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第3章 第12段落まで

第3章 どこででも、そしていつでもクリシュナを見る

第1段落
私たちの実際の(practical)人生において、クリシュナは私たちにどのようにしてクリシュナ意識を目覚めさせる(to invoke、霊などを呼び出す、想起させる)かをお教えになります。私たちが自分の義務を果たすのを止めるべきである(we are to ~)、あるいは活動をしなくなる(to cease from)べきである、というのではありません。

そうではなく(Rather)、活動はクリシュナ意識においてなされねばなりません。誰もが人生において仕事(vocation、職業。適性、使命などの意味もある)を持っていますが、どのような(what)意識において彼はそれをするでしょうか(to enter upon、職務につく、始める)。

誰もが「おお、私は自分の家族を維持するために仕事(vocation)を持たねばならない」と考えています。社会、政府、あるいは家族が満足させられねばならず、誰もそのような意識から自由ではありません。どのような活動でも、よく(nicely)遂行するためには人は正しい意識にあらねばなりません(to be in proper consciousness)。

意識がかき乱されている(agitated)者、狂人のようである者は、どんな義務も果たすことができません。私たちは自分の義務を正しく遂行すべきですが、クリシュナを満足させることを考えながらそれをすべきです。自分の仕事の過程(our process of work)を変えねばならないというのではありませんが、私たちは自分が誰のために働いているかを考えねばなりません。

どんな活動であれ、遂行しなければならないことを私たちはしなければなりませんが、私たちはカーマ、欲望によって流されるべきではありません。カーマというサンスクリットの単語は、欲(lust)、望み(desire)、あるいは感覚の満足を指すために使われます。

シュリー・クリシュナは、私たちはカーマすなわち(or)自分の欲(our own lust)の満足のために働くべきではないとお教えになります。バガヴァッド・ギーターの教えのすべてはこの原則に基づいています。

第2段落
アルジュナは、自分の親戚と戦うことから退く(to refrain from)ことによって自分の感覚を満足させたがりましたが、クリシュナは至高存在の満足のために自分の義務を遂行することを納得させるために(to convince him to ~)彼にお話しになりました。

物質的には、彼が王国への権利(claim)を放棄して自分の親戚を殺すことを拒んでいるというのは非常に敬虔(pious)であるように見えるかもしれませんが、クリシュナはこれを認めませんでした。なぜなら、アルジュナの決心の原則(principle)は自分自身の感覚を満足させることだったからです。

人の事業(business)あるいは職業は変えられる必要がありません(need not be changed)―――ちょうど、アルジュナのそれが変えられなかったように―――しかし人は自分の意識は変えねばなりません(one does have to change、強調表現)。

この意識を変えるためには、しかし、知識が必要とされます。その知識は、「私はクリシュナの、クリシュナの優性なるエネルギーの欠かすべからざる小片(part and parcel)である」と知ることです。それが本当の知識です。相対的な知識は私たちにどうやって機械を直すかを教えるかもしれませんが、本当の知識は、クリシュナにとって必須である(integral、完全体を成すのに不可欠な)という私たちの立場を知ることです。

主の部分であるため、部分的であるわたしたちの喜びは(our pleasure, which is partial)全体に依存しています。たとえば、私の手はそれが私の体についていてそれに奉仕をするとき、喜びを感じます(to take pleasure)。それは他の人の体に奉仕をすることには喜びを感じません(It does not take pleasure in serving another's body)。

私たちはクリシュナの一部であるため、私たちの喜びは主に奉仕をすることにあります。「私はあなたに奉仕をして幸せにはなれない(I cannot be happy serving you)」(訳注:ここで youは小文字になっていますが、クリシュナに対する呼びかけと考えるなら大文字にすべきところです。)と誰もが考えています。しかし、誰も自分(the self)が誰かを知りません。その自分(that self)はクリシュナです。
(サンスクリット引用)

「この制約された世界の中の生命体は私の永遠の小片(eternal, fragmental parts)です。制約された人生(life)のため(due to ~、~が原因で)、彼らは心を含む6つの感覚で大変苦しんでいます。」(Bg. 15.7)

第3段落
ジーヴァ、すなわち生命体は、今は物質的な接触が原因で全体から切り離されています。したがって、私たちにとって、自分の中にある(latent、潜んでいる、潜在的な)クリシュナ意識を通して再び自分自身を(訳注:クリシュナに)つけようとすることが必要です。

