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第5章 後半

第10段落
知識を得るための二つの過程があります---一つは帰納的なもので、もう一つは演繹的なものです。演繹的な方法は、もっと完全であると考えられます。私たちは「すべての人間は死ぬ(All men are mortal)」などの前提(premise)を取るかもしれません(訳注:~を例にあげましょう)。

(そして)、誰もどのように人間が死を運命づけられているか論じる必要はありません(訳注:no one need discuss、このneedは助動詞)。これがそうであるということは一般に受け入れられています。演繹的な結論は次のようなものです。「ジョンソン氏は人間である。したがってジョンソン氏は死ぬ。」

しかし、すべての人間が死ぬという前提はどうやって得られたのでしょうか(to arrive at)?帰納的な方法の信奉者(followers)は、実験と観察を通してこの前提に至りたいと思います。そのため私たちは、この人が死んだ、あの人が死んだ、などと研究するかもしれず、非常に多くの人々が死んだのを見たあとで、「すべての人は死ぬ」と結論づける、あるいは一般化するかもしれません。

しかし、この帰納的な方法には大きな欠陥があり、それは私たちの経験は限られているということです。私たちは、死なない人を一度も見たことがないかも知れず、それでも(but)私たちはこれを、有限である自分の個人的な経験に基づいて(on)判断しています。

私たちの感覚は限られた力を持っており、そして私たちの制約された状態には非常の多くの欠陥があります。その結果、帰納的な過程は必ずしも完全ではなく、他方、完璧な知識の源からの演繹的な過程は完璧です。ヴェーダの過程はそのような過程です。

第11段落
権威は認められていますが(although the authority is acknowledged)(訳注:これはおそらくクリシュナがBGの中で他の権威に敬意を表しているということだろうと思います)、バガヴァッド・ギーターの中には独断的であるように見える多くの節があります。例えば、第7章でシュリー・クリシュナはおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「おお、富を征服するもの(アルジュナ)よ。私に優る真理はありません。すべてのものは私の上に拠り頼みます(to rest upon)。ちょうど真珠が糸に通されるようにです。」(Bg.7.7)

第12段落
シュリー・クリシュナはご自分より偉大な権威はないとおっしゃり、そしてこれは非常に独断的であるように見えます。もしも私が「私より偉大な者はいません」と言えば、人々は「おお、スヴァーミージーは非常に尊大だ」と考えるでしょう。

もしも非常に多くの不完全さによって制約されている者が自分はすべての者の中で最も偉大であると言うなら、彼は(神を)冒涜します。しかし、クリシュナはこれを言うことができます。なぜなら、私たちは歴史から、「この地上にいらした間でさえ、主は当時の最も偉大な名士と考えられた」と理解することができるからです。実に、主は活動のすべての分野において最も偉大でいらっしゃいました。

第13段落
ヴェーダの体系によれば、最も偉大な権威から得られた知識は完璧と考えられるべきものです(is to be considered)。ヴェーダによれば、3つの種類の証拠があります---プラテャクシャ、アヌマーナ、そしてシャブダです。一つは直接的な視覚上の知覚によるものです。

もしもある人が私の前に座っているなら、私は彼がそこに座っているのを見ることができ、彼がそこに座っているという私の知識は私の目を通して受け取られます。2番目の方法、アヌマーナは、聴覚によるものです。私たちは子供たちが外で遊んでいるのを聞くかもしれません。

そして、聞くことによって私たちは彼らがそこにいると推測することができます。そして3番目の方法は、より高い権威から真理を受け取る方法です。「人は死ぬ」などの言葉(saying、諺、言い習わし)は、より高い権威から受け入れられます。

誰もがこれを受け入れますが、誰もすべての人が死ぬと経験したことはありません。伝統によって、私たちはこれを受け入れなくてはなりません。もしも誰かが「誰が最初にこの真理を見出したのですか?あなたがそれを発見したのですか?」と尋ねるなら、それは言うのが非常に困難です(訳注:答えにくい)。

私たちが言えることのすべては、(その)知識は下ってきている(訳注:昔からそう言われている)ということ、そして私たちはそれを受け入れる、ということです。知識を得るための3つの方法のうち、ヴェーダは、知識をより高い権威から受け取るという第3の方法が最も完璧である、と言います。

