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第3章 最後まで

第16段落
このシュラヴァナム・キールタム―――聞くことと唱えること―――という方法(process)は、主チャイタンニャ・マハープラブによって認められました。主チャイタンニャが主の友人であって偉大な献身者であるラーマーナンダ・ラーヤと話しておられたとき、主は彼に霊的な認識の方法についてお尋ねになりました。

ラーマーナンダはヴァルナーシュラマ・ダーマ、サンニャーサ、仕事の放棄、そして非常に多くの他の方法を勧めましたが、主チャイタンニャは「いいえ、これらすべては、あまり良くありません」とおっしゃいました。ラーマーナンダ・ラーヤが何かを提案するたびに、主は霊的な発達のためのより良い方法を求めて(to request)それを却下しました。

最後にラーマーナンダ・ラーヤは、推量によって究極の真理に至ることは可能ではないため、人が神を理解するための精神的な推量におけるすべての不必要な努力を放棄することを勧めるヴェーダの格言(aphorism)を引用しました。

例えば科学者は遠い星や惑星について推量するかもしれませんが、彼らは経験なくしては決して何らの結論にも達することはできません。人は生涯を通して推量し続け、決して何らの結論にも至らないかもしれません。

第17段落
神について推量することは特に無駄です。したがってシュリマッド・バーガヴァタムは、あらゆる推量は放棄されるべきであると勧めます。その代わり、人は自分が取るに足らない生き物であるだけでなく、この地球は大きな(great)宇宙の中の一つの点に過ぎないことを認識して従順(submissive)になることが勧められています。(訳注: submissiveを「受動的、消極的」と訳してある場合もあるようですが、素直に聞いて受け入れる、という意味なので「従順」のほうが適切であるように思います。)

ニューヨーク市は非常に大きいように見えるかもしれませんが、地球はとても小さな場所(spot)で、地球上でアメリカ合衆国も小さな点に過ぎず、そして合衆国の中でニューヨーク市は小さな点に過ぎず、そしてニューヨークの中で個人は何百万人の中の一人に過ぎないことを認識するとき、そのとき人は自分は結局それほど重要でもない(not so very important)ことを理解することができます。

宇宙と神の前での(in the face of ~)自分の取るに足らなさを認識して、私たちは人工的に驕り高ぶる(to be puffed-up)べきではなく、従順であるべきです。私たちはカエルの哲学に陥らないように(to fall prey to ~)非常に注意深くあるべきです。

昔、井戸にカエルがいて、友人に大西洋の存在を教えられると、彼は友人に尋ねました。「おお、この大西洋というのは何ですか?」

「それは巨大な水溜り(a vast body of water)です」と彼の友人は答えました。

「どれくらい巨大なのですか?(How vast?)それはこの井戸の2倍くらいですか?」

「いえいえ、もっともっと大きいのです」と彼の友人は答えました。

「どれくらい大きいのですか?(How much larger?)10倍ですか?」このようにしてカエルは計算し続けました。しかし、彼が大海の大きさ(the depths and far reaches)を理解する可能性が少しでもあるでしょうか(what is the possibility of his ever understanding ~)?

私たちの能力(faculties)、経験、そして推量の力はいつも限られています。私たちはそのようなカエルの哲学を生む(to give rise to ~)ことができるだけです。したがって、シュリマッド・バーガヴァタムは、至高存在を理解しようとすることにおいて時間の無駄であるとして、推量という方法を放棄することを勧めます。

第18段落
推量を放棄した後で、私たちは何をすべきでしょうか?バーガヴァタムは、私たちが従順になって神の言葉(message)を従順に聞くことを勧めます。この言葉はバガヴァッド・ギーターそして他のヴェーダ文献の中にも―――どの真正なる聖典の中にも―――あるかもしれず、あるいは自己を認識した魂から聞かれるかもしれません。

要点は、人は推量すべきではなく、単に神について聞くべきであるというものです。そのようにして聞くことの結果は何でしょうか?人が何であれ―――貧しい人であれ豊かな人であれ、アメリカ人、ヨーロッパ人、あるいはインド人であれ、ブラーマナ、シュードラ、あるいは他の何であれ―――もしも人が神の超越的な言葉を聞くことさえすれば、どのような力(power or force)によっても決して征服され得ない主は、愛によって征服されます。

アルジュナはクリシュナの友人でしたが、至高神でありながらクリシュナはアルジュナの戦車の運転手、
卑しい(訳注:menial、身分が卑しいという意味ではなく、仕事が熟練を要しないいわゆる単純労働や召使いの仕事である形容)従者になりました。

