第4章 第4段落より

第4段落
In Vedic literatures there is a good deal of information about the material and spiritual skies.
ヴェーダ文献には、物質と霊の天空について多くの情報があります。

In the Second Canto of Srimad-Bhagavatam there are descriptions of the spiritual sky and of its inhabitants.
シュリマッド・バーガヴァタムの2巻には、霊的な天空とそこの住人についての描写があります。

There is even information given that there are spiritual airplanes in the spiritual sky
霊的な天空に浮かぶ霊的な飛行機があることや、

and that the liberated entities there travel about on these planes like lightning.
そこに住む解放された生命体がこれらの飛行機に乗って稲妻のように旅することも書かれています。
(訳注、「解放された」というのは、囚人と比較した自由民のような意味です。)

Everything that we find here can also be found there in reality.
私たちがここで見るものは、すべてそこでも現実に見ることができます。

Here in the material sky everything is an imitation, or shadow, of that which exists in the spiritual sky.
ここ物質の天空では、すべてのものは霊的な天空に存在するものの模倣、あるいは影なのです。

As in a cinema we simply see a show or facsimile of the real thing,
映画では現実の物の芝居や複写を見るように、

in Srimad-Bhagavatam it is said
シュリマッド・バーガヴァタムには、

that this material world is but a combination of matter modeled after the reality,
「この物質世界は現実に倣って作られた物質の組み合わせに過ぎない」と述べられています。

just as a mannequin of a girl in a store window is modeled after a girl.
店のショウウィンドウにある女の子のマネキンが本物に女の子に倣って作られているようなものです。

Every sane man knows that the mannequin is an imitation.
正気な者は誰でもマネキンは模造品であると知っています。

Sridhara Svami says that because the spiritual world is real,
シュリードハラ・スヴァーミーは、「霊的な世界が現実なので、

this material world, which is an imitation, appears to be real.
模倣であるこの世界も現実であるかのように見える」とおっしゃいます。

We must understand the meaning of reality--
私たちは現実というものの意味を理解しなければなりません。

reality means existence which cannot be vanquished;
現実とは、征服されない存在を意味します。

reality means eternity.
現実とは永遠を指すのです。
(訳注、私たちが普通に見る「現実」は、「現象」と呼んで区別します。)

nasato vidyate bhavo
nabhavo vidyate satah
ubhayor api drsto 'ntas
tv anayos tattva-darsibhih

"Those who are seers of the truth have concluded that
「真実を見る賢者は、次のように結論づけました。

of the nonexistent there is no endurance,
非存在は永続せず、

and of the existent there is no cessation.
存在には終焉がない。

This seers have concluded by studying the nature of both." (Bg. 2.16)
このことを、彼らは両者の自然な性質を学んで結論づけました。」

第5段落
Real pleasure is Krsna, whereas material pleasure, which is temporary, is not actual.
本当の喜びはクリシュナであり、一方で一時的な物質の喜びは本物ではありません。

Those who can see things as they are
物事をありのままに見ることのできる者は、

do not take part in shadow pleasure.
影のような喜びに加わりません。

The real aim of human life is to attain to the spiritual sky,
人間の人生の本当の目的は霊的な天空にたどり着くことですが、

but as Srimad-Bhagavatam points out, most people do not know about it.
シュリマッド・バーガヴァタムが指摘するように、ほとんどの人はそれを知りません。

Human life is meant to understand reality and to be transferred into it.
人間の人生は、現実を理解してそこに移行するためのものです。

All Vedic literature instructs us not to remain in this darkness.
すべてのヴェーダ文献が、この暗闇に留まっていないようにと私たちに指導しています。

The nature of this material world is darkness,
この物質世界の性質は闇ですが、

but the spiritual world is full of light
霊的世界は光にあふれていて、

and yet is not illumined by fire or electricity.
しかも火や電気で照らされていません。

Krsna hints of this in the Fifteenth Chapter of Bhagavad-gita (15.6):
クリシュナはバガヴァッド・ギーターの15章でこのことを暗示しています。

na tad bhasayate suryo
na sasanko na pavakah
yad gatva na nivartante
tad dhama paramam mama

"That abode of Mine is not illumined by the sun or moon, nor by electricity.
「私の住むその場所は、太陽でも月でも電気でも照らされていません。

One who reaches it never returns to this material world."
そこに至った者は、二度とこの物質世界に戻りません。」

第6段落
The spiritual world is called unmanifested
霊的な世界は非顕現と呼ばれます。

because it cannot be perceived by material senses.
物質的な感覚で知覚できないからです。

avyakto 'ksara ity uktas
tam ahuh paramam gatim
yam prapya na nivartante
tad dhama paramam mama

