人気ブログランキング |

第3章から第7章まで

第3章 バークティによって得られる利益(Benefits of Bhakti)

第1段落
このバークティ・ラサへの永遠の携わり(this eternal engagement in~)は、「献身の甘露」を学ぶことによって(upon)真剣な生徒によって理解され得ます(訳注:~は、~によって、この永遠に~に携わるということを理解することができます)。

バークティ・ラサ、すなわちクリシュナ意識を受け入れる(to adopt)ことは、人を直ちに不安(anxiety)のない、縁起の良い(auspicious)人生に連れて行き、人を超越的な存在で祝福し、そうして解放の価値を最小化します(訳注:~すると、人生は直ちに不安のない、幸いなものとなり、人は超越的な存在となって、解放が取るに足らぬものに思えるでしょう)。

バークティ・ラサそれ自体が、解放の気持ち(feeling、解放されたという感覚)を作り出すのに十分です。なぜなら、それは至高主、クリシュナの関心を惹きつけるからです。一般に、初心者の献身者はしきりにクリシュナ、すなわち神を見たがりますが(anxious to see)、神は私たちの現在の物質的に鈍い(blunt)な感覚によっては見られ、あるいは知られ得ません。

「献身の甘露」において勧められている(as it is recommended)献身奉仕の過程は、徐々に人を人生の物質的な状態(condition)から霊的な状態(status)に上げて、そこで(wherein)献身者はすべての呼称(designation、日本人、女性、絵描き、などの身体的な区分)から清められます(to become purified of)。

そのとき感覚はバークティ・ラサと常に触れ合っていることで汚染がなくなります。浄化された感覚が主への奉仕のために使われるとき、人はバークティ・ラサの人生に位置するようになり、この人生の超越的なバークティ・ラサの段階においてクリシュナの満足のために行われたいかなる活動も、永遠に味わわれ得ます。

人がこのように献身奉仕に携わるとき、すべての種類のラサ、すなわち甘い関係(mellow)は永遠になります(to turn into eternity)。最初は、人はアーチャーリャ、すなわち霊的指導者の導きの下で規律の原則に応じて訓練されます。

そして徐々に、人が(訳注:高い水準に)上げられるとき、献身奉仕はクリシュナに奉仕をすることへの自動的で自発的な(spontaneous)熱意になります。「献身の甘露」において説明されている12種類のラサがあり、5つの主要なラサにおいてクリシュナとの自分の関係を回復させる(to renovate、修復、刷新)ことによって、私たちは完全な知識と喜びにおいて永遠に生きることができます。

第2段落
生きている状態(living condition)の基本的な原則は、私たちは誰かを愛する一般的な傾向(propensity、性質)を持っているというものです。誰も、誰か他のものを愛することなく生きることはできません。この傾向はすべての生命体の中に存在します。

虎のような動物さえも、この愛する傾向を少なくとも休眠状態(dormant)で持っており、そしてそれは確かに人間の中に存在します。しかし、見失われている(missing、欠けている)要点は、誰もが幸せになることができるようにするためには、私たちの愛をどこに置く(to repose、信頼を置く、望みをかける)かということです。

その見失われている要点はクリシュナであり、そして「献身の甘露」は私たちに、どうやってクリシュナへの自分のもともとの愛を刺激(to stimulate、鼓舞、活性化)することができるか、そしてどうやって私たちが喜びに溢れた人生を楽しめる立場に位置することができるかを教えます。

第3段落
最初の段階で、子供は自分の両親を、それから兄弟姉妹を愛し、そして日々育つにつれて彼は自分の家族、社会、共同体(community)、国(country)、国家(nation)、あるいは人間社会全体さえも愛し始めます。しかし、愛する傾向は人間社会すべてを愛することによってさえ満足されません。

その愛する傾向は、私たちが至高の愛される者は誰かを知るまで、不完全に満足されるに留まります。私たちの愛は、それがクリシュナに向けられる(to be reposed)ときだけ、完全に満足されます。この主題(theme)が、どうやってクリシュナを5つの異なる超越的な甘い関係(mellows)において愛するかを私たちに教える「献身の甘露」の真髄(sum and substance)です。

第4章 無限の(Boundless)愛
第1段落
私たちの愛する傾向は、ちょうど光の振動あるいは空気(訳注:光あるいは空気の振動、とも読める)が広がるように広がりますが、私たちはそれがどこで終わるか知りません。「献身の甘露」は私たちに、クリシュナを愛するという簡単な方法によって生命体の一つ一つすべて(every one of the living entities)を完全に愛する科学(the science of loving~)を教えます。

