第16段落 そしてギーターのあとのほうで(15.15)、主はこうおっしゃいます。 (サンスクリット引用) 「私はすべての者の心臓の中に座っており、そして私から記憶(remembrance)、知識、そして忘却(forgetfulness)が来ます。すべてのヴェーダによって、私は知られるべきものです。(訳注:By all the Vedas, I am to be known. これは時々引用されますが、ヴェーダを通して知るべきことは私である、ヴェーダが書かれた理由は私を知ることにある、ヴェーダの真髄は私である、などの意味だと思います。) 実に、私はヴェダーンタを編纂した者であり、そして私はヴェーダを知る者です。」 第17段落 完璧な知識を持った賢者たち---例えば、自分の物質主義的な知性を浄化して、そしてそのため霊的な知識に位置している者たち---は、主クリシュナをすべてのものの源として理解することができます。 知性(intellect)が浄化され、霊化されていない限り、最も学識のある哲学者や最も偉大な神秘的なヨギーでさえ、主クリシュナを理解しようとして当惑するでしょう(perplexed、混乱する、困る)。主はバガヴァッド・ギーター(7.3)においてこうおっしゃいます。 (サンスクリット引用) 「完成を得た者のうち、ほとんど誰も私を正しく(in truth)知る者はいません。」 第18段落 至高主の名前、形、性質、娯楽、仲間たち、そして主に関わる諸々のものは、すべて同じ霊的な性質を持っています。事実、主クリシュナに関わるあらゆるものは、主と異なるものではありません。パドマ・プラーナには、こう述べられています。 (サンスクリット引用) 「クリシュナの聖なる御名は、超越的に喜びに満ちています(transcendentally blissful)。それはすべての霊的な恩恵を授けます。なぜなら、それはクリシュナご自身、すべての喜びの源(reservoir)であるからです。 クリシュナの御名は完全であり、それはすべての超越的な味わい(訳注:mellows、ときどき出てくるこの単語は、本来は「まろやかな」などを意味する形容詞ですが、プラブパーダの独特の言い回しでは「味わい」に準ずるような意味になります。昔のインドで限定的に使われていた表現かもしれません)の形です。 それは決して(under any condition、どのような状況であっても)物質的な名前ではなく、(それは)クリシュナご自身よりも力が弱いものではありません(no less powerful)。クリシュナの御名は物質的な性質によって汚染されていないので、それがマーヤーと関わっているということはありえません(there is no question of ~)。 クリシュナの御名は、いつも解放されていて霊的です。それは決して物質自然の法則によって制約されません。これはクリシュナの御名とクリシュナご自身が同一だからです。」 第19段落 聖人的な魂だけがこれらの言明の真理を知覚することができます。その知性がマーヤーヴァーダ哲学によって堕落させられている者(to have been corrupted、損なわれる、間違いが多くなる、など)は、理解することができません。 第20段落 一般に、一元論者(monists)は非二元論(nondualism)の難解な(intricate)哲学を理解する(to grasp)ことができません。そのためラーダークリシュナン博士は、それによって二元論(dualism)を非二元論(nondualism)において確立しようとする理論を、自分の空想から紡ぎ出しました。 (訳注:そのため~は空想をめぐらせ、非二元論において二元論を確立するための理論を編み出しました。) ラーダークリシュナン博士が私たちは「クリシュナを通して話す、生まれたことのない、始まりのない、永遠のもの」に服従しなければならないと書くとき、彼は、服従について話しているのはクリシュナの中にいる非人格的なブラーマンである、ということを暗示します(to imply)。 いったん、非人格的なブラーマンが話すことができるということが確立されれば(Once~)、それなら主(He)は話すための道具、すなわち舌を持っていなければならない、ということになります。こうして私たちは、ラーダークリシュナン博士の非人格主義の概念全体が直ちに根底から揺らぐ(undermined、侵食して土台が削られる)のを見ます(訳注:~が分かります)。 聖典の中には、話すことのできる者は歩くこともできると結論づける十分な証拠があります。そして、話すことと歩くことのできる存在は、実に必ずすべての感覚を授けられています(must indeed be endowed with ~)。 それなら、主(He)は食べたり眠ったりなどの他の活動も行うことができるに違いありません。それでは(So)、どうしてラーダークリシュナン博士は、彼の(訳注:述べる)始まりのない、永遠の存在(object)が非人格的であると主張することができるのでしょうか。 第21段落 自著「入門的な随筆」の62ページにおいて、ラーダークリシュナン博士はこう書いています。「私たちから自己がなくなると(When we are emptied of our self (?))(訳注:疑問符は原文のまま)、神が私たちを所有します(God takes possession of us)。 この、神が(訳注:私たちを)所有すること(God-possession)の障害は、私たち自身の美徳(virtue、善行)、自尊心(pride、誇り、思いあがり)、知識、私たちのかすかな要求(demand)、そして私たちの無意識な断定(assumptions、証拠もなく決め込む)と偏見(prejudices、先入観)です。」 