なさいます。「そして私は彼らに命を与えた父である」と主はおっしゃいます。普通の物質的な生殖において父が種を蒔き母が胎児に必要な血液を供給することで体を育むように、同様に至高の父の欠かすべからざる小片である生命体は主によって物質自然の中に受胎させられたのです。

霊魂の大きさはとても小さく、聖典にはケサーグラ―――髪の毛の先端の千分の一だと書かれています。私たちには、とても小さな点がさらに千分の一に分けられているのを想像するのは容易ではありません。言い換えると、それはとても小さいので最も高性能の顕微鏡でさえ感知することができないのです。このように、霊的な火花の大きさはとても小さいので、通常の視力では見ることができません。これらすべての情報は聖典に示されていますが、私たちには相応の視力がないので見ることができません。私たちの物質的な目は魂の大きさを知覚することができませんが、魂はそれでも体の中にあり、そして体を去ると同時にその行いに応じた別の体を得ます。

人は常にこれらすべての活動の背後にはより高い管理体制があることを考慮すべきです。生命体は物質世界においてちょうど会社員が会社で働くように活動します。そして、その勤務成績が記録されているのです。生命体は上司の意見がどうであるかを知りませんが、それでも勤務成績の記録は会社に保存され、その活動に応じて昇進や給料の増額を与えられ、あるいは降格されたり、解雇されたりすることさえあります。同様い、私たちのすべての活動には目撃者がいます。したがって聖典には、生命体は上なる管理の下にあってそれぞれの行いに応じて賞罰を受ける、と書かれています。今、私たちは人間の体を持っていますが、来世ではもっていないかもしれません。何か別の、もっと良いものやもっと低いものを持っているかもしれません。どのような種類の体を持つかは、生命体の上司によって決定されます。一般に、生命体は霊魂がどのようにして一つの体からべつの体へと転生するかを知りません。

霊魂は一回の生の間でさえ体の変化に伴って転生します。体が最初に母親の子宮の中に現れたときは、それはとても小さくて豆粒のようですが、徐々に9つの穴ができてきます―――二つの目、二つの耳、二つの鼻腔、一つの口、一つの性器と一つの直腸です。このようにして体が育ち、それが母親の子宮の中で育つことが必要とされる間はそこに留まります。外に出て行くのに十分なだけ成長したら、出てきて育ちます。成長は体の変化を伴います。この変化は生命体には知覚できないので、理解することはできません。子供の頃には私たちは小さな体を持っていましたが、それはもはや存在しません。したがって、私たちは体を替えたということができます。同様に、物質的なものの性質により、私たちはこの体が使い物にならなくなったら取り替えねばなりません。すべての物質的なものは劣化し、壊れた機械や古い布切れのように、体はある一定の時間のあとは使いものにならなくなります。

この成長過程は常に生じていますが、現代の大学での教育システムは、高度であると考えられてはいますが、不幸にしてこのことを扱いません。本当は、霊的な知識なくして教育はないのです。人は、パンを稼ぐことと食べること、眠ることと性交することは、正式な教育を受けなくても学べます。動物たちは教育されていません―――彼らは技術者ではなく、大学の学位も持ちません―――しかし、彼らもまた食べており、眠っており、性交しており、身を守っています。もし教育システムがこれらのプロセスだけを教えるのであれば、それは教育と呼ばれるに値しません。本当の教育は私たちに自分が何であるかを理解することができるようにしてくれます。人が自己の真実を理解することによって意識を発達させない限り、その人のすべての行いは無明の相においてなされます。人間の人生は物質的な自然の法則に勝利するためにあります。本当は私たちは皆、自然の猛襲を相殺するためにその勝利を得ようとしています。究極の勝利は生老病死を克服することですが、私たちはこの大切な点を無視してきました。

もし神が供給してくださっているものを正しく使うことを教育システムが教えるなら、それは向上するでしょう。私たちの食べる果物と穀物のすべては、すべての生命体に食べ物を供給してくださる神によって与えられたものです。シュリマッド・バーガヴァタムには(サンスクリット引用)、「ある生命体は別の生命体の食べ物である」(バーガヴァタム1.13.47)と述べられています。腕のない動物は、私たちのような腕のある動物の食物です。脚のない動物は、4本の脚のある動物の食物です。草は生命体ですが、動くための脚がありません。そのため牛や他の動物に食べられるのです。そのような動かない生命体は動く動物の食物であり、このようにして世界は常に搾取する者とされる者の間の戦いにあります。弱い者は強い者によって搾取されます。これが自然の法則です。伝統的に、クリシュナの献身者、すなわちヴァイシュナヴァは肉を食べません。これは単に菜食主義であるためではなく、神意識の進歩のためです。神意識になるためには、人はいくつかの規則や規律を守らねばなりません。もちろん人は食べなければなりませんが、提案されているのは、人はクリシュナに捧げられた食物の残りを食べるべきだというものです。これはバガヴァッド・ギーターの哲学でもあります。そこではクリシュナは次のようにおっしゃいます。
(サンスクリット引用)
「もし人が私に愛と献身の念を持って葉か花か果物か水を捧げるなら、私はそれを受けいれる。」(BG9.26)

