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第21章

第21章 マーヤーヴァーディー哲学者たちが改宗する(are converted)

第1段落
このようにして主チャイタンニャは、ヴェダーンタ・スートラを間接的に解釈する試みを非難なさいました。そしてそこにいたすべてのサンニャースィーたちは、主の説明に心を打たれました(struck with wonder、驚異の念に打たれる)。

直接的な解釈を聞いたあと、サンニャースィーたちの一人が直ちにこう宣言しました。「おお、シュリーパーダ・チャイタンニャ、あなたがオームカーラの間接的な解釈の非難において説明なさったことは非常に有益です。幸運な者だけがあなたの解釈を正しいものとして受け入れることができます。

実際は、私たちの一人一人が今では、シャンカラによって与えられた解釈はすべて人工的で虚構(imaginary)であると知っています。しかし、私たちはシャンカラーチャーリャの宗派に属しているので、彼の解釈が正しいものであると当然の如く受け入れます。私たちは、あなたが直接的な解釈によってヴェダーンタ・スートラをさらに説明なさるのを、ぜひお聞きしたいです。」

第2段落
このように頼まれて、主チャイタンニャはヴェダーンタ・スートラのすべての節を一つ一つ、直接的な解釈にしたがって説明しました。主はまた、「ブラーマンは最も偉大な存在、至高の人格神を意味する」と言って、ブラーマンという言葉を説明しました。

ブラーマンは、最も偉大な存在は6つの富(opulence、富、豪華さ、華やかさ)に満ちている、ということを指します。(原文:Brahman indicates that the greatest is full with six opulences.)至高の人格神は、すべての富(wealth、金銭的な富、財産)、すべての名声、すべての力、すべての美、すべての知識とすべての放棄の宝庫です。

主クリシュナが個人的に地上にいらしたとき、主はこれらの6つの富を完全に発揮なさいました。誰も主より豊かではなく、誰も主より学識がなく、誰もより美しくなく、誰もより強くなく、誰もより有名ではなく、そして誰もより放棄に満ちてはいませんでした(no one more renounced)。

(訳注:「主より豊かな者も、学識がある者も、美しい者も、強い者も、有名な者も、そして放棄の精神に満ちた者もいませんでした。」)

したがって、クリシュナの至高の人格は至高のブラーマンです。これはバガヴァッド・ギーターにおいてアルジュナによって確認されています(BG10.12)。「パラム・ブラーマ・パラム・ダーマ。」「あなたは至高のブラーマン、究極の、至高の住処です。」

したがってブラーマンは最も偉大な存在を指し、そして最も偉大な存在は至高の人格神クリシュナです。主は完全真理(パラ・タットヴァ)の拠り所です。なぜなら、主はパラム・ブラーマだからです。主の富(opulence)と、富(wealth)、名声、力、美、知識、および放棄の表れ(exhibition)には、何らの物質的なものもありません。

すべてのヴェーダの節と聖歌は、「主に関するすべては霊的で超越的である」と示しています。ブラーマンという言葉がヴェーダの中に現れるときはいつでも、クリシュナ、至高の人格神が指されていると理解されるべきです。知性的な者は、直ちにブラーマンという言葉をクリシュナという名前と置き換えます。

第3段落
至高の人格神は自然の物質的な相を超越していますが、主には超越的な性質が完全に備わっています(He is fully qualified with transcendental attributes)。至高存在を非人格的であるとして受け入れることは、主の霊的なエネルギーの顕現を否定することです。

誰かが至高の人格神を除いて単に霊的なエネルギーの非人格的な表れを受け入れるとき、彼は完全真理を完全に受け入れてはいません。至高存在を完全に受け入れるというのは、自然の物質的な相を超越した霊的な多様性を受け入れるということです。至高の人格神を認め損なう(failing to indicate)ことによって、非人格主義者たちは不完全な概念だけで取り残されました。

第4段落
至高の人格神クリシュナを理解するための認められた方法は献身奉仕の道であり、そしてこれはすべてのヴェーダの聖典において確認されています。主への献身奉仕は主について聞くことから始まります。献身奉仕には9つの異なる方法があり、そのうち、聞くことが筆頭です。

聞くこと、唱えること、思い出すこと、崇拝すること―――これらすべてが至高の人格神を理解することによって最高の完成を得る過程において使われます。至高の人格神を理解するためのこの過程は、アビーデーヤ、制約された人生の中における献身奉仕の実践、と呼ばれます。

