第8章 前半

第8章 クリシュナの知識における活動

(サンスクリット引用)

第1段落
「私に影響を与える仕事はありません。また、私は活動の結果を望むこともありません。私に関するこの真理を理解する者もまた、仕事の結果的な反応に絡まることはありません。」(Bg.4.14)

第2段落
世界全体がカルマによって縛られています。私たちは皆、1ミリメートルの長さの中に何百万と存在する微生物や菌の存在を知っています。ブラーマ・サムヒターの中で、「インドラゴパと呼ばれる微生物に始まり、天国のような惑星の王であるインドラまで、皆がカルマ、仕事の反応に縛られている」と述べられています。

私たちは皆、良いものであれ悪いものであれ、自分の活動の反応を苦しんだり、あるいは楽しんだりしなければなりません。これらの反応を苦しんだり楽しんだりしなければならない限り、私たちはこれらの物質的な体に縛られています。

第3段落
自然の配剤によって、生命体には自分の苦しみ、あるいは楽しみのための物質的な体が与えられます。異なる目的のために異なる種類の体が得られます。虎の体は、殺すことと生肉を食べることのために作られています。同様に、豚は糞を食べるように作られています。

そして、人間として、私たちの歯は野菜と果物を食べるように作られています。これらの体のすべては、生命体によって過去の生においてなされた仕事に応じて作られています。私たちの次の体は、私たちが今行っている仕事に応じて準備されています。

しかし、先に引用した節において、シュリー・クリシュナは、ご自分の活動の超越的な性質を知っている者は、活動の反応から自由になる、と示されます。私たちの活動は、私たちが再びこの物質世界において呪縛されることのないようにするものであるべきです。

これは、もしも私たちが、「クリシュナを研究することと、主の活動の超越的な性質を学ぶこと、そして主がこの物質世界と霊的な世界においていかに振舞われるかを理解すること」によってクリシュナ意識になるなら、可能とされ得ます(this can be made possible)。(訳注:一文が長いので、理解の補助のために括弧を入れています)

第4段落
クリシュナがこの地上においでになるとき、主は私たちのようではありません。主は完全に超越的です。私たちは自分の活動の結果を望みますが、クリシュナは何の結果も望まず、また、主の活動には何の反応もありません。また、主には結果を求める活動(ナ・メ・カルマパーレ・スプリハー)のための何の欲求もありません。

取引に入るとき、私たちは利益を欲します。そしてその利益で私たちは自分の人生を楽しめるものにするための物を買いたいと望みます。制約された魂が何かをしようとするときはいつでも、その背後に楽しみへの欲求があります。しかし、クリシュナは望むべき何も持ちません。

主は至高の人格神であり、そして主はすべてのもので完全に満たされています。クリシュナがこの地上にいらしたとき、主は多くの女友達と1万6千人以上の妻たちを持っていました。そして、一部の人々は主は非常に官能的だったと考えます。しかし、これ(訳注:主が官能的だったということ)は事実ではありませんでした。

第5段落
私たちは、クリシュナとの関係の意味を理解しなければなりません。この物質世界において、私たちは父、母、妻、あるいは夫として、多くの関係を持っています。何であれ私たちがここで見出す関係は、私たちが至高主と持っている関係の歪んだ反映に他なりません。

何であれ私たちがこの物質世界の中において見出すものは、完全真理から生じていますが、ここではそれは、時間の中で歪んで反映されています。何であれ私たちがクリシュナと持っている関係は続きます。もしも私たちが友情において関係を持っているなら、その友情は永遠で、幾世も(from life to life)続きます。

物質世界では、友情は2~3年存在し、そして壊れます。したがってそれは「歪んだ」、「一時的な」、あるいは「本物でない」、とよばれます。もしも私たちがクリシュナと友情を結ぶなら、それは決して壊れません(校正:,→ .)。もしも私たちがクリシュナを自分の主人とするなら、私たちは決して騙されません。

もしも私たちがクリシュナを自分の息子として愛するなら、主は決して死にません。もしも私たちが主を自分の恋人として愛するなら、主はすべてのうちで最良となり、別離はありません。クリシュナは至高主であるため、主は無限であり、無限の数の献身者をお持ちです。

一部の者は主を恋人あるいは夫として愛そうとしており、そしてそのためクリシュナはこの役割を受け入れます。どのような方法で私たちがクリシュナに近付くのであれ、バガヴァッド・ギーターにおいておっしゃるように、主は私たちを受け入れられます。

(サンスクリット引用)

「彼らすべてに―――彼らが私に服従するとき―――私は相応に報います。すべての者がすべての側面において私の道を辿ります、おお、プリターの息子よ。」(Bg.4.11)

