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比類なき贈り物 第2章-後半

それほど一生懸命に働くことに何かの意義があったにしても、そのような人々はそれが何であるか知りません。彼らが知っているのは、性的な衝動と、この衝動を満足させる売春宿だけです。しかしプラーラーダ・マハーラージャはこのような人々への同情を持っています。(サンスクリット引用)「我が主よ、私は自分だけの救いは要りません。これらのすべての愚か者たちを一緒に連れて行けないなら、私は行きません。」こうして、彼はすべての堕落した魂たちを連れないで神の王国へ行くことを拒否しました。これがヴァイシュナヴァです。(サンスクリット引用)「私はただ彼らにどうやってあなたに服従するかを教えたいのです。それだけです。それが私の目的地です。」

服従することは、このように強調されています。ヴァイシュナヴァは服従すればたちどころに道が開けることを知っているからです。
(サンスクリット引用)
「何とかしてすべての人々をクリシュナの前にひれ伏させてください。」これはとても単純な方法です。単にクリシュナの前に信頼をもってひれ伏し、次のように言うだけで良いのです。「我が主クリシュナよ。私はあなたのことをとても長い間、いくつもの生の間、忘れていました。私は今あなたに気づきました。どうか私を受け入れてください。」それだけです。もし人が単にこの方法を学んで誠実に主に服従すれば、その人の道はたちまち開けます。これが本物のヴァイシュナヴァの目的です。

ヴァイシュナヴァはいつもどうしたら堕落して制約された魂たちが解放されるかと考え、そのための計画を立て続けます。主チャイタンニャ・マハープラブの主要な弟子であったゴゥヴァーミーたちは、そのようなヴァイシュナヴァだったので、シュリーニヴァーサ・アーチャルヤは彼らのことを次のように描写しました。
(サンスクリット引用)
「6人のゴスヴァーミーたち(名前を列挙)は、すべての人類の利益のために永遠なる宗教的な原則を築くことを目的として、すべての明かされた聖典を詳細に研究することに極めて秀でていらっしゃいます。彼らはいつもゴピーたちの雰囲気に浸っており、ラーダとクリシュナのために愛情あふれる献身的な奉仕をしておいでです。」

同様のヴァイシュナヴァ的な同情をもって、パリクスィット・マハーラージャはスカデヴァ・ゴスヴァーミーに次のようにおっしゃいました。「あなた様は今、異なる種類の地獄的な人生を描写なさいました。今度はどうやったら苦しんでいる人々が解放されるかを教えてください。どうかそれを説明してください。」(サンスクリット引用)ナラーという言葉は、人間、あるいは堕落した者を意味します。(サンスクリット引用)「彼らはどうしたら甚だしい惨めさや恐ろしい痛みから逃れられるでしょうか?」それが典型的なヴァイシュナヴァの心です。マハーラージャ・パリクスィットはまた、このようにもおっしゃいました。「どういうわけか、彼らは地獄的な人生に落ちてしまいましたが、だからといって彼らがそのような状況にい続けなければならないわけではありません。彼らが解放される方法があるはずです。だからどうかその方法を私に説明してください。」

スカデヴァ・ゴスヴァーミーは答えました。
(サンスクリット引用)
「はい、私は既に厳しく痛みの多い人生を特徴とする様々な地獄的な状況を描写しました。要点は、人はそのような人生を相殺しなければならないということです。」(バーガヴァタム6.1.7)

それはどのようにして可能でしょうか。罪深い行いは、様々な方法でなされます。その一つは心によってです。もし人が何らかの罪深い行いをすることを考えて計画を立てるとすれば―――「私はあの人を殺そう」―――それも罪深いことであると見なされるのです。心が考え、感じ、意思を持てば、行いがそれに続きます。合衆国のある場所では、飼い犬が道行く人に吠えれば飼い主が法律で罪に問われます。犬はただ吠えているだけであっても、飼い主はその責任を問われるのです。犬は動物なので、責任はありません。しかし犬の飼い主が犬を自分の最良の友としたので、飼い主は法的に責任があるのです。同様に、犬が吠えることが不法であると考えられるように、攻撃的な言葉もまた罪深いと考えられます。それはちょうど犬が吠えるようなものだからです。要点は、罪深い行いは様々な方法で為され得るということです―――それを考えたり、罪深く話したり、実際に罪を犯したり。どの場合でも、それらはすべて罪深い行いだと考えられます。(サンスクリット引用)人はそのような行いに対する罰にくるしまねばならないのです。