直接的な知覚は、特に人生の制約された状態においては、いつも不完全です。直接的な知覚によって私たちは、「太陽はちょうど、私たちがものを食べるのに使う皿よりも大きいものではない、円盤のようである」ということを見ることができます。

しかし科学者たちからは、私たちは「太陽は地球よりも何千倍も大きい」と知るようになります。では、私たちは何を受け入れればよいのでしょうか(what are we to accept)?私たちは、科学的な宣言、権威者の宣言、それとも自分の独自の経験を受け入れるのでしょうか?

私たちは自分では太陽がどれほど大きいかを証明することができませんが、天文学者の判断を受け入れます。このようにして、私たちは自分の活動のすべての分野において権威者の言明を受け入れています。私たちはまた、新聞とラジオから、「中国やインドや地球上全体の他のところで、あれこれのできごとが起こっている」ということを理解します。

私たちはこれらの出来事を直接的に経験してはいません。そして私たちはそのような出来事が実際に起こっていると知りません。しかし私たちは新聞とラジオの権威を受け入れます。私たちは知識を得るために権威を信じるより他に選択肢を持ちません。そして権威が完璧であるとき、私たちの知識は完璧です。

第14段落
ヴェーダの源によれば、すべての権威のうちでクリシュナが最も偉大で最も完璧です(サンスクリット引用)。クリシュナがご自分を最高の権威と宣言なさるだけでなく、これは偉大な聖人たちとバガヴァッド・ギーターの学者たちによっても受け入れられています。

もしも私たちがクリシュナを権威として受け入れず、主の言葉をそのままに受け入れないなら(訳注:if we do not accept ~ and take ~、この場合and はnorの意味だと思います)、私たちはバガヴァッド・ギーターから何らの利益も得ることができません。それは独断的ではありません。それは事実です。

もしも私たちがクリシュナがおっしゃることを詳細に(scrutinizingly、じろじろと凝視するように)研究するなら、私たちはそれが正しいことを見出すでしょう。至高の人格神と異なる意見を持つシャンカラーチャーリャのような学者でさえ、クリシュナがスヴァヤム・バーガヴァーン---クリシュナが至高主であると認めます。

第15段落
ヴェーダの知識は新しい発見ではありません。それはすべて、古い、明かされた知識です(it is all old revealed knowledge)。クリシュナはそれを、「太古の」を意味するプラータナーと呼ばれます。クリシュナは「大昔(millions of years before)、このヨガを太陽神に話した」とおっしゃり、私たちは、そのさらに大昔に、いつ主がそれを他の誰かに話されたのか知りません。

この知識はいつも繰り返されています。ちょうど、夏、秋、冬そして春が毎年繰り返されるようにです。私たちの知識量は極めて貧困です。私たちはこの惑星の歴史さえ5千年以上前のことは知りません。しかしヴェーダ文献は何百万年も前に遡る歴史を与えます(訳注:繰り返しになりますが、この「何百万年」は実際にはもっと長い時間を指します)。

3千年前にこの惑星上で何か起こったかについて知識を持たないからといって、私たちは「その頃は歴史がなかった」と結論づけることはできません。もちろん、人はクリシュナの歴史的な正当性(validity、妥当性、確実性)を否認することができます。

人は、マハーバーラタによればクリシュナは5千年前に生きていた、と言うかもしれず、これがそうであれば、主が何百万年(訳注:太古の時代)にバガヴァッド・ギーターを太陽神に語ったという可能性はありません。

もしも私が太古の時代に太陽の上で太陽神に話をしたと言ったら、人々は「スヴァーミージーは何か無意味なことを話している」と言うでしょう。しかし、クリシュナの場合はそうではありません。なぜなら、主は至高の人格神だからです。

私たちが「クリシュナはバガヴァッド・ギーターを太陽神に話した」と信じようが信じまいが、この事実はアルジュナによって受け入れられています。アルジュナはクリシュナを至高主として受け入れました。そしてそのため、彼はクリシュナにとって太古の時代に誰かと話すのは十分に可能だと知っていました。アルジュナは個人的にはシュリー・クリシュナの言明を受け入れますが、自分の後から来る人々のために状況を明らかにするために尋ねます。

