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第23章 28段落まで

第13段落
そのため、シュリーラ・ヴャーサデヴァは読者に、実際に主の娯楽の真髄を味わう前に徐々に霊的な認識において発達する機会を与えます。こうしてヴャーサデヴァは意図的にガーヤトリー・マントラ、ディーマヒを念じます。このガーヤトリー・マントラは、特に、霊的に発達した人々のためのものです。

人がガーヤトリー・マントラを唱えることにおいて成功を得るとき、彼は主の超越的な場所(position)に入ることができます。しかし、まず、ガーヤトリー・マントラをうまく(successfully)唱えるためには、人はブラーマナの性質を得て、そして完全に徳の相に位置するようにならねばなりません。

その地点から、人は超越的に、主、主の御名、主の名声、主の性質などを認識し始めることができます。シュリマッド・バーガヴァタムは、主の内的な力によって顕現する主のスヴァルーパ(形)を物語る(dealing with、~に関する)叙述(narration)です。

この力は、私たちの経験の中の宇宙世界を顕現させた外的な力とは区別されます。シュリーラ・ヴャースデヴァは、シュリマッド・バーガヴァタムの第1章の一番最初の節の中で、内的な力と外的な力の明確な区別をつけます。その節の中で彼はこう言います。

「内的な力は事実なる現実であり、他方で、物質的な存在という形をとった、外的な、顕現されたエネルギーは一時的で幻想的であり、砂漠の蜃気楼以上に本物なものではない。」水は蜃気楼の中に存在するように見えるかもしれませんが、本当の水はどこか他のところにあります。

同様に、顕現された宇宙の創造は現実であるように見えますが、それは単に霊的な世界に存在する本当の現実の反映です。霊的な世界の中には蜃気楼はありません。完全真理はそこにあります。それはここにはありません。ここでは、すべてが相対的な真理です。

一つの真理は別の真理に依存しているように見えます。この宇宙の創造は、物質自然の3つの相の相互作用から結果として生じます。一時的な顕現は、制約された魂の惑わされた心に現実であるかのような幻想(illusion of reality)を提示するように作られています。

こうして、ブラーマー、インドラ、チャンドラなどの高位の半神たちを含む非常に多くの生命の種があるように見えます。事実は、物質世界には現実はありませんが、本当の現実が霊的な世界に存在するため、現実があるように見えます。霊的な世界では、至高の人格神が超越的なものに囲まれて(with His transcendental paraphernalia)住んでいらっしゃいます。

第14段落
複雑な建築工事の代表のエンジニアは、建築工事そのものには個人的に参加しません。しかし、建築工事のすべてを隅々まで(訳注:nooks and corners、どちらも隅を指す。慣用句表現)知っているのは彼だけです。なぜなら、すべては彼の指揮の(instruction、指導)下でのみ実行されるからです。

言い換えると、彼は建築工事に関するすべてを直接的および間接的に知っています。同様に、この宇宙の創造の至高のエンジニアである至高の人格神は、活動は他の誰かによってなされているように見えるにも関わらず、宇宙の創造のすべての隅々で何が起こっているかをご存知です。

実際には、物質的な創造の中では誰も独立していません。至高主の手はどこにでもあります。すべての物質的な要素ならびにすべての霊的な火花は、主からの放射に他なりません。この物質世界の中のあらゆる創造されたものは、物質的および霊的という二つのエネルギーの相互作用によって作られています。これらのエネルギーは、完全真理、至高の人格神に属しています。

第15段落
化学者は、実験室で水素と酸素を混ぜて水を作ることができますが、現実には生命体は至高主の指揮の下でのみ働くことができます。実に、化学者によって使われるすべての材料は主によって供給されます。主はすべてを直接的および間接的にご存知であり、主はすべてのものの細かい細部に気づいておられます。

