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第28章 前半

第28章 至高存在との関係

第1段落
主チャイタンニャは、ラーマーナンダ・ラーヤによってヴィシュヌ・プラーナから引用された言明を退けました。なぜなら、主はカルマ・ミーマームサとして知られる哲学者の一派(a class of)を退けたいと望まれたからです。カルマ・ミーマームサの追従者は、神を人の仕事の影響下にあるとして受け入れます。

彼らの結論は、「もしも人が良く働くならば、神は良い結果を与えることを義務づけられる(God is bound to)」というものです。このように、人はヴィシュヌ・プラーナの言明から、「ヴィシュヌ、至高主は独立性を持たず、働く者に特定の種類の結果を授ける義務を負わされている」と理解することができます。

そのような依存した目標は、至高神を非人格的か人格的か、自分が望むように両方を受け入れる崇拝者に服従させられます(to become subjected to)。(訳注:「独立性に欠けるそのような神は、自分の好きなように神を人格的だとか人格的でないとか考える崇拝者に服従させられています。」)

実際、この哲学は至高の完全真理の非人格的な特徴を強調します。主チャイタンニャはそのような非人格主義を好まなかったので、主はそれを退けました。

第2段落
「もしもあなたが至高の完全真理についてこの概念を超えた何かを知っているなら、私に話してください」と主はとうとう言いました。

第3段落
ラーマーナンダ・ラーヤは主チャイタンニャの目的を理解し、そして「結果を求める活動の結果を放棄するほうが良い」と延べ、彼はバガヴァッド・ギーターから一節を引用しました。

(サンスクリット引用)

「おお、クンティーの息子よ。あなたのすることすべて、あなたが食べるもの全て、あなたが捧げ、与えるもの全て、そしてあなたが行うかもしれないすべての禁欲も、私への捧げ物としてなされるべきです。」(BG 9.27)シュリマッド・バーガヴァタムの中にも似た文(11.2.36)があります。

それは、人は全てを---自分の、結果を求める活動、体、言葉、心、感覚、知性、魂そして自然の相を---至高の人格神、ナーラーヤナに捧げる(to submit、提出する)べきである、と述べます。

第4段落
しかし主チャイタンニャは、「もしもあなたが何かもっと高いものを知っているなら、述べなさい」と言って、この言明も退けました。

第5段落
バガヴァッド・ギーターとシュリマッド・バーガヴァタムにおいて命じられているように、すべてを至高の人格神に捧げることは、非人格的に至高神を私たちの仕事の影響下に置くことよりも優れています。しかし、それはまだ、至高主へ活動を捧げる(to surrender、引き渡す)ことを欠いています。働く人が物質的な存在と(訳注:自分を)同一視することは、正しい導き無くしては変えられ得ません。

そのような、結果を求める活動は、人の物質的な存在を続けさせます。働く人はここで単に自分の働きの結果を至高主に捧げるように指示されていますが、人が物質的な呪縛から出て行くことを可能にするための情報は何も与えられていません。したがって主チャイタンニャは彼の提案(proposal)を退けました。

第6段落
自分の提案(suggestion)を2回退けられた後、 ラーマーナンダは「人は自分の職業的な活動をすべて捨て、非執着をもって超越的な水準に上がるべきである」と提案しました。言い換えると、彼は俗世的な人生の完全な放棄を勧め、そしてこの見方を支えるために彼はシュリマッド・バーガヴァタム(11.11.32)から証拠を引用しました。

そこで主(クリシュナ)はこうおっしゃいます。「聖典の中で、私は儀式的な原則と、人が献身奉仕に位置するようになることができる方法を描写しました。それが宗教の最高の完成です。」ラーマーナンダはバガヴァッド・ギーターの中の主クリシュナの命令も引用しました。

(サンスクリット引用)

「すべての種類の宗教を放棄し、ただ私に服従しなさい。私はあなたをすべての罪深い反応から救います。恐れないでください。」(BG 18.66)

