第4章 第13段落より

第13段落
Although we cannot perceive the transcendental nature of the Supreme Lord, His name, fame, and activities,
私たちには至高主の超越的な性質、すなわち主の名前、名声、活動などを知覚することはできませんが、

if we establish ourselves in Krsna consciousness,
確固たるクリシュナ意識を持つことができれば、

gradually God will reveal Himself before us.
神は徐々に私たちの前にご自分を現してくださいます。

We cannot see God by our own endeavor,
私たちは自分の努力によって神を見ることはできません。

but if we qualify ourselves, God will reveal Himself,
しかし、私たちが資格を得れば神はご自分を表してくださり、

and then we will see.
そうすれば神を見ることができます。

No one can order God to come before him and dance,
神に「ここに来て踊れ」と命令することができる人はいません。

but we do have to work in such a way that Krsna will be pleased to reveal Himself to us.
そうではなく、私たちはクリシュナが喜んで私たちにご自分を現してくださるように努めなければならないのです。

第14段落
Krsna gives us information about Himself in Bhagavad-gita,
クリシュナはバガヴァッド・ギーターの中でご自分に関する情報を下さっています。

and there is no question of doubting it;
疑う余地はありません。

we just have to feel it, understand it.
私たちは単にそれを感じて理解しなければならないだけです。

There is no preliminary qualification necessary for the understanding of Bhagavad-gita,
バガヴァッド・ギーターを理解するために必要な予備的な資格などはありません。

because it is spoken from the absolute platform.
それは絶対的な領域から語られているからです。

The simple process of chanting the names of Krsna will reveal (、、、and everything else, step by step. )
クリシュナの名前を唱えるという単純な方法は、次のようなことを(および他のすべてを少しずつ段階を追って)明かしてくれます。

what one is, what God is, what the material and spiritual universes are,
人は誰であるか、神とは何であるか、物質的および霊的な宇宙とは何か、

why we are conditioned, how we can get out of that conditioning--
なぜ私たちは制約されているのか、どうやったらこの制約から抜け出せるのか、

and everything else, step by step.
そして、そのほかのすべてのことを、少しずつ段階を追って。
(訳注、この文は長いので短く区切ってみました。日本語と英語の構造の違いのため、ちょっと変なふうになってますけど。)

Actually, the process of belief and revelation is not foreign to us.
実際のところ、信じることと明かされることという方法は、私たちにとって異質のものではないのです。

Every day we place faith in something
私たちは、毎日何かに信頼をおいています。

that we have confidence will be revealed later.
後に明かされるだろうという自信をもっている何かに。

We may purchase a ticket to go to India,
インドへの切符を買ったとして、

and on the basis of the ticket
その切符の存在によって

we have faith that we will be transported there.
私たちはそこへ連れて行ってもらえるだという信頼を持ちます。

Why should we pay money for a ticket?
なぜ私たちは切符にお金を払うのでしょうか。

We do not just give the money to anyone.
私たちは誰彼構わずお金を上げたりはしません。

The company is authorized and the airline is authorized,
会社(旅行代理店)は正統で、航空会社も正統です。

so faith is created.
だから信頼が作られるのです。

Without faith we cannot take one step forward in the ordinary course of our life.
信頼がなくては、私たちは日常生活で一歩も踏み出せません。

Faith we must have,
私たちは信頼を持たなければなりませんが、

but it must be faith in that which is authorized.
それは正統と認められたものへの信頼でなければなりません。

It is not that we have blind faith,
私たちは盲信しているわけではないのです。

but that we accept something that is recognized.
そうではなく、認められているものを受け入れているのです。

Bhagavad-gita is recognized and accepted as scripture by all classes of men in India,
バガヴァッド・ギーターは、インドのすべての階層の人々によって聖典として認められています。

and as far as outside India is concerned,
インドの外では、

many scholars, theologians, and philosophers accept Bhagavad-gita as a great, authoritative work.
多くの学者や進学者や哲学者がバガヴァッド・ギーターを偉大にして正統な書物であると認めています。

There is no question that Bhagavad-gita is authority.
バガヴァッド・ギーターが正統な権威であることは疑いの余地がありません。

