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第19章 後半

第11段落
それから主はヴェダーンタについて次のように話し始めました。至高主は、ヴャーサデヴァとしての化身において、この偉大な哲学的な論文を編纂なさいました。ヴャーサデヴァは至高主の化身なので、彼は物質的な存在との接触によって生じる4つの欠陥を持つ普通の人間になぞらえられ得ません。

制約された魂の欠陥は以下のものです:
1、彼は必ず間違いを犯す
2、彼は必ず幻惑される
3、彼は必ず他者を騙す傾向を持つ
4、彼のすべての感覚は必ず不完全である

私たちは、神の化身はこれらすべての欠陥を超越していると理解しなければなりません。そのため、ヴャーサデヴァによって語られたり書かれたりしたことは、すべて完璧であると考えられます。ウパニシャッドとヴェダーンタ・スートラは、至高の完全真理という同じ目的を目指しています。

私たちがヴェダーンタ・スートラとウパニシャッドの意味(import、重要性)を、述べられているままに直接受け入れるとき、私たちは神聖な栄光を与えられるようになります(glorified)。しかし、シャンカラーチャーリャによってなされた注釈は間接的であり、(それを)読むのは俗人にとって非常に危険です。

なぜなら、ウパニシャッドの意味をそのような間接的で混乱させるような方法で理解することによって、人は実質的に自分自身を霊的な認識から阻むからです。

第12段落
スカンダとヴァーユ・プラーナによれば、スートラという言葉は、間違いや欠陥がなく、計り知れない強さのある意味や重要性を持つ、凝縮された作品を指します。ヴェダーンタという言葉は「ヴェーダの知識の終わり」を意味します。言い換えれば、すべてのヴェーダによって示されている主題に関するあらゆる本がヴェダーンタと呼ばれます。

例えば、バガヴァッド・ギーターはヴェダーンタです。なぜなら、バガヴァッド・ギーターの中で主は、すべてのヴェーダ研究の究極的な目標はクリシュナである、とおっしゃるからです。そのため、クリシュナだけを焦点とするバガヴァッド・ギーターとシュリマッド・バーガヴァタムは、ヴェダーンタであると理解されます。

第13段落
超越的な認識においては、プラスターナ・トラヤと呼ばれる、知識の3つの部門があります。(訳注:これは「プラスターナ・トラヤ」が「知識」を指すのか「三つの部門」を指すのかはっきり分かりませんが、以下の描写からおそらく3つを総称しているものと思われます。原文はthere are three divisions of knowledge called prasthana-trayaなので、trayaが「3」を指すのかもしれません。以下、文中の3つのプラスターナに下線を引いて分かりやすくしました。)

(ウパニシャッドのような)ヴェーダの教えによって認められた知識の部門はシルティ・プラスターナ(1)と呼ばれます。究極の目的を示し、ヴャーサデヴァのような解放された魂によって書かれた権威ある本(例えばバガヴァッド・ギーター、マハー・バーラタ、そして特にシュリマッド・バーガヴァタム、マハー・プラーナなどのプラーナ)は、スムリティ・プラスターナ(2)と呼ばれます。

ヴェーダ文献から、私たちは「ヴェーダはナーラーヤナの呼吸から生じた」と理解します。ナーラーヤナの力の化身であるヴャーサデヴァはヴェダーンタ・スートラ(ニャーヤ・プラスターナ(3))を編纂しましたが、シャンカラの注釈によれば、アパーンタラタマー・リシもまた、ヴェダーンタ・スートラの法典(code)を編纂したと見なされています。

主チャイタンニャによれば、パンチャラートラの法典とヴェダーンタの法典は全く同一です。ヴェダーンタ・スートラはヴャーサデヴァによって編纂されたので、それはナーラーヤナご自身によって語られたのだと理解されるべきです。