人工的に、私たちはクリシュナを忘れて独立的に生きようとしていますが、これは可能ではありません。クリシュナから独立して生きようとするとき、私たちは物質自然の法の影響の下に来ます。もしも人が自分はクリシュナから独立していると考えるなら、彼はクリシュナの幻想エネルギーに依存するようになります。

ちょうど、もしも人が自分は政府とその規則から独立していると考えると、彼は警察(police force)に依存するようになるようにです。誰もが独立的になろうとしており、そしてこれはマーヤー、幻想と呼ばれます。個人でも、共同体としても、社会としても、国家としても、あるいは宇宙としても(universally)、独立的になることは可能ではありません。

自分は依存的であると気づくようになるとき、私たちは知識を得たのです(we will have attained knowledge)。今日では、非常に多くの人々が世界の平和のために(for peace in the world)努力していますが、彼らはどうやってその平和の方法(formula)を実行する(to implement)かを知りません。国際連合は長年の間、平和のために努力していますが、それでも戦争は続いています。
(サンスクリット引用)

「さらに、おお、アルジュナよ、私はすべての存在のもともとの(generating)種です。動くものであれ、動かないものであれ、私なくして存在することのできるもの(being)はありません。」(Bg. 10.39)

第4段落
クリシュナは、このようにすべてのものの所有者(proprietor)であり、すべての結果の究極の受益者(beneficiary)であり、受領者(receiver)です。私たちは自分を自分の労働の結果の所有者であると考えるかもしれませんが、これは思い違い(misconception)です。

私たちは、クリシュナが私たちの働きすべての結果の究極の所有者であると理解するようにならねばなりません。何百人もの人が事務所で働いているかもしれませんが、彼らは何であれ会社(the business、事業)が生む収益は所有者に属すると理解しています。

銀行の窓口係が「おお、私は非常に多くのお金を持っている。私は所有者だ。家に持ち帰ろう」と考えれば、直ちに彼の困難(trouble)が始まります。もしも私たちが、どれだけであれ自分が溜め込んだ(to amass)富を自分自身の感覚の満足のために使うことができると考えるなら、私たちはカーマ、欲に基づいて(out of)活動しています。

しかし、もしも私たちが自分が持っているすべてのものはクリシュナに属すると理解するようになるなら、私たちは解放されます。私たちは自分の手に同じお金を持っているかもしれませんが、自分は所有者であると考えれば、直ちに私たちはマーヤーの影響下に入ります(we are under ~)。すべてのものはクリシュナに属するという意識の下に位置している者は本当の学識のある人(an actual learned man)です。
(サンスクリット引用)

「宇宙の中にある動くもの、あるいは動かないものすべては、主によって統御され、所有されています。したがって、人は自分の取り分として取り分けられた、自分に必要なものだけを受け取るべきであり、人は物(they = other things)が誰に属するかをよく知って、他のものを受け取ってはなりません(one must not accept other things, knowing well to whom (w→W) they belong.)。」(シュリー・イショパニシャッド、マントラ1)

第5段落
このイーシャーヴァーシャ―――すべてのものはクリシュナに属するという意識が呼び覚まされなければなりません(to revive)。個人的にだけでなく、国家的、そして宇宙的にもです。そうすれば平和があるでしょう。私たちはしばしば、博愛的(philanthropic)で利他的(altruistic)でありがちであり、そして私たちは自分の同胞(countrymen)、自分の家族と、そして世界のすべての人々と友人であろうと努力します―――しかし、これは誤った概念(conception)に基づいています。

本当の友人はクリシュナであり、そしてもしも私たちが自分の家族、国、あるいは惑星に利益を与えたいと望むなら、私たちは主のために働くでしょう。もしも自分の家族の幸せ(welfare)を心に抱くなら、私たちはすべての家族員(members)をクリシュナ意識にしようとするでしょう。

自分の家族に利益を与えようとしている人々が非常にたくさんいますが、不幸にして彼らは成功しません。彼らは本当の問題が何かを知りません。バーガヴァタムが述べるように、人は自分の子供を死から、物質自然の支配(grip、掌握、掴むこと)から救えない限り、父、あるいは母、あるいは教師になろうとすべきではありません。

