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第31章 41段落まで

第33段落
「私にとって、これを超えた何かを表すことは非常に困難です」とラーマーナンダ・ラーヤは答えました。「私は、『プレマ・ヴィラーサ・ヴィヴァルタと呼ばれる感情の活動がある』ということだけを言うことができます。私はそれを説明しようとします(may)が、私はあなたがそれを聞くことで幸せかどうか分かりません。」

プレマ・ヴィラーサには二つの種類の感情の活動があります---別離と出会いです(訳注:meeting、ここで「出会い」は単に「会うこと」を指し、日本語の「出会い」の語感に含まれる「初めての出会い」ではありません。適切な言葉を思いつかないのでこうしています。以下同様ですが、「密会」という意味もあるので、内容によってはそちらが適切な場合もあります)。

その超越的な別離は非常に激しいので、実際は出会いよりも恍惚的です。ラーマーナンダ・ラーヤは、
ラーダーとクリシュナの間のこれらの高度に発達したやりとりを理解することにおいて熟達しており、そして彼は素敵な(nice)歌を作詞し、それを主に詠唱しました。

その歌の解説は、「愛する者と愛される者は、出会いの前に、自分たちの超越的な活動の交換によって、一種の感情を作り出す」というものです。その感情はラーガ、すなわち魅力と呼ばれます。シュリーマティー・ラーダーラーニーは、「私たちの間の、この魅力と愛情が、最高の限度(extent、範囲、限界、大きさ)まで上がる」というご自分の意欲を表されましたが、この魅力の原因はラーダーラーニーご自身です。

「原因が何であれ」とラーダーラーニーはおっしゃいました。「あなたと私の間のその愛情は、私たちを一つに混ぜました(to mix)。今、別離の時が来たので、私はこの愛の進化の歴史を見ることができません。私たちの出会いそのもの、そして(私たちの)気持ちの夢のような(visionary)交換の他には、原因や媒体はありませんでした。」

第34段落
クリシュナとラーダーラーニーの間のこの気持ちの交換は、人が純粋な徳の水準に上げられない限り、理解するのが非常に困難です。そのような超越的な交換は、物質的な徳の水準から理解することは可能でさえありません。

理解するためには、人は実際に物質的な徳を超越せねばなりません。これは、ラーダーとクリシュナの間の気持ちの交換が、この物質的な世界の主題ではないからです。最も偉大な精神的な推量者でさえ、直接的にも間接的にも、これを理解することができません。

物質的な活動は、濃密な体、あるいは希薄な心のために(for)顕現しますが、ラーダーとクリシュナの間のこの気持ちの交換はそのような顕現を超えており、知性的で精神的な推量を超えています。それは物質的な世界のすべての区分(訳注:designation、呼称、指定など。物質的な体に基づいて「自分は男である、アジア人である」などと区別して考えること)から自由になった、浄化された感覚によってのみ理解されます。

感覚を浄化した者は、これらの超越的な特質と交換を理解することができますが、非人格主義者である者、そして霊的な感覚について何の知識もない者は、物質的な感覚の範囲の中で識別する(to discriminate、違いを認識する)ことができるだけであり、そしてそのため、霊的な交換あるいは霊的で官能的な活動を理解することができません。

実験的な知識の力によって発達した者は、濃密な身体的な活動によって、あるいは精神的な推量によって、自分の鈍感な物質的な感覚を満足させることができるだけです。体、あるいは心から生じたすべては、いつも不完全であり、やがて滅びます。

しかし、超越的で霊的な活動は、いつも明るくすばらしい(bright and wonderful)ものです。超越的な水準における純粋な愛は、物質的な愛情のない純粋さの模範であり、完全に霊的です。物体への愛情は、物質世界における性交の酩酊によって示されるように、やがて滅びます。

しかし、霊的な世界にはそのような酩酊はありません。感覚の満足の道における妨げは物質的な苦しみを生じさせますが、人はそれを霊的な別離と比べることはできません。霊的な別離の中には、人が物質的な別離の中に見出す酩酊も無力感(ineffectiveness)もありません。

第35段落
主チャイタンニャは、「これが超越的な愛情ある交換の最高の立場である」と認めました。そして、主はラーマーナンダ・ラーヤにこう言いました。「あなたの恵みによってのみ、私はそのような高い超越的な立場を理解することができました。

そのような立場には、超越的な活動を行うことなくしては至り得ません。ですから、どうか親切に、どうしたら私は自分自身をこの水準に上げることができるか、教えてくださいませんか?」

第36段落
「あなたに理解させることは、私にも同じように困難です」とラーマーナンダ・ラーヤは答えました。「私に関して言えば、私はあなたが私に話して欲しいと思われることだけを話すことができます。誰もあなたの至高の意志を逃れることはできません。

