8章3-C 物質的な幸せという夢を退ける(to reject)
第1段落 ちょうど蛾が火によって魅了されるように、私たちはこの物質世界の輝き(glitter)によって惹きつけられます(to be enamored)。死ぬということを知らずに、蛾はものすごい(great)速さで火に入ります。彼らが無理に火に入ること(their forceful entrance into fire)は、確かな死を意味します。 同様に、現代の科学は一時的な楽しみのために幾らかのいわゆる快適さを作り出しましたが、同時に私たちは非常に多くの危険な状況という危険性を負います。シュリマッド・バーガヴァタムには、パダム・パダム・ヤッド・ヴィパダームと書かれています。「この世界には常に危険がある(there is danger at every step)。」 第2段落 快適でないこと(discomfort、不快さ)を和らげようとする(to mitigate、苦痛を減らす)私たちの試みは、重い荷物(heavy burden)を運んでいるときの労働者の、幾らかの安らぎ(relief、苦痛からの解放)を得ようとする試みのようです(訳注:~ときに労働者が~)。 あまりにも不快なとき(too uncomfortable)、彼は荷物を自分の頭から肩へ移動します。しかし、それは荷物を運ぶことの難しさを取り除く(to eliminate)ことはしません。同様に、私たちは非常に多くの科学的な発明を作り出すことによって物質的な快適さを得ようとしていますが、それらは実際には幸せを提供しません。 私たちは単に自分の荷物の位置を変えています。例えば、アメリカでは単に自動車で運転して回るだけのために(just to drive around in their motorcars)人々は非常に多くの危険を受け入れなくてはなりません。彼らは交通を改善することによって自分の幸せを増やそうとするかもしれませんが、彼らは単に荷物を移動させています(to shift ~ around)。 したがって、彼らはもっともっと多くの問題を作り出します。あまりにもたくさんの車を持っているので、彼らはもっと多くの道と高速道路を、道の上に道を重ねて(one on top of another)作らねばなりません。それでも彼らは交通渋滞、事故、公害、そして不快さを経験します。これは無駄な努力です。 科学者たちは、自分たちは人生の問題を解決していると考えますが、人生の不快さは、それでも存在します(still there)。そして科学者たちは必ず失敗します(must fail)。なぜなら、クリシュナご自身がバガヴァッド・ギーターにおいて確認なさるように、この物質の世界は本来(by nature)不快さに満ちているからです:ドゥーカーラヤム・アシャーシュヴァタム。それなら、どうして(how)それを幸せな場所にすることができるでしょうか? 第3段落 私たちは、何か危険なものの夢、虎や蛇が来ている(is coming)という夢を見るかもしれません。そしてそのとき、私たちは別の夢に変えたいと思います。同様に、幸せのための何らかの人工的な方法(some artificial means of happiness)を作り出すことによってこの物質世界で幸せになろうという私たちの試みは、単に役に立たない夢です。本当の幸せは、クリシュナの蓮の御足の庇護の下に入ることです(to take shelter of)。 8-3-D 純粋な献身者はバークティだけを欲する(nothing but~) 第1段落 ハリ・バークティ・スドーダヤの中で、主の偉大な献身者であるプラーラーダ・マハーラージャが次のようにヌリスィムハデヴァ(半分ライオンで半分人間の化身)に祈ったと述べられています。「我が親愛なる主よ、献身奉仕において単により強くあることができるように(I may simply be stronger in ~)、私は繰り返しあなたの蓮の御足に祈ります。 私は単に自分のクリシュナ意識がもっと強く安定している(steady)ようにと(may)祈ります。なぜなら、クリシュナ意識と献身奉仕から得られる幸せはとても力強いので、それをもって人は、宗教性、経済的な発達、感覚の満足、そしてさらには(even)物質的な存在からの解放を得ることという、他のすべての完成を持つことができるからです。」 第2段落 実際は、純粋な献身者はこれらの完成のいずれも欲しません。なぜなら、クリシュナ意識における献身奉仕から得られる幸せは非常に超越的で非常に無限なので、他のどの幸せもそれに比べられないからです。 クリシュナ意識における幸せの一滴さえも、他のどの活動から得られる幸せの海をはるかに超えています(to stand beyond comparison with~、比較を超えた場所に位置する)。このように、純粋な献身奉仕のほんの少量でさえも発達させた人は誰でも、非常に簡単に、宗教性、経済的な発達、感覚の満足、そして解放から得られる他のすべての種類の幸せを追い出す(to kick out)ことができます。(訳注そのような幸せを欲する欲望を心から追い出す、という意味) 第3段落 コーラーヴェチャー・シュリーダーラとして知られる、非常に貧しい、主チャイタンニャの偉大な献身者がいました。