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第4章 後半

第11段落
この体の父親に服従することには何らかの困難があるかもしれません。なぜなら、彼は限定された知識と力を持っているからです。しかし、クリシュナは普通の父親のようではありません。クリシュナは無限であり、完全な知識、完全な力、完全な富、完全な美しさ、完全な名声と完全な放棄を持っています。

私たちは、そのような父(father→ Father)のところへ行って彼の(His)財産を楽しむ自分を幸運だと考えるべきではありませんか?それでも、誰もこれについて関心を持たないように(to care about)見え、そして今、誰もが神はいないという宣伝をしています(to make propaganda、propagandaは主義や主張の宣伝)。

なぜ人々は主を探し求めないのでしょうか(to seek Him out)?答えはバガヴァッド・ギーターの次の節において与えられています。

(サンスクリット引用)

「非常に(grossly、良くないことを強調する表現)愚かで、人類のうちで最も低く、その知識が幻想によって盗まれており、そして悪魔の無神論的な性質を帯びた(to partake of)それらの悪者たち(miscreants)は、私に服従しません。」(Bg.7.15)

第12段落
このように愚か者は区分されています。ドゥシュクリティーは、いつも聖典の命令に反して活動しています。現在の文明の仕事(business、関心事)は聖典の規則を破ること―――それがすべてです。定義によって、敬虔な人とは、そうしない人です。

ドゥシュクリティー(悪を為す者)とスクリティー(敬虔な人)を区別する何らかの水準がなくてはなりません。すべての文明化された国は、何らかの聖典を持っています―――それはキリスト教、ヒンズー教、イスラム教、あるいは仏教であるかもしれません。

それは関係ありません。要点は、権威の書、聖典があるということです。その命令に従わない者は、無法者(outlaw)と考えられます。

第13段落
この節において言及されているもう一つの区分は、ムーダー、一番の愚か者です。ナーラーダーマは人間の基準において低い者で、マーヤヤーパーリタ・ジニャーナは、その知識がマーヤー、すなわち幻想によって運び去られている(to be carried away)者を指します(訳注:幻想によって知識を見失っている者)。

アースラム・バーヴァム・アーシュリターは、全くの(out and out)無神論者である者を指します。父(Father)に服従することには何の不利益(disadvantage)もないにも関わらず、このように区分される人々は、決してそうしません。

その結果、彼らは常に父(Father)の代理人たちによって罰せられています。彼らは、ひどく叩かれ、鞭打たれ(caned)、蹴られねばならず、そして彼らは苦しまねばなりません。ちょうど、父親が自分の手に負えない(unruly、言うことを聞かない)息子を罰せねば(to chastise、体罰などで厳しく罰する)ならないように、そのため物質自然は特定の罰を与えねば(to employ、適用する)なりません。

同時に、自然は食物と他の必要なものを供給することによって私たちに恵みを与えています(to nourish、栄養を与える)。私たちがすべてのうちで最も豊かな父(Father)の息子であるため、両方の過程が続いています。そして、私たちが主に服従しないにも関わらず、クリシュナは親切です。

それなのに、父(Father)によって非常に良く待遇されている(to be furnished、設備などを与えられる)にも関わらず、ドゥスクリティーはそれでも、許されていない(unsanctioned、はっきりとした公の許可を得ていない)行為を行います。

人は、もしも罰されることに固執するなら(to persist in being punished)愚かであり、もしも生命のこの人間の形をクリシュナを理解するために使わないなら、人間の基準において低位に位置します。もしも人が自分の人生を、自分の本当の父(Father)との間に持っている関係を呼び覚ます(to reawaken)ために使わないなら、彼は人間の基準において堕落していると考えられるべきです(he is to be considered)。

第14段落
動物は単に食べ、眠り、身を守り、性交し、死にます。彼らはより高い意識を利用しません(to avail himself of)。なぜならそれは、生命の、より低い形においては、可能ではないからです。もしも人間が動物の活動に倣って(to follow)、自分の意識を高める能力を利用しないなら(to avail himself of)、彼は人間の基準(の中)を落ちて(he falls down the human scale)、来世における動物の体のために準備をします。

