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第1部 最後まで

第21段落
私たちは自分自身が人生のすべての状況において喜びに溢れているのに気づく(to find)でしょう。私たちは決して不機嫌(morose、気難しい、むっつりした)に感じません。バガヴァッド・ギーターにおいて
私たちは、これが私たちのブラーマ・ブータ(徳の最も高い段階)な状態であるということを見出します。

ヴェーダは私たちに、私たちはこの物体ではない、ということを教えます。私たちはブラーマンです。アハム・ブラーマースミ。主シャンカラーチャーリャは、世界にこの福音を布教なさいました。私たちはこの物体ではありません。私たちはブラーマン、霊です。

霊的な認識が実際に達成されたとき、そのとき私たちのしるし(symptoms)は何でしょうか?人が自分の(his own)霊的な認識に位置しているとき、そのとき彼は何の切望(hankering、手の届かないものへの渇望)も何の嘆きも持たないでしょう。

嘆きは失ったもの(loss、失うこと、損失)のためであり、そして切望は得られないもの(gain、得ること、利益)のためです(訳注:hankeringが得られないものを求める気持ちであることから、この場合のgainは「まだ得られていない、あるいはとうてい得られない利益」となるため、否定形にしています)。

二つの病気がこの物質世界を特徴づけます。持っていないものを私たちは切望します(to hanker after、飢えたように欲しがる、ないものねだりをする)。「もしもこれらのものを得たら、私は幸せになるだろう。私はお金を持っていないが、もしも100万ドル得れば、そうすれば私は幸せになるだろう。」

そして私たちが100万ドルを持っているとき、どういうわけかそれは失われるでしょう。そのため私たちは泣きます。「おお、私はそれを失ってしまった!」私たちが収入(earning)を求める(to hanker for~、ここではfor ですが、afterでも意味は同じ)とき、それは一種の苦しみ(distress)です。

そして私たちが損失に苦しむとき、それも苦しみです。しかし、もしもわたしたちがブラーマ・ブータに位置しているなら、私たちは苦しむことも切望することもありません。私たちはすべての人とすべてのものを平等に見るでしょう。たとえ燃え盛る炎のような(fiery)動乱(turbulence、社会不安、騒乱、乱気流)のなかにあっても、私たちは心を乱されないでしょう(will not be disturbed)。それが徳の相です。

第22段落
バーガヴァタムは神の科学を意味します。もしも神の科学が固守されるなら(to persevere in、続ける、忍耐する)、私たちはブラーマ・ブータの状態(status、地位)に位置するでしょう。ブラーマ・ブータの状態から、私たちは働かねばなりません。なぜなら、ここで仕事が勧められているからです。

この物質の体を持っている限り、私たちは働かねばなりません。私たちは働くことを止めることはできません。それは可能ではありません。しかし私たちはヨガの方策(tactics、戦術)を取り入れ(to adopt、採用する、自分のものとして取り入れる)なければならず、そしてこのようにして(訳注:~なりません。そうすれば)、たとえ運命あるいは状況によって私たちに強いられた(to be put into)何らかの普通の仕事をすることによっても(訳注:~をしても)、害はありません。

たとえば、自分の仕事において、嘘を言わなければビジネスが続かないと仮定しましょう。嘘をつくのはあまり良いことではありません。そのため人は、そのビジネスはあまり道徳的な(moral)原則に基づいておらず、したがって自分はそれを放棄すべきだと結論します。

しかしバガヴァッド・ギーターにおいて私たちは、放棄すべきではないという(not to give it up)教えを見出します。たとえ私たちが何らかの不公正な(unfair)実践なくしては自分の生計が続かないような状況に入れられたとしても、私たちはそれを放棄すべきではありません。

しかし、私たちはそれを浄化しようとすべきです。それはどのように浄化されるでしょうか?私たちは仕事の結果(fruitive results)を取る(to take)べきではありません。それは神のためのものです(to be meant for)。

第23段落
スクリタは敬虔な活動を意味します。そしてドゥシクリタは不敬虔な活動を意味します。物質的な水準において、私たちは敬虔、あるいは不敬虔であることができます。私たちは、何らかの敬虔な活動を行っているか、あるいは何らかの不敬虔な活動を行っているか―――あるいは私たちは敬虔と不敬虔の混じったものを持っています(訳注:~活動をしています)。