人は面倒なことと罰を避けたいので、来世を信じません。しかし来世は避けられません。法律に順じた行いをしなければ罰せられるというのは、よく知られた事実です。もし人が罪を犯せば、国家がその人を罰します。しかし、時として犯罪者は国家による罰を逃れます。しかし、神の法律にあってはそれはありえません。人は他者を騙し、盗んで隠れ、国家の罰を逃れることができます。しかし人はより高い法律、自然の法律から逃れることはできません。とても多くの目撃者がいるので、とても難しいのです。日の光が目撃者であり、月の光が目撃者であり、クリシュナが至上の目撃者です。したがって、人は「私はこういう罪を犯しているが、誰も見ていない」とはいえないのです。クリシュナは心臓に鎮座していらっしゃる至高の目撃者であり、人が考えたりしたりしていることをすべて書き留めていらっしゃるだけでなく、生命体にそのための設備をくださいます。もし人が感覚を満足させるために何かしたいと望むなら、クリシュナはすべての設備をくださいます。(サンスクリット引用)「私から記憶と知識と忘却が来ます。」

このようにしてクリシュナは私たちに機会を下さいます。もし私たちがクリシュナを望めば、クリシュナは私たちにご自分を手にする機会を下さいます。そして、もし私たちがクリシュナを望まないなら、クリシュナは私たちにご自分を忘れる機会を下さいます。もし私たちがクリシュナを忘れて、神を忘れて人生を楽しみたいなら、クリシュナは私たちにクリシュナを忘れるためのすべての設備を下さいます。しかし、もし私たちがクリシュナ意識で人生を楽しみたいなら、クリシュナは私たちに進歩する機会を下さいます。それは私たち次第なのです。もし私たちがクリシュナ意識無しで幸せになれると思うなら、クリシュナはそれに反対なさいません。(サンスクリット引用)アルジュナに助言した後、主は単に次のようにおっしゃいました。「今、私はあなたにすべてを説明しました。あなたは何であれ好きなようにすることができます。」アルジュナは直ちに答えました。(サンスクリット引用)「今、私はあなたの命令を遂行します。」それがクリシュナ意識です。

神は私たちの微細な独立性に干渉なさいません。もし私たちが神の命令に従って行動したいなら、主は助けてくださいます。時として堕落したにしても、もし人が誠実になって「これからはクリシュナ意識であり続けて主の命令を遂行しよう」と思うなら、クリシュナはその人を助けてくださいます。あらゆる点で、たとえ人が堕落しても、許されて更なる知性を与えられるのです。この知性は「これはするな。さあ、あなたの義務を果たしなさい」と言います。しかしもし人がクリシュナを忘れたいと望み、クリシュナ無しで幸せになりたいなら、主はいくら生を重ねてもずっとクリシュナを忘れていられるように非常に多くの機会を下さいます。

パリクスィット・マハーラージャはおっしゃいました。「もし私が「神はいない」と言えば神はいないとか、私が自分のすることに責任がないとかいうものではありません。」無神論者たちは、自分たちの罪深い行いのために神を否定します。もし彼らが神は存在すると考えれば、彼らは罰のことを思ってガタガタと震えるでしょう。したがって彼らは主の存在を否定するのです。ウサギは大きな動物に襲われると目をつぶって「私は殺されない」と考えます。しかし彼らはどっちにしても殺されます。同様に、私たちは神と主の法律の存在を否定するかもしれませんが、それでも神と主の法律は存在します。最高裁判所では、人は「私は政府の法律など気にしない」と言うかもしれません。しかし彼は政府の法律を受け入れることを強いられるのです。もし人が国家の法律を否定するなら、その人は刑務所に入れられて適正に罰せされます。同様に人は愚かにも様々な方法で(「神はいない」、「私が神である」など)神の存在をけなすかもしれませんが、究極的には人は自分のすべての行いに、良きにしろ悪しきにしろ、責任があるのです。

カルマの法則、すなわち行いを律する法則によれば、もし正しく振るまい、徳のある行いをすれば、私たちは幸運を与えられます。そして罪深い行いをすれば苦しまねばなりません。そのため、スカデヴァ・ゴスヴァーミーは次のようにおっしゃいました。
(サンスクリット引用)
人は自分は責任があることを知るべきであり、自分の罪の重さによって、サーストラ、すなわち聖典に描写された何らかの種類の償いを受け入れるべきです。」

人が病気になると医者にかかるように、ヴェーダ的な生活のあり方によると、罪深い行いに対する処方された償いのために訪れるべきブラーマナたちがいます。もし人が罪を犯してそれを苦行によって相殺すれば、それは償いです。キリスト教徒の聖書にこの例があります。スカデヴァは、人は自分の罪深い行いの重さに従って処方された償いを実行しなければならない、とおっしゃいます。医者は病気の程度によって高価な薬や安価な薬を処方します。頭痛には単にアスピリンを処方するだけかもしれませんが、もし何か重い病気があれば、何千ドルもする外科手術が必要だと言うかもしれません。同様に、罪深い行いは病であり、健康になるためには人は処方された治療法に従うべきなのです。