第5段落
「クリシュナ意識を習慣づけたら、人は別の形の意識に逸れていきたくない」というのは、実際に経験されます。クリシュナ意識は、クリシュナ、至高の人格神への愛の発達であり、これは人間の第5次的な関心です。

人が実際にこの超越的な奉仕という過程を習慣づけるとき、彼はクリシュナとの自分の関係を直接味わいます。クリシュナとの超越的なやり取りの交換があるとき、クリシュナは徐々に献身者の個人的な仲間になります。そうすれば献身者は永遠に喜びに満ちた人生を楽しみます。

この理由により、生命体の至高主クリシュナとの失われた関係を再築すること、および彼が献身奉仕を遂行できるようにし、そして究極的には至高神への愛という人生の最高の目的を達成できるようにすることが、ヴェダーンタ・スートラの目的です。これがヴェダーンタ・スートラの本当の目的です。

第6段落
主チャイタンニャが節を直接的に解釈することによってヴェダーンタ・スートラを説明したとき、プラカーシャーナンダ・サラスヴァティーの筆頭の弟子が皆の間で立ち上がり、主チャイタンニャを至高の人格神ナーラーヤナとして讃え始めました。

彼は主チャイタンニャによるヴェダーンタ・スートラの説明を非常に喜んだだけでなく、公けに、ウパニシャッドとヴェダーンタ・スートラの直接的な説明は「非常に好ましいので、私たちは我を忘れ、自分たちがマーヤーヴァーディー学派に属していることを忘れます」と述べました。

このように、ここで、「シャンカラーチャーリャによるウパニシャッドとヴェダーンタ・スートラの説明はすべて虚構である」ということが認められました。私たちは時として宗派的な争いのためにそのような虚構の説明を受け入れるかもしれませんが、実際はそのような説明は私たちを満足させません。

人は単にサンニャーサの階級となることによって物質的な呪縛から自由になるのではありません。それでも、もしも私たちが実際に主チャイタンニャによって与えられた説明を理解するなら、私たちは助けられるでしょう。

例えば、主チャイタンニャが「ハレル・ナーマ・ハレル・ナーマ・ハレル・ナーマイヴァ・ケヴァラム」の意味を説明したとき、皆が喜びました。なぜなら、献身奉仕に代替物はないのは事実だからです。献身奉仕無くしては、誰も物質的な爪(訳注:clutches、爪でしっかりと掴むこと、呪縛と同意)からの解放を得ることはできません。

特にこの時代においては、人は単に「ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ」を唱えることによって最高の解放を得ることができます。

シュリマッド・バーガヴァタム(10.14.4)において、「人が献身奉仕の道を捨てて単に知識のために労するなら、彼は自分が物質と霊の間の違いを理解するためにする努力(trouble)の他には何の利益も得ない」と述べられています。

空の殻から穀物を得ようとするのは無駄な労働です。このためシュリマッド・バーガヴァタム(10.2.32)には、「至高主への超越的な愛情ある奉仕を捨てて、表面的に「自分は解放されている」と考える者は、決して解放を得ることはない」と述べられています。

大変な努力と禁欲と苦行によって、彼は解放された水準に上げられるかもしれませんが、至高神の蓮の御足での拠り所がないので、彼は再び物質的な汚染に落ちます。

第7段落
至高のブラーマンは非人格的としては受け入れられ得ません。そうでなければ、至高の人格神に属する6つの富はブラーマンに帰属され得ません。すべてのヴェーダとプラーナは、「至高の人格神は霊的なエネルギーに満ちている」と確認していますが、愚かな人々は単にこれを退け、主の活動をあざけります。

彼らはクリシュナの超越的な体を物質自然の産物であるとして誤解します。そしてこれは大変な(the greatest、最大級の、はなはだしい)無礼で、大変な罪です。人は単に、プラカーシャーナンダ・サラスヴァティーとマーヤーヴァーディーのサンニャースィーたちの前で主チャイタンニャがお話しになったように、主の言葉を受け入れるべきです。

第8段落
至高の完全真理の個人的な(individual)人格は、シュリマッド・バーガヴァタム(3.9.3~4)において説明されています。「おお、至高主よ。私が見ている超越的な体は、超越的な喜びの具現です。それは永遠であり、物質的な相に汚染されていません。

それは完全真理の最も偉大な顕現であり、そしてそれは光輝に満ちています。おお、すべての者の魂よ。あなたはこの宇宙の権限とすべての物質的な要素の創造者です。私はあなたの超越的な形において、あなたに服従します、おお、クリシュナよ!おお、最も縁起の良い宇宙よ!