主クリシュナは、私たちは至高存在に関する知識、あるいは至高存在への献身の念を持って活動すべきであると助言なさいます。その知識とは何を意味するのでしょうか?それは、私は至高の意識の欠かすべからざる小片である、あるいは私はこの体ではない、ということを意味します。

もしも私が自分をアメリカ人として、インド人として、あるいはこれやあれと考える(to identify、同一視する)なら、それなら私は物質的な水準(plane、段階)にいます。私たちは自分をアメリカ人としてでもインド人としてでもなく、純粋な意識と考えるべきです。

私は至高の意識の従属的な(subordinate)意識です。言い換えれば、私は神の従者です。神は至高の意識であり、そして私は主の従者です。そのため、私たちの現在の理解にとっては、従属的とは従者を意味します。

第24段落
私たちは普通は神との関係において従者としての仕事を行いません(to carry out、実行する)。誰も従者でありたいと願わず、そうではなく誰もが主人でありたがります。なぜなら、従者であることはあまり心地よい(palatable、楽しい、快い)ことではないからです。

しかし、神の従者になることはこのようなものではありません(not exactly like this、これとは少し違う)。時として、神の従者は神の主人になります。生命体の本当の立場は神の従者であることですが、バガヴァッド・ギーターにおいて私たちは主人、クリシュナが、アルジュナの従者になったのを見ることができます。

アルジュナは戦車に座っていて、そしてクリシュナは彼の運転手です。アルジュナは戦車の持ち主ではありませんが、霊的な関係においては、私たちは物質的な関係という(of)概念に執着すべきではありません(訳注:「クリシュナは戦車の持ち主ではない」の間違い?戦車というのが運転手の持ち物なのか戦士の持ち物なのか分かりませんが、たぶん単なる間違いだと思います)。

ちょうどこの世界において私たちがその経験を持っているように、関係全体は霊的な世界に存在しますが、その関係は物体によって汚染されていません(訳注:この場合は、「主人と従者という」関係そのものは物質世界にも霊的世界にもあるが、霊的な世界のそれは汚染されていない、という意味)。

したがって、それは純粋で超越的です。それは異なる性質を持っています(it is of a different nature)。生命の霊的な概念において発達するにつれて、私たちは霊的な、超越的な世界における(訳注:生命体の)本当の立場は何であるかを理解することができます。

第25段落
ここで主は私たちにブッディー・ヨガについて(in)お教えになります。ブッディー・ヨガは、私たちが自分はこの体ではないという完全な意識を持つことを意味します。そして、もしも私がこの理解をもって活動するなら、それなら私は体ではありません―――私は意識です。それは事実です。さて、もしも私たちが意識の水準において活動するなら、それなら私たちは良い仕事あるいは悪い仕事の結果(fruitive results)を乗り越えることができます。それは超越的な段階です。

第26段落
それは私たちが別の誰かのために(on another's account)―――至高存在のために活動していることを意味します。私たちは損失あるいは利益に責任がありません。利益があるとき、私たちは思い上がる(to be puffed up)べきではありません。私たちは「この利益は主のためだ」と考えるべきです。

そして損失があるとき、私たちはこれは自分の責任ではないことを知るべきです。それは神の仕事―――主のです。そうすれば私たちは幸せになります(Then we will be happy)。これを私たちは実践(to practice)しなければなりません:すべてを至高存在のために(on account of)。

この超越的な性質を私たちは育まねばなりません。これが、これらの現在の状況の下で仕事を行う秘訣(trick、要領、コツ)です。身体的な意識の水準において働けば直ちに、私たちは自分の仕事の反応によって縛られるようになります。しかし、霊的な意識を通して働くとき、私たちは敬虔な活動によっても、悪い(vicious)活動によっても縛られません。それが技法(technique)です。

第27段落
マニーシナー―――、この言葉は大変重要(significant)です。マニーシンは思慮深いこと(thoughtful)を意味します。思慮深くない限り、人は自分がこの体ではないと理解することができません。しかし、もしも人が少し思慮深いなら、彼は「おお、私はこの体ではない。私は意識だ」と理解することができます。