父親はクリシュナに関する知識を持っているべきであり(in knowledge of)、そして彼は自分に託された無知な(innocent、無邪気な)子供たちが誕生と死の循環を再び経験(to undergo、苦しみを経験する)しなくてよいように決意しているべきです(to be determined)。

彼は自分の子供たちを、もはや誕生と死の苦しい(painful)循環の影響下に(to be subjected to ~)なくていいように(in such a way)訓練すると心に決めているべきです(to be resolved)。しかし、これができる前に、彼は自分自身を熟達者にしなければなりません。もしも彼がクリシュナ意識において熟達者になれば、彼は自分の子供たちだけでなく、自分の社会と国も助けることができます。

しかし、もしも彼自身が無知によって縛られているなら、彼はどうやって同じく縛られている他の者たちを自由にする(to untie、結び目をほどく)ことができるでしょうか?他の者たちを自由にすることができる前に、彼は自分自身が自由でなければなりません。実際は誰も自由ではありません(no one is a free man)。なぜなら、誰もが物質自然の魔力(spell)の下にあるからです。

しかし、クリシュナに服従した者はマーヤーによって触れられ得ません。すべての者のなかで、彼こそは自由です(He, of all men, is free.)。もしも人が太陽光の中に身を置くなら、暗闇の可能性はありません(there is no question of ~)。

しかし、もしも人が人工的な光の中に身を置くなら、それは点滅し、消えるかもしれません。クリシュナはちょうど太陽光のようなものです。主がいらっしゃるところでは、暗闇と無知の可能性はありません。賢者、マハートマーはこれを理解します。
(サンスクリット引用)

「私はすべての霊的および物質的な世界(訳注:複数)の源です。すべてのものが私から生じます(to emanate from ~、放射する)。これを完璧に知っている賢者は私への献身奉仕にいそしみ、心を込めて(with all their hearts)私を崇拝します。」(Bg. 10.8)

第6段落
この節の中でブッダーという単語が使われており、それは賢者あるいは学識のある人を指します。彼の特徴(symptom)は何でしょうか?彼は、クリシュナがすべてのものの、すべての放射物(emanation)の源(fountainhead)であると知っています。

彼は、何であれ自分が見るものはクリシュナの放射物に他ならない(whatever he sees is but an emanation of Krishna)と知っています。物質世界において、性生活は最も目立った(prominent)要素です。性的な魅了はすべての生命の種において見られ、そして人はそれがどこから来るのかと尋ねるかもしれません。

賢者は、この傾向はクリシュナの中にあり、そしてそれは主のヴラジャの高貴な娘たち(damsel)との関係において明らかにされていると理解しています。何であれこの物質世界において(in)見られるものは、クリシュナにおいても完全に見られます。

違いは、物質世界においてはすべては歪んだ形で現れるということです。クリシュナにおいては、これらすべての傾向と顕現は、純粋な意識、霊において存在します。これを知り、完全な知識を備えた者は(one who knows this, in full knowledge,)、クリシュナの純粋な献身者になります。
(サンスクリット引用)

「おお、プリターの息子よ、幻惑されていない者、偉大な魂は、聖なる自然の保護の下にあります。彼らは私を至高の人格神、源であり、尽きることがない(inexhaustible)と知っているので、完全に献身奉仕にいそしんでいます。

いつも私の栄光を唱え、大いなる決意をもって努力し、私の前に頭を垂れ(to bow down)、これらの偉大な魂たちは永遠に(perpetually)献身の念をもって私を崇拝します。」(Bg. 9.13-14)

第7段落
偉大な魂、マハートマーとは誰でしょうか?それは優性なるエネルギーの影響下にある者です。現在では私たちはクリシュナの劣性なるエネルギーの影響下にあります。生命体として、私たちの立場は境界的です―――私たちは自らを二つのエネルギーのどちらかに移す(to transfer)ことができます。

クリシュナは完全に独立しており、そして私たちは主の欠かすべからざる小片であるため、私たちもまたこの独立性という性質(quality)を持っています。したがって私たちは、どちらのエネルギーの下で自分が機能するかという選択肢を持っています。

優勢な性質(nature、自然)について無知なので、私たちは劣勢な性質の下に留まるより他はありません(we have no alternative but to ~)。

第8段落
一部の哲学は、私たちが現在経験しているものの他に自然はなく、そしてこのことへの唯一の解決策はそれを無にして(to nullify、取り消す、無効にする)無(void)になることだ、と提議します(to propound)。しかし、私たちは無ではあり得ません。なぜなら、私たちは生命体だからです。

