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第8章 後半

第17段落
カルマの道は非常に複雑です。したがって、私たちはカルマ、アカルマ、そしてヴィカルマの間の違いを理解すべきです。もしも私たちが単にクリシュナ意識に携わるなら、すべては明らかになります。そうでないなら、私たちは呪縛されないようにするために、自分が何をすべきかということ、そして自分が何をすべきでないかということの間の区別をつけなくてはなりません。

普通の人生において(in the ordinary course of life、人生の普通の過程において)、私たちは知らずに何らかの法律を破り、その結果に苦しまねばなりません。同様に、自然の法律は非常に厳しくて厳格なので、それらは何らの言い訳も受け入れません。

火が燃えるのは自然の法律であり、たとえ子供がそれを触っても、彼は火傷します。彼の無知と無邪気さにも関わらずです。このため私たちは、自然の厳格な法律が私たちを苦しみに縛り付けるような反応をしないように(lest)、自分の活動の方針(our course of action)を非常に注意深く選ばねばなりません。したがって、何の仕事をし、何の仕事を避けるかを理解することが必要です。

第18段落
カルマという言葉は、定められた義務を指します。ヴィカルマという言葉は、人の定められた義務に反する活動を指します。そして、アカルマという言葉は、全く何の反応もない活動を指します。アカルマ的な活動を遂行するにあたって、何らかの反応があるように見えるかもしれませんが、実際にはそれはありません。

私たちがクリシュナの指示の下で働くとき、これは実際にそうです―――反応がありません。もしも私たちが誰かを殺すことを自ら行うなら(if we take it upon ourselves to kill someone)、私たちは国家政府によって死刑にされます(we are subject to)。そのとき私たちの活動はヴィカルマと呼ばれます。

なぜなら、それらは定められた活動に反するからです。しかし、もしも政府が私たちを軍隊に徴兵し、そして私たちが戦いに携わって誰かを殺すなら、私たちは反応に苦しみません。そしてこれはアカルマと呼ばれます。

一つの場合には私たちは自分の気まぐれに応じて活動しており、もう一つの場合には私たちは政府の指示の下で活動しています。同様に、私たちがクリシュナの指示の下で活動するとき、私たちが行った活動はアカルマと呼ばれます。なぜなら、そのような種類の活動は反応を持たないからです。

(サンスクリット引用)

「活動の中に非活動を、そして非活動の中に活動を見る者は、人間の中の知性的な者です。そして彼は、あらゆる活動に携わっているにも関わらず、超越的な立場にいます。」(Bg.4.18)

第19段落
活動にも関わらずカルマ的な反応がないということを実際に見ることのできる者、アカルマの性質を理解する者は、実際に物事をありのままに見ます。アカルマという言葉は、カルマの反応を避けようとしている者を指します。

自分の活動をクリシュナ意識に繋げることによって、人はあらゆる種類の活動をするかもしれませんが、それにも関わらず彼は自由です。クルクシェトラの戦場において、アルジュナは戦いにいそしみ、そしてドゥリョダーナの側にいた者たちもまた、戦いにいそしみました。

私たちは、なぜアルジュナは反応から自由で、他方で、ドゥリョダーナはそうでないのか、ということを理解しなければなりません。外的には、私たちは両者とも戦いにいそしんでいるのを見ることができます。しかし私たちは、「アルジュナはクリシュナの命令の下で戦っているため、彼は反応によって縛られない」ということを理解すべきです。

このように、誰かがクリシュナ意識において働いているのを見るとき、私たちは彼の仕事は何の反応も持たない(to carry)、ということを理解すべきです。そのような仕事を見てそれを理解することができる者は、非常に知性的(サ・ブッディーマーン)であると考えられるべきです。その手法(technique)は、人が何をしているかを見ることにはあまりなく、なぜ彼がそれをしているかを理解することにあります。

第20段落
実際は、アルジュナは戦場において非常に喜ばしくない(unpleasant)活動に携わっていました。しかし、クリシュナ意識だったので、彼は何の反応にも苦しみませんでした。私たちは、自分が非常に良い仕事だと考えるかもしれない何らかの活動を行っているかもしれません。

