第1章続き。

あんまり訳注が多くてもうっとうしいかと思うので、この後は日英対訳だけにしていきます。ご感想があればコメントをお寄せください。削除用パスワードを書き入れてくだされば、誰でも書き込めます。

第4段落
The impersonalist followers of Sankaracarya, as well as the Vaisnavas following in the disciplic succession from Lord Sri Krsna, acknowledge the factual existence of the soul, but the Buddhist philosophers do not.
サンカラーチャーリャを奉じる非人格主義者たちも、主シュリー・クリシュナに始まる徒弟継承に連なるヴァイシュナヴァたちも、魂が存在しているという事実を認めています。しかし、仏教哲学者たちは認めません。

The Buddhists contend that at a certain stage the combination of matter producesconsciousness,
仏教徒は、物質が組み合わさる過程の中のある特定の段階で意識が生成される、と強く主張しています。

but this argument is refuted
しかし、この議論には反証することができます。

by the fact that although we may have all the constituents of matter at our disposal, we cannot produce consciousness from them.
私たちの手元には物質の構成要素がいくらでも存在していますが、それから意識を作ることができないという事実があるからです。

All the material elements may be present in a dead man, but we cannot revive that man to consciousness.
死んだ人の体に物質的な要素が完全に揃っていても、その人の意識を呼び戻すことはできません。

This body is not like a machine.
体は機械とは違うのです。

When a part of a machine breaks down, it can be replaced, and the machine will work again,
機械の一部が壊れれば取り替えて修理することができ、それでまた動くようになります。

but when the body breaks down and consciousness leaves the body,
there is no possibility of our replacing the broken part and rejuvenating the consciousness.
しかし体が壊れて意識が去ってしまうと、私たちには壊れた部分を取り替えて意識を回復させることはできないのです。

The soul is different from the body, and as long as the soul is
there, the body is animate.
魂と体は異なるものであり、魂が内在する限りにおいて体は動くことができます。

But there is no possibility of making the body animate in the absence of the soul.
魂なくして体を動かすことは全く不可能なのです。


第5段落
Because we cannot perceive the soul by our gross senses, we deny it.
私たちは自らの肉体的な感覚で魂を認識することができないので、その存在を否定します。

Actually there are so many things that are there which we cannot see.
実際には、私たちが見ることのできないものはたくさんあるのです。

We cannot see air, radio waves, or sound, nor can we perceive minute bacteria with our blunt senses, but this does not mean they are not there.
私たちには空気もラジオ波も音も見えません。私たちの鈍い感覚では微細なバクテリアも知覚できません。しかし、だからと言ってこれらのものが存在しないわけではないのです。

By the aid of the microscope and other instruments, many things can be perceived which had previously been denied by the imperfect senses.
顕微鏡その他の機器の助けによって、かつては不完全な感覚がその存在を否定していた様々なものを、今では私たちは認識することができます。

Just because the soul, which is atomic in size, has not been perceived yet by senses or instruments, we should not conclude that it is not there.
原子のように小さい魂が今までのところ感覚器官や機器によって認識されていないからといって、それは存在しないのであると結論づけるべきではありません。

It can, however, be perceived by its symptoms and effects.
しかし魂はその特性と効果を通して認識することができます。


第6段落
In Bhagavad-gita Sri Krsna points out that all of our miseries are due to false identification with the body.
シュリー・クリシュナはバガヴァッド・ギーターの中で、私たちの悲惨さはすべて体を自分自身であると誤って認識することに原因があると指摘しています。

matra-sparsas tu kaunteya
sitosna-sukha-duhkha-dah
agamapayino 'nityas
tams titiksasva bharata

"O son of Kunti, the nonpermanent appearance of heat and cold, happiness and distress, and their disappearance in due course, are like the appearance and disappearance of winter and summer seasons.
「おお、クンティーの息子よ、熱と冷たさ、幸せと不幸せが現れては消える非永遠なる様子は、冬や夏の季節が訪れては去るようなものです。

They arise from sense perception, O scion of Bharata, and one must learn to tolerate them without being disturbed."(Bg. 2.14)
それらは感覚認知が原因で生じるのです。おお、バーラタの末裔なる者よ、人はこれらに惑わされずに耐えることを学ばねばなりません。」

In the summertime we may feel pleasure from contact with water, but in the winter we may shun that very water because it is too cold.
人は夏には水に触れると喜びを感じるでしょう。しかし、冬にはその同じ水を冷た過ぎると言って避けるでしょう。

In either case, the water is the same, but we perceive it as pleasant or painful due to its contact with the body.
どちらの場合も水に変わりはないのですが、体との関係によってそれを喜ばしいと感じたり辛いと感じたりするのです。

第7段落
All feelings of distress and happiness are due to the body.
苦しみや幸せなどの感情のすべては体が原因です。

Under certain conditions the body and mind feel happiness and distress.
ある状況の下で体と心は幸せや苦しみを感じます。

Factually we are hankering after happiness, for the soul's constitutional position is that of happiness.
実際には私たちは幸せを追い求めています。魂は本質的に幸せな存在だからです。

The soul is part and parcel of the Supreme Being,
魂は至高存在の欠かすべからざる小片であり、
*ここには訳注を入れましょう。以前もちょっと書きましたが、「パート・アンド・パーセル」というのは慣用句で、「絶対に欠かせない小部分」という意味なのです。

who is sac-cidananda-vigrahah--the embodiment of knowledge, bliss, and eternity.
至高存在は(サンスクリット引用)知識と幸福と永遠性そのものです。

Indeed, the very name Krsna, which is nonsectarian, means "the greatest pleasure.
実に、いかなる宗派にも属さないクリシュナという名前自体、「最高の喜び」を意味しています。

Krs means"greatest," and na means "pleasure." Krsna is the epitome of pleasure, and being part and parcel of Him, we hanker for pleasure.
クリシュは「最高の」、ナは「喜び」を意味します。クリシュナは喜びそのものであり、主の欠かすべからざる小片である私たちも喜びを追い求めます。

A drop of ocean water has all the properties of the ocean itself,
大海の水の一滴は海全体と全く同じ成分を有しています。

and we, although minute particles of the Supreme Whole, have the same energetic properties as the Supreme.
そして私たちは、至高全体の大変小さな一部ではありますが、至高者と全く同じエネルギー成分を有しているのです。
by ammolitering4 | 2008-03-11 12:03 | 「生と死の彼方に」


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