"That supreme abode is called unmanifested and infallible,
「その至高の住まいは非顕現にして絶対真理と呼ばれ、

and it is the supreme destination.
至高の目的地です。

When one goes there, he never comes back.
そこに至れば、二度と戻ってくることはありません。

That is My supreme abode." (Bg. 8.21)
それが私の至高の住まいです。」

A great journey is indicated in this verse.
この句では、偉大なる旅が示されています。

We have to be able to penetrate outer space, traverse the material universe, penetrate its covering, and enter the spiritual sky.
私たちは宇宙空間を貫いて物質宇宙を横切り、その覆いを突き抜けて霊的な天空に入ることができなくてはなりません。

Paramam gatim--that journey is supreme.
パラマーム・ガティム、それは至高の旅です。

There is no question of going a few thousand miles away from this planet and then returning.
この惑星から何千キロメートルか行って戻ってくるようなものではないのです。

This sort of journey is not very heroic.
そのような旅はあまり勇壮ではありません。

We have to penetrate the whole material universe.
私たちは物質宇宙全体を突き抜けなければならないのです。

This we cannot do by spaceships but by Krsna consciousness.
これは宇宙船でできることではありません。クリシュナ意識によって可能です。

One who is absorbed in Krsna consciousness and who at the time of death thinks of Krsna is at once transferred there.
クリシュナ意識に浸り、死のときにクリシュナのことを思う者は、直ちにそこに移行されます。

If we at all want to go to that spiritual sky and cultivate eternal, blissful life, full of knowledge,
もし私たちにその霊的な天空に行って永遠で喜びと知恵に溢れた人生を培いたいという気持ちがわずかでもあれば、

we will have to begin now to cultivate a sac-cid-ananda body.
私たちは「サック・スィッド・アーナンダ」の体を培うために、今始めなければなりません。

It is said that Krsna has a sac-cid-ananda body--
クリシュナは「サック・スィッド・アーナンダ」の体を持っていると言われています。

isvarah paramah krsnah sac-cidananda- vigrahah--

and we also have a similar body of eternity, knowledge, and bliss,
そして、私たちも類似の永遠で知恵と喜びに溢れた体を持っていますが、

but it is very small and is covered by the dress of matter.
とても小さいので物体の衣服に覆われています。

If somehow or other we are able to give up this false dress,
もし何らかの方法でこの虚偽の衣服を脱ぎ捨てることができれば、

we can reach that spiritual kingdom.
私たちはその霊的な王国にたどり着くことができます。

If once we can attain that spiritual world, return is not necessary (yam prapya na nivartante).
いったんその霊的な世界にたどり着ければ、戻ってくる必要はないのです。

第7段落
Everyone, then, should try to go to that dhama paramam--Krsna's supreme abode.
ですから、全ての人がその「ダーマ・パラマム」、クリシュナの至高の住まいに行こうとすべきなのです。

Krsna Himself comes to call us,
クリシュナご自身がここに来て私たちを呼んでおられます。

and He gives us literatures as guidebooks 
そして案内所として文献を与えてくださり、

and sends His bona fide representatives.
真正の代理人も寄こしてくださいます。

We should take advantage of this facility given to human life.
私たちは人間に与えられたこの設備を利用すべきです。

For one who reaches that supreme abode,
その至高の住まいに辿り付いた者には、

penances, austerities, yogic meditations, and so on are no longer required,
苦行や禁欲やヨガの瞑想その他はもはや必要ありません。

and for one who does not reach it,
そして、そこに至らないものには、

all penances and austerities are a useless waste of time.
あらゆる苦行や禁欲は何の役にも立たない時間の無駄に過ぎません。

The human form of life is an opportunity to get this boon,
人間の形の人生はこの恩恵を受ける機会であり、

and it is the duty of the state, parents, teachers, and guardians to elevate those who have acquired this human form of life to attain this perfection of life.
この人間の形の人生を得た者を(クリシュナへ至るという)人生の完成を得るために引き上げることは、国家と両親と教師と保護者の義務なのです。

Simply eating, sleeping, mating, and quarreling like cats and dogs is not civilization.
単に犬や猫のように食べて寝て交尾していさかいを起こすのは、文明ではありません。

We should properly utilize this human form of life
私たちはこの人間の形の人生を正しく利用して、

and take advantage of this knowledge to prepare ourselves in Krsna consciousness,
クリシュナ意識になるように、この知識を自らの益のために使うべきです。

so that twenty-four hours of the day we will be absorbed in Krsna and at death at once transfer to that spiritual sky.
そうすれば一日24時間クリシュナへの思いに浸っていることができて、死のときに直ちに霊的世界に移行することができます。

purusah sa parah partha
bhaktya labhyas tv ananyaya
yasyantah-sthani bhutani
yena sarvam idam tatam