あなたは私たちによって崇拝されるためにあなたのもともとの個人的な(personal)形において降臨なさいます。そして私たちは、瞑想によって、あるいは直接的な崇拝によって、あなたを知覚します。物質自然によって汚染された愚かな人々は、あなたの超越的な形をあまり重視しません。そして結果として彼らは地獄に滑り落ちます。」

第9段落
これはバガヴァッド・ギーターにおいても確認されています。

(サンスクリット引用)

「愚か者たちは、私が人間の形で降臨するとき、私を嘲ります。彼らは私の超越的な性質と私の万物(all that be)に対する至高の支配権を知りません。」(BG9.11)

第10段落
そのような愚かで悪魔的な人々が地獄のような惑星に行くということも、バガヴァッド・ギーターにおいて確認されています。

(サンスクリット引用)

「妬み深く、悪意のある者、人間の中で最低の者は、私によって物質の海の中へ、生命の様々な悪魔的な種の中に投げ込まれます。」(BG16.19)

第11段落
副産物の教義、パリナーマ・ヴァーダは、ヴェダーンタ・スートラの冒頭から断言されています。しかし、シャンカラーチャーリャは表面的にそれを隠して、変容の教義、ヴィヴァルタ・ヴァーダを確立(to establish)しようとしました。

彼はまた、「ヴャーサは間違っている」と言う厚かましさも持っています。プラーナを含むすべてのヴェーダ文献が、至高主がすべての霊的なエネルギーと多様性の中心である、と確認しています。驕り高ぶっていて無能なマーヤーヴァーディー哲学者は、霊的なエネルギーにおける多様性を理解することができません。

結果として彼は誤って、霊的な多様性は物質的な多様性と異ならない、と信じます。誤った信念によって惑わされ、マーヤーヴァーディーたちは至高の人格神の娯楽を嘲ります。そのような愚かな人々は、至高主の霊的な活動を理解できず、クリシュナをこの物質自然の産物であると考えます。

これは人間が犯し得る最大の無礼です。したがって主チャイタンニャは、「クリシュナはサック・チッド・アーナンダ・ヴィグラハ、すなわち永遠性と知識と喜びの形であり、そして主はいつもご自分の超越的な娯楽に興じておられ、そこにはすべての霊的な多様性がある」と確立なさいます。

第12段落
プラカーシャーナンダの生徒たちは、主チャイタンニャの説明を要約し、次のように結論づけました。「私たちは実質的に霊的な認識の道を放棄していました。私たちは単に無意味な議論(talk)にふけります(to engage)。恩恵を得ることに関して真剣なマーヤーヴァーディー哲学者たちはクリシュナへの献身奉仕にいそしむべきです。

しかし、その代わりに彼らは無駄な議論だけに喜びを見出します。私たちはここに、シャンカラーチャーリャの説明はヴェーダ文献の本当の意味(import、意味、重要性)を隠す、と認めます。チャイタンニャによって与えられた説明だけが受け入れられ得ます。他のすべての解釈は無駄(useless、役に立たない)です。」

第13段落
このように自分の立場を説明した後で、プラカーシャーナンダの筆頭の生徒は「ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ」を唱え始めました。

プラカーシャーナンダ・サラスヴァティーがこれを見たとき、彼もまたシャンカラーチャーリャの欠陥を認めて言いました。「シャンカラーチャーリャは一元論の教義を確立したかったので、彼はヴェダーンタ・スートラを異なるふうに解釈するより他はありませんでした。

人がいったん至高の人格神を受け入れたなら、一元論の教義は確立され得ません。したがって、俗的な学識によって、シャンカラーチャーリャはヴェダーンタ・スートラの本当の意味を覆い隠そうとしました。シャンカラーチャーリャがこれを行っただけでなく、必要性に関する独自の視点を表そうと試みたすべての著者たちがヴェダーンタ・スートラを誤解しました。

(訳注:「必要性に関する」の部分の意味が分かりません。本章の最後に「宗教的な原則の必要性」という言葉が出てきますが、この場合にも同じ対象が当てはまるのかはっきりしません。)

第14段落
このように主チャイタンニャはヴェダーンタ・スートラの直接的な意味を与えられました。いかなるヴェーダ文献も間接的な推量のために使われるべきではありません。シャンカラーチャーリャに加えて、カピラ、ゴータマ、アシターヴァクラおよびパタンジャリなどのほかの物質主義的な哲学者たちも、様々な方法で哲学的な推量を提唱しました。

