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第1章と第2章

第1章 「献身の甘露」とは何か

第1段落
「献身の甘露」は、シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミー・プラブパーダによってサンスクリット語で書かれた「バークティ・ラサームリタ・スィンドゥ」の要約(summary study)です。彼は主チャイタンニャ・マハープラブの直弟子であった6人のゴスヴァーミーたち(Six Gosvamis)の筆頭者(chief、長)でした。

主チャイタンニャに初めて会ったとき、シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミー・プラブパーダはインドのベンガル地方のイスラム教政府で大臣として働いていました。彼と彼の兄弟のサナータナは、それぞれダビラ・カーサとサーカラ・マッリカと名付けられており、彼らはナワブ・フセイン・シャーの大臣として責任のある役職に就いていました。

そのころ、500年前、ヒンズー教の社会は非常に厳格(rigid)で、もしもブラーマナの階層の者がイスラム教の支配者の下での仕事(a position of service、奉仕の立場)を受け入れたなら、彼は直ちにブラーマナの社会から退けられました。

それがダビラ・カーサとサーカラ・マッリカという二人の兄弟の立場でした。彼らは非常に位の高いサーラスヴァタ・ブラーマナの社会に属していましたが、フセイン・シャーの政府で大臣の役職を受け入れたことによって追放されていました(to be ostracized、排斥)。

これらの二人の身分の高い(exalted、高貴な)名士たちをご自分の弟子として受け入れ、彼らをブラーマナの文化における最も高い地位であるゴスヴァーミーの地位にまで上げたのは、主チャイタンニャのお恵みです。同様に、主チャイタンニャはハリダーサ・タークラもご自分の弟子として受け入れられました。

ハリダーサはイスラム教の家庭に生まれついたにも関わらずです。そして主チャイタンニャは、後に彼を主の聖なる御名、ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレを唱えることのアーチャーリャになさいました。

第2段落
主チャイタンニャの原則は普遍的です。クリシュナ意識の科学を知って、主への奉仕に携わっている者は誰でも、ブラーマナの家庭に生まれた者よりも高い地位にあるとして受け入れられます。それがすべてのヴェーダ文献によって受け入れられているもともとの原則です。すべての人を教育してゴスヴァーミーという(of)卓越した役職に上げるという(the principle ~ in educating and ~)主チャイタンニャの運動の原則は、「献身の甘露」の中で教えられています。

第3段落
主チャイタンニャは、マルダー地方にあるラーマケリとして知られる村でダビラ・カーサとサーカラ・マッリカの二人の兄弟に会いました。そしてその面会(meeting、出会い)のあと、兄弟たちは政府の仕事を退いて主チャイタンニャに加わる決心をしました。

のちにルーパ・ゴスヴァーミーとなったダビラ・カーサは、退職して、働いていた間に貯めたすべてのお金を集めました。チャイタンニャ・チャリタームリタの中で、彼が金貨として集めた貯金は何百万ドルにも匹敵し、大きな船を一杯にしたと描写されています。

彼はお金を非常に模範的な方法で分けました。それは特に献身者によって、そして人類一般(humanity in general)によって倣われるべきものです。彼の集めた富の50%はクリシュナ意識の人々、つまりブラーマナとヴァイシュナヴァに配られました。

25%は親類に配られ、そして25%は緊急時のための費用(emergency expenditures)と個人的な困難に備えて保たれました。そののち、サーカラ・マッリカもまた退職の意を申し出たとき、ナワブは非常に動揺して(to be agitated)、彼を牢に入れました。

しかし、のちにシュリーラ・サナータナ・ゴスヴァーミーとなったサーカラ・マッリカは、村の銀行家の元に預けられていた彼の兄弟の個人的なお金を利用して、フセイン・シャーの刑務所から逃げ出しました。このようにして、兄弟は二人とも主チャイタンニャ・マハープラブに加わりました。

第4段落
ルーパ・ゴスヴァーミーは後にプラヤーガ(インドのアッラハバッド)で主チャイタンニャに会い、その聖なる都市のダシャースヴァメダー沐浴ガータ(訳注:on the Dasasvamedha bathing ghata of that holy city、ガンジス河沿いの沐浴の場。ghataは階段状の沐浴の場所を指す。ダーシャシュワメード・ガート )において、主は10日間通して彼にお教えになりました。