主はまた、完全に独立しておいでです。主は金鉱に例えられ、宇宙の創造は金の指輪やネックレスなどの、その(訳注:金鉱の)金から作られた作られた装飾品に例えられます。金の指輪とネックレスは、金鉱の中の金と質的には同一ですが、量的には金鉱の中の金とイヤリングやネックレスの中の金は異なります。

主チャイタンニャの完全真理の哲学は、「至高主はご自分の創造と、同時に一つであって異なる」という事実が中心となっています。完全真理と完全に等しいものは何もありませんが、同時に何ものもそれから独立したものではありません。

第16段落
この特定の宇宙のエンジニアであるブラーマーから始まって、取るに足らない蟻まで、すべては何かを創造しています。しかし、そのどれも至高主から独立していません。物質主義者は、誤って「自分自身(his own good self)以外に創造者はいない」と考え、そしてこれはマーヤー、すなわち幻想と呼ばれます。

自分の貧弱な知識基盤が原因で、物質主義者は自分の不完全な感覚の範囲を超えて見ることができません。そのため彼は、「物体は意識的な背景とは無関係に(independent of)その独自の形を自動的にとる」と考えます。

これはシュリマッド・バーガヴァタムの最初の節の中でシュリーラ・ヴャーサデヴァによって論破されています。前述のように、ヴャーサデヴァは解放された魂であり、そして彼は霊的な完成を得たあとで、この権威ある本を編纂しました。

完全な全体、すなわち完全真理はすべてのものの源であるので、何ものも主から独立したものではありません。すべてのものは完全真理の体の中に存在しています。体のいかなる一部の行為と反応も、体全体(embodied whole)にとって気づかれる事実になります。

同様に、創造が完全真理の体の中に住んでいるなら、それなら何も、直接的あるいは間接的に完全存在に知られないことはありません。

第17段落
シュルティ・マントラの中で、完全全体すなわちブラーマンはすべてのものの究極の源である、と述べられています。すべてのものは主から放射し、すべてのものは主によって維持され、そして最後にすべてのものは再び主の中に入ります。それが自然の法則です。

これはスムリティ・マントラの中でも確認されています。そこでは、「ブラーマーの時代の初めにすべてのものが放射する源は完全真理、すなわちブラーマンであり、そしてその時代の終わりにすべてのものが入る貯蔵庫は、その同じ完全真理である」と述べられています。

物質的な科学者たちはでたらめに(haphazardly、いきあたりばったりに、やみくもに)、この惑星系の究極の源は太陽であるのが当然のように考えますが、しかし彼らは太陽の源を説明することができません。ヴェーダ文献の中で究極の源が説明されています。

ブラーマーはこの宇宙の創造者ですが、彼はそのような想像のための示唆(inspiration、霊感)を受け取るために瞑想しなければならなかったので、彼は究極の創造者ではありません。シュリマッド・バーガヴァタムの最初の節に述べられているように、ブラーマーは至高の人格神によってヴェーダの知識を教えられました。

シュリマッド・バーガヴァタムの最初の節の中で、「至高主が二次的な創造者ブラーマーに示唆して、彼が自分の創造的な機能を実行できるようにした」と述べられています。このように、至高主は監督するエンジニアです。すべての創造的な代理人の背後の本当の心は至高の完全人格神、シュリー・クリシュナです。

シュリマッド・バーガヴァタムの中で、シュリー・クリシュナは自ら、創造エネルギー(プラクリティ)、物体の総計を監督するのは自分だけである、と認めておられます。こうしてシュリー・ヴャーサデヴァは、ブラーマーも太陽も崇拝せず、しかしブラーマーと太陽の両方を彼らの創造的な活動において導く至高主を崇拝します。

第18段落
シュリマッド・バーガヴァタムの最初の節に表れるアビージニャとスヴァラートというサンスクリットの単語は重要です。これらの二つの単語は、主を他のすべての生命体から区別します。至高の生命体(being)、至高の完全人格神以外のどの生命体も、アビージニャあるいはスヴァラートではありません。