ヴェダーンタ・スートラを扱うすべての描写的な文献から、同じくヴェダーンタ・スートラを議論した、ヴャーサデヴァと同時代の他の多くのリシたちがいたように見えます。これらの賢人たちは、アートレヤ、アーシュマラテャー、オードゥロミ、カールシナージニ、カーシャクリツナ、ジャイミニ、バーダリー、そしてパーラーシャリーとカルマンディーなどの他の賢人たちです。

第14段落
実際、ヴェダーンタ・スートラの最初の二つの章の中で生命体と至高主の間の関係が説明されており、そして第3章の中で献身奉仕の遂行が説明されています。第4章は献身奉仕を遂行することから生じる関係を扱います。

ヴェダーンタ・スートラの自然な注釈がシュリマッド・バーガヴァタムです。4つのヴァイシュナヴァの注釈(サムプラダーヤ)の偉大なアーチャーリャたち―――すなわちラーマーヌジャーチャーリャ、マドヴァーチャーリャ、ヴィシュヌスヴァーミー、およびニムバールカ―――もまた、シュリマッド・バーガヴァタムの原則にのっとることによってヴェダーンタ・スートラの注釈を書きました。

現在では、すべてのアーチャーリャの追従者たちが、ヴェダーンタの注釈としてシュリマッド・バーガヴァタムの原則にのっとって多くの本を書いています。シャリーラカ・バーシャとして知られるシャンカラの(書いた)ヴェダーンタ・スートラの注釈は、非人格主義者の学者たちによって非常に崇められています。

しかし、ヴェダーンタについて物質主義的な視点から書かれた注釈は、主への超越的な奉仕に完全に逆行しています。結果として、主チャイタンニャは「ウパニシャッドとヴェダーンタ・スートラの直接的な注釈は栄光があるが、シャンカラーチャーリャのシャーリーラカ・バーシャの間接的な道を辿る者は誰でも必ず不運な結果になる(doomed)」とおっしゃいました。

第15段落
主チャイタンニャは、シャンカラーチャーリャは主シヴァの化身であると認めました。そして、主シヴァはバーガヴァタ学派の最も偉大な献身者の一人(マハージャナ)であることが知られています。献身奉仕には12の偉大な権威者がおり、主シヴァはその一人です。

それではなぜ、彼はマーヤーヴァーディー哲学の過程を受け入れたのでしょうか?その答えは、パドマ・プラーナの中に与えられています。その中で主シヴァは次のように述べておいでです。

(サンスクリット引用)

「マーヤーヴァーディー哲学は、覆いを被った仏教である。」言い換えると、マーヤーヴァーディー哲学は「(自分たちは)ヴェーダの結論によって導かれている」と主張しているにも関わらず、仏陀の虚無主義(voidist)哲学が大なり小なりマーヤーヴァーディー哲学の中で繰りかえされています。

しかし主シヴァは、「この哲学はカリの時代において無神論者を誤って導くために自分が作ったのだ」と認めます。「実際は、至高の人格神はご自分の超越的な体をお持ちです」と主シヴァは述べます。「しかし私は至高存在を非人格的であるとして描写します。私はまた、ヴェダーンタ・スートラをマーヤーヴァーディー哲学の(訳注:至高存在は非人格的であるという)同じ原則に応じて説明します。」

第16段落
シヴァ・プラーナの中で、至高主は次のようにおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「ドヴァーパラ・ユガの初めに、私の命令によって指図されて、多くの賢人たちが一般の人々をマーヤーヴァーディー哲学によって惑わします。」パドマ・プラーナの中で主シヴァは、バーガヴァティーデヴィーに直接語ります。

(サンスクリット引用)

「我が親愛なるデヴィーよ。時として私は無明の相に埋没している(engrossed、没頭した)者のためにマーヤーヴァーディー哲学を教えます。しかし、もしも徳の相にある者がたまたまこのマーヤーヴァーディー哲学を聞くなら、彼は堕落します。なぜなら、マーヤーヴァーディー哲学を教えるとき、私は「生命体と至高主は全く同一である」と言うからです。」