第6段落
ゴピー、すなわちクリシュナの牛飼いの女友達は、過去の生において、クリシュナを自分の夫として得るために大変な苦行を行いました。同様に、シュリマッド・バーガヴァタムにおいて、シュカデヴァ・ゴスヴァーミーは、「クリシュナと遊んでいた少年たちは、クリシュナを遊び相手として得るために、自分の過去において大変な苦行と禁欲を行った」とおっしゃいます。

このように、クリシュナの遊び友達、仲間たちと妻たちは、普通の生命体ではありません。私たちはクリシュナ意識について何も知らないので、主の活動を取るに足らないものとして受け取ります。しかし、実際はそれらは荘厳です。私たちの欲望の完全な完成(all perfection)がそこにあります。何であれ私たちが本質的に持っている欲望は、私たちがクリシュナ意識にあるときに完全に満たされます。

第7段落
クリシュナは、ご自分と遊ぶ友人を必要としませんでした。また、主はただ一人の妻も欲しませんでした。私たちは、満たしたい何らかの欲望を持っているために、妻をめとります。しかし、クリシュナはご自分だけで完全です(プールナム)。

貧しい人は銀行に千ドル持つことを望むかもしれませんが、何百万(ドル)も持っている豊かな人は、そのような望みは持ちません。もしもクリシュナが至高の人格神であるなら、なぜ主は欲望を持つべきでしょうか?そうではなく、主は他の者たちの欲望を満たします。

人が乞い、神が与えます。(訳注:Man proposes, God disposes.諺。「人事を尽くして天命を待つ」、「計画は人に在り、成敗は天に在り」。To proposeは、申し入れる、提案する、などの意味。)もしもクリシュナが何かの欲望を持っていたなら、主は不完全です。なぜなら、主は何かを欠いていることになるからです。

したがって主は、ご自分は何の満たすべき欲望もない、とおっしゃいます。ヨゲシュバラ、すなわちすべてのヨギーたちの主人として、何であれ主が意志なさるものは直ちに実現します(to realize)。欲望の余地はありません(There is no question of desire)。

主は、ただご自分の献身者の欲望を満たすために、夫、あるいは恋人、あるいは友人になります。もしも私たちがクリシュナを友人、主人、息子あるいは恋人として受け入れるなら、私たちは決して失望しないでしょう(to be frustrated)。すべての生命体はクリシュナと特定の関係を持っています。しかし、現在はこの関係は覆われています。私たちがクリシュナ意識において発達するにつれて、それは明かされるでしょう。

第8段落
至高主は完全であって何もすることがありませんが、主は例を示すために働かれます。主は物質世界におけるご自分の活動に縛られず、そしてこれを知る者もまた、反応的な活動から自由になります。

(サンスクリット引用)

「古代におけるすべての解放された魂は、この理解をもって活動し、そしてそのため解放を得ました。(原文:All the liberated souls in ancient times acted with this understanding and so attained liberation.)したがって、古代人(ancients)(がした)ように、あなたは自分の義務をこの神聖なる意識において行うべきです。」(Bg.4.15)

第9段落
クリシュナ意識の過程は、霊的な人生において成功を得た偉大なアーチャーリャたちの足跡を私たちが辿るということを必要とします。もしも人が、偉大なアーチャーリャたち、賢人たち、献身者たち、そして自分の人生においてカルマ・ヨガを行った啓蒙された王たちによって示された例に従うことによって活動するなら、彼もまた自由になるでしょう。

第10段落
クルクシェトラの戦場において、アルジュナは戦争に携わることによって自分の活動の中に呪縛されることを非常に恐れていました。したがってクリシュナは彼に、もしも彼がご自分のために戦ったなら、呪縛の可能性はない、と保証なさいました。

(サンスクリット引用)

「知性的な者でさえ、何が活動であって何が非活動(inaction)であるかを区別することにおいて幻惑されます。今、私はあなたに、何が活動であるかを説明します。それを知れば、あなたはすべての罪から解放されるでしょう(shall)。」(Bg.4.16)

第11段落
人々は実際に、何が仕事(カルマ)で何が仕事でない(アカルマ)かについて混乱しています。ここでクリシュナは、「偉大な学者たち(カヴァヤー)でさえ、仕事の性質について幻惑されている」と示されます。どの活動が本物でどれがそうでないか、どれが真正でどれがそうでないか、どれが禁じられていてどれがそうでないか、を知る必要があります。

もしも私たちが仕事の原則を理解するなら、私たちは物質的な呪縛から自由になることができます。したがって、どうやって仕事を行うかを知る必要があります。私たちが物質の体を去るとき、もはやもう一つ(の体)を取ることを強制されず、自由に霊的な天空に入れる(be free to enter into)ようにするためです。正しい仕事の原則は、11章の最後の節においてシュリー・クリシュナによって明確に述べられています。