つまり、彼らのうち誰も完全に気づいていたり(cognizant)完全に独立していたりしません(訳注:「完全に気づいている」は「全知」を意味する)。誰もが自分より優れた者(superior)から知識について学ばねばなりません。

この物質世界の中の最初の生命体であるブラーマーさえ、至高主の上に瞑想し、創造するために主から助けを得なければなりません。もしもブラーマーや太陽が自分より優れた者から知識を得ることなくして何も創造することができないなら、それなら、非常に多くのものに完全に依存している物質的な科学者の状況はどんなものでしょうか?

ジャガディシャ、チャンドラ・ボーズ、アイザック・ニュートン、アルバート・アインシュタインなどの現代の科学者たちは、自分たちのそれぞれの創造的なエネルギーが非常に自慢であるかもしれませんが、(彼ら)すべては非常に多くのものにおいて至高主に依存しています。

結局、これらの紳士たちの非常に知性的な脳は、確かに、いかなる人間の産物でもありません。脳は他の代理人によって作られます。もしもアインシュタインやニュートンのそれのような脳が人間によって作られ得るのであったなら、それなら人類は彼らの死を賛美する代わりに(訳注:「惜しい人を亡くした」と追悼すること)、多くのそのような脳を作ったでしょう。

もしもそのような科学者たちがそのような脳さえ作ることができないなら、主の権威を無視する(to defy、侮る、反抗する)愚かな無神論者たちについては何をか言わんや、です。(what to speak of ~?)

第19段落
自分自身をほめそやし、自分は神になったのだと信じるマーヤーヴァーディーの非人格主義者たちでさえ、アビージニャやスヴァラート、完全に気づいていたり完全に独立したりしているのではありません。マーヤーヴァーディーの一元論者は、主と一つになるという知識を得るために禁欲と苦行の厳しい過程を経ますが、究極的に彼らは、大きな修道院と寺院を建てるために必要な諸般のもの(paraphernalia)を彼らに供給する、誰か金持ちの信者に依存するようになります。

ラーヴァナとヒラニャカシプのような無神論者は、主の権威を無視(to flout、馬鹿にする)できる(ようになる)前に厳しい苦行を行わなければなりませんでしたが、究極的に彼らは非常に非力(helpless)だったので、主が彼らの前に残酷な死として現れたとき、自分たちを救うことができませんでした。

これは、大胆にも主の権威を無視しようとする現代の無神論者にもあてはまります。そのような無神論者は、過去においてラーヴァナやヒラニャカシプなどの大変な(great)無神論者に与えられたのと同じ報いを与えられます。

歴史は繰り返し、過去に起こっていたことは必要性のあるときに何度でも繰り返し起こります。主の権威がないがしろにされるときはいつでも、自然の法則によって下される罰が必ず(always、いつも)そこにあります。

第20段落
至高主、至高の人格神が完全に完璧であることは、すべてのシュルティ・マントラにおいて確認されています。シュルティ・マントラの中で、「完全に完璧な主が物体をちらっとご覧になり、そしてそうやってすべての生命体を創造なさった」と述べられています。生命体は主の欠かすべからざる小片であり、そして主は広大な物質自然を霊的な火花の種で孕ませます。こうして創造的なエネルギーは非常に多くのすばらしい創造のために動き出します。

ある無神論者が「神は、非常に多くの繊細な部品を持つ緻密な時計の製造業者よりも熟練者なのではない」と議論したとき、私たちは「神は時計職人よりも偉大な機械工だ。なぜなら、主は単に一つの機械を男性と女性の形に作り、男性と女性の形は神からのさらなる世話(attention)なくして無数の似た機械を作り続けるからである」と答えねばなりませんでした。

もしも人間が、人が物体に何らのさらなる世話を与えることなくして他の機械を作る能力のある一揃いの機械を作ることができたなら、そうすれば人間は神の知性に匹敵すると言われ得るでしょう。もちろん、これは可能ではありません。