彼は調理用バナナ(plantain、プランタン)の木の葉から作ったコップを売る小さな商売をしており、彼の収入はほとんど無に等しいものでした。 それでも彼は自分の乏しい収入の50%をガンジスの崇拝に使い、残る50%でどうにか(somehow)暮らしていました。主チャイタンニャはこの内密な(confidential)献身者コーラーヴェチャー・シュリーダーラに、一度ご自身を明かされ、望むどんな富(opulence)でも与えると彼に申し出ました。 しかしシュリーダーラは主に、自分は何らの物質的な富も欲しくないと告げました。彼は自分の現在の立場でとても幸せ(quite happy)であり、主チャイタンニャの蓮の御足へのゆるぎない信頼(unflinching faith)と献身を得ることだけを欲していました。それが純粋な献身者の立場です。もしも毎日24時間、献身奉仕に携わることができるなら、彼らは他の何も、解放の幸せや至高存在と一つになることさえも欲しません。 第4段落 ナーラダ・パンチャラートラにおいても、誰であれ、ほんの少量の献身奉仕でさえも発達させた者は、宗教性、経済的な発達、感覚の満足、あるいは5種類の解放から得られるどんな種類の幸せも全く気にしない(訳注:doesn't care a fig for~、取るに足らないものとして一瞥もしない)と述べられています。 (訳注:原文は(In ~ it is also said that ~)であり、これは「~においては~とも述べられている」という形ですが、述べられている内容が前のと全く同じなので、このようにしています。)宗教性、解放、あるいは感覚の満足から得られるいかなる種類の幸せも、純粋な献身者の心(heart)に入ってこようとすることさえできません(cannot even dare to~)。 女王の個人的な召使たち(personal attendants and maidservants、召使と女中)が全くの(all)敬意と服従(obeisances)をもって女王に従う(to follow)ように、同様に、宗教性、経済的な発達、感覚の満足、そして解放という喜びは、主への献身奉仕に従います(to follow、あとに続く)。 言い換えると、純粋な献身者はどの源から得られるどんな種類の幸せにも欠けていません。彼はクリシュナへの奉仕以外の何も欲しません(does not want anything but~)が、たとえ彼が他の望みを持っているとしても(should)、主は献身者が頼まなくても(without ~'s asking)それを満たします。 8-4 純粋な献身奉仕の稀少さ 第1段落 霊的な人生の予備的な段階(preliminary phase)においては、自己認識を得るための様々な種類の禁欲、苦行(penances)、そして似通った方法(processes)があります(訳注:「そして似通った方法があります」は「などの方法があります」と同義)。 しかし、これらの方法の遂行者が何らの物質的な欲望も持たないとしても、彼らはそれでも献身奉仕を得ることはできません。そして、献身奉仕を得るためにただ一人で欲すること(aspiring by oneself alone、~しようと一人で努力すること)もまた、あまり希望の持てるものではありません。 なぜなら、クリシュナは単に誰にでも(to merely anyone)献身奉仕を授けることには同意なさらないからです。クリシュナは簡単に人に物質的な幸せや、あるいは解放さえも与える(to offer)ことがおできになりますが、主はご自分への献身奉仕に携わることを与えることには、あまり簡単に同意なさいません。 献身奉仕は、実に(in fact)、純粋な献身者の慈悲を通してのみ得られます。チャイタンニャ・チャリタームリタ(マデャー19.151)において、こう述べられています。「純粋な献身者である霊的指導者の慈悲によって、そしてクリシュナの慈悲によって、人は献身奉仕の水準に至ることができます。他の方法はありません。」 第2段落 献身奉仕の稀少さは、タントラ・シャーストラにおいても確認されており、そこで主シヴァはサティーにこうおっしゃいます。「我が親愛なるサティーよ、、もしも人がとても立派な(fine)哲学者であり、知識の様々に異なる過程を分析するなら、彼は物質的な呪縛からの解放を得ることができます。 ヴェーダにおいて勧められている儀式的な犠牲を行うことによって、人は徳のある活動の水準に上げられることができ、そしてそこで(thereby)人生の物質的な快適さを最大限に楽しむことができます。 しかし、そのような努力のすべては主への献身奉仕をほとんど誰にも与えることができません(all such endeavors can hardly offer anyone ~)。たとえ人がそれを求めてそのような方法で何千回も何千回も生まれ変わって努力したとしてもです。」 第3段落 シュリマッド・バーガヴァタムにおいてプラーラーダ・マハーラージャは、単に個人的な努力によって、あるいはより高い権威からの指導(instruction)によっては、人は献身奉仕の段階に至ることはできない、と確認なさいます。