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第1章第9段落まで

クリシュナ、喜びの宝庫(Krishna, the Reservoir of Pleasure)
(訳注:「著者について」は省略します。)

第1部:クリシュナ、喜びの宝庫
( 訳注:Reservoirは貯水池を意味する言葉で、知識や富や人材など、良いものが豊富にある状態を表すのにも使われる。)

第1段落
クリシュナ―――この音は超越的です。クリシュナとは、最も高い喜びを意味します。私たちは皆、すべての生命体は、喜びを探し求めます。しかし、私たちはどうやって完璧に喜びを探し求めるかを知りません。

人生の物質主義的な概念を持って、私たちは自分の喜び(訳注:~への渇望)を満足させることにおいて、絶えず(at every step)挫折しています(to be frustrated、失敗する、不満が募る)。なぜなら、本当の喜びを持つ水準(the real level on which to have~)について、何の情報も持たないからです(訳注:どこに~を見出せばよいのかを知らないからです)。

過去2~3週間、私たちは、自分はこの体ではないということを学んできました;私たちは意識です。厳密には意識ではありません。なぜなら、意識は実際は私たちの本当の自己(identity)のしるし(symptom、兆候、徴候)だからです。

私たちは純粋な魂であり、今はこの物質の体と同化しています(to be merged within~、溶け込む)。現代の物質的な科学は、このことに全く重点を置きません(to lay no stress on~)。したがって、科学者たちは時として、霊魂の理解において誤って導かれます。

しかし、霊魂は誰もが意識の存在によって理解することができる事実です。どの子供も、意識は霊魂のしるしであると理解することができます。

第2段落
さて(Now)、私たちがバガヴァッド・ギーター(神の歌)から学ぼうとしている過程(process)全体は、どうやって私たち自身を意識のこの水準に持ってくるかというものです。そして、もしも私たちが意識の水準から行動するなら、それなら私たちはこの身体的な概念という水準に再び押し入れられないかもしれません。

そして、もしも私たちがその水準において続けることができるなら、もしも私たちが純粋な意識において活動し続けることができるなら、それならこの体の終わりに私たちは物質的な汚染から解放され、私たちの霊的な人生が蘇り(to be revived)、そして究極の結果は、私たちの来世において、この体を去った後で、私たちは完全な(full)、永遠の霊的な命(life)を得るというものです。既に論じたように、霊は永遠と描写されます。

第3段落
この体の滅亡(destruction)の後でさえ、意識は滅ぼされません。そうではなく、意識は別の種類(type)の体に移され、再び私たちに生命の物質的な概念に気づかせます(to make us aware of~)。それもまたバガヴァッド・ギーターにおいて描写されています。

死のときに、もしも私たちの意識が純粋なら、私たちの未来は物質的ではない―――私たちの来世は霊的であることは確かです(we can be sure that~)。もしも死のときに私たちの意識が純粋でないなら、それなら、この体を去ったあとで、私たちはもう一つの物質的な体を取らねばならないでしょう。それが続いている過程です(訳注:この過程がずっと続いています)。それが自然の法です。

第4段落
私たちは今、最終的な体を持っています。私たちが見る体は、密度の濃い(gross)体です。それはちょうど、シャツやコートのようなものです。コートの中にシャツがあり、そしてシャツの中に体があります。同様に、純粋な魂はシャツとコートによって覆われています。

衣服(garments)は心、知性、そして偽りの自我です。偽りの自我とは、私は物体(matter)である、私はこの物質世界の産物である、という思い違い(misconception)を意味します。この思い違いは、私を局在化させます(to make me localized)。

例えば、私はインドで生まれたので、私は自分をインド人だと考えます。私はアメリカで生まれたので、私は自分をアメリカ人だと考えます。しかし、純粋な魂として、私はインド人でもアメリカ人でもありません。私は純粋な魂です。これらの他のものは呼称(designations、区分して識別すること)です。

アメリカ人、あるいはインド人、あるいはドイツ人、あるいはイギリス人;猫や犬、あるいは蜂やコウモリ、夫(man)や妻:これらすべては呼称です。霊的な意識において、私たちはすべてのそうした呼称から自由になります。その自由は、私たちが至高の霊、クリシュナと常に触れ合っているとき(constantly in touch)、得られます。

第5段落
クリシュナ意識協会は、単に私たちがいつもクリシュナと触れ合っているようにすることを目的としています(to be intended、意図する)。主は全能(omnipotent、omniは「すべて」を意味する接頭語、potentは能力を意味する)でいらっしゃるので、クリシュナは常に私たちと共にいることがおできになります(Krishna can be in constant companionship with us)。

したがって、主はご自分の言葉によって完全に私たちと触れ合っていることができます。主のお言葉と主は異なりません。それが全能性(omnipotence)です。全能性とは、主に関連するすべてのものが同じ力を持つことを意味します。

例えば、ここ物質世界においては、もしも私たちが喉が渇いて水が欲しいなら、単に「水、水、水、水」と繰り返すことは私たちの乾きを癒しません(to satisfy、満足させる)。なぜなら、この言葉は水そのものと同じ力を持たないからです。私たちは実体としての水(the water in substance)を必要とします。