そして、私は話しているように見えますが、私は実際は話者ではありません。あなたが話していらっしゃいます。したがって、あなたは話者であって、聴衆でもあります。そのため、この最高の超越的な立場に至るために必要とされる行いについて、あなたが私に話すように望まれるようにだけ、話させてください。」

第37段落
それからラーマーナンダ・ラーヤは、ラーダーとクリシュナの内密で超越的な活動を語り始めました。これらの活動は、主人と従者、友と友、あるいは親と息子としての至高主との感情的な関係においては、理解され得ません。

この内密な主題は、ヴラジャの高貴な娘たちとの関わりにおいてのみ、理解され得ます。なぜなら、内密な活動はそれらの高貴な娘たちの気持ちと感情から生じたからです。ヴラジャの高貴な娘たちとの関わりなくしては、人はそのような超越的な理解を育んだり、あるいは慈しんだりすることはできません。

言い換えると、ラーダーとクリシュナのこれらの内密な娯楽は、高貴な娘たちの慈悲を通して拡大しました。彼女らの慈悲なくしては、それらは理解され得ません。人は(それらを)理解するためにヴラジャの高貴な娘たちの足跡を辿らねばなりません。

第38段落
人が実際にその理解に位置するとき、彼はラーダーとクリシュナの内密な娯楽に入る資格を得ます。彼らの内密な娯楽を理解するためには、代替策はありません。これはゴヴィンダ・リーラームリタ(10.17)において確認されています。

「顕現しており、幸せで、広がっており、そして無限であるけれど、ラーダーとクリシュナの間の感情的な交換は、ヴラジャの高貴な娘たち、あるいは彼女らの追従者によってのみ理解され得ます。」ちょうど、主のいわれのない慈悲なくしては誰も至高主の霊的エネルギーの広がりを理解できないように、ヴラジャの高貴な娘たちの足跡を辿ることなくしては、誰もラーダーとクリシュナの間の超越的な性生活を理解することはできません。

ラーダーラーニーの個人的な仲間たちはサキー(sakhis、複数)と呼ばれ、彼女の近しい助手たちはマンジャリー(manjaris、複数)と呼ばれます。彼女らのクリシュナとのやり取りを表すことは非常に困難です。なぜなら、彼女らはクリシュナと親しく交際したり(to mix)、主を個人的に楽しんだりする欲望を持たないからです。

そうではなく、彼女らはいつもラーダーラーニーがクリシュナと関わるのを助ける用意ができています。彼女らのクリシュナとラーダーへの愛情は非常に純粋なので、彼女らはラーダーとクリシュナが一緒にいるとき、それだけで(simply)満足します。

実に、彼女らの超越的な喜びは、ラーダーとクリシュナが結ばれるのを見ることにあります。ラーダーラーニーの実際の姿は、ちょうどクリシュナという木を抱擁するつる草のようであり、そしてヴラジャの高貴な娘たち、ラーダーラーニーの仲間たちは、ちょうどそのつる草の葉や花のようです。つる草が木を抱擁するとき、つる草と一緒に葉と花も自動的にそれを抱擁します。

ゴヴィンダ・リーラームリタ(10.16)は、「ラーダーラーニーはクリシュナの喜びの力の拡張体であって、つる草と比べられます。そして彼女の仲間たち、ヴラジャの高貴な娘たちは、そのつる草の花と葉に比べられる」と確認します。ラーダーラーニーとクリシュナが楽しむとき、ヴラジャの高貴な娘たちはラーダーラーニー本人よりも喜びを味わいます。

第39段落
ラーダーラーニーの仲間たちはクリシュナから何らの個人的な関心も期待しませんが、ラーダーラーニーは彼女らを非常に喜ばしく思われるので、彼女はクリシュナとヴラジャの高貴な娘たちとの間の個別の出会いを手配なさいます。

実に、ラーダーラーニーは多くの超越的な策略によって、ご自分の仲間たちをクリシュナと結びつけようと(訳注:to combine or unite、どちらも「結びつかせる」という意味)なさいます。そして彼女は、主とのご自分自身の出会いよりもこれらの出会いに、より大きな喜びを感じられます。

ラーダーラーニーと彼女の仲間たちの両方が主との関わりによって喜んでいるのを見るとき、クリシュナはもっと満足なさいます。そのような関わりと愛情ある交換は、男と女の間の物質的な結びつきに似ていますが、物質的な色情とは何の関係もありません。

そのような交換が時として、超越的な言語において、「超越的な色情」と呼ばれるのは、単にその類似性のためです。ゴータミーヤ・タントラ(B.r.s.1.2.285)において、次のように説明されています。「欲望(lust、色情)とは、人の個人的な感覚の満足への執着を意味します。