(サンスクリット引用)

「太陽神ヴィヴァスヴァーンはあなたよりも年長です。あなたが初めに(訳注:太陽系の初めに、ということだと思います)この科学を彼に教えたということを、私はどう理解すればよいのでしょうか?」(Bg.4.4)

第16段落
実際は、これは非常に知性的な質問です。そしてクリシュナはそれにこのようにお答えになります。

(サンスクリット引用)

「あなたと私はどちらも、たくさん、たくさんの生を通り過ぎました。私はそれらすべてを覚えていることができますが、あなたはそうできません。おお、敵を鎮圧する者よ!」(Bg.4.5)

第17段落
クリシュナは神ではありますが、主は何度も何度も化身なさいます。アルジュナも、生命体なので何度も何度も生まれます。至高の人格神と生命体の間の違いは、ターニー・アハム・ヴェダ・サルヴァーニ、「クリシュナはご自分の過去の化身の出来事を覚えているが、生命体は覚えていられない」というものです。

それが神と人との間の違いの一つです。神は永遠であり、私たちもまた永遠です。しかし違いは、私たちはいつも体を変えているということです。死のとき、私たちは自分の生涯のできごとを忘れます。死は忘却を意味します。それだけです。

夜、眠るとき、私たちは自分がある妻の(such and such a wife)夫であって、ある子供たちの父親であるのを忘れます。私たちは眠りの中で自分自身を忘れますが、目覚めるとき、私たちは思い出します。「おお、私は誰それだ。そして私はこれこれをしなければならない。」

自分の以前の生において、私たちが他の国々で他の家族、父、母などと共に他の体を持っていたというのは事実です。しかし私たちはこれらすべてを忘れてしまいました。私たちは、犬、あるいは猫、あるいは人間、あるいは神(gods)であったかもしれません---何であったとしても、私たちは今は忘れてしまっています。

第18段落
これらすべての変化にも関わらず、生命体として私たちは永遠です。ちょうど以前の生において私たちがこの体のために準備をしたように、この人生において私たちはもう一つの体のために準備をしています。私たちは自分のカルマ、すなわち活動に応じて自分の体を得ます。

徳の相にある者は、より高い惑星に、人生のより高い水準に上げられます(Bg.14.14)。熱情の相において死ぬ者は地上に留まり、そして無明の相において死ぬ者は生命の動物の種に落ちるかもしれず、あるいは、より低い惑星に移されるかもしれません(Bg.14.15)。これがずっと続いている過程ですが、私たちはそれを忘れます。

第19段落
あるとき、天国の王様インドラが自分の霊的指導者の足元で(訳注:~に対して)無礼を犯しました。そして彼の霊的指導者は、彼に豚として生まれるように呪いをかけました。こうして、インドラが豚になるために地球に行ったので、天国の王国の王座が空になりました。

(この)状況を見て、ブラーマーが地球に来て豚に話しかけました。「我が親愛なる方よ。あなたはこの地球という惑星の上で豚になりました。私はあなたを救うために来ました。直ちに私と共に来てください。」しかし、豚は答えました。「おお、私はあなたと共に行くことはできません。

私には非常に多くの責任があります---私の子供たち、妻、そしてこの素敵な(nice)豚社会です。」ブラーマーが彼を天国に連れ帰ると約束したにも関わらず、豚の形において、インドラは拒絶しました。これは忘却と呼ばれます。同様に、主クリシュナがおいでになって私たちにおっしゃいます。

「あなたはこの物質世界で何をしているのですか?(サンスクリット引用)私のところに来なさい。そうすれば(and)私はあなたにすべての保護を与えます。」しかし私たちは言います。「旦那様(Sir)、私はあなたを信じません。私にはここにもっと大事な仕事があります。」これが制約された魂の立場---忘却です。この忘却は、師弟継承の道を辿ることによって、すぐに消されます。
by ammolitering4 | 2012-03-15 15:03 | 「知識の王」


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