しかし、もしも私たちがそれをクリシュナ意識において行わないなら、私たちは反応に苦しまねばなりません。物質的な観点からは、戦わないというアルジュナの最初の決断は良いものでした。しかし、霊的な観点からは、それはそうではありませんでした。

徳のある(pious、敬虔な)仕事をするとき、私たちは特定の結果を得ます。私たちは、とても良い家庭に、(つまり)ブラーマナの、あるいは裕福な人の家庭に生まれるかもしれず、非常に豊かになったり、学識があったりするようになるかもしれず、あるいは非常に美しくなるかもしれません。

他方で、もしも私たちが非敬虔な(impious、卑俗な)仕事をするなら、私たちは身分の低い家庭、あるいは動物の家庭に生まれなければならないかもしれず、あるいは文盲(illiterate、無学)や愚鈍(foolish)になったり、あるいは非常に醜くなったりしなければならないかもしれません。

たとえ非常に徳のある仕事に携わって良い生を受けても、私たちはそれでも活動と反応の厳格な法律の影響下にあります。私たちの主要な目的は、この物質世界の法律を逃れることであるべきです。もしもこれを理解しないなら、私たちは貴族的な家庭、富、あるいは良い教育、または美しい体に魅了されるようになるかもしれません。

私たちは、「自分は物質的な人生のためのこれらすべての設備を持っているにも関わらず、誕生、老齢、病気と死から自由ではない」ということを理解するようになるべきです。このことに関して私たちに注意を促すために、シュリー・クリシュナはバガヴァッド・ギーターにおいて警告なさいます。

(サンスクリット引用)

「物質世界の中の最高の惑星から最低のそれに至るまで、すべては繰り返す誕生と死が存在する悲惨な場所です。」(Bg.8.16)

第21段落
ブラーマロカ、物質的な宇宙の中の最高の惑星においてさえも、誕生と死の繰り返しが存在します。これから自由になるためには、私たちはクリシュナの惑星に行かねばなりません。裕福な人や美しい人であることは非常に素敵(nice)かもしれませんが、どれくらい長く私たちはそうしていられるでしょうか?

それは私たちの永遠の人生ではありません。私たちは50年、60年、あるいは最長で100年の間、学識があって豊かで、そして美しくいられるかもしれません。しかし、本当の人生は50年や100年ではなく、千年でもなく、百万年でさえありません。

私たちは永遠であり、そして私たちは自分の永遠の人生を得なければなりません。私たちがそれを得ていないというのが、私たちの問題全体です。その問題は、私たちがクリシュナ意識であるとき、解決され得ます。

第22段落
もしも私たちがクリシュナ意識においてこの物質的な体を去るなら、私たちはもはや物質世界に戻る必要はありません。要点は、この物質的な存在を完全に避けることです。物質世界における自分の状況を改善する、ということではありません(it is not the question of)。

刑務所において人は第一級の囚人になるために自分の状態を改善したいと思うかもしれず、そして政府は彼に第一級の評価を与えるかもしれませんが、正気の者は誰も囚人になることによって満足するようになることはありません。

彼は完全に刑務所から出ることを望むべきです。物質世界において、私たちの一部の者は一級、(そして他の者は)二級、あるいは三級の囚人ですが、どの場合でも私たちは皆、囚人です。本当の知識は、単に修士号、あるいは博士号を得ることにあるのではなく、存在のこれらの基本的な問題を理解することにあります。

(サンスクリット引用)

「そのすべての行いが感覚の満足への欲求を含まない者は、完全な知識の中にあるとして理解されます。彼は賢人たちによって、『自分の結果を求める活動が完璧な知識の火によって燃え尽くされた者』と言われます。」(Bg.4.19)

第23段落
パンディタムという言葉は学識があることを意味し、ブダーは「精通している」を意味します。10章の中で、私たちは「ブダー・バーヴァサマンヴィター」という節においてもブダーという言葉を見出します。(Bg.10.8)バガヴァッド・ギーターによれば、単に大学から多くの教育を受けたからといって、人は学識のある人とは限りません(may not be)。バガヴァッド・ギーターは、すべてのものを等しい水準において見ることができる者は学識がある人だ、と言います。

(サンスクリット引用)

「本当の知識の力によって、謙虚な賢人は等しい見方をもって、学識があって柔和なブラーマナ、牛、象、犬、そして犬食い(賎民)を見ます。」(Bg.5.18)