生と死の連綿たる鎖を受け入れることで、魂は病的な状態を受け入れます。魂は純粋な霊なので、生まれたり死んだり病気になったりすることはないのです。バガヴァッド・ギーターにおいて、クリシュナは魂には生はなく(ナ・ジャーヤテ)死も無い(ムリヤテ)とおっしゃいます。
(サンスクリット引用)
「魂には生も死もありません。いったん存在すると、決して存在しなくなることもありません。魂は生まれず、永遠で、常に存在し、死なず、太古の存在です。体が新でも死ぬことはありません。」(BG2.20)

近代の文明は、死の後に何が起こるかを人々に教えるための教育システムを緊急に必要としています。実際には現行の教育システムは極めて不完全です。死の後に何が起こるか知らない限り、人は動物のように死ぬからです。動物は自分が死ぬということや別の体を受け入れなければならないことなどを知りません。しかし、人間の人生はもっと高度であるべきなのです。人は単に動物的な、食べること、眠ること、身を守ること、性交することだけに興味を持っているべきではありません。生命体は、豊富な食べ物と眠るための多くの素晴らしい建物と、性生活のための良いあつらえと身を守るための優れた防御方法を持っているかもしれませんが、それはその生命体が人間であることを意味するわけではありません。これらの活動に基づいた文明は動物的であるとして知られるべきです。動物もまたこれらの機能に興味があるので、もし人間がその先まで行かなければ、人間の生活と動物の生活の違いは何でしょうか。

その違いは、人間が真理を知りたがるようになって次のような問いかけをするときに生じます。「なぜ私はこのような惨めな状態に入れられたのだろうか?何か救済の方法はあるだろうか?終わることの無い永遠の生命はあるだろうか?私は死にたくもないし、苦しみたくもない。私はとても幸せに平和に暮らしたい。その機会はあるだろうか?それを得るための方法は科学は何だろうか?」このような問いが問われ、それに答えるための手段が取られるとき、私たちの人間の文明が結果として生じます。もしこのような問いが浮上しないなら、その文明は動物的であるとして知られるべきです。動物と動物的な人間たちは、単に食べること、眠ること、性交すること、および身を守ることというプロセスを続けることにだけ興味がありますが、実際にはこのプロセスは必然的に崩壊を強いられます。事実は、誰も冷酷な死の手から身を守ることができないので、本当の防御はありえないのです。例えば、永遠に生きたいと願ったヒラニャカスィプは、厳しい苦行を行いましたが、最後にライオン人間ヌリスィムハデヴァの姿をした主ご自身によって裏をかかれました。主はヒラニャカスィプをご自分の爪で殺められました。今、いわゆる科学者たちは、いつの日か未来において科学的な方法で死を止めることができるようになると主張しています。しかし、これは単にもう一つの狂った発言に過ぎません。死を止めることは全く不可能なのです。私たちは科学的な知識において偉大な進展を見るかもしれませんが、生、死、老、病という四重の悲惨さに対する科学的な解決策はありません。

知性ある者は、これらの4つの主要な問題―――生、死、老、病を解決するために意欲を持つべきです。誰も死にたくありませんが、治療法はありません。誰もが死なねばなりません。急激な人口増加を止めるために避妊法を使って皆が懸命ですが、それでも出生は続いています。死を止めることはできず、出生を止めることもできません。医学におけるあらゆる最新の発明にも関わらず、病気や老化を止めることもできません。

人は自分は人生のすべての問題を解決したと思うかもしれませんが、これらの4つの問題、生、死、老、病の解決策はどこにあるのでしょうか。その解決策がクリシュナ意識です。私たち一人一人はいつの瞬間も自分の体を放棄しており、この体を放棄する最後の局面は死と呼ばれます。しかしクリシュナは次のようにもおっしゃいます。
(サンスクリット引用)
「私の姿と活動に超越的な性質を知る者は、体を去った後でこの物質世界で再び生を受けることなく、私の永遠の住処に至るのです、おお、アルジュナよ。」(BG4.9)

そのような人はどうなるのでしょうか?マーム・エティ―――その人はクリシュナの元に帰ります。クリシュナのところに行こうと思うなら、私たちは霊的な体を準備しなければなりません。その準備がクリシュナ意識のプロセスなのです。もし人がクリシュナ意識であり続けるなら、その人は徐々に次の体を、霊的な体を準備します。それはその人を直ちにクリシュナロカ、クリシュナのお住まいに運び、その人はそこに永遠に幸福に住んで幸せになれるのです。
by ammolitering4 | 2008-12-02 15:41 | 「比類なき贈り物」 | Comments(0)
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