完璧な問い、完璧な答え 第6章ー2

Ss以前、弟子たちの罪深い行いが原因で具合が悪くなったり痛みを感じたりすることが時々あるとおっしゃいました。病気はそれが原因であることもあるのですか?それによって引き起こされるのですか?
SPクリシュナは次のようにおっしゃいました。(サンスクリット引用)「私はすべての罪深い行いの結果からあなたを救う。恐れるな」クリシュナはとても力強いので、人々のすべての罪をただちに被ることができ、ただちにそれらを正すことができます。しかし生命体がクリシュナの代わりにその役を果たすときは、その生命体も自身の弟子たちの罪深い行いの責任を取ります。したがって、グルになるのは簡単な課題ではないのです。分かりますか?グルはすべての毒を飲み、それを吸収しなければならないのです。だから時々グルは―――グルはクリシュナではないので―――ときどき問題が生じます。したがってチャイタンニャ・マハープラブは「多くのスィシャ、弟子を取ってはいけない」と禁じられました。しかし伝道のために私たちは多くの弟子を受け入れなければなりません―――伝道を広めるために―――たとえ苦しんでも。それは事実です。霊的指導者は、その弟子のすべての罪深い行いの責任を取らねばなりません。したがって、すべての罪を消化吸収することができない限り、多くの弟子を取るのは危険をはらんだ仕事なのです。(サンスクリット引用)「私は主のすべてのヴァイシュナヴァ献身者に尊敬の念を込めて服従します。彼らはちょうど皆の望みを叶えることのできる望みの木のようなものです。彼らは堕落して制約された魂への同情に満ちています。」霊的指導者はすべての堕落した魂の責任を取ります。この考えかたは聖書にも見られます。イエス・キリストは人々のすべての罪深い行いの結果を引き受けて自分の生命を犠牲にしました。それが霊的指導者の責任です。クリシュナはクリシュナであるので、彼はアパーパ・ヴィッダ、罪深い行いの結果によって痛めつけられることはありません。しかし生命体はとても小さいので、時としてそれらの影響にさらされます。大きな火と小さな火の違いです。もしも小さな火に何かおおきな物をくべると、火そのものが消えてしまうかもしれません。しかし大きな火には何をくべても構いません。大きな火はすべてを焼き尽くすことができるのです。
Bキリストの苦しみはそのような性格のものだったのですか?
SPふむ?
Bキリストの苦しみは―――
SPそれは既に説明しました。彼はすべての人の罪深い行いの結果を引き受けたのです。だから苦しみました。
B分かりました。
SPキリストは―――それは聖書に書いてありますが―――人々のすべての罪深い行いの結果を引き受けて自分の生命を犠牲にしたと言いました。しかし、これらのキリスト教徒たちは、自分たちが好きなだけ愚かな行いをする一方でキリストに苦しませるというのを決まりにしてしまいました。(ボブ、短く笑う)なんという愚か者たちでしょう!彼らは自分たちが好きなだけ愚かな行いを続けられるように、キリストにすべての罪を被せることを取り決めたのです。それが彼らの宗教です。キリストはとても偉大な方だったので、彼らのすべての罪を引き受けて苦しみました。しかし、そのことが彼らに自らのこうしたあらゆる罪を止めようと思わせることはありません。彼らはそれに気づいていないのです。彼らはこれをとても軽く受け止めました。「主イエス・キリストに苦しんでもらって、私たちは好きなだけ愚かな行いを続けよう」そうではありませんか?
Bその通りです。
SP彼らは恥を知るべきです。「主イエス・キリストは私たちのために苦しまれた。しかし私たちは罪深い行いを続けている」キリストはすべての人におっしゃいました。「あなたがたは殺してはならない」しかし彼らは殺すことを続けています。「主イエス・キリストは許してくださり、すべての罪深い行いの結果を被ってくださる」と考えているのです。これが続いています。私たちはとても注意深くあるべきです。「私の罪深い行いのために私の霊的指導者が苦しまれる。だから私はほんのわずかでも罪を犯さないようにしよう」それが弟子の義務です。洗礼の後は、すべての罪深い行いの結果は終了します。それから彼が再び罪を犯せば、霊的指導者が苦しまねばなりません。弟子は同情的にこれを考慮すべきです。「私の罪深い行いのために私の霊的指導者が苦しまれる」もし霊的指導者が何かの病気に侵されるなら、それは他者の罪深い行いのためです。「多くの弟子をとってはいけない。」しかし私たちは伝道しているので、それをするのです。気にするな―――苦しもうではないか―――それでも私たちは彼らを受け入れます。したがってあなたの問いは―――私が苦しむとき、それは私の過去の過ちによるのか、そうでないのか?幾人かの愚かな弟子を受け入れたこと―――それは私の過ちです。それが私の過ちなのです。
Bこういうことはときどき起こりますか?