第7段落
主チャイタンニャは、この第3の提案も退けました。なぜなら、主は放棄(renunciation)はそれ自体では十分ではないと示したかったからです。積極的な働き(positive engagement)がなければなりません。積極的な働きがなければ、最高の完成の水準には至れません。一般に、放棄階級には2種類の哲学者がいます。

一つのほうの目的はニルヴァーナであり、もう一つのほうの目的は非人格的なブラーマンの光輝です。そのような哲学者たちは、自分たちがニルヴァーナと、霊的な天空のヴァイクンターの惑星へのブラーマンの光輝(The Brahman effulgence to the Vaikuntha planets of the spiritual sky)を超えたところに至ることができると想像することができません。単純な放棄においては、霊的な惑星と霊的な活動の概念がないので、主チャイタンニャはこの第3の提案を退けました。

第8段落
それからラーマーナンダ・ラーヤは、バガヴァッド・ギーターからさらなる証拠を引用しました。

(サンスクリット引用)

「このように超越的に位置している者は、直ちに至高のブラーマンを認識します。彼は決して嘆かず、何かを持ちたいとも望みません。彼はすべての生命体に対して平等です(is equally disposed to)。その状態において彼は私への純粋な献身奉仕を得ます。」(BG18.54)

ラーマーナンダ・ラーヤは最初に、結果を求める活動の放棄を伴ってなされる献身奉仕を提案しましたが、ここで彼は「完全な知識と霊的な認識が加わった(with ~ added)献身奉仕のほうが優れている」と提案します。

第9段落
しかし、主チャイタンニャはこの提案も退けました。なぜなら、単にブラーマン認識において物質的な結果を放棄することによっては、人は霊的な世界と霊的な活動を認識しないからです。人がブラーマン認識に至るときには物質的な汚染はありませんが、その水準は完全ではありません。

なぜなら、霊的な活動における積極的な働きがないからです。それはまだ精神的な領域にあるので、それは外的(external、表面的)です。純粋な生命体は、完全に霊的な活動に携わっているのでない限り、解放されていません。

人が非人格的な考えや虚無の考えに浸っている限り、知識の永遠で喜びに満ちた人生(an eternal blissful life of knowledge、知識と喜びに満ちた永遠の人生)は完成していません。霊的な知識が完全でないとき、人はすべての物質的な多様性から心を清めようとする自分の試みにおいて妨害されるでしょう。

こうして非人格主義者は人工的な瞑想によって心を無にする自分の試みにおいて挫折します。心からすべての物質的な概念を取り除く(to void)ことは非常に困難です。バガヴァッド・ギーターには次のように述べられています。

(サンスクリット引用)

「至高存在の非顕現で非人格的な特徴に心が魅了されている者にとって、発達は非常に難儀(troublesome)です。その分野(discipline、学問の分野、戒律、訓練)において発達することは、体に入れられている者にとって、いつも困難です。」(BG 12.5)

そのような非人格的な瞑想によって得られた解放は完全ではありません。したがって主チャイタンニャはそれを退けました。

第10段落
4番目の提案が退けられた後、ラーマーナンダ・ラーヤは「知識を培うことや精神的な推量への、何らの試みもなく行われた献身奉仕が、完成の最高の段階である」と言いました。この見方を支えるために、彼はシュリマッド・バーガヴァタム(10.14.3)から証拠を示しました。そこで、主ブラーマーは至高の人格神に言います。

(サンスクリット引用)

「我が親愛なる主よ。人は一元論的な推量と知識を培うことを完全に放棄すべきです。彼は、主の(自己を)認識した献身者から主の活動の情報を得ることによって、献身奉仕における自分の霊的な人生を始めるべきです。

あなた(Your Lordship)は決して征服されることがありませんが、もしも人がこれらの原則に従うことと自分を人生における正直な道に留めることによって、自分の霊的な人生を培うならば、そうすればあなたはそのような過程によって征服されるでしょう。」
by ammolitering4 | 2012-02-18 00:01 | 「主チャイタンニャの教え」


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