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第2章 第9段落まで

第2章 マントラを唱え、クリシュナを知る方法(The Way of Chanting and Knowing Krishna)

第1段落
ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラマ、ラマ、ハレ、ハレ。これは超越的な音の振動です。それは私たちが心の鏡から埃を洗い清める(to cleanse)のを助けます。

ちょうど、(ニューヨーク市の)二番街には、重交通(heavy traffic)によってすべてのものの上に埃をスス(soot)があるようなものです。私たちの物質的な活動の巧妙な操作(manipulation)によって(私たちが~を巧妙に操作することによって)、たくさんの(a great deal of)埃が私たちの心の透明な鏡の上にたまり、そしてその結果、私たちは物事を正しく(in perspective、全体的な視野で真相を正しく見ること)見ることができません。

この超越的な音(ハレ・クリシュナ・マントラ)の振動は、この埃を洗い流し、私たちが自分の本当の本来の立場をはっきりと見ることを可能にします。私たちが「私はこの体ではない:私は霊魂であり、そして私の状態(symptom、兆候、きざし、病状)は意識である」と理解するようになれば(to come to understand)直ちに、私たちは本当の幸せにおいて自らを確立することができるでしょう(訳注:本当の幸せを確かに感じることができるでしょう)。

私たちの意識がハレ・クリシュナを唱えるこの過程によって浄化されるにつれて、私たちの物質的な悲惨さのすべては消えます。この物質的な世界の上をいつも吹き荒れている(to blaze over ~)火があり、誰もがそれを消そうとしていますが、私たちが自分の純粋な意識に、私たちの霊的な人生に位置しない限り、物質自然の悲惨さというこの火を消せる可能性はありません。

第2段落 
主クリシュナの降臨、すなわち(or)この物質世界での現れの目的の一つは、ダールマを
論述する(setting forth、明らかにする、発表する)ことによってすべての生命体のために(for)物質的な存在の火を消すことです。

(サンスクリット引用)

「いつであれ、そしてどこであれ、宗教的な実践に衰え(decline、衰退、堕落)が、おお、バーラタの子孫よ、そして非宗教の優勢な高まり(predominant rise)があるとき―――そのとき私は降臨します。敬虔な者(the pious)を救い、そして悪人(the miscreants)を滅ぼすために、そして宗教の原則を再確立するために、私は時代ごとに(millennium after millennium)降臨します。」(Bg 4.7-8)

第3段落
この節の中で、ダールマという単語が使われています。この単語は様々に英語に翻訳されています。時としてそれは「信仰(faith、信頼、確信など)」と翻訳されますが、ヴェーダ文献によれば、ダールマは信仰の一種ではありません。

信仰は変わるかもしれませんが、ダールマは変わり得ません。水の液体性は変わり得ません。もしもそれが変わるなら―――、もしも、例えば水が個体になるなら―――それは実際はもはやその本来の立場にありません。それは特定の限定的な(qualifying)状態の下に存在しています。

私たちのダールマ、すなわち本来の立場は、私たちは至高存在の欠かすべからざる小片であるというものです。そしてそのため(this being the case)、私たちは自分の意識を至高存在に適合させる
(to dovetail、ぴったりと合わせる)、あるいは従属させ(to subjugate)なければなりません。

第4段落
この、至高全体(the Supreme Whole)への超越的な奉仕という立場は、物質的な接触によって(due to)誤用されています。奉仕は私たちの本来の立場において絶対的な(implicit、潜在的、内在的、暗示的な)ものです。誰もが従者であり、そして誰も主人ではありません。

誰もが誰か(someone or other、あの人でなければこの人)に奉仕をしています。大統領は国家の首長(the chief executive)であるかもしれませんが、それでも彼は国家に奉仕をしており、そして彼の奉仕がもはや必要とされないとき、国家は彼を捨てます。

自分で「私は自分が見渡す(to survey)すべてのものの主人である」と考えるのは、マーヤー、幻想と呼ばれます。このように、物質的な意識において私たちの奉仕は様々な区分(designations)の下で誤用されています。

私たちがこれらの区分(designations)から自由になるとき、つまり(that is to say)心の鏡から埃が取り去られた(to clear、汚れや曇りを取る)とき、私たちは自分をクリシュナの永遠の従者としての自分の本当の立場において見ることができるでしょう。

第5段落
人は、物質世界における自分の奉仕と、霊的な環境(atmosphere)における自分の奉仕が同じであると考えるべきではありません。私たちは、「おお、解放の後で私はまだ従者になるのだろうか(will I still be a servant)?」と考えて身震いする(to shudder、恐れや嫌悪で震える)かもしれません。

これは、私たちは物質的な世界において従者であるのはあまり楽しく(enjoyable)ないという経験を持っているからですが、超越的な奉仕はこのようではありません。霊的な世界においては、従者と主人の間に違いはありません。

