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第20章 後半

第20章 後半

第12段落
ヴェダーンタ・スートラの最初の格言を説明しているとき、シャンカラは非常に格式張らない方法で、「ブラーマン、すなわち至高の完全真理は非人格的である」と説明しようとしました。彼はまた、「副産物」の教義を「変化」の教義に巧みにすり替えようとしました。

至高の完全真理には変化はありません。それは単に、副産物は主の計り知れない活動の力から結果として生じる、ということです。言い換えると、相対的な真理が至高の真理から作られます。天然のままの木材から椅子が作られるとき、「副産物が作られる」と言います。

至高の完全真理、ブラーマンは変化し得ず、そして私たちが副産物―――生命体、あるいはこの宇宙の顕現―――を見つけるとき、それは至高存在の変容、すなわち副産物です。それは牛乳がヨーグルトに変化させられるようなものです。

このようにして、もしも私たちが宇宙の顕現の中の生命体を研究するなら、彼らはもともとの完全真理と異ならないように見えるでしょう。しかし、ヴェーダ文献から私たちは、「完全真理は様々なエネルギーを持ち、生命体と宇宙の顕現は主のエネルギーの表れ(demonstration)に過ぎない」と理解します。

エネルギーは、エネルギー的な存在から離れたものではありません。したがって、生命体と宇宙の顕現は、切り離せない真理、完全真理の一部分です。完全真理と相対的な真理に関するそのような結論は、すべての正気の者によって受け入れられるべきです。

第13段落
至高の完全真理はご自分の計り知れない力をお持ちであり、それからこの宇宙は顕現しました。言い換えると、至高の完全真理が材料であり、そして生命体と宇宙の顕現は副産物です。タイッティリーヤ・ウパニシャッドの中に、はっきりと述べられています。

ヤト・ヴァー・イマーニ・ブーターニ・ジャーヤンテ。「完全真理がすべての材料のもともとの宝庫であり、そしてこの物質世界とその生命体は、それらの材料から作られます。」

第14段落
この副産物の教義を理解できない非知性的な人々は、どうやって宇宙の顕現と生命体が完全真理と同時に一つであって異なるのか、理解することができません。これを理解しないので、人は恐怖から、「この宇宙の顕現と生命体は偽りである」と結論します。

シャンカラーチャーリャは、縄が蛇と間違われる例を挙げます。そして時として、牡蠣の殻を金と間違えるという例も挙げられます。しかし、確かに、そのような議論は騙すための方法です。マーンドゥーキャ・ウパニシャッドの中で言及されているように、蛇の代わりに縄、金の代わりに牡蠣、という例は、異なる用途(application)を持っており、次のように理解され得ます。

その本質的な立場において、生命体は純粋な霊です。人間が自分を物質の体と同一視するとき、彼は「縄を蛇と間違えた」、あるいは「牡蠣の殻を金と間違えた」と言われるかもしれません。変容の教義は、あるものが別のものと間違えられるときに受け入れられます。

実際は、体は生命体ではありませんが、変容の教義は体を生命体として受け入れます。すべての制約された魂は、疑いもなく、この変容の教義によって汚染されています。

第15段落
生命体の制約された状態は、彼の病んだ状態です。もともと、生命体及びこの宇宙の顕現のもともとの原因は、変容の状態(state)の外に存在します。しかし、誤った考えと議論は、人が至高主の計り知れないエネルギーを忘れるとき、彼を圧倒することができます。

物質世界の中でさえ、多くの例があります。太陽は記憶にないほどの昔から無限のエネルギーを作り続けており、そして非常に多くの副産物が太陽から結果として生じます。それでも、太陽そのものの熱と温度に変化はありません。

物質的なものであるにも関わらず、もしも太陽がそのもともとの温度を維持しつつ、それでもそれほど多くの副産物を作り出すなら、至高の完全真理にとって、ご自分の計り知れないエネルギーによって非常に多くの副産物を作り出しつつも変化せずにい続けることは難しいでしょうか?このように、至高の完全真理に関しては、変容ということはあり得ません。

第16段落
ヴェーダ文献の中に、単に触れることによって鉄を金に変える「タッチストーン」と呼ばれる物質的な物に関する情報があります。タッチストーンは無限の量の金を作り出すことができますが、それでも同じでありつづけます。

無明の相においてのみ、人は「この宇宙の顕現と生命体は偽り、すなわち幻想である」というマーヤーヴァーディーの結論を受け入れることができます。正気の者は誰も、すべてにおいて完全である至高の完全真理に無明と幻想を押し付けることはしません。

主の中に、変化、無明、あるいは幻想の可能性はありません。至高のブラーマンは超越的であり、すべての物質的な概念と完全に異なっています。至高の完全真理の中には、すべての可能な、計り知れないエネルギー(every possible inconceivable energy)が存在しています。