主は特にルーパ・ゴスヴァーミーにクリシュナ意識の科学について教えました。主チャイタンニャの、シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミー・プラブパーダへのこれらの教えは、私たちの本「主チャイタンニャの教え」の中で語られています(to be narrated)。

第5段落
のちにシュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミー・プラブパーダは、主の教えを、明かされた聖典に関する深遠な(profound、学識の深い)知識と様々なヴェーダ文献からの権威ある参照をもって(with)詳述しました(to elaborate)。

シュリーラ・シュリーニヴァーサ・アーチャーリャは、6人のゴスヴァーミーたちへのご自分の祈りの中で、彼らは皆、サンスクリット語だけでなくペルシャ語やアラビア語などの外国語においても非常に学識のある学者たちだったと描写しています。

彼らは、チャイタンニャ・マハープラブの運動をヴェーダの知識の権威ある原則(authorized principles)の上に確立するために、非常に詳しく(scrutinizingly、じろじろと見る様子)すべてのヴェーダ文献を研究しました。

現在のクリシュナ意識運動もまた、シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミー・プラブパーダの権威に基づいています。したがって、私たちは一般にルーパーヌガ、すなわちシュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミー・プラブパーダの足跡を辿る者として知られます。

現在「献身の甘露」として提示されている(presented in the form of~)「バークティ・ラサームリタ・スィンドゥ」という著作をシュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーが用意なさったのは、私たちを導くためだけにです(It is only for our guidance)。

第2章 バークティとは何か?
第1段落
バークティは「献身奉仕」を意味します。すべての奉仕は、奉仕者(servitor、お供をする人)をますます(progressively on and on、前進的に継続して)駆り立てる(to drive~、人をある状態にしたり、何かさせたりする)何らかの魅力的な特徴を持っています。

この世界の中の私たち一人一人は永久に何らかの種類の奉仕に携わっており、そしてそのような奉仕のための刺激(impetus、機動力)は、私たちがそれから得る(to derive from)喜びです。自分の妻と子供たちへの愛情によって駆り立てられ、家庭人は昼も夜も働きます。

博愛主義者(philanthropist)は、より大きな家族への(of)愛のために、そして国家主義者(nationalist)は自分の国と同胞(countrymen)の主義(cause、主張、正当な理由)のために、同じように働きます。博愛主義者、家庭人、そして国家主義者を駆り立てるその力は、ラーサ、すなわちその味が非常に甘い、一種の芳醇な(mellow、円熟した)(関係)と呼ばれます。

(訳注:原文ではmellow (relationship)というふうに括弧付きで付け加えられていますが、これはプラブパーダが独特の表現をなさっていたためです。mellowは本来形容詞で、何かが時間とともに丸く柔らかく味わい深くなった状態を指しますが、プラブパーダはこれを「甘い関係」という意味の名詞としてお使いになることがよくあります。これが昔のインド辺りの独特の表現だったのかどうかは分かりませんが、こういう例はときどきあります。)

第2段落
バークティ・ラサは俗的なことのために働く者(mundane workers)が楽しむ普通のラサとは違う関係(mellow)です。俗的なことのために働く者は、感覚の満足として理解される特定の種類のラサを味わうために昼も夜も非常に一所懸命に働きます。

俗的なラサの味わい(訳注:relish or taste、どちらも同じ意味)は長持ちせず、したがって俗的なことのために働く者は、いつも自分の楽しみの立場を変えがち(apt to~、ともすれば~する)です。ビジネスマンは、一週間ずっと働くことでは満足しません。

したがって、彼は週末には変化を求めて、自分のビジネスの活動を忘れようとする場所に行きます(訳注:どこかに行って忘れようとする)。それから、週末が忘却において費やされたあと、彼は再び自分の立場を変え、自分の実際のビジネスの活動を再開します。

