第5章 第1段落より

Chapter Five Associating with Krsna
第5章 クリシュナとの関わり
第1段落
If one gets something superior, he naturally gives up all inferior things.
より優れたものを得れば、人は自然と劣ったものを捨てます。

We want enjoyment,
私たちは楽しみを求めていますが、

but impersonalism and voidism have created such an atmosphere
非人格主義と虚空主義が作り出した雰囲気のために、

that we have become addicted to material enjoyment.
物質的な楽しみに溺れてしまいました。

There must be enjoyment in connection with the Supreme Person (purusah sa parah), whom we can see face to face.
互いに顔を合わせることのできる至高の人格(プルサー・サ・パラー)との関わりの中での楽しみがなければならないのです。

In the spiritual sky we are able to speak personally with God, play with Him, eat with Him, etc.
霊的な天空では、私たちは神と個人的に話したり遊んだり一緒に食事をしたりすることができます。

All of this can be attained by bhaktya--transcendental loving service.
これらすべてのことが、バクテャー、すなわち超越的な献愛奉仕によって得られます。

However, this service must be without adulteration,
しかし、この奉仕は混じり物のない心でなされねばなりません。

that is to say, we must love God without expecting material remuneration.
これはつまり、私たちは見返りを期待することなく神を愛さねばならないということです。

Loving God to become one with Him is also a form of adulteration.
神と一つになるために主を愛するというのも、不純さの一つの形です。

第2段落
One of the major differences between the spiritual sky and the material sky is
霊的な天空と物質的な天空の大きな違いのひとつは、

that in the spiritual sky the head or leader of the spiritual planets has no rival.
霊的な天空では霊的な惑星の頭首、すなわち支配者には対抗するものがいないということです。

In all cases, the predominating personality in the spiritual planets is a
plenary expansion of Sri Krsna.
どの場合でも、霊的な惑星での支配的な人格はシュリー・クリシュナの完全な拡張体です。

The Supreme Lord and His multifarious manifestations preside over all the Vaikuntha planets.
至高主とその多種多様な顕現体がヴァイクンサのすべての惑星の主として鎮座しています。

On earth, for instance, there is rivalry for the position of president or prime minister,
地上では、例えば大統領や首相の地位への競争があります。

but in the spiritual sky everyone acknowledges the Supreme Personality of Godhead to be supreme.
しかし、霊的な天空では誰もが至高の人格神を至高者として認めています。

Those who do not acknowledge Him and attempt to rival Him are placed
into the material universe,
主を認めず、主に対抗しようとする者は、物質宇宙に入れられます。

which is just like a prison house.
それはちょうど刑務所のようなものです。

As in any city there is a prison,
どの街にも刑務所があり、

and the prison forms a very insignificant part of the whole city,
刑務所は町全体から見るとほんの取るに足らない一部でしかないように、

so the material universe is a prison for the conditioned souls.
同様に、物質宇宙は制限された魂のための刑務所なのです。

It forms an insignificant part of the spiritual sky,
それは霊的な天空の中の小さな一部を形成していますが、

but it is not outside the spiritual sky,
それは霊的な天空の外にあるわけではありません。

just as a prison is not outside of the city.
刑務所が街の外にあるのではないのと同じことです。

第3段落
The inhabitants of the Vaikuntha planets in the spiritual sky are all
liberated souls.
霊的な天空にあるヴァイクンサの惑星の住人たちは、皆解放された魂です。

In Srimad-Bhagavatam we are informed that their bodily features are exactly like God's.
シュリーマッド・バーガヴァタムにおいて、私たちは彼らの身体的な特徴はちょうど神のそれのようであると知らされています。

On some of these planets God is manifested with two arms, and on others He has four.
これらの惑星の一部では神は2本の腕を持ち、他では4本の腕を持っています。

The inhabitants of these planets, like the Supreme Lord, also manifest two and four arms,
これらの惑星の住人たちは、至高主と同じく、2本か4本の腕を持っています。

and it is said that one cannot distinguish between them and the Supreme Person.
そして、住人たちと至高人格を見分けることはできないとも言われています。

In the spiritual world there are five kinds of liberation.
霊的な世界には、5つの解放の形があります。

Sayujya-mukti is a form of liberation in which one merges into the impersonal existence of the Supreme Lord, called Brahman.
「サーユジャ・ムクティ」は、ブラーマンと呼ばれる至高主の非人格的な存在に同化する形での解放です。

Another form of liberation is sarupya-mukti, by which one receives features
exactly like God's.
「サールーピャ・ムクティ」では、人は神のそれとそっくりな特徴を得ます。

Another is salokya-mukti, by which one can live in the same planet with God.
「サーロキャ・ムクティ」では、神と同じ惑星に住むことができます。