"The Supreme Personality of Godhead, who is greater than all, is attainable by unalloyed devotion.
「誰よりも偉大な至高の人格神は、純粋な献愛によって得ることができます。

Although He is present in His abode,
主はご自分のお住まいにいらっしゃいますが、

He is all-pervading, and everything is situated within Him." (Bg. 8.22)
(同時に)あらゆるところに偏在しておられ、すべては主の中にあります。」

第8段落
If we are at all interested in reaching that supreme abode,
もし私たちにその至高のお住まいに行きたいという気持ちがすこしでもあれば、

the process, as indicated here, is bhakti.
ここに示されているように、その方法はバクティです。

Bhaktya means devotional service, submission to the Supreme Lord.
「バクテャー」は献愛奉仕、すなわち至高主への服従を意味します。

The root word for bhaktya is bhaj, which means "service."
「バクテャー」の語源(語幹?)は「奉仕」を意味する「バージ」です。

The definition of bhakti given in the Narada-pancaratra is "freedom from
designation."
ナーラダ・パンカラートラに示されている「バクティ」の定義は、「特定の肩書きからの自由」です。
(訳注、ここで言う「肩書き」とは、私を例に取れば自分は「女である」、「日本人である」、「お姉さんである(正直におばさんと言うべきか)」などを指します。)

If one is determined to get out of all the designations that are attached to the pure spirit soul,
もし人が純粋な霊魂に付随しているすべての肩書きから自由になろうと決意すれば、

and which arise due to the body and are always changed when the body is changed,
そしてそれらの肩書きは体に起因して生じて体の変化に応じて常に変化しているのですが、

one can attain to bhakti.
そうすれば人はバクティを得ることができます。

Bhakti is realizing that one is pure spirit and not matter at all.
バクティとは、自分が霊魂であって決して物体ではないことを理解することです。

Our real identity is not this body,
私たちの本当の自己はこの体ではありません。

which is simply a covering of the spirit,
体は単に霊の覆いに過ぎません。

but our real identity is dasa, servant of Krsna.
そうではなく、私たちの本当の自己は「ダーサ」、すなわちクリシュナの従者なのです。

When one is situated in his real identity and is rendering service to Krsna, he is a bhakta.
人が本当の自己を認識してクリシュナに奉仕をしているとき、その人は「バクタ」です。

Hrsikena hrsikesa-sevanam:

when our senses are free from material designations,
私たちの感覚が物質的な肩書きから自由であるとき、

we will utilize them in the service of the master of the senses, Hrsikesa, or Krsna.
私たちはそれを感覚の主人であるハリシーケサ、すなわちクリシュナのために利用します。

第9段落
As Rupa Gosvami points out, we have to serve Krsna favorably.
ルーパ・ゴスヴァーミーが指摘したように、私たちは好意をもってクリシュナに奉仕しなければなりません。

Generally we want to serve God for some material purpose or gain.
一般的に、私たちは何らかの物質的な目的や利益のために神に仕えます。

Of course, one who goes to God for material gain is better than one who never goes,
もちろん、物質的な利益のために神のもとへ行くものは、全然行かない者より優れています。

but we should be free from desire for material benefit.
しかし、私たちは物質的な利益を望む気持ちを捨てるべきなのです。

Our aim should be to understand Krsna.
私たちの目的は、クリシュナを理解することであるべきです。

Of course Krsna is unlimited, and it is not possible to understand Him,
もちろん、クリシュナは無限であり、理解することは不可能です。

but we have to accept what we can understand.
しかし、わたしたちは自分たちに理解できることを受容しなければなりません。

Bhagavad-gita is specifically presented for our understanding.
バガヴァッド・ギーターは、私たちの理解のために特別に与えられたものです。

Through receiving knowledge in this way,
このような方法で知識を受け取ることにより、

we should know that Krsna is pleased,
私たちはクリシュナが喜んでいることを知るべきであり、

and we should serve Him favorably, according to His pleasure.
クリシュナの喜びのために(クリシュナの喜びに叶うように)、好意的に主に仕えるべきです。

Krsna consciousness is a great science with immense literatures,
クリシュナ意識は膨大な文献を備えた偉大な科学であり、

and we should utilize them for the attainment of bhakti.
私たちはバクティを得るためにそれらを利用すべきです。
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by ammolitering4 | 2008-04-11 02:55 | 「生と死の彼方に」


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