ここ(訳注:物質世界)ではもちろん、区別(distinction)があります。しかし、完全な世界(in the absolute world、絶対的な世界)では、すべてのものが一つです。例えば、バガヴァッド・ギータにおいて私たちはクリシュナがアルジュナの戦車(chariot)の運転手として従者の立場を取ったのを見ることができます。

その(his)本来の立場において、アルジュナはクリシュナの従者です。しかし、振る舞い(behavior)において、私たちは時として主が従者の従者になるのを見ることができます。そのため私たちは、霊的な領域(realm)に物質的な考え(ideas)を持ち込むことのないように注意深くあるべきです。

何であれ私たちが物質的に経験したことは、霊的な人生(life)における物事の歪んだ反映に過ぎません(~ is but ~)。

第6段落
私たちの本来の立場、すなわちダールマが物質の汚染によって悪くなる(to deteriorate、堕落する、劣化する)とき、主ご自身が化身としておいでになるか、あるいはご自分の腹心の(confidential)従者の誰かをお送りになります。

主イエス・キリストはご自分を「神の息子」と呼びました。そしてそのため、(主イエス・キリストは)至高存在の代理人です。同様に、モハメッドは自分を至高主の従者と称しました(to identify himself)。このように、私たちの本来の立場における矛盾(discrepancy、食い違い)があるときはいつでも(訳注:本来の立場に関する理解が衰えたり誤解が生じたりする、というような意味)、私たちに生命体の本当の立場を知らせるために、至高存在が自らおいでになるか、あるいはご自分の代理人をお送りになります。

第7段落
したがって、人はダールマとは作られた信仰(created faith)であると考える間違いを犯すべきではありません。その正しい意味において、ダールマは生命体から全く離され得ません(cannot be divorced)。それは生命体にとって、砂糖にとって甘さが、あるいは塩にとって塩辛さが、あるいは石にとって硬さがそうであるようなものです(It is to the living entity what sweetness is to sugar, or ~)。

それは決して(in no case)切り離され得ません。生命体のダールマは奉仕することであり、そして私たちは、すべての生命体は自分自身あるいは他者に奉仕をする傾向を持っているということを簡単に見ることができます。

どうやってクリシュナに奉仕をするか、どうやって自分を物質主義的な奉仕から解放するか(to disentangle、絡まっているのをほどく)、どうやってクリシュナ意識を得て(to attain)、そして物質的な区分(designations)から自由になるかが、すべてバガヴァッド・ギーターにおいてシュリー・クリシュナによって科学として教えられています。

第8段落
上に引用された、パリトラーナーヤ・サードゥーナームで始まる節の中のサードゥーという単語は、聖者あるいは聖人的な人(a holy man or a saintly person)を指します。聖人的な人は忍耐強く、誰もに非常に親切で、すべての生命体の友であり(a friend to ~)、誰の敵でもなく、いつも温和(peaceful、平穏、平和的など)です。

聖者には26の基本的な性質(qualifications、資格、能力)があり、そしてバガヴァッド・ギーターにおいて私たちは、シュリー・クリシュナご自身が次の裁断(verdict、判決、決定、意見、審判)を与えるのを見ます。

(サンスクリット引用)

「たとえ人が最も忌まわしい振る舞いをしても(to commit ~ actions)、もしも彼が献身奉仕に携わっているなら、正しく位置しているので、彼は聖人的であると考えられます。」(Bg 9.30)

第9段落
俗的な水準(platform)においては、ある人にとっての道徳(morality)は別の人にとっての不道徳(immorality)であり、ある人にとっての不道徳は別の人にとっての道徳です。ヒンズー教の概念によればワイン(訳注:ブドウ酒に限らず酒類全体を指すこともある)を飲むことは不道徳ですが、他方で西洋世界ではワインを飲むことは不道徳とは考えられておらず、一般的なことです。

そのため、道徳性は時、場所、状況、社会的な立場その他によって変わります(dependent)。しかし、道徳性と不道徳性の感覚はすべての社会にあります。この節においてクリシュナは、たとえ人が不道徳な活動にいそしんでいても、同時に完全にクリシュナ意識であるなら、彼はサードゥー、すなわち聖人であると考えられる、と指摘なさいます。

言い換えると(校正:”.” →“,”)、ある人は彼の過去の関わりによって何らかの不道徳な習慣を持っているかもしれませんが(although a person may have ~)、もしも彼が完全にクリシュナ意識であるなら(engaged fully in ~)、これらの習慣は重要であるとは考えられません。

どのような場合であれ(whatever the case)、もしも人がクリシュナ意識になるなら、彼は徐々に浄化され、サードゥーになるでしょう。人がクリシュナ意識を遂行することにおいて進歩するにつれて、彼の悪い習慣は消え(to diminish)、そして彼は聖人的な完成に至ります(to attain to)。
by ammolitering4 | 2013-11-21 15:13 | 「クリシュナへの途上」 | Comments(0)
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