時として、暇なときに(in our leisure time)、私たちは「おお、これは私の指で、これは私の手だ。これは私の耳で、これは私の鼻だ。すべて私のものだが、私は何か、私は何か?」と見ることができます。私はこれを私のものだと、そして私がいると感じています(訳注:I am feeling this is mine, and that I am、「I am」というのは「私は存在する、私は私である」という感覚)。

単に少しの思考が必要とされます。すべてのものが私のものです―――私の目、私の指、私の手。私の、私の、私の、そしてその私とは何でしょうか(what is the I)?その私とは、そこで私が「これは私のものだ」と考えている、その意識です。

第28段落
さて、もしも私がこの体でないなら、それならなぜ私はこの体のために活動すべきでしょうか?私は私自身のために活動すべきです。それでは、私はどうやって自分自身のために活動することができるでしょうか?私の立場は何でしょうか?私は意識です。しかし、どんな種類の意識でしょうか?

従属的な意識―――私は至高の意識の一部です。それでは、私の活動とは何になるでしょうか?私の活動は至高の意識の導きの下になります(will be)。ちょうど、事務所において、管理者(managing director)が至高の意識であるようにです。

たとえば、事務所では誰もが管理者の指示の下で働いています。したがって、彼らは責任を持ちません。彼らは自分の義務を果たさねばならないだけです。敬虔な義務であれ不敬虔な義務であれ―――気にしてはいけません(never mind)。

軍隊(military line)でも、隊長(captain)あるいは司令官(commander)の命令があります。兵士はそれを遂行しなければなりません。彼はそれが敬虔であるか不敬虔であるかを考慮しません。それは関係ありません。彼は単に活動しなければなりません。そのとき彼は本当の兵士です。

彼はそのように行動し、そして彼は褒美を得ます(to be rewarded、報われる)。彼は称号と栄誉を得ます。彼は気にしません。司令官が「ただ、行って敵を殺しなさい」と言い、彼は褒美を得ます。殺すことによって人が褒美を得ると思いますか?いいえ―――それは遂行された義務に対してです。

第29段落
同様に、ここで状況はクリシュナがアルジュナに教えているというものです。クリシュナは至高の意識です。私は意識、至高の意識の欠かすべからざる小片です。そのため私の義務は、その至高の意識に応じて活動するというものです。

例えば、私は自分の手を自分の体の一部だと考えます。今、それは独自に(in its own way)動いています(訳注:これは「独自に動いてはいない」の間違いであると思われます)。「私が望むように手を動かそう(let my hand be moved)、脚を動かそう。目を開けて見よう(let my eyes be open and see)。」

ですから、私が命令していて(to dictate)、そしてこれらの部分が働いています。同様に、私たちは皆、至高存在の欠かすべからざる小片です。私たちが自分を至高の意識に従って(in accordance with~)活動するように訓練するとき、そのとき私たちはこれらすべての敬虔あるいは不敬虔な活動を超越するようになります(to become transcendental to~)。それが技法です。この技法の結果は何でしょうか?私たちは誕生と死の呪縛から自由になります。もはや誕生と死はありません。

第30段落
現代の科学者と哲学者は、誕生、死、病、そして老いというこれらの4つのことについて考えません。彼らはそれらを脇に置きます。「おお、幸せになりましょう。この人生を楽しみましょう。」しかし、人間の人生はこの誕生、死、病および老いという呪縛への解決策を見つけるためにあります。

もしも、どの文明であっても(any civilization)これらの4つの問題への解決策を見つけていないなら、それならそれは人間の文明ではありません。人間の文明は、これらのことに完全な解決策を見つけるためにあります。

第31段落
さて、ここでバガヴァッド・ギーターの中で主はカルマ・ジャム・ブッディーユクターとおっしゃいます。カルマ・ジャムは、行為(action、作用)があるときはいつでも何らかの反応(reaction、反作用)があるということを意味します。もしも人が悪(badness)において振舞うなら、悪い反応があるでしょう。