(サンスクリット引用)

「我が親愛なるアルジュナよ。過去の活動の汚染から、そして精神的な推量から自由になって、私への純粋な献身奉仕に携わっている者、すべての生命体に対して友好的である者は、確かに私のところに来ます。」(Bg.11.55)

第12段落
この一節は、バガヴァッド・ギーターの真髄を理解するのに十分です。人は「私の仕事(訳注:My work、クリシュナのために働くこと)」に携わらねばなりません。そして、この仕事とは何でしょうか?それは、クリシュナがアルジュナにご自分に服従するようにおっしゃる、バガヴァッド・ギーターの中の最後の教えにおいて示されます。(Bg.18.66)

第13段落
アルジュナの例によって、私たちは、自分はクリシュナによって認められた仕事だけをすべきである、ということを学ぶべきです。これが人間の人生の使命ですが、私たちはそれを知りません。自分の無知のため、私たちは人生の身体的あるいは物質的な概念に関わる非常に多くの仕事に携わります。クリシュナはアルジュナに戦うことを望まれ、そしてアルジュナは戦いたくなかったにも関わらず戦いました。クリシュナがそれを望まれたからです。私たちはこの例に倣うことを学ばねばなりません。

第14段落
もちろん、クリシュナはアルジュナに彼の仕事が何であるのかを言うためにそこにいらっしゃいましたが、私たちについてはどうでしょうか?シュリー・クリシュナはアルジュナに個人的に、これこれこういうふうに活動するように、と指示していらっしゃいましたが、単にクリシュナが私たちの前に個人的にいらっしゃらないからといって、私たちは指示がないのだと考えるべきではありません。実に、指示は存在します。バガヴァッド・ギーターの最後の章において、私たちが行うべき正しい仕事が与えられています。

(サンスクリット引用)

「献身者に至高の秘密を説明する者にとって、献身奉仕は保証されています。そして最後に彼は私のもとに戻ります。この世の中に、私にとって彼より愛しい従者はいません。また、もっと愛しい者が未来において現れることもありません(nor will there ever be one more dear.)。」(Bg.18.68-69)

第15章
したがって、バガヴァッド・ギーターの方法(method)を布教し、人々をクリシュナ意識にすることは、私たちの義務です。クリシュナ意識が欠けているので、人々は実際に苦しんでいます。世界全体の利益のために、私たちは皆、クリシュナの科学を広めることに携わるべきです。

主チャイタンニャ・マハープラブは、クリシュナ意識を教えるという、この使命をもっておいでになり、そして主は、「身分に関わらず、もしも人がクリシュナ意識を教えるなら、彼は霊的指導者と考えられるべきです」とおっしゃいました。

バガヴァッド・ギーターとシュリマッド・バーガヴァタムは、どちらも、どうやってクリシュナ意識になるかという情報に満ちています。主チャイタンニャ・マハープラブはこれらの2冊の本を選び、世界中のあちこちの人々(people in all corners of the world)が、このクリシュナの科学をすべての町と村で広めることをお頼みになりました。

主チャイタンニャ・マハープラブはクリシュナご自身であり、そして私たちはこれを、私たちの正しい仕事に関するクリシュナの指示として受け取るべきです。しかし、私たちは、個人的な解釈や動機なくして、ありのままにバガヴァッド・ギーターを提示するように注意すべきです。一部の人々はバガヴァッド・ギーターの解釈を提示します。しかし、私たちは(訳注:バガヴァッド・ギーターの、あるいはクリシュナの)言葉をシュリー・クリシュナによって話されたように提示すべきです。

第16段落
クリシュナのために働く者は、物質世界の中の他の誰ものように働いているように見えるかもしれませんが、これはそうではありません。アルジュナはちょうど普通の軍人のように戦ったかもしれませんが、彼はクリシュナ意識において戦ったので、自分の活動の呪縛から自由でした。

このように、物質的であるように見えたにも関わらず、彼の仕事は全く物質的ではありませんでした。それが何であるかに関わらず―――クリシュナによって認められたいかなる活動も、反応を持ちません。戦うことはあまり良い(nice)ことではないかもしれません。

しかし時として、クルクシェトラの戦いの場合のように、それは絶対に必要です。他方で、世界の意見においては非常に利他的あるいは人道的であるかもしれない仕事を私たちはするかもしれませんが、それでも私たちは物質的な活動に縛られます。ですから、重要なのは活動そのものではなく、活動がなされるときの意識です。

(サンスクリット引用)

「活動の複雑さは理解するのが非常に困難です。したがって、活動とは何か、禁じられた活動とは何か、そして非活動とは何かを、人は正しく知るべきです。」(Bg.4.17)
by ammolitering4 | 2012-04-06 11:28 | 「知識の王」


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