アルジュナはクリシュナを愛しており、クリシュナは彼の愛をこのようにして報いられました(to reciprocate)。同様に、クリシュナが子供だったとき、主はふざけて(playfully)ご自分の父、ナンダ・マハーラージャの靴を取り、それらをご自分の頭に乗せました。

人々は神と一つになるために非常に熱心に試みるかもしれませんが、実際は私たちはそれを超えることができます―――私たちは神の父親になることができるのです。もちろん、神はすべての生き物の父であり、主はご自分では父親をお持ちでありません。

しかし、主はご自分の献身者、ご自分の恋人(His lover)を父親として受け入れられます。クリシュナは愛のために(out of love)ご自分の献身者によって征服されることに同意なさいます。人がしなければならないことのすべては、主のお言葉を非常に注意深く聞くことです(人は~しなければならないだけです。)

第19段落
バガヴァッド・ギーターの第7章において、シュリー・クリシュナは、主が人生のすべての歩みにおいて知覚され得る更なる方法を示されます(訳注:常に主を感じているための~)。
(サンスクリット引用)
「私は土(訳注:the earth、普通はthe をつけてEを大文字にした場合が「地球」ですが、そうしない場合もあります。この場合は次が「火」なので対応して単に「土」であると思われます)のもともとの香りであり、私は火の中の熱です。私はすべての生けるものの命であり、そして私はすべての苦行者(ascetics)の苦行(penances)です。」(Bg.7.9)

第20段落
プニョ・ガンダーという言葉は香りを指します。クリシュナだけが味(flavors)と香りを作り出すことができます。私たちは人工的に何らかの匂いや香りを作るかもしれませんが、これらは自然の中に生じるもともとのものほど良くありません。良い自然の香りを嗅ぐとき、私たちは「おお、ここに神がいる。ここにクリシュナがいる」と考えることができます。

あるいは、何らかの自然の美を見るとき、私たちは「おお、ここにクリシュナがいる」と考えることができます。あるいは、何か珍しい(uncommon)、力強い、あるいは素晴らしいものを見るとき、私たちは「ここにクリシュナがいる」と考えることができます。

あるいは、何らかの生命の形を見るとき、それが木、植物、あるいは動物、あるいは人間においてであれ、私たちはこの生命はクリシュナの欠かすべからざる小片であると理解すべきです。なぜなら、クリシュナの欠かすべからざる小片である霊的な火花が体から取り除かれれば、直ちに体は朽ちる(to disintegrate、組織が崩壊する)からです。
(サンスクリット引用)

「おお、プリターの息子よ、私はすべての存在のもともとの種、知的な者の知性、そしてすべての力強い者の力(prowess)であると知りなさい。」(Bg.7.10)

第21段落
ここで再び、クリシュナはすべての生ける者の生命である、と明白に(explicitly)述べられています。そのため(Thus、こうして)常に(at every step)私たちは神を見ることができます。人々は「あなたは私に神を見せることができますか?」と尋ねるかもしれません。はい、もちろんです。

神は非常に多くの方法(ways)で見られ得ます。しかし、もしも人が自分の目を閉じて「私は神を見まい」と言うなら、それなら主はどうやって見せられ得るでしょうか?

第22段落
上の節で、ビージャムという単語は種を意味し、そしてその種は永遠(サナータム)であると宣言(to proclaim)されます。人は巨大な木を見るかもしれませんが、この木の源は何でしょうか?それは種であり、そしてその種は永遠です。存在の種はすべての生命体の内にあります。

体そのものは非常に多くの変化を経るかもしれません―――それは母親の子宮の中で育ち、小さな赤ん坊として出てきて、子供時代と大人の時期を通して発達するかもしれません―――しかし、内にあるその存在の種は永遠です。したがって、それはサナータムです。

知らず知らずのうちに(訳注:Imperceivably、”perceivable”は「知覚できる」の意)、私たちは毎瞬間に、毎秒ごとに自分の体を変えています。しかしビーシャム、種、霊的な火花は変わりません。クリシュナはご自分をすべての存在の中のこの永遠の種であると宣言なさいます。

主は知的な人の知性でもあります。クリシュナによって恵まれる(to be favored)ことなくしては、人は卓越して知性的になることはできません。誰もが他の者たちより知性的であろうとしていますが、クリシュナの恵みなくしてはこれは可能ではありません。

したがって、卓越した知性を持った誰かに会った(to encounter、偶然出会う、遭遇する)ときはいつでも、私たちは「その知性はクリシュナだ」と考えるべきです。同様に、非常に影響力の強い(influential)人の影響力(influence)もまたクリシュナです。
(サンスクリット引用)

「私は、強く、熱情と欲望のない者の力です(I am the strength of the strong, devoid of passion and desire)。私は宗教的な原則に反しない(not contrary)性生活です、おお、バーラタの主(アルジュナ)よ。」(Bg.7.11)

第23段落
象とゴリラは非常に強い動物であり、私たちは彼らは自分の力をクリシュナから得ると理解すべきです。人間は自分自身の努力によってそのような力を得ることはできませんが、もしもクリシュナがそのように恵みを与えるなら、人間は象を何千倍も超える力を得ることができます。

クルクシェトラの戦いで戦った偉大な戦士ビーマは、象の一万倍の力を持っていると言われました。同様に、欲求あるいは宗教的な原則に反しない欲望(lust、主に性的な欲望を指す)(カーマ)もまたクリシュナとして見られるべきです。この欲望とは何でしょうか?