シュヴェターシュヴァタラ・ウパニシャッドには、「至高の完全人格神は計り知れないエネルギーに満ちており、他の誰もそのようなエネルギーを持っていない」と述べられています。

第17段落
至高存在の計り知れないエネルギーを誤解することによって、人は誤って、「至高の完全真理は非人格的である」と結論するかもしれません。そのような幻惑された結論は、病の重篤な状態にあるときに、生命体によって経験されます。

シュリマッド・バーガヴァタムの中でも、「至高のアートマー、主は計り知れない無数の力を持っている」という内容の言明があります(Bhag.3.33.3)。ブラーマ・スートラにも、「至高の霊は多くの多様で計り知れないエネルギーを持っている」と述べられています。

人は、完全真理の中に無明が存在している可能性が幾らかでもあると考えるべきでもありません。無明と知識はこの二重性の世界における概念ですが、完全存在の中には二重性はありません。完全存在が無明によって覆われていると考えるのは単なる愚かさです。

もしも完全真理が無明によって覆われるということがあり得るというのであれば(訳注:can possibly be covered、強調表現)、どうしてそれが完全存在であると言われ得るでしょうか?完全存在の計り知れなさを理解することは、二重性の問題への唯一の解決方法です。

これは、二重性が完全存在の計り知れないエネルギーから生じるからです。ご自分の計り知れないエネルギーによって、至高の完全真理は変化せずにいることができ、それでも、そのすべての生命体を含むこの宇宙の顕現を作り出します。

ちょうど、タッチストーンが無限の量の金を作ることができ、それでも変化せずにいるようなものです。完全真理はそのような計り知れないエネルギーを持っているので、無明という物質的な性質は主に付属することができません。

完全真理の中に存在する本当の多様性は、主の計り知れないエネルギーの産物です。実に、「この宇宙の顕現は主の計り知れないエネルギーの副産物に他ならない」と結論づけて問題ありません(can be safely concluded)。

いったん私たちが至高主の計り知れないエネルギーを受け入れれば、私たちは「二重性は全く存在しない」ということを知るでしょう。至高主のエネルギーの拡張体は、至高主と同じくらい真実です。至高のエネルギーの顕現に関して言えば、変容ということはあり得ません。

同じ例が挙げられ得ます。無限の量の金を作るにも関わらず、タッチストーンは同じであり続けます。したがって私たちは、何人かの賢人たちが「至高存在はこの宇宙の顕現の材料あるいは原因である」と言うのを聞きます。

第18段落
実際は、縄と蛇の例は完全に不適格(irregular)ではありません。私たちが縄と蛇として受け入れるとき、私たちは以前に蛇を経験した(訳注:見たり触ったりした)ことがあると理解されることになります(it is to be understood)。そうでなければ、どうして縄が蛇と間違えられ得るでしょうか?

このように、蛇という概念は、それ自体は虚偽や非現実ではありません。虚偽や非現実であるのは、誤った同一視(identity)です。私たちが誤って縄を蛇と考えるとき、それは私たちの無明です。しかし、蛇という考え(idea)そのものは、それ自体、無明ではありません。

私たちが蜃気楼を砂漠の中の水と考えるとき、水が偽りの概念であるということはあり得ません。水は事実ですが、砂漠に水があると考えるのは誤りです。

第19段落
このように、シャンカラーチャーリャが主張するように、「この宇宙の顕現は偽りである」ということはあり得ません。実際は、ここには何らの偽りのものもありません。マーヤーヴァーディーたちは、自分たちの無知のため、「この世界は偽りである」と言います。「この宇宙の顕現は至高主の計り知れないエネルギーの副産物である」というのがヴァイシュナヴァ哲学の結論です。

第20段落
ヴェーダの中の主要な言葉、「プラナヴァ・オームカーラ」は、至高主の音による表れ(representation)です。したがって、オームカーラは至高の音と考えられるべきです。しかし、シャンカラーチャーリャは誤って、「タット・トゥヴァム・アスィが至高の振動である」と教えました。

オームカーラが至高主の全てのエネルギーの宝庫です。シャンカラが「タット・トゥヴァム・アスィが至高の振動である」と主張するのは誤りです。なぜなら、タット・トゥヴァム・アスィは二次的な音に過ぎないからです。タット・トゥヴァム・アスィは部分的な表れだけを指します。

バガヴァッド・ギーターにおいて主は、多くの箇所で、オームカーラに重要性を与えています(訳注:~の重要性を指摘しています)。(BG8.13、9.17、17.24)同様に、オームカーラはアタールヴァ・ヴェーダとマーンドゥーキャ・ウパニシャッドにおいても重要性を指摘されています。

自著「バーガヴァット・サンダルバー」において、シュリーラ・ジーヴァ・ゴスヴァーミーは、「オームカーラは至高主の最も内密な音による表れである」とおっしゃいます。至高主の音による表れ、すなわち名前は、至高主ご自身と同じくらい良いのです。