クリシュナの恵み(grace)によって、私たちは高度に発達した体と知性を与えられていますが、もしも私たちがそれを使わないなら、なぜ主はそれらを再び私たちに与えるべきでしょうか?私たちは、この人間の体は何百万年何千万年(millions and millions of years)という進化のあとで発達し、それ自体が(in itself)、その中で800万以上の生命の種が進化する誕生と死の循環から抜け出す機会であると、理解しなければなりません。

この機会は、クリシュナの恵みによって与えられます。そして、もしも私たちがそれを受け取らない(to take)なら、私たちは人間の中で最も低い者ではありませんか?人はどこかの大学からの学位保持者―――修士号(M.A.)、博士号など―――であるかもしれませんが、幻想エネルギーはこの俗的な知識を取り去ります。

本当に知性的である者は、自分は誰であるか、神は誰であるか、物質自然とは何か、なぜ自分は物質自然の中で苦しんでいるのか、そしてこの苦しみへの治療法(remedy)は何かを理解することに自分の知性を使います(to apply)。

第15段落
私たちは、感覚の満足のために自動車、ラジオ、あるいはテレビを製造することに自分の知性を使うかもしれませんが、私たちはこれは知性的ではないと理解しなければなりません。そうではなく(Rather)、これは奪われた(plundered、価値のあるものを取り去られた)知性です。

知性は人生の問題を理解するために人間に与えられましたが、それは誤用されています。人々は、自動車をどうやって製造して運転するかを知っているので、自分たちは知識を得たと考えています。しかし、自動車が現れる前(before the car was here)、人々はそれでも(still)一つの場所から別の場所へ行っていました。

道具(the facility)が増えたというだけですが、この道具と共に、さらなる問題―――空気の汚染と過度に混雑した高速道路―――が訪れます。これはマーヤーです。私たちは道具を作り出していますが、これらの道具は今度は(in their turn、順番に、次に)非常に多くの問題を作り出しています。

第16段落
非常に多くの道具と現代的な設備(amenities)を手に入れる(to supply ourselves with~)ために自分のエネルギーを無駄にする代わりに、私たちは自分は誰で何であるかを理解するために知性を使うべきです。私たちは苦しみたくありません(we do not like to suffer)が、私たちはなぜ苦しみが自分に強いられている(suffering is being forced upon us)かを理解すべきです。

いわゆる知識によって、私たちは単に原子爆弾を製造することに成功しました。こうして、殺す過程が加速しました(killing process has been accelerated)。私たちは、これが知識の発達だと考えて非常に誇っていますが(we are so proud to think~)、もしも死を止めることのできる何かを製造することができるなら、私たちは本当に知識において発達しました(~と言えます)。

死は既に物質自然の中にありますが、私たちは一撃で(at one drop)誰もを殺すことによってそれを促進することに非常に熱心です(so eager to promote it by~)―――これはマーヤヤーパーリタ・ジニャーナ、幻想によってさらわれた(to be carried away)知識と呼ばれます。

第17段落
アースラ、悪魔と、公に宣言した(proclaimed、自他共に認める)無神論者は、実際に主に挑戦します。もしも私たちの至高の主のおかげでなかったら(it it were not for~)、私たちは日の光を見ることもできないでしょう(we would not see the light of the day、日の目を見る、という意味もあるが、この場合は文字通りの解釈でいいと思われる)。

それでは(so)、主に挑戦することの意味(the point)は何でしょうか?ヴェーダにおいて、二つの階層の人間、デヴァとアースラ、半神と悪魔がいると述べられています。デヴァとは誰でしょうか?至高主の献身者はデヴァと呼ばれます。なぜなら、彼らもまた神のようになるからです。