単に体を変えるから私たちは終わるというのではありません(It does not mean that we are finished~)。物質自然の影響から逃れることができる前に、私たちは自分の立場が実際にはどこであるか(where our place actually is)、私たちはどこへ行くべきか(where we are to go)を理解しなければなりません。

もしもどこに行くかを知らないなら、それなら私たちは単に「おお、私たちは何が優性で(何が)劣性かを知らない。私たちが知っているのはこれだけだ、だからここに留まって朽ちよう(to rot、腐る)」と言うでしょう。しかしバガヴァッド・ギーターは私たちに優性なエネルギー、優性な性質に関する情報を与えます。

第9段落
クリシュナがお話しになることは、主は永遠のためにお話しになります(What Krishna speaks, He speaks for all eternity. 訳注:クリシュナのお話は永遠です)。それは変わりません。私たちの現在の職業が何であるか、あるいはアルジュナの職業が何であったかは関係ありません―――私たちはただ、自分の意識を変えなければならないだけです。

現在では、私たちは自己の利益(self-interest)という意識によって導かれていますが、私たちは自分の本当の自己利益が何であるかを知りません。実際は私たちは自己利益を持たず、そうではなく感覚の利益を持っています。

何であれ私たちがしていることは、私たちは感覚を満足させるためにしています。変えられなければならないのは、この意識です。その代わりに、私たちは自分の本当の自己利益―――クリシュナ意識を植えつけなければなりません(to implant)。

第10段落
これはどのようにしてなされるでしょうか?私たちの人生のすべての歩みにおいて(in every step、常に)クリシュナ意識になることは、どのようにして可能でしょうか?実際にはクリシュナはそれを私たちにとって(for、~のために)非常に容易になさいます。
(サンスクリット引用)

「おお、クンティーの息子(アルジュナ)よ、私は水の味、太陽と月の光、ヴェーダのマントラの中のオームの音節です。私はエーテルの中の音であり、人の中の能力です。」(Bg. 7.8)

第11段落
この節において、シュリー・クリシュナは、私たちがどうやって人生のすべての場面(stages)において完全にクリシュナ意識になることができるかを描写なさっています。すべての生命体は水を飲まねばなりません。水の味はとてもおいしい(nice)ので、喉が渇いているとき、渇きを癒せるのは水しかないように見えます(when we are thirsty nothing but water seems to do)。

どの製造業者も、水の純粋な味を作り出すことはできません。こうして私たちは水を飲むときクリシュナ、すなわち神を思い出すことができます。誰も人生において毎日水を飲むことを避けることはできません。そのため、神意識はそこにあります―――私たちはどうやって忘れることができるでしょうか?

第12段落
同様に、何らかの光があるとき、それもまたクリシュナです。霊的な天空におけるもともとの光輝、ブラーマジョティは、クリシュナの体から放射します。この物質の世界は覆われています。物質的な宇宙の本質的な性質(the very nature)は、私たちが夜に経験する闇です。

それは太陽によって、月の反射された光によって、そして電気によって人工的に照らされています。この光はどこから来ているのでしょうか?太陽はブラーマジョティ、すなわち霊的な世界の明るい光輝によって照らされています。霊的な世界では、太陽、月、あるいは電気の必要はありません。

なぜなら、そこではすべてはブラーマジョティによって照らされているからです。しかしこの地球上では、私たちはいつであれ、太陽からの何らかの光を見るときにクリシュナを思い出すことができます。
(an address to God)
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こんにちは。第3章の翻訳が途中までできました。この本はまだ第5章まであるし、今年中に済ませることはできませんでしたが、まあいいでしょう。毎晩YouTubeで笑点を見ていなければもっと進むのですけれど。。。ともあれ、今年も辛抱強くお待ちくださいまして、ほんとうにありがとうございました。もう少しでカナダでも年が明けます。闇に浮かぶ地球を太陽が照らし、その循環を朝と呼び、新年と呼んでありがたがっていますが、せめて自分が闇の中にはまり込んでしまっていることを覚えていたいものです。来年が皆様にとってますます永遠の光を希求する年となりますよう。

葉子
by ammolitering4 | 2014-01-01 13:24 | 「クリシュナへの途上」 | Comments(0)
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