第22段落 彼自身の議論から、私たちは安全に(safely)、ラーダークリシュナン博士は彼の不注意と以前の養育(upbringing、しつけ)から、主クリシュナの体と主の魂の間に違いを見ていると推量する(to surmise)ことができます(訳注:ラーダークリシュナン博士自身の議論から、彼は、その生い立ちと不注意さが原因で、~を見ている、と推量して問題ないでしょう)。 彼はまだ、「自己からなくなる」はずの偽りの自我から自由でないのです(He is still not free from false ego, that is, “emptied of self.”)。したがって、彼の美徳、誇り、知識、かすかな欲求、そして無意識な断定と先入観がすべて、彼が超越的な真理を理解するのを阻んでいるのです。 彼はマーヤーヴァーダの思想の雰囲気(atmosphere、環境)の中で育てられたに違いありません。この理由により、彼は真理を理解することができませんでした。 第23段落 マーヤーヴァーダ哲学の創始者(founder)であり宣伝者(propagator)であるシュリーラ・シャンカラーチャーリャは、物質の世界は幻想---ミテャー---であると証明し、そしてそのため、彼は熱心に(diligently)禁欲(austerity)と放棄(renunciation)の道を探求し、そして彼はそれを自分の教えの中で強調しました。 彼は、この幻想の物質世界を支配しようとして(to lord it over、偉そうに振舞う)貴重な時間を無駄にすることはしませんでした。しかし、もしも彼が自分が提議した(to propound)哲学の現在の状態を見たら、(彼は)恥ずかしく思ったことでしょう。 私たちは、ラーダークリシュナン博士が彼に影響されたことを疑いません。これは彼の著述から明らかです。それでも、自著「入門的な随筆」の25ページで、彼はこう書きます。「ギーターの重点は、ご自分の自然(Nature、プラクリティ)によって、知覚できる世界を創造なさる、人格的な神としての至高存在にあります。 主はすべての存在の心臓の中に住まわれます。主は享楽者であり、犠牲の主です。主は私たちの心を献身にかき立て(to stir ~ to devotion、強い刺激を与えてその気持をあおる)、私たちの願いを叶えられます(to grant prayer)。 主は価値の源であり、維持する者(retainer)です。主は崇拝と祈りにおいて私たちと個人的な関係に入られます。」 第24段落 これを書いて、このようにギーターの本当の意味(purport)を受け入れたあとで、どうして後からラーダークリシュナン博士は、主クリシュナの体と魂が異なっていると述べることができるのでしょうか?そのような考えは、彼の物質主義的な教育の結果に違いありません。 完全真理、非二元論的な(nondual)至高存在が推定では(supposedly、~と思われる)ご自分の内的な存在から離れているとは、何と奇妙な一元論を彼は提議するのでしょうか!(訳注:二元論的ではない完全真理、至高存在がご自分の内的な存在とは別個であるとするとは、~!) ラーダークリシュナン博士は、自分の哲学におけるこれらの明白な欠陥(flaws)を説明することができるでしょうか?至高主ご自身が全知の(omniscient)超魂として皆の心臓の中にいらっしゃるとき(訳注:when、~なら)、それなら他の誰が主の(訳注:斜線で強調)心臓の中に座ることができるでしょうか? ギーターにおいて、主クリシュナご自身がご自分の超越的な性質について語られ、自分の物質的な学識で武装したラーダークリシュナン博士が否定するための(to contradict、否認、逆らう、矛盾する)程度の低い試みをしただけだ(buta feeble)ということを述べられます(making statement)。 (訳注:ギーターにおいて主が~と語られたことからも、ラーダークリシュナン博士が自分の学識を頼りに下手にあがいて(ギーターの意味を)否定しようとしただけということが分かります。) そのような愚かさを通してラーダークリシュナン博士は教育を広める振りをしましたが(to make a show of)、事実は、彼は真実ではないこと(untruth)を教えたのです(to preach、布教)。 第25段落 ブラーマン、パラマートマー(超魂)、そしてバーガヴァーン(至高の人格神)---3つすべてが、同じ、非二元論的な至高の完全存在です。ラーダークリシュナン博士がこの主題を知らないと言うのは馬鹿げています(ridiculous)が、それでも私たちは、至高主が化身なさるとき主はマーヤーの影響(sway)の下にくる、という彼の主張の中に論理を見出しかねます。 主は疑いの余地なく(unequivocally)、ギーターにおいて、(ご自分が)顕現するとき、(主は)ご自分のもともとの超越的な形においてそうする、と述べられます。したがって、主と主の体の間には違いはありえないのです。主はさらに、ご自分の姿(appearance)、活動などはすべて超越的であり、物質の領域(realm)を超えている、と述べられます。 主は永遠であり、至高に純粋であり、もともとの至高の人格であり、至高のブラーマンです。私たちは皆、ジーヴァはマーヤーによって覆われていると同意しますが、もしも至高のブラーマン、すなわちパラブラーマンもまたマーヤーによって覆われているのであれば、それならマーヤーはパラブラーマンよりも優れているのでしょうか?
by ammolitering4
| 2016-03-17 09:14
| 「英知による放棄」
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