しかし、良いものであれ悪いものであれ、反応は、より高い意味では、すべて苦しみです。たとえば、良い行いによって私が良い誕生、美しい(fine)身体的な特徴、そして良い教育を得ると仮定しましょう。これらすべての良いものを私は持っているかもしれませんが、それは私が物質的な痛みから自由であることを意味しません。

物質的な痛みは、誕生、死、老い、そして病です。たとえ私が富裕な人、美しい人、教育のある人、貴族の(aristocratic)家庭に生まれた等であっても、私はそれでも死、老い、そして病を避けることはできません。

第32段落
ですから私たちは、敬虔な活動や不敬虔な活動に関わってはなりません(訳注:to be concerned with~、関わる、携わる)。私たちは超越的な活動だけに関わらねばなりません。それは私たちをこの誕生、死、老いと病の呪縛から救います。それが人生における私たちの目標であるべきです。

私たちは良いことあるいは悪いことを切望している(to hanker after~)べきではありません(訳注:損失を嘆いたり利益を欲しがったりするべきではない)。たとえば、人が何かの病気に苦しんでいると仮定しましょう。彼は寝床に横たわり、食べ、不快さを感じながら排泄し(passing nature's call uncomfortably)、苦い薬を飲んでいます。

彼はいつも看護人たちによって清潔に保たれなければなりません。そうでなければひどい匂いがします。彼がこのような状態で横たわっている間に、何人かの友人たちがやってきて、大丈夫か(how he is feeling)と聞きます。「はい、私は大丈夫です(I am feeling well)。」この大丈夫とは何でしょうか?

不快さを感じながら寝床に横たわり、苦い薬を飲み、動くことができません!それでも、これらすべての不便にも関わらず、彼は「私は大丈夫だ」と言います。同様に、私たちが持っている人生の物質的な概念において(in our material conception of life)、もしも私たちが「私は幸せだ」と考えるなら、それは愚かさです。

物質的な人生には幸せはありません。ここで幸せを得ることは不可能です。この状態において、私たちは幸せの意味を知りません。それが、他でもないこの言葉(this very word)マニーシナー―――「思慮深さ」が使われる理由です。

第33段落
私たちは何らかの外部的(extraneous、外来性の、外側から来る)で人工的な方法によって幸せを探しますが、それらはどれくらい長くもつでしょうか?それは長持ちしません(It will not endure)。私たちは再び悲しみ(sorrow、不幸)に戻ってきます。

たとえば、陶酔物を摂取すること(intoxication、中毒状態)によって私たちが幸せに感じると仮定しましょう。それは私たちの本当の幸せではありません。たとえば、私がクロロフォルムによって無意識にされ、手術の痛みを感じないとしましょう。それは私が手術を受けていないことを意味するのではありません。これは人工的です。本当の喜び、本当の人生が存在します。

第34段落
シュリー・クリシュナによってバガヴァッド・ギーターにおいて命令されているように、思慮深い者は純粋な意識の水準に位置して、仕事の反応を放棄します。結果は、この誕生と死、病と老いの呪縛が終わるというものです。

この終わりは、本当の自己認識(identity)、クリシュナ、喜びと永遠の幸せの宝庫との調和です。(訳注:この一文は分かりにくいです。in union with~はin unison with~、すなわち「ユニゾン、調和や一致」の間違いと思われます。「ユニオン、結びつき」でも意味は通りますが、一般的な表現とは言えません。また、原文はin union with the true identity, Krishna, the reservoir of pleasure and eternal blissですが、どこでどう区切って理解したものやら判然としません。)

実に、そこに私たちが得るべき本当の幸せ(訳注:the true happiness for which we are intended、 to intendは意図を示す)があります。

(訳注:このレクチャーの場所と年代の表示がない。)
翻訳の元にしているのはKrishna Booksが2001年に発行した小冊子です。原本は1960年代後半から1970年代初めに発行されたという表示があります。
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とりあえずこれで第1部がおしまいですが、どうも何だか間違いが多いような気がします。このあと第2部があるので、それもそのうちお届けします。
by ammolitering4 | 2014-03-09 05:14 | 「クリシュナ、喜びの宝庫」


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