人間の不完全な機械の一つ一つは、機械工によって個々に扱われねばなりません。誰も知性において神と同等であることはできないので、神のもう一つの名前は「誰も主と同等であったり主より偉大であったりすることはできない」ということを指すアサモールダーです。

誰もが知性において自分と等しい者と自分より優れた者を持っており、誰も「自分はどちらも持たない」と主張することはできません。しかし、主はこの限りではありません。シュルティ・マントラは、「物質宇宙の創造の前に主は存在しており、主は誰もの主人であった」と示しています。

ブラーマーにヴェーダの知識を教えたのは主でした。その至高の人格神は、すべての側面で(in all respects)従われなければなりません。物質的な呪縛から解放されたい者は誰でも主に服従せねばならず、これはバガヴァッド・ギーターにおいて確認されています。

第21段落
至高の人格神の蓮の御足に服従しない限り、たとえ彼がたまたま偉大な心(訳注:の持ち主)であったとしても、人が惑わされるのは確かです。偉大な心がヴァースデヴァの蓮の御足に服従し、バガヴァッド・ギーター(7.19)において確認されているようにヴァースデヴァがすべての原因の原因であると完全に知るとき初めて、彼らはマハートマー、すなわち本当に広い心になることができます。

しかし、そのような広い心のマハートマーは滅多に見られません。しかし、彼らだけが至高主を至高の完全人格神、すべての創造の太古の原因として理解することができます。主はパラマ、究極の真理です。なぜなら、他のすべての真理は主に依存しているからです。主がすべての知識の源であるため、主は全知です。主には、相対的な知者(knower)にあるような幻惑はありません。

第22段落
一部のマーヤーヴァーディーの学者たちは、「シュリマッド・バーガヴァタムはシュリーラ・ヴャースデヴァによって編纂されたのではない」と論じ、別の者たちは「この本はヴォパデヴァという名前の者によって書かれた現代の創作である」と言います。

この無意味な議論を論破するために、シュリーラ・シュリーダーサ・スヴァーミーは、シュリマッド・バーガヴァタムに言及する多くの最古のプラーナが存在する、と指摘します。シュリマッド・バーガヴァタムの最初のシュロカ、すなわち節はガーヤトリー・マントラで始まり、マーチャ・プラーナ(最古のプラーナ)にこれに関する言及があります。

シュリマッド・バーガヴァタムの中のガーヤトリー・マントラの内容への言及と共に、このプラーナにおいては次のように述べられています。「霊的な教えの多くの記述を含み、ガーヤトリー・マントラで始まり、そしてまた、ヴリトラースラの歴史を含むものは、シュリマッド・バーガヴァタムとして知られる。

この偉大な著作を満月の日に捧げ物にする者は誰でも(whoever makes a gift of this great work)人生の最高の完成を得て至高神のもとへ帰る。」他のプラーナにもシュリマッド・バーガヴァタムへの言及があります。それは、「その著作(訳注:SB)は12巻と18,000のシュロカから成る」とさえ示しています。

パドマ・プラーナにも、ゴータマとマハーラージャ・アムバリーシャの間の会話の中で、シュリマッド・バーガヴァタムに関する言及があります。マハーラージャ・アムバリーシャは、もしも彼が物質的な呪縛からの解放を少しでも望むならばシュリマッド・バーガヴァタムを定期的に読むように助言されました。

これらの状況の下で、シュリマッド・バーガヴァタムの権威には疑いがありません。過去500年の間、多くの学者たちがシュリマッド・バーガヴァタムに詳細な注釈をつけ、独自の学識を見せました。真剣な学徒は、バーガヴァタムの超越的な教えをもっとよく(happily)味わうためにそれらに目を通すのが良いでしょう。

