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第4章 前半

第4章 愚者の道と賢者の道
The Roads of the Foolish and the Wise

第1段落
クリシュナはこのようにご自分をありのままにご説明なさっています。それでも私たちは主に魅了されていません。これはなぜでしょうか?理由はクリシュナご自身によって与えられています。

(サンスクリット引用)
「物質自然の3つの相から成る、私のこの神聖なるエネルギーは、乗り越える(to overcome)のが困難です。しかし、私に服従した者は、簡単にそれを乗り越える(to cross beyond)ことができます。」(Bg.7.14)(訳注:この引用文は本文の内容と合っていない。)

第2段落
物質世界には物質自然の3つの性質が満ちています(is pervaded by、浸透する、充満する)。すべての生命体は、これらの性質によって影響されます。もしも主として徳の相によって影響されるなら、彼らはブラーマナと呼ばれ、そしてもしも熱情の相によって影響されるなら彼らはクシャトリヤと呼ばれます。

もしも熱情と無明の相によって影響されるなら彼らはヴァイシャであり、そしてもしも無明によって影響されるなら、彼らはシュードラです。これは誕生あるいは社会的な階級による人工的な押し付け(imposition、義務などを課すこと)ではなく、人がその下で機能しているグナ、すなわち自然の相に応じたものです。

(サンスクリット引用)
「物質自然の3つの相、およびそれらに対応する(ascribed to、~に帰する)仕事に応じて、人間社会の4つの区分が私によって作られました。そして、私はこの制度の創造者ではありますが、不変であるため、私はそれでも非行為者であると、あなたは知るべきです。」(Bg.4.13)

第3段落
この制度がインドの歪んだカースト制度を指しているというのではありません。シュリー・クリシュナは特にこう述べられます。グナ・カルマ・ヴィヴァーガシャー、人はその下で自分が機能しているグナ、すなわち相に応じて区分され、そしてこれは宇宙全体の人々に当てはまります。

クリシュナがお話しになるとき、私たちは、何であれ主がおっしゃることは制限されておらず、宇宙全体で(universally、普遍的に)正しいと理解しなければなりません。主はすべての生命体の父であると主張なさいます―――動物、水生生物、木、草(plants)、毛虫(worms、這う虫)、鳥、そして蜂さえも、皆、主の息子たちである、と主張されます。

シュリー・クリシュナは、宇宙全体が物質自然の3つの性質の相互作用によって幻惑されていて、私たちはその幻想の魔力の下にある、と断言なさいます(to assert)。したがって、私たちは神が何であるか理解することができません。

第4段落
この幻想の性質(nature)は何で、そしてそれはどうやって乗り越えられ得るでしょうか?それもまた、バガヴァッド・ギーターにおいて説明されています。

(サンスクリット引用)

「物質自然の3つの相から成る、私のこの神聖なるエネルギーは、乗り越える(to overcome)のが困難です。しかし、私に服従した者は、簡単にそれを乗り越える(to cross beyond)ことができます。」(Bg.7.14)(訳注:第1段落に出てきた引用文と同一。)

第5段落
誰も、精神的な推量によって物質自然の3つの性質の呪縛(entanglement)を捨てることはできません。3つのグナは非常に強く、乗り越えるのは困難です。私たちは、自分がいかに物質自然の呪縛(grip、掴むこと)の中にあるかを感じることができませんか?

グナ(相)という単語は、縄も意味します。ある人が3本の強い縄で縛られているとき、彼は確かに非常にしっかりと捕らえられています。私たちの手と脚はすべて、徳、熱情、そして無明という強い縄によって縛られています。

それでは、私たちは望みを捨てるべきでしょうか(Are we therefore to abandon hope?)?いいえ、なぜなら、ここでシュリー・クリシュナが、誰であれご自分に服従する者は直ちに自由になると約束なさるからです。人がクリシュナ意識になるとき―――この方法であれ、あの方法であれ(訳注:どんな方法ででも)――-彼は自由になります。

第6段落
私たちは皆、クリシュナと関係があります(to be related)。なぜなら、私たちは皆、主の息子だからです。息子は自分の父親と意見の不一致があるかもしれませんが、彼にとってその関係を壊すことは可能ではありません。

人生において(in the course of his life)、彼は自分が誰であるかと尋ねられます。そして彼は、「私は誰それの息子です」と答えねばなりません。その関係は壊され得ません。私たちは皆、神の息子であり、主とのその関係は永遠ですが、私たちは単に忘れてしまっています。

クリシュナは完全に力強く(all-powerful)、完全に有名で、完全に豊かで、完全に美しく、完全に知識があり、そして主は放棄にも満ちています。そのような素晴らしい人物(personality、強烈で魅力的な性質の持ち主、名士)の友人であるにも関わらず、私たちはそれを忘れてしまいました。

もしも豊かな人の息子が自分の父親を忘れ、家を離れて狂うなら、彼は路上に横たわって眠りにつくかもしれず、あるいは食物のためにお金を乞うかもしれません。しかし、これらすべては彼の忘却によるものです。