オームカーラの、あるいはハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレの音を振動されることによって、人はこの物質世界の汚染から解放されることができます。

超越的な音のそのような振動は、制約された魂を解放することができるので、それらはターラ、すなわち「解放するもの」として知られます。

第21段落
「至高主の音の振動は、至高主と同一である」というのは事実です。これはナーラダ・パンチャラートラにおいて確認されています。

(サンスクリット引用)

「超越的な音の振動が制約された魂によって発声される(to practice)とき、至高主は彼の舌の上に存在します。マーンドゥーキャ・ウパニシャッドの中では、「オームカーラが唱えられるとき、何であれ物質的に見えるものは完璧に霊的(なもの)として見られる」と述べられています。

霊的な世界において、あるいは霊的な視域(vision)においては、オームカーラ以外のものはない、あるいは一つの代替、オームしかありません。不幸にして、シャンカラはこの主要な言葉オームカーラを放棄し、気まぐれにタット・トゥヴァム・アスィをヴェーダの至高の振動として受け入れました。

そのような二次的な言葉を受け入れ、主要な振動を脇に置くことで、彼は自分の独自の間接的な解釈を選び、聖典の直接的な解釈を放棄しました。

第22段落
シュリーパーダ・シャンカラーチャーリャは、格式張らない方法で間接的な解釈を作り上げ、直接的な解釈を放棄することによって、プルシャ・ヴェダーンタ・スートラの中に描写されたクリシュナ意識を覆い隠しました。

私たちがヴェダーンタ・スートラのすべての言明を自明であるとして受け取らない限り、ヴェダーンタ・スートラを学ぶ意味はありません。自分の独自の気まぐれに従ってヴェダーンタ・スートラの節を解釈するのは、自明なヴェーダへの最大の危害(訳注:disservice、恩を仇で返すようなひどいこと)です。

第23段落
オームカーラ・プラナヴァに関して言えば、それは至高の人格神の音による化身(sound incarnation)と考えられています。そのため、オームカーラは永遠で、無限で、超越的で、至高で、そして不滅です。主(オームカーラ)は始まり、間(あいだ)、終わりであり、そして主は始まりのない存在でもあります。

人がオームカーラをそのようなものとして理解するとき、彼は不死になります。このように、人はオームカーラをすべての人の心臓に位置する至高存在の表れとして知るべきです。オームカーラとヴィシュヌを同一であってあまねく存在するとして理解する者は、決してこの世界において嘆かず、そしてシュードラであり続けることもありません。

第24段落
主(オームカーラ)は物質の形を持ちませんが、主は無限に拡張され、そして主は無限の形を持っています。オームカーラを理解することによって、人は物質世界の二重性から自由になって完璧な知識を得ることができます。したがって、オームカーラは至高主の最も縁起の良い表れです。

それがマーンドゥーキャ・ウパニシャッドによって与えられている描写です。人は、ウパニシャッドの描写を愚かに解釈して、「至高の人格神はご自分の独自の形でこの物質世界にご自分を現す(to appear Himself)ことが「お出来にならない」ので、ご自分の音による化身(オームカーラ)を代わりにお送りになる」と言うべきではありません。

そのような誤った解釈が原因で、オームカーラは物質的な何かであると考えられるようになり、そしてその結果、オームカーラは誤解され、単に主の発表(exhibition、展示、発揮)あるいは象徴であるとして讃えられるようになります。実際は、オームカーラは至高主の他のどの化身とも同じくらい良いのです。

第25段落
主は無数の化身をお持ちであり、そしてオームカーラはその一つです。クリシュナはバガヴァッド・ギーターにおいてこう述べられます。「振動の中では、私はオームの音節です。」(BG9.17)これは、オームカーラがクリシュナと異ならないことを意味します。

しかし、非人格主義者たちは至高の人格神クリシュナよりもオームカーラの方をもっと重視します。しかし事実は、至高主のどの表れも主と異なるものではない、というものです。そのような化身あるいは表れは、霊的に至高主と同じくらい良いのです。

したがって、オームカーラはすべてのヴェーダの究極の表れです。実に、ヴェーダのマントラあるいは聖歌は、超越的な価値を持っています。なぜなら、それらはオームという音節が初めについているからです。ヴァイシュナヴァはオームカーラを次のように解釈します。

「O」という文字によって、至高の人格神クリシュナが示されます。「U」という文字によって、クリシュナの永遠の妃シュリーマティー・ラーダーラーニーが示されます。そして「M」という文字によって、至高主の永遠の従者、生命体が示されます。

シャンカラはオームカーラにそのような重要性を与えていません。しかし、重要性は、ヴェーダ、ラーマーヤナ、プラーナ、そしてマハーバーラタの中で、始めから終わりまで与えられています。このように至高主、至高の人格神の栄光は宣言されます。
by ammolitering4 | 2012-02-02 17:37 | 「主チャイタンニャの教え」 | Comments(0)
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