私たちは、国際連合のような大変な試み(great attempts as~)によってさえ、人間社会に平和と調和を作ることに失敗しました。なぜなら、私たちは正しい方法を知らないからです。その方法は非常に単純ですが、人はそれを冷静な頭で理解しなければなりません。

「献身の甘露」はすべての人に、クリシュナ、至高の人格神を愛する単純で自然な方法をどうやって行うかを教えます。もしも私たちがどうやってクリシュナを愛するかを学ぶなら、それならすべての生命体(living beings)を直ちに、そして同時に愛するのは非常に簡単です。

それは木の根に水を注ぐこと、あるいは人の胃に食べ物を与えることのようです。私たち一人一人が経験したように、木の根に水を注ぐことや胃に食べ物を与えることは、普遍的に(universally)科学的で実際的です。

誰もが、私たちが何かを食べるとき、あるいは言い換えると、私たちが胃に食べ物を入れるとき、そのような活動によって作られたエネルギーは直ちに体全体に配られることをよく知っています。同様に、私たちが根に水をそそぐとき、そうして作られたエネルギーは直ちに、最大の木でさえ全体にくまなく(throughout the entirety of even the largest tree)配られます。

木に部分ごとに水やりするのは可能ではなく、体の部分に別々に食べさせるのも可能ではありません。「献身の甘露」は私たちに、どうやってすべてのもの、すべての場所を直ちに明るくする一つのスイッチを入れるか(turn the one switch)を教えます。この方法を知らない者は、人生の要点を見失っています。

第2段落
物質的な必要性に関して言えば、現時点での人間の文明は心地よく暮らすことにおいて極めて(very much)発達していますが、それでも私たちは幸せではありません。なぜなら、私たちは要点を見失っているからです。

人生の物質的な心地よさだけでは、私たちを幸せにするのに十分ではありません。私たちの不満足の根源的な原因は、物質主義的な人生のあり方における私たちの大変な発達にも関わらず、私たちの休眠状態にある愛する傾向(dormant loving propensity)が満たされていないことです。

「献身の甘露」は私たちに、私たちがどうやって物質世界の中で献身奉仕に完全に携わって生きて、そうしてこの人生と来世において自分のすべての欲求(desires)を満たすことができるかを教えます。

第3段落
「献身の甘露」は物質主義的な人生のいかなるあり方を非難する(to condemn)ために著されたものではなく、(その)意図するところ(the attempts、試み)は、宗教家、哲学者、そして一般の人々に、どうやってクリシュナを愛するかという情報を教えることです。

人は物質的な挫折(discomfiture、失敗)なしに住んでいるかもしれませんが(訳注:安楽な暮らしをしているかもしれませんが)、しかし同時に人はクリシュナを愛する術を学ぶべきです。現時点では、私たちは自分の愛する傾向を利用する非常に多くの方法を発明していますが、事実としては(factually)私たちは本当の要点、クリシュナを見失っています。

私たちは木のすべての部分に水をやっていますが、木の根を忘れています(to miss、~しそこなう)。私たちはすべての方法によって(by all means、ありとあらゆる方法で)自分の体を健康に保とうとしていますが、胃に食べものを与えることを怠っています(to neglect)。

クリシュナを見失うことは人の自己を見失うことも意味します。本当の自己認識とクリシュナの認識は同時に生じます(to go together simultaneously、連動)。例えば、朝、自分自身を見ることは、日の出を見ることも意味します。日光を見ずしては、誰も自分自身を見ることはできません。同様に、クリシュナを認識しない限り、自己認識はあり得ません。

第5章 純粋な献身奉仕の定義

第1段落
バークティ、すなわち献身奉仕の権威ある定義は、以前のアーチャーリャたちの足跡を辿って、シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーによる次の言明に要約され得ます。「第一級の献身奉仕は、人の、完全にクリシュナ奉仕に携わり、主に好意的に(favorably)奉仕をする、という傾向によって知られます。」

解説は、人は非好意的(unfavorably)にクリシュナ意識であるかもしれないが、それは純粋は献身奉仕としては数えられない、というものです。純粋な献身奉仕は、いかなる物質的な利益、あるいは感覚の満足への欲望からも自由であるべきです。

なぜなら、これらの欲望は結果を求める活動と哲学的な推量を通して培われるからです。一般に、人々は何らかの物質的な利益を得るためにさまざまな(different)活動に携わりますが、一方でほとんどの哲学者はたくさんの(volumes of、書物何巻もの)巧みな言葉(word jugglery、言葉を巧みに操ること)と推量を通して、超越的な認識を提案する(to propose)ことに携わっています。