しかし、もしも誰かが彼に、彼は単に自分の父親の家を去ったから苦しんでおり(simply suffering because~)、そして大変な金持ちで、莫大な財産(vast property、広大な土地)の所有者である彼の父親は、彼が戻るのを待ち望んでいるという情報を与えるなら―――その人は偉大な恩人(benefactor)です。

第7段落
この物質世界では、私たちはいつも三重の悲惨さ―――体と心から、他の生命体から、そして天災から生じる悲惨さの下で苦しんでいます。幻想によって、物質自然の相によって覆われているので、私たちはこれらの悲惨さを考慮しません(to take account of)。

しかし、私たちはいつも、物質世界においては私たちは非常に多くの苦しみを受けている(to undergo、苦しみを耐え忍ぶ、経験する)と知っているべきです。十分に意識を発達させた者、知性的な者は、なぜ自分は苦しんでいるのかと問います。

「私は悲惨さを望まない。なぜ私は苦しんでいるのだろう?」この問いが生じるとき、クリシュナ意識になるための機会があります。

第8段落
クリシュナに服従すれば直ちに、主は私たちを非常に手厚く(cordially)迎えられます。それはちょうど、自分の父のもとに戻ってこう言う、迷っていた子供のようなものです。「我が親愛なるお父さん、何らかの誤解のせいで、私はあなたの保護を離れましたが、私は苦しみました。今、私はあなたのもとに戻ります。」

父親は自分の息子を抱きしめ、こう言います。「我が親愛なる息子よ、いらっしゃい。私はあなたがいなくなっていた日々、ずっと、非常にあなたを案じていました。そして今、あなたが戻ってきて、私は非常に幸せです。」

父親は非常に親切です。私たちは同じ立場にいます。私たちはクリシュナに服従せねばならず、それはあまり難しくありません。息子が父親に服従するとき、それは非常に難しい仕事でしょうか?それは非常に自然で、父親はいつも息子を受け入れるのを待っています。無礼(insult、侵害、侮辱)の可能性はありません。

もしも私たちが自分の至高の父の前にひれ伏して(to bow down)、主の御足に触れるなら、私たちに害(harm、差し支え、不都合、危害)はなく、それは難しくもありません。実に、それは私たちにとって名誉(glorious)なことです。なぜ私たちはそうせずにおくべきでしょうか(Why should we not?、そうしない理由があるだろうか、ぜひそうしよう)?

クリシュナに服従することによって私たちは直ちに主の保護の下に来て、すべての悲惨さから解放されます。これはすべての聖典によって確認されています(to validate)。バガヴァッド・ギーターの終わりにシュリー・クリシュナはおっしゃいます。

(サンスクリット引用)
「すべての種類の宗教を放棄して、ただ私に服従しなさい。私はあなたをすべての罪深い反応から救います。恐れてはいけません。」(Bg.18.66)

第9段落
自分を神の足元に投げ出すとき、私たちは主の保護の下に来て、そしてそのときから先は私たちには恐れはありません。子供たちが自分の親たち(parents)の保護の下にあるとき、彼らは恐れを知りません(fearless)。

なぜなら、彼らは自分の親たちは自分に危害が加わるようにはしないと(訳注:親たちがいる限り自分は安全だと)知っているからです。マーム・エヴァ・イェ・プラパデャンテ、クリシュナは、ご自分に服従する者は恐れの原因を持たない(訳注:何も恐れるものはない)と約束なさいます。

第10段落
もしもクリシュナに服従することがそんなに簡単なことなら、それならなぜ人々はそれをしないのでしょうか。その代わり、自然と科学がすべてであり、神は無である(God is nothing、この場合のnothing には、取るに足らないつまらないものという意味がある)と主張して神の存在そのものに挑戦している多くの人々がいます。

いわゆる、知識における文明の発達は、大衆(populace)がもっと狂ってきているということを意味します。癒される代わりに、病が増えています。人々は神は好みません(to care for~)が、自然は好み、そして三重の悲惨さという形で苦しみを与える(to give kicks)のは自然の仕事です。

彼女(訳注:自然)は、いつも、一日24時間これらの苦しみを与えて(to administer、薬などを与える、規則や儀式を執り行う)います。しかし、私たちは蹴られる(訳注:苦しめられる)ことに非常に慣れてしまっているので、それで構わない(all right)と考え、それを物事の普通のあり方であると考えます。

私たちは自分たちの教育を非常に誇らしく思うようになりましたが、私たちは物質自然にこう言います。「私を蹴ってくれて本当にありがとうございます。さあ、続けてください。」こうして幻惑されているので、私たちは自分たちは物質自然を征服さえしたと考えます。

しかし、どうしてこれがそうなのでしょうか(訳注:そんなことがあるでしょうか)?自然は今も私たちの上に、誕生、老い、病、そして死という悲惨さを与えています(to inflict upon~)。誰か(any one)これらの問題を解決したでしょうか?

それなら、私たちは知識と文明において、実際に何の発達をしたでしょうか?私たちは物質自然の非常に厳しい(stringent)規則の下にありますが、それでも私たちは、自分たちは征服したと考えています。これはマーヤーと呼ばれます。
by ammolitering4 | 2014-02-19 14:10 | 「クリシュナへの途上」


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