そうすれば私たちの乾きは癒されます。しかし、超越的な、完全な世界にあっては、そのような違いはありません。クリシュナの名前、クリシュナの性質、クリシュナの言葉―――すべてがクリシュナであり、同じ満足を提供します。

第6段落
アルジュナはクリシュナが目の前にいらしたから主と話していたのだ、しかし(whereas、~に反して)私の場合はクリシュナがいらっしゃらない、と論じる人々がいます。だから、どうやって私が導き(directions)を得られるだろうか?しかし、それは事実ではありません。

クリシュナはご自分の言葉―――バガヴァッド・ギーターによって存在していらっしゃいます。インドでは、バガヴァッド・ギーター、あるいはシュリマッド・バーガヴァタムについて話すとき(to speak on~、この場合はある話題について説教をするとき)、私たちはいつも(regularly)、定められたように(as it is required for worshipping)(校正:worshiping→ worshipping)、花、あるいは他のもの(paraphernalia、関連する付属品)を使って儀式を行います(to perform worship)。

シーク教でも、何らの神像も持たないとはいえ、彼らはグランターサヒブという本を崇拝します。おそらく、皆さんの中にはこのシーク教の社会に馴染みのある方もおいででしょう(to be acquainted with this Sikh community)。彼らはこのグランターを崇拝します。

同様に、イスラム教徒はコーランを崇拝します。同様に、キリスト教の世界では、聖書が崇拝されます。主イエス・キリストがご自分のお言葉によって存在なさるというのは事実です。クリシュナもまた、ご自分の言葉によって存在なさいます。

第7段落
神あるいは神の息子であれ、超越的な世界から来るこれらの名士たち(personalities)は、物質世界によって汚染されることなく、ご自分たちの超越的な自己認識(identity)をお保ちになります。それが彼らの全能性です。私たちは習慣的に神は全能であると言います(we are in the habit of saying~)。

全能性とは、主がご自分の名前から、ご自分の性質から、ご自分の娯楽から、ご自分の教えから、異なっていないことを意味します。したがって、バガヴァッド・ギーターの議論(訳注:~を論じること)は、クリシュナご自身との議論と同じほど良いのです。

第8段落
クリシュナはあなたの心臓に、そして私の心臓にも座っていらっしゃいます。イーシュヴァラー・サルヴァ・ブーターナーム・フリド・デシェ・リジュナ・ティシュターティ。神はすべての者の心臓の中に位置しておいでです。神は私たちから離れていらっしゃいません。主は存在していらっしゃいます。

主は非常に友好的でいらっしゃるので、私たちの繰り返す転生においても(in our repeated change of births)、私たちと共に留まられます。主は、私たちがいつご自分のほうを振り返るか
(to turn to Him、関心を寄せる、頼る)と待っておられます(He is waiting to see when~)。

主は非常に親切なので、私たちは主を忘れるかもしれないにも関わらず、主は決して私たちを忘れません。息子は自分の父親を忘れるかもしれませんが、父親は決して自分の息子を忘れません。同様に、すべての物、すべての者、すべての生命体のもともとの父親である神は、決して私たちをお見捨てになりません(to forsake)。

私たちは異なる体を持っているかもしれませんが、それらは私たちのシャツとコート(訳注:shirt-coats、シャツ型の短いコートやカーディガンを指しますが、この場合は文脈から単にシャツやコートとしています)です。それは私たちの本当の姿(real identity)とは何の関係もありません。

私たちの本当の姿は純粋な魂であり、そしてその純粋な魂は至高主の欠かすべからざる小片です。840万の生命の種が存在します。生物学者と人類学者(anthropologist)でさえ、これを正確に計算することはできませんが、権威のある、明かされた聖典から、私たちはこの情報を得ます。

人間(human beings)はそのうちの40万種を占め(to represent)、800万の他の種があります。しかしクリシュナ、至高主は、それらすべて、獣(beast)、人間、ヘビ、神、準神(semi-god)、半神―――何でもかんでも(anything whatever)―――それらすべてが実際に(in reality)ご自分の息子であると主張なさいます。

第9段落
父親は種を与え、そして母親が種を受け取ります。それから母親の体に応じて体が形作られます。そして体が完全に形作られたとき、それは出てきます―――猫から、あるいは犬から、あるいは人からであれ。それが生物の発生(generation、世代)の過程です。

父親が種を与え、そしてそれは母親の子宮の中で二種類の分泌液(secretion)によって乳化され(to be emulsified)、そして最初の夜に体はちょうどエンドウマメのように形作られます。それから徐々にそれは発達します。9つの穴ができます(There are nine holes that develop):二つの耳、二つの目、鼻腔、口、へそ、陰茎、そして肛門です。
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こんにちは。ほんのちょっとだけお届けします。こういうのを英語でteaseと言います。ちらっとだけ見せて期待を持たせ、じらしていじめる性悪な様子を指す言葉です。非常に勉強になるブログサイトですね~、と我ながら大変自慢です。そういうわけで、続きは再び「まだか、まだか」と辛抱強くお待ちくださいませ。
by ammolitering4 | 2014-03-03 08:19 | 「クリシュナ、喜びの宝庫」 | Comments(0)
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