他方で、至高存在の権威を侮る(to defy、挑む、無視する)者はアースラ、すなわち悪魔と呼ばれます。これらの二つの階層はいつも人間の社会の中に見られます。

第18段落
ちょうど、決してクリシュナに服従しない4種類の悪者がいるように、主を崇拝する4種類の幸運な人間がおり、そして彼らは次の節において区分されています。

(サンスクリット引用)
「おお、バーラタの中で最良の者(アルジュナ)よ、4種類の敬虔な人々が私に献身奉仕を行います(to render)―――苦しんでいる者、富を求める者、知識を求める者(the inquisitive)、そして完全存在に関する知識を探し求めている者です。」(Bg.7.16)

第19段落
この物質世界は苦しみに満ちており、そして敬虔な者と非敬虔な者の両方がその影響下にあります。冬の寒さは誰もを同じように扱います(to treat everyone alike)。それは敬虔か非敬虔か(校正:theが抜けている)、富める者か貧しい者かを気にしません(it does not care for)。

しかし、敬虔な者と非敬虔な者の違いは、敬虔な者は自分が悲惨な状況にいるときに神のことを考えるということです。しばしば、苦しんでいるとき、人は教会に行って祈ります。「おお、我が主よ。私は困難な状態にあります。どうか助けてください。」

何らかの物質的な必要物のために祈ってはいるものの、そのような人は、それでも敬虔であると考えられるべきです。なぜなら、彼は苦しみの中で神のところに来たからです。同様に、貧しい人は教会に行って祈るかもしれません。「我が親愛なる主よ、どうか幾らかのお金をください。」

他方で、知識を求める人は普通は知性的です。彼らは物事を理解するためにいつも研究しています(to research)。彼らは、「神とは何だろうか」と尋ねるかもしれず、そしてそれから、(それを)知るために(to find out)科学的な研究をします。彼らもまた敬虔であると考えられます。

なぜなら、彼らの研究は正しい対象に向けられているからです。知識のある者(the man in knowledge)はジニャーニー、自分の本来の立場を理解した者と呼ばれます。そのようなジニャーニーは神について(of)非人格的な概念を持っているかもしれませんが、究極存在(the ultimate)(校正:u→ U)、至高の完全真理の庇護の下にあるので、彼もまた敬虔であると考えられるべきです。

これらの4つの種類の人々はスクリティー、敬虔と呼ばれます―――なぜなら、彼らは皆、神を求めているからです(they are all after God)。

(サンスクリット引用)

「これらの中で、純粋な献身奉仕を通して私との繋がりにおいて(in union with Me)完全な知識を持っている者(in full knowledge)が最良です。なぜなら、私は彼にとって非常に愛しく(dear)、そして彼は私にとって非常に愛しいからです。」(Bg.7.17)

第20段落
神に近付く4つの階層の人々のうち、神の性質を哲学的に理解しようとしている者、クリシュナ意識になろうとしている者―――ヴィシシャテ―――が最良の資格があります(best qualified)。実に、クリシュナは、彼(訳注: ヴィシシャテ)は神を理解することの他に仕事を持たない(to have no other business、~にしか関心がない)ので、そのような人はご自分にとって非常に愛しいとおっしゃいます。

その他の者たちは劣っています。誰も、何らのものを求めても神に祈る必要はなく(No one has to ~ to ask for anything)、そしてそうする者は愚かです。なぜなら、彼はすべてをご存知の神が彼の心臓の中におられ、彼が苦しんでいるとき、あるいはお金が必要なときはよく分かっておられる(to be well aware)ことを知らないからです。

賢い人はこれを認識し、物質的な悲惨さからの解放のために祈りません。むしろ、彼は神を讃えて、他の者たちに主がいかに偉大かを知らせるために祈ります。彼は、自分の個人的な利益(interest)、パン、衣服、あるいは住居のために祈りません。

純粋な献身者は、苦しんでいるとき、こう言います。「親愛なる主よ、これはあなたの親切です。あなたはただ私(の過ち)を正す(to rectify、修正する、直す、矯正する)ために私を苦しみの中に置かれました。私はもっと大きな苦しみの中に置かれるべきですが、慈悲からあなたはこれを最小化なさいました。」これが惑わされていない(not disturbed)純粋な献身者の見方です。