実に、揃って大なり小なり論理学者である、哲学者ジャイミニと彼の追従者たちは、ヴェーダの本当の意味(献身奉仕)を放棄し、完全真理を「物質世界の影響の下にある」として確立しようとしました。「神が存在するのであれば、もしも人が単に自分の物質的な活動をちゃんと(nicely)行うなら、神は人を喜ばしく思って人にすべての望ましい結果を与える」というのが彼らの意見です。

同様に、無神論者のカピラは、「物質世界を創造した神はいない」と確立しようとしました。カピラは、「物質的な要素の組み合わせが創造の原因となった」とさえ確立しようとしました。同様に、ゴータマとカナーダは、「創造は物質的な要素の幸運な組み合わせから結果として生じた」という、この理論を強調しました。

そして彼らは、原子エネルギーが創造の源である、と確立しようとしました。同様に、アシターヴァクラなどの非人格主義者と一元論者は、非人格的な光輝(ブラーマジョティ)を至高存在であるとして確立しようとしました。そして、ヨガ体系の最も偉大な権威の一人であるパタンジャリは、至高主の虚構の形を想像しようとしました。

第15段落
要するに、「これらすべての物質主義的な哲学者たちは、自分たちの独自の精神的に作り上げられた哲学を提唱することによって、至高の人格神を避けようとした」と理解されるべきです。しかし、偉大な賢人であって至高神の化身であるヴャーサデヴァは、これらすべての哲学的な推量を徹底的に研究しました。

そして(それらへの)答えとして、生命体と至高の人格神の間の関係と、究極的に至高神への愛を得ることにおいての献身奉仕の重要性を確立する、ヴェダーンタ・スートラを編纂しました。ヴェダーンタ・スートラの冒頭に現れる「ジャンマーディ・アシャ・ヤター」という節は、ヴャーサデヴァのシュリマッド・バーガヴァタムにおいて説明されています。

シュリマッド・バーガヴァタムの中でヴャーサデヴァは、冒頭から、「すべてのものの至高の源は全知(cognizant、認識している)で超越的な人格(person)である」と確立しています。

第16段落
非人格主義者は、「至高主の非人格的な光輝(ブラーマジョティ)はこれらの自然の物質的な相を超えている」と説明しようとします。しかし同時に、彼は「至高の人格神は物質自然の相によって汚染されている」と確立しようとします。

ヴェダーンタ・スートラは「至高の人格神は自然の物質的な相を超越しているだけでなく、主は無数の超越的な性質とエネルギーもお持ちである」と断言します。これらすべての様々な推量的な哲学者たちは、至高主ヴィシュヌの存在を否定することにおいては一致しており、彼らは自分の独自の理論を広めて人々に認められることに夢中になります。

不運な人々はこれらの無神論的な哲学者に傾倒し、そして結果として完全真理の本当の性質を決して理解することができません。偉大な魂たち(マハージャナ)の軌跡を辿るほうがよほど良いのです。シュリマッド・バーガヴァタムによれば、12のマハージャナ、すなわち偉大な魂が存在します。

そしてこれらは、以下の通りです。
1、ブラーマー
2、主シヴァ
3、ナーラダ
4、ヴァイヴァスヴァタ・マヌ
5、カピラ(無神論者のではなく、もともとのカピラ)
6、クマーラたち
7、プラーラーダ
8、ビーシュマ
9、ジャナカ
10、バリ
11、シュカデヴァ・ゴスヴァーミー
12、ヤマラージャ

マハーバーラタによれば、完全真理について議論することに意味はありません。なぜなら、非常に多くの異なるヴェーダ文献と哲学的な理解があり、どの一人の哲学者も別の(哲学者)と同意することができないからです。

誰もが自分の独自の視点を提唱して他のものを却下しようとしているので、宗教的な原則の必要性(necessity for~)を理解するのは非常に困難です。したがって、偉大なマハージャナ、偉大な魂の軌跡を辿るほうが良いのです。そうすれば人は望む成功を得ることができます。

主チャイタンニャの教えはちょうど蜜のようです。そして、それらは何であれ必要とされるものを含みます。最良の方法は、この道に入り、それを辿ることです。
by ammolitering4 | 2012-02-03 17:38 | 「主チャイタンニャの教え」 | Comments(0)
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