SPはい。私たちは多数の人々を受け入れているので、必然的に起こります。注意深くあることは弟子の義務です。「私の霊的指導者が私を救ってくださった。私は彼を再び苦しみに陥れるべきではない」霊的指導者が苦しんでいるときは、クリシュナが救ってくださいます。クリシュナは「おお、彼は堕落した人々を救うためにこんなに多くの責任を引き受けた」とお考えになります。クリシュナはそこにいらっしゃるのです。(サンスクリット引用)「おお、クンティの息子よ、私の献身者は決して滅びることがないと、高らかに宣言しなさい」霊的指導者はクリシュナの代わりに危険を負っているからです。
Bあなたの苦しみは(非献身者の)痛みとは同じ種類のではないと。。。
SP違います。カルマによるものではないのです。痛みはときどきはありますが、それによって弟子たちが「私たちの罪深い行いによって私たちの霊的指導者が苦しんでいる」と分かるように存在するのです。
Bあなたは今はとてもお元気でいらっしゃるようにお見受けします。
SP私はいつも元気です、、、たとえ苦しみがあってもクリシュナが守って下さると知っているという意味において。しかし、この苦しみは私自身の罪深い行いによるものではありません。
Bしかし、例えば私が―――住んでいる町で水に病原菌が入っていることがあるから沸騰した水を飲んでいるとします。では、もし私が病気にならないくらい清らかであれば、なぜ沸騰した水を飲んだほうがいいのでしょうか。どんな水を飲んだって平気なはずです。そして、もし私が正しい行いをしていないなら、どっちにしても病気になるでしょう。
SP物質的な世界にいる限り、物質的な法則を無視することはできません。例えば、ジャングルに行って、そこにトラがいるとしましょう。トラが人を襲うことは分かっていますが、それならなぜあなたは自発的に行って襲われるべきでしょうか。献身者は物理的な体を持っている限り物理的な危険を冒すべきではないのです。それ(献身者であること)は物理的な法則への挑戦ではありません。「私は献身者になった。何にでも挑戦しよう」それは愚かさです。(サンスクリット引用)献身者は生活に必要なものを執着することなく受け入れるべきであると助言されています。彼は沸騰した水を飲みますが、もし沸騰した水がなかったら普通の水を飲みます。私たちはクリシュナのプラサーダ(お供えのお下がり)を食べますが、巡行中は、時々はホテルで食事をすることもあります。献身者だからと言って「私はホテルの食べ物は食べない。飢えていよう」と考えるべきでしょうか。もし飢えれば、私は弱くなって伝道することができません。
B献身者は自分の独自性をいくらか失うということは―――
SPいいえ。彼はクリシュナを喜ばせるための完全な独自性を持っています。クリシュナは「私に服従しなさい」と言います。だから献身者は自分の意思で服従します。彼が自分の独自性を失ったわけではないのです。彼は自分の独自性を保ちます。アルジュナのようなものです―――彼は初めは戦うことを拒否していました。自分の独自性のためです。しかし彼はクリシュナを霊的指導者として受け入れたときにスィシャ(弟子)になりました。それからはクリシュナが命令したことにはすべて「はい」と言いました。それは彼が自分の独自性を失ったという意味ではありません。彼は自分の意思で受け入れたのです。「何であれ、クリシュナの言うことを私はしよう」私のすべての弟子のようなものです―――彼らはそれぞれの独自性を失ってはいませんが、独自性を引き渡しました。それを要求されるのです。たとえば、ある人が性器を使わないとしましょう。それは彼が性的不能になったことを意味するのではありません。そうしたいなら千回でも性行為をすることができます。しかし彼は自分の意思でそれを避けました。(サンスクリット引用)彼はより高い嗜好を持っているのです。時々私たちは断食します。しかしそれは私たちが病気だというわけではありません。私たちは自分の意思で断食するのです。私が空腹でないとか、食べることができないとかいうことを意味するのではありません。しかし私たちは自分の意思で断食します。
B服従する献身者はそれぞれの独自の嗜好を維持しますか?