物質的な仕事(material engagement)は、特定の状態(status、立場)をしばらくの間受け入れ、そしてそれからそれを変えることを意味します。行ったり来たりするというこの立場(this position of changing back and forth)は、厳密にはボーガ・テャーガとして知られており、それは感覚の満足と放棄が交替に現れる立場(a position of alternating~)を意味します。

第3段落
生命体は、感覚の満足にも放棄にも安定して留まることができません。変化は永久に続いており、そして私たちは、私たちの永遠の、本来の立場のため(because of~)、どちらの状態でも幸せであることはできません(訳注:私たちは本来、永遠であるため~)。

感覚の満足は長くはもたず、したがってそれはチャパラ・スカー、すなわち点滅する(flickering、ちかちかと点滅するように不安定な)幸せと呼ばれます。例えば、昼も夜も一所懸命に働いて自分の家族(the members of his family)に心地よさ(comforts)を与えることに成功している普通の家庭人は、そして一種の甘い関係(mellow)を味わいますが、彼の物質的な幸せの発達全体は、彼の人生が終われば直ちに、彼の体と共にたちどころに終わります。

したがって死は無神論的な人々(atheistic class of men)にとっては神の代理人として受け取られます。献身者は献身奉仕によって神の存在に気づきます(to realize)が、他方で無神論者は神の存在を死の形で(in the shape of death)気づきます。

死のとき、すべてが終わります。そして人は新しい状況で、おそらくは、その前のものより高いか、低いかで、人生の新しい章を始めなければなりません。どんな活動の分野においても―――政治的、社会的、国家的あるいは国際的―――私たちの活動の結果は人生の終わりと共に終わります。それは確かです。

第4段落
しかし、バークティ・ラサ、主への超越的な愛情ある奉仕において味わわれる甘い関係(mellow)は、人生の終わりに伴って終わることはありません。それは永久に続き、したがってそれはアムリタ、死なず、永遠に存在するもの、と呼ばれます。

これはすべてのヴェーダ文献において確認されています。バガヴァッド・ギーターは、バークティ・ラサにおけるほんの少しの(a little)発達は献身者を最も大きな危険―――来世において人間となる機会を失うことから救うことができると言います。

社会生活、家庭生活、あるいは利他主義(altruism)や博愛主義(philanthropy)、国家主義、社会主義、共産主義などの拡大した家庭生活(greater family life)における私たちの気持ちから得られるラサは、人の来世が人間としてであるということを保証しません。

私たちは自分の来世を現在の人生における自分の実際の活動によって準備します。生命体は、現在の体における自分の活動の結果として(訳注:来世において)特定の種類の体を与えられます(~is offered)。(訳注:ここでは~will be offeredとしたほうが分かりやすい。)

これらの活動は、ダイヴァ、すなわち神の権威として知られる優位な権威(superior authority)によって考慮されます(to be taken into account、計上)。このダイヴァは、バガヴァッド・ギーターにおいてすべてのもののもともとの原因(prime cause)として説明されており、そしてシュリマッド・バーガヴァタムにおいて、人は自分の次の体を、至高存在の権威による(of)監督(supervision、管理)を意味するダイヴァ・ネトレナによって得る(to take)と述べられています。

普通の意味では、ダイヴァは「運命(destiny)」として説明されます。ダイヴァによる監督は、私たちに840万種の形から選ばれた体を与えます。その選択は私たちの選択によるものではなく(the choice does not depend on our selection)、私たちの運命に応じて授けられます(to be awarded、報いとして与えられる)。

もしも現在の私たちの体(our body at present)がクリシュナ意識の活動にいそしんでいるなら、それなら私たちは来世において少なくとも人間の体を得ることは保証されます。クリシュナ意識に携わる人間は、たとえバークティ・ヨガの過程を完成させることができなくても、人間の社会の、より高い地位(division、区分)に生まれます。

自動的にクリシュナ意識における自分の発達を進める(to further、さらに深める)ことができるようになるためです。したがって、クリシュナ意識におけるすべての真正なる活動はアムリタ、すなわち永遠です。これが「献身の甘露」の主題です。
by ammolitering4 | 2014-03-26 06:27 | 「永遠の愛の術」


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