第21段落
クリシュナ意識にある者は、物質的な苦しみ、侮辱(insult)、あるいは栄誉を気にしません(to care for)。なぜなら、彼はこれらすべてから離れているからです。彼は、苦しみ、栄誉、そして侮辱は体だけに関係する(to pertain to)のであり、自分は体ではない、とよく知っています。

例えば、魂の不滅を信じていたソクラテスは、死刑を宣告され(to be condemned to death、condemnは判決を下すという意味)、そしてどのように埋葬して(to bury)欲しいかと尋ねられたとき、答えました。「まず、あなたは私を捕まえなくてはならないでしょう(may)。」

このように(so)、自分は体ではないと知っている者は惑わされません(to be disturbed)。なぜなら彼は、魂は捕まえられ得ず、拷問され得ず、殺され得ず、あるいは埋められ得ないと知っているからです。クリシュナの科学に精通している(conversant)者は、自分は体ではなく、自分はクリシュナの欠かすべからざる小片であり、自分の本当の関係はクリシュナとであり、そして自分は物質の体に入れられたにも関わらず、どうにかして(somehow or other)物質自然の3つの性質から離れたままでいなければならない(to remain)と完全に(perfectly well)知っています。

彼は、徳、熱情、あるいは無明の相にではなく、クリシュナに関心があります(to be concerned with、関係がある、関心がある)。これを理解する者はジニャーニー、賢者であり、彼はクリシュナにとって非常に愛しい者です。

苦しんでいる者は、栄華(opulence)の中に置かれたときは神を忘れるかもしれませんが、神の本当の立場を知るジニャーニーは、決して主を忘れないでしょう。

第22段落
非人格的な存在を崇拝するのは難し過ぎるので、神の形(a form of God)が想像されねばならない、と言う、非人格主義者と呼ばれるジニャーニーの階層があります(訳注:~と呼ばれる~は、~なので~しなければならないと言います)。

これらは本当のジニャーニーではありません―――彼らは愚か者です。誰も神の形を想像することはできません。なぜなら、神は非常に偉大だからです。人は何らかの形を想像するかもしれませんが、それはでっちあげたもの(concoction)です。それは本当の形ではありません。

神の形を想像する者たちがおり、神の形を否定する者たちがいます。どちらもジニャーニーではありません。形を想像するものは聖像破壊主義者(iconoclasts)と呼ばれます。インドでのヒンズー教徒とイスラム教徒の戦い(riots)の間、一部のヒンズー教徒たちはイスラム教徒の寺院(mosque)に行って神の彫刻や像(statues and images)を壊し、イスラム教徒も同じような方法で報復しました(to reciprocate)。

(訳注:このくだりは内容がよく分かりません。イスラム教の神像とは何のことか、また、形を想像する者が聖像破壊主義者になるのもなぜか分かりません。)

このようにして彼らはどちらも「私たちはヒンズー教の神を殺した。私たちはイスラム教徒の神を殺した」などと考えていました。同様に、ガンジーが自分の抵抗運動を率いていたとき、多くのインド人は道に行って郵便箱を壊し、そしてこのようにして自分たちは政府の郵便制度(postal service)を滅ぼしていると考えました。

そのような精神性の人々はジニャーニーではありません。ヒンズー教徒とイスラム教徒、そしてキリスト教徒と非キリスト教徒の間の宗教的な戦争は、すべて無明に基づいて行われました(to be conducted、指揮する、行う)。知識のある者は、神は一つであると知っています。主は、イスラム教徒、ヒンズー教徒、あるいはキリスト教徒ではあり得ません。

第23段落
神はああであり、こうである(such and such and such and such)というのは、私たちの想像です。それはすべて想像です。本当の賢者は、神は超越的であると知っています。神は物質的な相を超越していると知っている者は、本当に神を知っています。