SP完全に維持します。
B異なる物事への嗜好をですか?
SPふむ?
B彼は独自の好みや嫌悪を維持しますか?
SPそうです。彼はすべてを維持します。しかし彼はクリシュナのほうを好むのです。たとえば私がここにあるこれを好きだとして、クリシュナが「いいえ、それを使ってはいけません」と言ったとしましょう。そうしたら私はそれを使わないのです。クリシュナのためにそうするのです。(サンスクリット引用)クリシュナははっきりと「私はこれらのものが好きだ」とおっしゃいます。私たちはクリシュナにお好きなものを差し出さねばなりません。そして私たちはプラサーダを頂くのです。クリシュナはラーダーラーニーがお好きです。したがってすべてのゴピーたちはクリシュナのほうにラーダーラーニーを押し出そうとします。「クリシュナはこのゴピーがお好きです。いいでしょう、彼女を押し出しましょう」それがクリシュナ意識です。クリシュナの感覚を満足させることであって、私の感覚の満足ではありません。それがバクティなのです。それはプレマ、クリシュナへの愛と呼ばれます。「ああ、クリシュナはこれがお好きだ。私はクリシュナにこれを差し上げなければならない。」
Bここにいくらかのプラサーダ(クリシュナに捧げられた食べ物)があります。それが捧げられて、それから私たちが頂いて食べて、そして別のプラサーダが出されます。好きなものもあるのですが、中には私の口には全く合わないものもあります。
SPそういうことはすべきではありません。完成とは、クリシュナに捧げられたものは何であれ受け入れるということです。それが完成です。あなたは「これは好きだ、これは好きではない」と言うべきではありません。そのような好き嫌いをする限り、あなたはプラサーダのありがたさを理解していないということになります。
献身者好き嫌いのことを話している人がいたらどうですか?たとえば誰かがプラサーダを準備しているとして―――
SP嫌いも無し、好きも無し。クリシュナがお好きなものは何であれ、それは良いのです。
献身者はい、そうですが、例えば誰かが何か、プラサーダなどを作っているとして、でもあまりうまく作らなくてそれが―――
SPいいえ、もし献愛の念を持って誠実に作れば、クリシュナはそれがお好きなのです。ヴィドゥのようなものです。ヴィドゥはクリシュナにバナナを食べさせていましたが、彼はあまりにも考えに没頭していたので、バナナの中身を捨ててクリシュナに皮を差し上げていました。そしてクリシュナはそれを食べていたのです。(皆、笑う)クリシュナは彼が献愛と共に捧げていたことを知っていました。そしてクリシュナは献愛がある限り何でも食べることができるのです。それが物質的においしいかそうでないかは関係ないのです。同様に、献身者もクリシュナのプラサーダを頂きます。物質的においしかろうが、そうでなかろうが。私たちはすべてを受け入れるべきなのです。
献身者しかし、もし献愛の念がなければ、インドでのように、、、
SPおお、またインド、インドと言う。インドの話をしてはいけません。哲学の話をしなさい。献愛の念がなければクリシュナは何もお受け取りになりません。インドだろうとあなたの国だろうと。主クリシュナはとてもおいしいからと言って何か値段の高い物をありがたく受け取るわけではありません。クリシュナはヴァイクンサにおいしい食べ物をたくさんお持ちです。クリシュナはあなたの食べ物を欲しがっていらっしゃいません。主はあなたの献愛を、バクティをお受け取りになるのです。本当のものは献愛です。食べ物ではありません。クリシュナはこの物質世界のいかなる食べ物もお受け取りになりません。主は献愛だけをお受け取りになるのです。(サンスクリット引用)「もし人が私に愛情と奉仕の念を持って葉か花か実か水を捧げれば、私はそれを受け取る」「それは私に愛情と奉仕の念を持って捧げられたから」―――それが必要とされるのです。だから私たちは献身者でない者には料理をすることを許しません。クリシュナは非献身者の手からは何物も受け取られません。なぜ主がそれをお受け取りになるべきでしょうか。主は空腹ではあられません。いかなる食べ物も必要としてはいらっしゃいません。主はただ献愛だけをお受け取りになるのです。それだけです。それが主な要点です。つまり、人は献身者にならなければならないのです。腕の良い料理人ではありません。しかし、もし献身者になれば腕の良い料理人にもなります。自動的にそうなるのです。したがって、人はただ献身者にならなくてはならないだけです。そうすると他のすべての良い資質が自動的に伴います。そしてもし人が献身者でないなら、いかなる良い資質も何の価値もありません。その人は精神的な水準にいるので、何の良い資質も持ちません。(会話に長い沈黙あり)