クリシュナがお腹をすかせていて私たちから食べ物を欲しているわけではありません。この捧げ物の目的は、愛情のあるやり取りをすることです。クリシュナはこのやり取りを欲していらっしゃるのです。「あなたが私を愛してくれれば、私はあなたを愛します」神として、クリシュナのエネルギーはすべてを作り出して維持しています。ではなぜ主が一枚の葉っぱや一つの果物や少しの水を乞うべきでしょうか。しかしクリシュナは、もし私たちが「クリシュナ、私はとても貧しいので、何も手に入れることができません。この果物と葉っぱだけ手に入れました。どうかお受け取りください」と言って愛情を込めて一つの果物や一枚の葉っぱや水を差し上げると、大変喜んでくださいます。そのような捧げ物は、クリシュナをとても嬉しくするのです。もし主が私たちの捧げたものを食べてくださるなら、私たちに人生は成功するでしょう。私たちは実際にクリシュナと友達になるからです。果物や花や水は、ほぼ世界中のどこでも、誰でも、貧しくてもお金持ちでも、手に入れて捧げることができます。私たちは、大切なのは菜食主義ではなく、神は何も必要としてはいらっしゃらないことを覚えているべきです。大切な点は、私たちは単にどうやってクリシュナを愛するかを学ばねばならないということです。

愛は与えることと受け取ることから始まります。私たちは恋人に何かを与え、恋人は私たちに何かをくれて、このようにして愛が育ちます。私たちが誰かと愛情のあるやりとりを作り出すときは、どんな愛のあり方にせよ、どんな男の子や女の子、男性や女性にせよ、私たちは与え、受け取ります。このように、クリシュナは私たちにどうやって与え受け取るかを教えて下さっているのです。クリシュナは私たちに乞い願っていらっしゃいます。「私を愛そうとしてください。どうやって私を愛するかを学んでください。私に何かを捧げてください。」「すみませんが、」と私たちは言うかもしれません。「私にはあなたに差し上げるものが何もないのです。」「そうですか?果物一つや一輪の花、一枚の葉っぱが手に入りませんか?」「ああ、そんなことはありません。それなら誰でも手に入れられます。」

つまり、これがクリシュナ意識の方法であり、それによって人はクリシュナと友達になることができるのです。私たちはクリシュナとどんな関係を結ぶこともできます。クリシュナの直接の召使になることもできるし、最高の水準では私たちはクリシュナの父や母や恋人になることもできます。クリシュナにはすべての生命体と愛情のある関係を結ぶ準備ができていらっしゃるのです。本当は、この関係は既にあります。主は至高の父であり、私たちは主の欠かすべからざる小片だからです。子は父の体の一部なので、両者の間の関係は壊され得ません。しばらくの間忘れられることはあるかもしれませんが、人が自分の父や息子を認識すると、ただちに愛情が育ちます。同様に、私たちは永遠にクリシュナと関係がありますが、現在ではこの関係は単に忘れられているか抑圧されているのです。結果として、私たちは自分たちはクリシュナとは関係がないと思っていますが、それは事実ではありません。私たちは、主が完全な存在であるために絶対に必要な存在、すなわち私たちは主の欠かすべからざる小片なので、私たちと主との関係は永遠です。その関係は単に回復されなければならないだけであり、その回復がクリシュナ意識の過程なのです。

現在は私たちは異なる意識の影響の下にあります。ある人は自分はインド人だと考えており、別の人はアメリカ人だと思い、また別の人は「私はあれだ」、「私はこれだ」と考えています。このようにして私たちはたくさんの人工的な自己認識を作り上げますが、私たちの本当に自己認識は「私はクリシュナのものだ」というものであるべきなのです。私たちがこのように考えるとき、私たちはクリシュナ意識で考えています。この方法によってのみ、すべての生命体の間の普遍的な愛が成り立ちます。クリシュナは永遠の父としてすべての人と関係があるので、結果として、クリシュナ意識の関係を作り上げると私たちはすべての人と親戚になるのです。人は結婚すると自動的に配偶者の家族と関係が生じます。同様に、もし私たちがクリシュナとの本来の関係を再び築けば、私たちは他のすべての人との本当の関係を築くことになるのです。それが本当の普遍的な愛のための基盤です。普遍的な愛は人工的であり、私たちが中心なるものとの関係を作らない限り長持ちしません。人はアメリカに生まれればアメリカ人であり、こうして他のアメリカ人は家族の構成員になります。しかし、もしその人が他のところで生まれれば、アメリカ人とは何の関係もありません。世俗的な水準では、すべての関係は相対的です。しかし私たちのクリシュナとの関係は永遠であり、時間や状況に影響されません。私たちがクリシュナとの関係を再び作り上げるとき、普遍的な兄弟愛、正義、平和、そして繁栄の問題は解決されます。これらの高尚な概念をクリシュナ無くして実現できる可能性はありません。もし中心点が欠けていれば、どうやって兄弟愛と平和があり得るでしょうか。
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by ammolitering4 | 2008-12-10 16:33 | 「比類なき贈り物」


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