欲望は一般的には性生活を意味しますが、ここでカーマは宗教的な原則に反しない性生活、つまり良い子供を得る(to beget)ための性交を指します。もしも人が良いクリシュナ意識の子供を得ることができるなら、彼は何千回も性交をすることができます。

しかし、もしも彼が猫や犬の意識において育てられる子供を作ることしかできないなら、彼の性生活は非宗教的であると考えられます。宗教的で文明化された社会では、結婚は夫婦が良い子供たちを得るために性交にいそしむことのしるし(indication)となることを意図しています(is intended)(~のためにあります)。

したがって、結婚における性生活は宗教的だと考えられ、そして結婚によらない性生活は非宗教的だと考えられます。実際は、もしも家庭人の性的な活動が宗教的な原則に基づいているなら、サンニャースィーと家庭人の間に違いはありません。
(サンスクリット引用)

「存在のすべての状態(訳注:All states of being、どんな状態のどんなものも)は―――それが徳、熱情あるいは無明のものであれ―――私のエネルギーによって顕現します。私は、ある意味では、すべてです―――しかし私は独立しています。私はこの物質自然の相の下にありません。」(Bg.7.12)

第24段落
人はクリシュナにこのように尋ねるかもしれません。「あなたは、ご自分は音、水、光、香り、すべてのものの種、力、そしてカーマであるとおっしゃいます―――それはあなた(you →You)が単に徳の相に存在するということを意味するのですか?」

物質世界には、徳、熱情、そして無明の相があります。これまでのところ、クリシュナはご自分を良いもの(例えば宗教的な原則にのっとった結婚における性交)として描写なさいました。しかし、他の相に関してはどうでしょうか?クリシュナはそれらには存在なさらないのでしょうか?

答えとして、クリシュナは、何であれ物質世界において見られるものは物質自然の3つの相の相互作用によるとお答えになります。何であれ見られる(to observe)ものは徳、熱情あるいは無明の組み合わせであり、すべての場合において、これらの3つの状態は「私によって作られます」。

クリシュナによって作られるため、それらの立場は主の内にありますが、主はそれらの中にはありません。なぜなら、クリシュナご自身は3つの相を超越していらっしゃるからです。このように、別の意味では、無明によって作られる悪くて邪悪なものもまた、それらがクリシュナによって用いられる(to apply、当てはめる、適用する)とき、クリシュナです。これはどういうことでしょうか?

たとえば、電気技師は電気的なエネルギーを作り出しています。家庭では私たちはこの電気エネルギーを冷蔵庫では冷たさとして、あるいは電気ストーブ(訳注:stove、調理用コンロという意味もある)では熱として経験しています。しかし、発電所では電気エネルギーは冷たくも熱くもありません。

このエネルギーの顕現は生命体にとっては異なるかもしれませんが、クリシュナにとってはそれらは異なりません。したがって、クリシュナは時として熱情あるいは無明の原則であるように見えるものに基づいて活動なさいますが、クリシュナにとってはクリシュナしかありません。

ちょうど、電気技師にとっては電気エネルギーは単に電気であって他の何でもないようなものです。彼は、これは「冷たい電気」あるいはあれは「熱い電気」といって区別することはしません。

第25段落
すべてはクリシュナによって作られています(to generate、引き起こす、発生させる、生成する)。実に、ヴェダーンタ・スートラはこう確認します。アタート・ブラーマ・ジジニャーサー・ジャンマーディ・アシャ・ヤター、すべては至高の完全真理から流れ出しています。

生命体が良いあるいは悪いと考えているものは、生命体にとってだけ、そうです。なぜなら彼は制約されているからです。しかしクリシュナは制約されていないので、主にとっては悪いあるいは良いという可能性はありません(there is no question of ~、~ということはありえません)。私たちは制約されているので、私たちは二重性によって(from)苦しんでいます。しかし、主にとってはすべては完璧です。
by ammolitering4 | 2014-01-21 19:34 | 「クリシュナへの途上」 | Comments(0)
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