純粋な献身奉仕は、いつも必ず、そのような結果を求める活動と哲学的な推量から自由でなければなりません。人はクリシュナ意識、すなわち純粋な献身奉仕を自発的な愛情ある奉仕によって、権威のあるもの(authority)から学ばねばなりません。

第6章 クリシュナのために活動する:バークティの真髄
第1段落
この献身奉仕というものは、一種の修養(cultivation、修練)です。それは、非活動的であること、あるいは自分の時間を静寂なる瞑想に捧げることを好む人々のための単なる不活動(inaction)ではありません。

これを欲する人々のための多くの異なる方法がありますが、クリシュナ意識の修養は異なります。このことに関連して、シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーによって使われた特定の言葉はアヌスィーラナ、すなわち前任の(predecessor)教師たち(アーチャーリャ)を辿ることによる修養です。

修養といえば直ちに、私たちは活動に言及しなければなりません(to refer to)。活動なしでは、意識だけでは私たちを助けることはできません(訳注:意識だけで活動が伴わなければ助けにならない)。すべての活動は二つの階級に分けられるでしょう(may):

一つの階級は特定の目的を達成するためであり、そしてもう一つは、何らかの好ましくない状況を避けるためのものでしょう(may)。サンスクリット語では、これらの活動はプラヴリッティとニヴィリッティ---肯定的および否定的な活動と呼ばれます。否定的な活動の多くの例があります。例えば、病気の人は自分の病気をより悪くするのを避けるために、注意深くあり、薬を飲まねばなりません。

第2段落
霊的な人生を修養しており、献身奉仕を遂行している者は、いつも活動に携わっています。そのような活動は体で、あるいは心で行われ得ます。考えること、感じること、そして意志すること(willing)はすべて心の活動であり、そして私たちが何かをすることを意志するとき、鈍い(訳注:gross、精神の感覚より鈍い、密度の濃い)身体的な感覚によって活動が顕現するようになります。

こうして、自分の精神的な活動において私たちはいつも、偉大なアーチャーリャたちと個人的な霊的指導者の足跡を辿り、クリシュナのことを考えようとすべきであり、どうやって主を喜ばせるかと計画しようとすべきです。

体の活動、心の活動、そして言葉(speech)の活動があります。クリシュナ意識の人は自分の言葉(words)を主の栄光を広める(to preach the glories)ことに携わらせます(訳注:使います)。これはキールタナと呼ばれます。

そして自分の心によって、クリシュナ意識の人はいつも主の活動のことを考えます---主がクルクシェトラの戦場でお話しになっていることや、ヴリンダーヴァンでご自分の献身者たちとさまざまな娯楽に携わっていらっしゃることなどです。このようにして人はいつも主の活動と娯楽のことを考えることができます。これがクリシュナ意識の精神的な修養(mental culture、この場合のculture はcultivationと同じような意味)です。

第3段落
同様に、私たちは自分の身体的な活動で多くの奉仕を提供することができます。しかし、すべてのそのような活動はクリシュナと関わっていなければなりません。この関係は師弟継承におけるクリシュナの直接の代理人である真正なる霊的指導者と自分自身を結びつけることによって確立されます。

したがって、体でのクリシュナ意識の活動は霊的指導者によって指示され、そして信頼(faith)をもって行われるべきです。霊的指導者との結びつきは入門(initiation)と呼ばれます。霊的指導者による入門の日から、クリシュナとクリシュナ意識を培っている人の間の結びつきが確立されます。真正なる霊的指導者による入門なくしては、クリシュナ意識との実際の結びつきは決して行われません。

第4段落
このクリシュナ意識の修養は物質的ではありません。主は3つの主な(general)エネルギー、すなわち外的なエネルギー、内的なエネルギー、そして周辺的なエネルギーをお持ちです。生命体は周辺的なエネルギーと呼ばれ、物質的な宇宙の顕現は外的、すなわち物質的なエネルギーの活動です。

そして、霊的な世界があり、それは内的なエネルギーの顕現です。周辺的なエネルギーと呼ばれる生命体は、劣性な外的エネルギーの下で活動しているとき、物質的な活動を行います。そして彼らが内的な霊的エネルギーの下で活動に携わるとき、彼らの活動はクリシュナ意識であると呼ばれます。