神はいつも私たちの傍らに、私たちの心臓の中にいらっしゃいます。私たちが体を去るとき、神は私たちと共にいらっしゃいます(to go)。そして私たちがもう一つの体を得る(to take on)とき、主は、ただ私たちが何をしているかを見るために、私たちと共にそこに行かれます。

私たちはいつ自分の顔を主に向けるのでしょうか?主はいつも待っておられます。私たちが自分の顔を神に向ければ直ちに、主はおっしゃいます。「我が親愛なる息子よ、いらっしゃい―――サ・チャ・ママ・プリヤー―――あなたは永遠に私にとって愛しい者です。今、あなたは自分の顔を私に向けており、そして私は大変喜んでいます。」

第24段落
賢者、ジニャーニーは、実際に神の科学を理解しています。「神は良い」とだけ理解する者は予備的な(preliminary、準備の)段階にありますが、神がいかに偉大で良いかを実際に理解する者たちは、さらに発達しています。その知識は、シュリマッド・バーガヴァタムとバガヴァッド・ギーターにおいて得られます(~is to be had)。実際に神に興味のある者は、神の科学、バガヴァッド・ギーターを学ぶべきです。

(サンスクリット引用)

「我が親愛なるアルジュナよ、あなたは決して私を羨まない(envious、ねたむ)ので、わたしはあなたにこの最も秘密な知恵(wisdom)を授けます(to impart)。それを知ると、あなたは物質的な存在の悲惨さから解放されるでしょう。」(Bg.9.1)

第25段落
バガヴァッド・ギーターにおいて授けられた神の知識は非常にかすか(subtle、微妙、繊細、難解)で内密(confidential)です。それはジニャーナ、形而上学的な知恵(metaphysical wisdom、抽象的、哲学的、難解)、そしてヴィジニャーナ、科学的な知識に満ちています。そしてそれは神秘に満ちてもいます。

人はどうやってこの知識を理解することができるでしょうか?それは神ご自身、あるいは神の真正なる代理人によって授けられねばなりません。したがってシュリー・クリシュナは、神の科学を理解することに意見の不一致(discrepancy、矛盾、食い違い)があるときは、いつでも自らおいでになる(He incarnates Himself)とおっしゃいます。

第26段落
また、知識は感傷から来るのでもありません。献身は感傷ではありません。それは科学です。シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーはこうおっしゃいます。「ヴェーダの知識への参照がない霊性の見せびらかし(show)は、単に社会への妨害(disturbance、邪魔、騒動の種)です。」

人は、道理(reason、理性、判断力、良識)、議論、そして知識によって献身の甘露を味わわねばならず、そしてそれから彼はそれを他の者たちに渡さねば(to pass it on to、次にまわす)なりません。人はクリシュナ意識は単なる感傷だと考えるべきではありません。

踊ることと歌うことは、すべて科学的です。科学があり、そして愛情ある交換(reciprocation、返礼)もあります。クリシュナは賢者にとって非常に愛しく、そして賢者はクリシュナにとって非常に愛しいのです。クリシュナは私たちの愛を千倍にしてお返しになります。

私たち有限な(finite)生物は、クリシュナを愛するためのどんな力(capacity)を持っているでしょうか?しかし、クリシュナは愛のための莫大な(immense)力―――無限の力をお持ちです。
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さてさて、苦しいときはどう言えばよいか、ちゃ~んと書いてありましたね。さすがはプラブパーダ、私の現在の苦境をお見通しです。なかなか素直にそう言えないのですが、胸に手を当てて反省すれば、うーん、確かにほんとはもっとでっかい罰をくらっても仕方のないようなことをしてしまったかもしれないような。。。そう、したよね、やっぱり。。。というわけで、ただいま個人的にちょっと割引サービスの艱難辛苦を頂戴しております。因果応報、こういうときはおとなしく反省してクリシュナに反省文を提出し、刑期満了を待とうと思います。
by ammolitering4 | 2014-02-21 14:56 | 「クリシュナへの途上」


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