しかし、ラーダーラーニーと彼女の仲間たちに関して言えば、彼女らは個人的な感覚の満足を望みませんでした。彼女らは、クリシュナを満足させることだけを望みました。」これは、シュリマッド・バーガヴァタム(10.31.19)の中で、ゴピーたちの話の一つの中でさらに確認されています。

(サンスクリット引用)

「私の親愛なるお友達クリシュナよ。あなたは今、裸足で森の中をさまよっていらっしゃいます。あなたが時として私たちの乳房の上に乗せる、その足で。あなたの足が私たちの乳房の上にあるとき、私たちは自分の乳房があなたの柔らかい足には固すぎると考えます。

今、あなたは森の中をさまよい、石の上を歩いています。そして私たちは、あなたがどう感じているのか知りません。あなたは私たちにとって何よりも大切なもの(訳注:life and soul、「命と魂」)なので、粗い石の上を行くことであなたが経験する不快さは、私たちに大いなる苦しみを与えています。」

ヴラジャの高貴な娘たちによって表されるそのような気持ちは、最高のクリシュナ意識の感情を構成します。実際にクリシュナ意識によって魅了されるようになる者は誰でも、ゴピーたちのこの水準に近付きます。無条件の(unconditional)献身というゴピーたちの水準に上がるためになされる、64の部類の献身奉仕があります。

ゴピーたちの水準におけるクリシュナへの愛情は、ラーガーヌガ、自然発生的な(spontaneous、自発的な)愛、と呼ばれます。人がクリシュナとの自然発生的な恋愛に入るとき、ヴェーダの規則や規律に従う必要はありません。

第40段落
超越的なお住まいには、様々な種類の主クリシュナの献身者がいます。例えば、ラクタカとパトラカのような従者がおり、シュリーダーマーとスダーマのようなクリシュナの友人たちがいます。ちょうどナンダとヤショダーのような、クリシュナの両親もいます。

彼らもまた、それぞれの超越的な感情に応じて、クリシュナへの奉仕に携わっています。クリシュナの至高のお住まいに入りたいと望む者は、そのような超越的な従者たちの一人の庇護を受けることができます。そうすれば、愛情ある奉仕の遂行を通じて、人はクリシュナへの超越的な愛情を得ることができます。

言い換えると、クリシュナのそれらの永遠の仲間たちの活動を遂行中に(in pursuance of、義務などを遂行している間に、またはそれに従事している間に)愛情ある奉仕を行う、この物質世界の中の献身者もまた、彼が完成するとき、同じ地位を得ます。(訳注:この一文はそのままではよく分かりませんが、直前の一文から、「これらの人々の庇護の下で自分も主に奉仕をするうちに」ということだろうと思います。)

第41段落
ウパニシャッドとシュルティの中で言及されている賢人たちもまた、ゴピーたちの地位を欲します。そして彼らもまた、人生のその最高の目的地に至るためにゴピーたちの足跡を辿ります。これはシュリマッド・バーガヴァタム(10.87.23)において確認されています。

そこでは、「神秘的なヨガの実践を通して呼吸の過程と心と感覚を統御することによって、賢人たちはプラーナーヤーマ(trance、恍惚感)を実践する」と述べられています。こうして彼らは至高のブラーマンに同化しようとします。この同じ目的は、神の存在を否定する無神論者によっても達成されます。

もしもそのような無神論者が至高の人格神の化身によって殺されるなら、彼もまた、至高のブラーマンの存在に同化します。しかし、ヴリンダーヴァンの高貴な娘たちがクリシュナを崇拝するとき、それはまるで彼女らが蛇に噛まれたかのようです。

なぜなら、クリシュナの体は蛇に比べられるからです。蛇の体は決してまっすぐではありません。それはいつも曲がりくねっています。同様に、クリシュナはしばしば、3つのところで波打った姿勢でお立ちになり、そして主はゴピーたちを超越的な愛で噛みました。

ゴピーたちは確かに、至高のブラーマンに同化したいと欲するすべての神秘的なヨギーたちと、その他の者たちよりも、秀でた立場にあります。ダンダカーラニャの賢人たちもまた、似た地位を得るためにヴラジャの高貴な娘たちの足跡を辿ります。

人は単に規律的な原則に従うことによってその地位を得ることはできません。そうではなく、人は真剣にゴピーたちの原則に従わねばなりません。これはシュリマッド・バーガヴァタム(10.9.21)において確認されています。

そこには、「シュリーマティー・ヤショダーの息子、主シュリー・クリシュナは、精神的な推量の原則に従う者には容易に得られない(available)が、献身奉仕の道を辿る様々な生命体には簡単に得られる」と述べられています。
by ammolitering4 | 2012-02-22 10:46 | 「主チャイタンニャの教え」


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