Even Professor Albert Einstein, such a scientist, read Bhagavad-gita regularly.
大変立派な科学者であるアルバート・アインシュタイン博士でさえ、バガヴァッド・ギーターを定期的に読んでおられます。

第15段落
From Bhagavad-gita we have to accept that there is a spiritual universe which is the kingdom of God.
バガヴァッド・ギーターから、私たちは神の王国である霊的な宇宙が存在することを受け入れなければなりません。

If somehow we are transported to a country
もし何かの理由でどこかの国に連れて行かれて、

where we are informed that we will no longer have to undergo birth, old age, disease, and death, will we not be happy?
そこでは私たちはもはや生老病死に苦しまないでよいと知らされたら、幸せに感じないでしょうか。

If we heard of such a place, surely we would try as hard as possible to go there.
もしそんな場所のことを聞いたら、私たちはきっと、何とかしてそこへ行こうとしてできるだけの努力をするでしょう。

No one wants to grow old; no one wants to die.
誰しも老いたくないし、死にたくありません。

Indeed, a place free of such sufferings would be our heart's desire.
ほんとうに、そのような苦しみのない場所は私たちの心の望みなのです。

Why do we want this?
なぜ私たちはそれを欲するのでしょう。

Because we have the right, the prerogative, to want it.
それは、私たちにはそれを望む権利が、特権があるからです。

We are eternal, blissful, and full of knowledge,
私たちは永遠で、喜びと知恵に溢れています。

but having been covered by this material entanglement,
しかし、物質的なもつれに覆われて、

we have forgotten ourselves.
私たちは自分たちの本来の姿を忘れてしまったのです。

Therefore Bhagavad-gita gives us the advantage of being able to revive our original status.
そのため、バガヴァッド・ギーターは私たちに本来の身分を取り戻すことができるように力を貸してくれるのです。

第16段落
The Sankarites and Buddhists claim that the world beyond is void,
「サンカリット」と仏教徒たちは、この世界の彼方は空(くう)であると主張します。

but Bhagavad-gita does not disappoint us like this.
しかし、バガヴァッド・ギーターはそのようにして私たちを落胆させることはしません。

The philosophy of voidness has simply created atheists.
虚空主義の哲学は、単に無神論者を生み出しました。

We are spiritual beings, and we want enjoyment,
私たちは霊的な存在であり、楽しみを欲しています。

but as soon as our future is void,
しかし、将来が空虚になると、途端に

we will become inclined to enjoy this material life.
私たちはこの物質的な人生を楽しむ傾向が強まります。

In this way, the impersonalists discuss the philosophy of voidism while trying as much as possible to enjoy this material life.
このように、非人格主義者たちは、この物質的な人生を可能なかぎり楽しみながら虚空主義の哲学を議論します。

One may enjoy speculation in this way,
人はこのようにして推察することを楽しむかもしれませんが、

but there is no spiritual benefit.
そこには霊的な利益はありません。

brahma-bhutah prasannatma
na socati na kanksati
samah sarvesu bhutesu
mad-bhaktim labhate param

"One who is thus transcendentally situated at once realizes the Supreme Brahman. '
「このように超越的な場所に自らを位置づけたものは、直ちに至高のブラーマンを認識します。

He never laments or desires to have anything;
その人は、何かを失うことを悲しんだり、何かを得たいと欲することがありません。

he is equally disposed to every living entity.
その人はすべての生命体に対して平等に心を配ります。

In that state he attains pure devotional service unto Me." (Bg. 18.54)
そのような状態で、その人は私に対する純粋な献身奉仕を得ます。」

He who has progressed in devotional life
献身的な生活に秀で、

and who is relishing service to Krsna
クリシュナへの奉仕を楽しんでいる者は、

will automatically become detached from material enjoyment.
自動的に物質的な楽しみから離れていきます。

The symptom of one absorbed in bhakti is that he is fully satisfied with Krsna.
バクティに浸った者の特徴は、クリシュナに完全に満足しているということです。
by ammolitering4 | 2008-04-11 03:12 | 「生と死の彼方に」


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