SP今何時ですか。
Ss6時です。
SP質問と答えが必要です。それらはすべての者に有益です。
B私はまだプラサーダについて質問があります。
SPスータ・ゴスヴァーミーは次のようにおっしゃいました。(サンスクリット引用)「おお、賢人たちよ、あなた方は私に正しく質問をなさいました。あなた方の問いかけは主クリシュナに関するものであるので、価値があり、世界の幸せに関係があります。このような種類の問いだけが自己を完全に満足させることができます」クリシュナ・サムプラスナー、それはとても良いのです。議論し、聞くとき、それはロカ・マンガラム、すべての人にとって縁起が良いのです。質問も答えもです。
B私はまだプラサーダについてよく分かりません。しかしもしよろしかったら、考えてみてまた明日お尋ねしたいと思います。
SPプラサーダは常にプラサーダです。しかし私たちは十分に引き上げられていないので、嫌いだと思うプラサーダもあります。
Bお話ししたいことが何なのかはっきりしました―――中には香辛料が強すぎるものがあるのです。お腹が痛くなります。
SPふーむ。。。それもまたありがたさを理解していないことですが、しかし料理人が注意すべきです。クリシュナには一流の料理をお出ししなければなりません。そのため、もし料理人がレベルの低いものを捧げれば、その人は自分の義務を果たしていないことになります。しかしクリシュナはもしそれが献身者によって捧げられれば、何であっても受け入れることがおできになり、献身者はどんなプラサーダでも受け入れることができます。たとえ香辛料が利いていようと。ヒラニャカスィプは自分の息子に毒を与え、(その子はそれをクリシュナに捧げ、)そして息子はそれを蜜の味の飲み物として飲みました。たとえ他の人々の舌には香辛料が利きすぎでも、献身者にとってはとてもおいしいのです。香辛料がどうしたというのでしょう。彼は本物の毒を与えられたのです。そしてプータナー・ラークシャシー―――彼女もまたクリシュナに毒を与えました。しかしクリシュナはとても慈悲深いので、「彼女は私の母親として私を受け入れた」と考え、そのため毒を飲んで彼女を解放しました。クリシュナは悪いふうには考えません。善人は悪いふうには考えません―――彼は良いふうにだけ考えます。私の兄弟子たちの一人のようなものです―――彼は私のグル・マハーラージャ(霊的指導者)と取引をしようとしましたが、私のグル・マハラーラージャは悪いようにはお受け取りになりませんでした。良いように考えたのです。「この弟子は私に何かの奉仕をしにきた」と考えられました。
B誰と取引をしようとしたのですか?
SP私のグル・マハーラージャについて話しているのです。
Bああ、分かりました。もしよろしかったら、プラサーダについてもう一つ質問があるのですが。例えば、何かの問題があって特定の食べ物を食べられない献身者がいるとします―――肝臓に問題があってギーを食べない献身者のようなものです。これらの献身者たちは、そうすると、すべてのプラサーダを食べるべきですか?
SPいえ、いえ。完璧でない献身者は好き嫌いを言うかもしれません。しかし完璧な献身者はそうしません。なぜあなたが完璧な献身者の真似をすべきでしょう。好き嫌いがある限り、あなたは完璧な献身者ではありません。ではなぜあなたがわざと完璧な献身者の真似をして何でもかんでも食べるべきでしょうか。
Bああ。
SP要点は、完璧な献身者は好き嫌いをしないということです。何であれ、クリシュナに捧げられた物は蜜です。それだけです。クリシュナは献身者からは何でもお受け取りになります。「何であれ、私の献身者が私に捧げてくれたものは」主は受け取られるのです。献身者も同じことです。要点が分かりませんか?完璧な献身者は全く好き嫌いを言いません。しかしもし私が完璧な献身者でなくて好き嫌いがあるなら、なぜ私が完璧な献身者を真似ようとすべきでしょう。私は完璧な献身者ではないので、私にはすべてを消化することはできないかもしれません。献身者は愚か者であってはなりません。次のように述べられています。(サンスクリット引用)献身者は自分の立場を知っており、彼は他者をもそれ相応に扱う知性を持っているのです。
by ammolitering4 | 2008-09-09 07:23 | 「完璧な問い、完璧な答え」


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