第24段落
インドでは、ヴェーダの文明によれば、学識のあるブラーマナは人間の社会において最高の者と考えられます。学識があって柔和なパンディタは、そのようなブラーマナを犬、あるいは犬を食べる賎民と同じ水準において見ます。言い換えると、彼は最高と最低の間に区別を見ません。

これは、学識のあるブラーマナであることは犬であることよりも優れたものではない、ということでしょうか?いいえ、それはそうではありません。しかし、パンディタは彼らを同じとして見ます。なぜなら、彼は皮膚を見ず、霊を見るからです。

すべての生命体の中に同じ霊魂を見る術(art、すべ)を学んだ者は、パンディタと考えられます。なぜなら、実際はすべての生命体は霊的な火花(校正. →,)、完全な霊的な全体の欠かすべからざる小片だからです。

霊的な火花はすべてにおいて同じですが、それは異なる衣服によって覆われています。立派な(honored、名誉ある)人は、非常にみすぼらしい服を着て来るかもしれませんが、これは彼が軽んじられる(dishonor、名誉を汚す)べきだということを意味するのではありません。バガヴァッド・ギーターにおいて、これらの物質的な体は霊魂によってまとわれる衣服になぞらえられます。

(サンスクリット引用)

「人が古いものを捨てて新しい衣服をまとうように、同様に、魂は古くて役に立たないものを捨てて新しい物質的な体を受け入れます。」(Bg.2.22)

第25段落
何かの生命体を見るときはいつでも、私たちは「ここに霊魂がいる」と考えるべきです。そのような生命の霊的な見方を理解することのできる者は誰でもパンディタです。チャーナキャ・パンディットは、このようにパンディタのための教育あるいは資格のための基準を与えます。

「学識のある人は、自分の妻を除いて、すべての女性を自分の母として見ます。彼はすべての物質的な所有物を路上のゴミとして見て、そして彼は他者の苦しみを自分の中に見ます(as he would look on them in himself)。」

主ブッダは、「私たちは動物でさえ、言葉あるいは行いによって傷つけるべきではない」と教えられました。これがパンディタのための資格であり、これは人生の基準であるべきです。したがって、「人は彼の学位によってではなく、自分の人生の見方(his vison of life)およびその見方に応じた自分の活動に応じて、教育があると考えられるべきだ」と理解されるべきです。

これがバガヴァッド・ギーターからの、パンディタという言葉の理解です。同様に、ブダーという言葉は特に、聖典の研究に造詣の深い者を指します。そのような認識と聖典の学習の結果は、バガヴァッド・ギーターにおいてこのように描写されています。

(サンスクリット引用)

「私はすべての霊的および物質的な世界の源です。すべてのものが私から放射します。これを完璧に知る賢者は私への献身奉仕にいそしみ、そして心から(with all their hearts)私を崇拝します。」(Bg.10.8)

第26段落
造詣の深い者、すなわちブダーは、クリシュナがすべての放射の源であると理解した者です。何であれ私たちがたまたま見るものは、クリシュナの放射に他なりません。何百万年も何百万年もの間、太陽光は太陽から放射しています。そしてそれでも太陽はそのままです。同様に、すべての物質的および霊的なエネルギーは、クリシュナから来ています。これを知ることの結果として、人はクリシュナの献身者になります。

第27段落
このように、自分はクリシュナ意識のいて働かねばならないと知っている者、もはやこの物質世界を楽しみたいと望まない者は、実際に学識があります。誰もが、欲望(カーマ)が原因で物質世界で働いています。しかし、賢い人はこの欲望の指図から自由です(カーマ・サンカルパ・ヴァルジター)。

どうしてこれが可能なのでしょうか?ジニャーナーグニ・ダグダー・カルマーナム。知識の火は罪深い活動のすべての反応を焼き尽くします。それは浄化するものの中で最も強力です。私たちの人生は、私たちがすべての知識の王であるクリシュナ意識というこの超越的な知識、ラージャ・ヴィデャーを得ようと努力する限りにおいて、意味と方向性を持ちます。

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以上で本書の翻訳を終わります。以下、索引など全て省略します。
by ammolitering4 | 2012-04-06 11:28 | 「知識の王」


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