第23段落
シュリーラ・ヴィシュヴァナーター・チャクラヴァルティー・タークラは、すべての俗的な酩酊のない、もともとの純粋な性心理(アーディ・ラサ)を専門に扱います。物質世界全体が性生活の基本原理がもとで回ります。現代の人間の文明では、性がすべての活動の中心点です。

実に、どちらを向いても私たちは性生活が突出しているのを見ます。したがって、性生活は非現実ではありません。その本当の現実は霊的な世界において経験されます。物質的な性は、もともとのものの歪んだ反映に他なりません。もともとのものは完全真理の中に見出されます。

これは、完全真理が人格的であるという事実を立証します。なぜなら完全真理は、非人格的であって純粋な性生活の感覚を持つことはできないからです。非人格的な一元論の哲学は、忌まわしい俗的な性に間接的な刺激を与えます。

なぜなら、それは究極的な真理の非人格性を過度に強調するからです。結果は、知識の欠けた人々が、性の本当の霊的な形の情報を持たないので、歪んだ物質的な性生活を何よりも大切なもの(all in all)として受け入れた、というものです。

物質的な人生の病んだ状態における性と、霊的な存在における性の間には、区別があります。シュリマッド・バーガヴァタムは、偏見のない読者を徐々に、物質的な活動の3つの相、結果を求める活動および推量的な哲学を超えた、そして、ヴェーダの中に示された職務的な神(functional deities)の崇拝を超えた、超越性の最高の完成の水準に上げます。

シュリマッド・バーガヴァタムは、至高の人格神クリシュナへの献身奉仕の具現であり、そのため他のヴェーダ文献よりも優れた地位に位置しています。

第24段落
宗教は4つの主な主題を含んでいます。
1、徳のある活動(pious、信心深い、宗教的な)
2、経済的な発展
3、感覚の満足
4、物質的な呪縛からの解放

宗教的な人生は、野蛮という非宗教的な人生から区別されます。実に、人間の人生は実際は宗教と共に始まる、と言われ得るかもしれません。動物の人生の4つの原則---食べること、眠ること、身を守ること、そして性交すること---は、動物と人間の両方に共通しています。

しかし、宗教は人間の特別の関心事です。宗教がなければ、人間の人生は動物の人生より優れたものではないので、本当の人間の社会には、自己認識を目的とし、人の神との永遠の関係に言及する何らかの形の宗教があります。

第25段落
人間の文明のより低い段階においては、いつも物質自然を支配する試みにおいて、人々の間に競争があります。言い換えると、感覚を満足させる試みにおいて継続的な競合があります。こうして、感覚を満足させるという意識に突き動かされ、人々は宗教的な儀式を行います。

こうして、何らかの物質的な利益を得ることを目的として、信心深い活動と宗教的な儀式が行われます。そして、もしもそのような物質的な利益が他の方法で得られるならば、このいわゆる宗教はないがしろにされます。これは現代の人間の文明において見られ得ます。

人々の経済的な欲求が他の方法で満たされているように見えるため、今は誰も宗教に興味がありません。教会やモスクや寺院は事実上空っぽです。なぜなら、人々は工場や店や映画館のほうにもっと興味があるからです。

こうして彼らは自分たちの先祖によって建てられた宗教的な場所をほったらかしました。これは、宗教は一般に経済的な発展のために行われるということの証拠であり、そして経済的な発展は感覚の満足のために必要とされます。

人が感覚の満足を得る試みにおいて挫折するとき、彼は至高の全体と一つになるために解放の原因(cause、源)に頼ります。これらすべての活動は、感覚の満足という同じ目的を視野において生じます。

第26段落
ヴェーダの中で、上記の4つの主要な主題は、感覚の満足のための過度な競争がないように、規律的な方法で定められています。しかし、シュリマッド・バーガヴァタムは物質世界のすべての感覚を満足させるための活動を超越しています。

それは、感覚の満足における競争を超えた主の献身者によって理解され得る、純粋な超越的な文献です。物質世界では、感覚を満足させるための試みにおいて、動物、人、地域、そして国の間でさえも激しい競争がありますが、主の献身者はこれらすべてを超えてます。