これは、偉大な魂あるいは偉大な献身者である者は、物質的なエネルギーの魔力(spell)の下で活動せず、そうではなく変わりに霊的なエネルギーの保護の下で活動する、ということを意味します。献身奉仕において、あるいはクリシュナ意識においてなされるあらゆる活動は、直接、霊的なエネルギーの統御の下にあります。言い換えると、エネルギーは一種の力(strength)であり、そしてこの力は真正なる霊的指導者とクリシュナ両方の慈悲によって霊化され得ます。

第5段落
クリシュナダーサ・カヴラージャ・ゴスヴァーミーによる「チャイタンニャ・チャリタームリタ」において、主チャイタンニャは、クリシュナの恵み(grace)によって真正なる霊的指導者と巡り合うのは幸運な人である、と述べられます。

霊的な人生に関して真剣な者に、クリシュナは真正なる霊的指導者に巡り合う知性を与え、そしてそれから霊的指導者の慈悲によって、人はクリシュナ意識において発達するようになります。このように、クリシュナ意識の管轄(jurisdiction、権限、支配権)全体が直接、霊的なエネルギー---クリシュナと霊的指導者の下にあります。

第7章 純粋な献身者の定義
第1段落
ルーパ・ゴスヴァーミーによって彼の著作「バークティ・ラサームリタ・スィンドゥー」において与えられている純粋な献身者の定義は、このように要約され得ます:彼の奉仕はクリシュナに好意的であり、いつもクリシュナに関わっている、というものです。

そのようなクリシュナ意識の活動の純粋性を保つために、人はすべての物質的な欲望と哲学的な推量から解放されなければなりません。主への奉仕に対するものを除くすべての欲望は、物質的な欲望と呼ばれます。

そして「哲学的な推量」は、究極的に虚無主義あるいは非人格主義という結論に達する種類の推量です。この結論は、クリシュナ意識の人には役に立ちません。哲学的な推量によって人がヴァースデヴァ、すなわちクリシュナを崇拝するという結論に達することは稀です(Only rarely by ~ can one reach ~)。

これはバガヴァッド・ギーターそのものにおいて確認されています。哲学的な推量の究極的な終着点は、それなら、クリシュナがすべて、すべての原因の原因であり、したがって人は主に服従すべきである、という理解をもって、クリシュナでなければなりません(訳注:そうであれば、~という理解をもってすると、~は~でなければなりません)。

もしもこの究極の目的地に至るなら、哲学的な発達は好ましいものですが、もしも哲学的な推量の結論が虚無主義、あるいは非人格主義であるなら、それはバークティではありません。

第2段落
カルマ、すなわち結果を求める活動は、時として儀式的な活動から成るように理解されます。ヴェーダにおいて、儀式的な活動に非常に魅了されている多くの人々が描写されています。しかし、もしも人がクリシュナを理解することなく単に儀式的な活動に魅了されるようになるなら、彼の活動はクリシュナ意識にとって好ましくありません。

実際は、クリシュナ意識は単にクリシュナにつして聞くこと、主について唱えること、主を思い出すことなどに基づき得ます。シュリマッド・バーガヴァタムは9つの異なる過程を描写しており、それ以外には為されるすべてのことがクリシュナ意識にとって好ましくありません(訳注:それ以外のものはすべて~)。

第3段落
シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーはまた、次のように「ナーラダ・パンチャラートラ」からも定義を引用なさいました。「人はすべての物質的な呼称(designation)から自由であるべきであり、そしてクリシュナ意識によってすべての物質的な汚染を洗い清められねばなりません。

彼は自分の純粋な自己認識(identity)に戻される(to be restored)べきであり、そこにおいて彼は自分の感覚を感覚の所有者への奉仕に携わらせます。」ですから、私たちの感覚がクリシュナ、感覚の実際の所有者のために使われるとき(to be engaged)、その活動は献身奉仕と呼ばれます。

制約された状態において、私たちの感覚は身体的な要求(demands)に奉仕することに携わっています。同じ感覚がクリシュナの命令を遂行することに携わるとき、私たちの活動はバークティと呼ばれます。

第4段落
人が自分自身を特定の家族、特定の社会、あるいは特定の国に属すると認識する限り(to identify、同一視する)、彼は呼称によって覆われていると言われます。人が自分はどの家族、社会、あるいは国にも属せず、そうではなく永遠にクリシュナと関係があると完全に気づくとき、彼はそのとき、自分のエネルギーはいわゆる家族、社会、あるいは国の利益のためではなくクリシュナの利益のために使われるべきであると気づきます。

これが目的の純粋性(purity of purpose)であり、クリシュナ意識における純粋な献身奉仕の水準です。
by ammolitering4 | 2014-03-29 13:38 | 「永遠の愛の術」


<< 願い事 第1章と第2章 >>