By sarsti-mukti one can have opulences similar to the Supreme
Lord's.
「サーシュティ・ムクティ」では、至高主のそれと似た富を得ることができます。

Another type enables one to remain always with God as one of His
associates,
もう一つの形では、主の仲間の一人として常に神とともにいることができます。
(訳注、associateというのは、深い関係を持つ人を指す広い言葉です。友人関係、恋人関係、親子関係、主従関係などで関わる場合も含めます。)

just like Arjuna, who is always with Krsna as His friend.
ちょうど、友人として常にクリシュナと共にいるアルジュナのように。

One can have any of these five forms of liberation,
人はこれらの5つの形の解放のうちどれでも得ることができます。

but of the five
しかし、これら5つのうち

the sayujya-mukti,merging with the impersonal aspect, is not accepted by Vaisnava devotees.
「サーユジャ・ムクティ」、すなわち非人格的な側面と同化することは、ヴァイシュナヴァの献身者によって受容されていません。

A Vaisnava wishes to worship God as He is and retain his separate individuality to serve Him,
ヴァイシュナヴァ主義者は神をありのままの主として崇拝し、主に仕えるために自分の独立した自己を持ち続けることを望みます。

whereas the Mayavadi impersonal philosopher wishes to lose his
individuality and merge into the existence of the Supreme.
他方、マーヤーヴァーディーの非人格主義的な哲学者たちは、自分の独立性をなくして至高存在に同化することを求めます。

This merging is recommended neither by Sri Krsna in Bhagavad-gita nor by the disciplic succession of Vaisnava philosophers.
このような同化は、バガヴァッド・ギーターの中でクリシュナは薦めておらず、ヴァイシュナヴァ哲学者の師弟継承でも薦められていません。

Lord Caitanya Mahaprabhu wrote on this subject in His Siksastaka (4):
主チャイタンニャ・マハープラブは、この主題について主の「シクシャーシュタカ」において次のように書いておられます。

na dhanam na janam na sundarim
kavitam va jagad-isa kamaye
mama janmani janmanisvare
bhavatad bhaktir ahaituki tvayi

"O almighty Lord!
「おお、万能なる主よ、

I have no desire to accumulate wealth,
私は富を蓄えたいとは思いません。

nor have I any desire to enjoy beautiful women,
美しい女性たちを楽しみたいとも、

nor do I want any number of followers.
弟子が欲しいとも思いません。

What I want only is that I may have Your causeless devotional service in my life, birth after birth."
私が望む唯一のものは、何度生を繰り返しても常にあなたへの純粋な奉仕をすることです。
(訳注、causelessは、文字通りの意味は「理由のない」です。普通は誰かからの親切などを描写するときに使います。理由のない親切、つまり、「私に親切にする義理などないはずなのに、何の見返りを求めるでもなく、とにかく純粋に与えてくれる親切」というような意味です。この場合はそれを神に対して自分が捧げ続けられますように、ということです。)

Here Lord Caitanya Mahaprabhu refers to "birth after birth."
ここで主チャイタンニャ・マハープラブは「何度生を繰り返しても」と述べています。

When there is birth after birth, there is no liberation.
生が繰り返す状態では、解放はありません。

In liberation one either attains the spiritual planets or merges into the existence of the Supreme--
解放されると、人は霊的な天体に至るか至高の存在に同化するかのどちらかですが、

in either case, there is no question of rebirth into the material world.
どちらにしても物質世界に生まれ変わることはありません。

But Caitanya Mahaprabhu doesn't care whether He is liberated or not:
しかし、主チャイタンニャ・マハープラブは、ご自分が解放されるかどうかはどうでもいいのです。

His only concern is to be engaged in Krsna consciousness, to serve the Supreme Lord.
主の唯一の関心事は、クリシュナ意識であること、すなわち至高主にお仕えすることなのです。

The devotee doesn't care where he is,
献身者は、自分がどこにいようと気にしません。

nor does he care whether he is born in the animal society, human society, demigod society, or whatever--
動物の社会に生まれようが、人間の社会や半神の社会や、他のどのような社会に生まれようが、どうでもいいのです。

he only prays to God that he not forget Him and that he always be able to engage in His transcendental service.
献身者は、唯一自分が神を忘れず常に主への超越的な奉仕ができるようにと祈ります。

These are symptoms of pure devotion.
これらが純粋な奉仕の特徴です。

Of course a devotee, wherever he is,
もちろん、献身者はたとえどこにいようが、

remains in the spiritual kingdom,
霊的な王国に留まっています。

even while in this material body.
この物質の体の中にいるときでさえも。

But he does not demand anything from God for his own personal elevation or comfort.
しかし、献身者は自分の個人的な昇格や快適さのために神に何かを要求することはありません。
by ammolitering4 | 2008-04-11 03:14 | 「生と死の彼方に」


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