献身者は物質主義者と競う必要はありません。なぜなら、彼らはすべてが永遠で、満たされて、そして喜びに満ちている至高神のところへ、家へ、帰る途上にあるからです。そのような超越主義者は完全に妬みを持たず、したがって心が純粋です。

物質世界の中のすべての者は妬み深いので、競争があります。主の献身者は、すべての物質的な妬みから自由であるだけでなく、神が中心にある競争のない社会を築くための試みにおいて、すべての人に親切です。

第27段落
競争のない社会という社会主義者の考えは人工的です。なぜなら、社会主義者の国家においてさえ、権力のための競争があるからです。感覚の満足という原則が物質主義的な人生の基本的な原則であるというのは事実であり、これはヴェーダを読むことからも、あるいは単に一般的な人間の活動を観察することからも認識され得ます。

ヴェーダは、人々がより高位の惑星に上がることができるようにするために、(そのような)結果を求める活動を勧め、また、様々な半神たちの惑星に行くという目的のために、彼らを崇拝することも勧めます。究極的にヴェーダは、人が主と一つになるために、完全真理に至って主の非人格的な特質を認識できるようにするための活動を勧めます。

しかし、完全真理の非人格的な側面は決定的なもの(the last word)ではありません。非人格的な特質を超えているのがパラマートマー、すなわち超魂であり、そしてそれを超えているのが至高の人格です。シュリマッド・バーガヴァタムは、非人格的な側面を越えた、完全真理の人格的な性質について情報を与えます。

これらの性質に関する論点は、非人格的な哲学的な推量より優れています。したがって、シュリマッド・バーガヴァタムはヴェーダのジニャーナ・カーンダの部分よりも高い地位を与えられています。シュリマッド・バーガヴァタムはまた、カルマ・カーンダの部分とウパーサナー・カーンダの部分よりも優れています。

なぜなら、それは至高の人格神シュリー・クリシュナ、ヴァスデヴァの聖なる息子の崇拝を勧めるからです。ヴェーダのカルマ・カーンダの部分は、より良い感覚の満足のために天国のような惑星に至るための競争を含みます。

そして、この競争はジニャーナ・カーンダとウパーサナー・カーンダの部分においても見られます。シュリマッド・バーガヴァタムはこれらすべてを超えています。なぜなら、それはすべての部類の本質あるいは根源である至高の真理のみを目的としているからです。

第28段落
言い換えると、私たちはシュリマッド・バーガヴァタムから、その本当の意味と見方において、本質ならびに相対性を知ることができます。本質は完全真理、至高の人格神であり、そして相対性は主から放射するエネルギーの様々な形です。

生命体もまた、主のエネルギーと相対的であるため(related to)、本質とそれほど異なるものはありません。同時に、エネルギーは本質とは異なっています。物質的な意味では、この概念は自己矛盾していますが、シュリマッド・バーガヴァタムは「同時に一つであり異なっている」というこの側面を詳しく扱います。

この哲学はジャンマーディ・アシャ・スートラで始まるヴェダーンタ・スートラにも見られます。完全真理の中に見られる「同時に一つであって異なる」という知識は、すべてのものの幸せのために与えられています。

精神的な推量者は、主のエネルギーを完全であると立証することによって人々を誤って導きますが、「同時に一つであって異なる」という真理が理解されるとき、一元論と二元論の不完全な概念は満足させるのを止めます(訳注:もはや人々を満足させなくなります)。

主の創造と主が同時に一つであって異なるということを理解することによって、人は直ちに三重の悲惨さ---体と心によって、他の生命体によって、そして自然の行為によって引き起こされる悲惨さ---からの自由を得ることができます。
by ammolitering4 | 2012-02-09 17:39 | 「主チャイタンニャの教え」 | Comments(0)
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