人は、物質的な欲望という汚染から完全に解放された純粋な献身者の蓮の御足の埃によって祝福されるようにならねばなりません。 8-4-A バークティの蜜(honey)を味わう 第1段落 献身奉仕はクリシュナと主の献身者の慈悲に依存しています。私たちが純粋な献身者の蓮の御足に服従しない限り、純粋な献身奉仕の水準に来るのは可能ではありません。自分自身の努力によっては、蜂は瓶の中の蜜(honey)を味わうことはできません。 より優れた者(a superior)によって瓶が開けられねばなりません。もしも蜂が単に瓶の外側を舐めて「今、私は蜜を味わっている」と考えるなら、彼は幻想の中にいます。同様に、献身者によって扉が開けられない限り、誰も献身奉仕に入ることはできません。 したがってルーパ・ゴスヴァーミーは、アーダウ・グルヴァーシュラヤムとおっしゃいます。献身奉仕における最初の一歩は、バークティの原則を辿る師弟継承からのグルを受け入れることです。そうすれば人(you)は献身奉仕の道に簡単に入るでしょう。 人はニシュキーンチャナ、「物質的な欲望のない」グルを選ばねばなりません。主の蓮の御足を受け入れた者は、すべての物質的な欲望を卒業しています(to have finished with、切り上げる、済ませる)。そのような純粋な献身者は、どんなものであれ自分のいる(訳注:置かれた)人生の状況の中で、主への奉仕に携わっていることだけを望みます。 第2段落 ユディースティラ王は、そのような純粋な献身者でした。シュリマッド・バーガヴァタムの5巻(5.6.18)においてナーラダはユディースティラにこう言います。「我が親愛なる王よ、パーンダヴァ家(the ~s)とヤドゥ家の永遠の保護者であるのは、ムクンダとして知られる主クリシュナです。 主は、あらゆる点で(in every respect)あなたの霊的指導者と教師(instructor)でもあります。主はあなたにとって唯一の崇拝すべき(worshipable、~に値する)神です。主はとても高貴で(訳注:dear、この場合は「親愛なる」ではなく、値段や価値などが高いことを表す形容詞)愛情深く、そして主は個人として、そして家族としての両方で(both individual and familial)、あなたのすべての活動の指導者(director)です。 そしてさらに(what's more、おまけに)、主はときとして、まるであなたの使者(messenger)であるかのように、あなたの命令を遂行なさいます!我が親愛なる王よ、あなたは何と非常に幸運でいらっしゃることでしょう。 なぜなら、他の者たちにとっては、至高主によってあなたに与えられたこれらすべての恩恵(favors)は、夢に見ることさえできないからです(would not even be dreamt of)。」この節への解説は、主は簡単に解放をお授けになりますが、魂に献身奉仕を授けることには滅多に同意なさらないということです。なぜなら、献身奉仕によって主ご自身が献身者によって購入されるようになるからです。 8-5 バークティは至高存在と一つになることの幸せを最小化する 第1段落 シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーは、もしもブラーマーナンダ、すなわち至高存在と一つになることの幸せが1兆倍になったら(to be multiplied by one trillion fold)、それはそれでも献身奉仕の海から得られる幸せのほんの一部(atomic fraction、原子のような小片)にも比べられない、とおっしゃいます。 プラーラーダ・マハーラージャは、ご自分の祈りで主ヌリスィムハデヴァを満足させながら、こうおっしゃいます。「我が親愛なる宇宙の主よ、あなたの存在の中で私は超越的な喜びを感じており、幸せの海に溶け込みました(to have become merged in)。 私は今、ブラーマーナンダの幸せを、この幸せ(bliss)の海と比べると、地面の上に牛のひづめ(hoof)によって残されたくぼみ(impression)の中の水より多いものではないと考えます。」同様に、シュリマッド・バーガヴァタムへのシュリーダーラ・スヴァーミーの解説書(commentary)であるバーヴァルター・ディピカーの中で、このように確認されています。 「我が親愛なる主よ、あなたへの献身の蜜(Your nectar of devotion)の海の中で泳いでおり、そしてあなたの娯楽の物語(narration、語り)の蜜を味わっている一部の幸運な人々は、確かに、宗教性、経済的な発達、感覚の満足そして解放から得られる幸せの価値を直ちに最小化する恍惚(ecstasies)を知っています。そのような超越的な献身者は、献身奉仕以外のいかなる種類の幸せも、道の上の麦わらより優れたものではないと見なします。
by ammolitering4
| 2014-04-09 14:49
| 「永遠の愛の術」
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