第17段落
最も偉大なマーヤーヴァーディーのアーチャーリャの一人であるサダーナンダ・ヨギーは、自著「ヴェダーンタ・サーラ」の中に次のように書きました。「永遠性、知識、および喜びの完全真理はブラーマンです。無明および無明のすべての産物は非ブラーマンです。

物質自然の3つの相のすべての産物は無明に覆われており、(その)すべては至高の原因と結果(effect)とは異なります。この無明は集合的および個々に顕現します。集合的な無明はヴィシュッダー・サットヴァ・プラダーナと呼ばれます。

そのヴィシュッダー・サットヴァ・プラダーナが物質自然の無明の中に顕現するとき、それは主と呼ばれ、そして主は様々な無明を顕現なさいます。したがって主はサルヴァジニャとして知られます。」このように、マーヤーヴァーディー哲学のよれば、主はこの物質自然の産物であり、そして生命体は無明の一番低い段階にいます。それがマーヤーヴァーティー哲学の真髄です。

第18段落
しかし、もしも私たちがウパニシャッドの意味を直接的に受け入れるなら、至高の人格神が無限の力を持つ人格(a person)であることは明らかです。例えば、シュヴェターシュヴァタラ・ウパニシャッドには、至高の人格神はすべてのものの源であり、主は複数の(multiple)力を持つ、と述べられています。

至高の人格神は宇宙の顕現を超越しています。主はすべての宗教の源、至高の救済者、そしてすべての富の所有者です。ちょうど太陽のような至高の人格神は、この物質的な宇宙の顕現の雲の向こうにいながら、ご自分のエネルギーを豊富に配られます。

また、「ヴィシュヌは至高存在であり、聖なる人々はいつも主の蓮の御足を見ることを切望している」とも述べられています(リグ・ヴェーダ1.22.20)。アイタレヤ・ウパニシャッドの中には、「宇宙の顕現は主が物質自然をちらっと見たときに現れた」とも述べられています(1.1.1~2)。これはプラシャナ・ウパニシャッド(6.3)によっても確認されています。

第19段落
ヴェーダ文献の中にある(アパーニ・パーダーの中のような)主の否定的な描写においては、「主は物質的な体と物質的な形を持たない」ということが示されています。しかし、主はご自分の霊的で超越的な体と超越的な形を確かにお持ちです(He does have)。

マーヤーヴァーディー哲学者たちは主の超越的な性質を誤解するので、彼らは主を非人格的であるとして説明します。主の名、形、性質、側近、そしてお住まいは、すべて超越的な世界にあります。どうして主がこの物質自然の変容であり得るでしょうか?至高主に関わるすべてのものは永遠で、喜びに満ち、知識に満ちています。

第20段落
要するに、シャンカラーチャーリャは特定の種類の無神論者たちを惑わせるためにマーヤーヴァーディー哲学を布教しました。実際は彼は決して、至高主すなわち至高の人格神を、非人格的である、あるいは体や形を持たない、とは考えませんでした。

知性的な人にとっては、マーヤーヴァーディー哲学に関する講義を避けるのが最良です。私たちは、「至高の人格神ヴィシュヌは非人格的ではない」と理解すべきです。主は超越的な人格(person)であり、宇宙の顕現の基本的な原則は主のエネルギーです。

マーヤーヴァーディー哲学は至高主のエネルギー(訳注:の源あるいは本質)を突き止める(to trace、見極める、辿る)ことができません。しかし、すべてのヴェーダ文献は至高主の様々なエネルギー的な顕現の証拠を示します。

ヴィシュヌは物質自然の産物ではなく、物質自然がヴィシュヌの力の産物です。マーヤーヴァーディー哲学者たちはヴィシュヌを物質自然の産物であるとして理解しますが、もしもヴィシュヌが物質自然の産物であるなら、主は単に半神たちの中に数えられ得るだけです。

ヴィシュヌを半神と考える者は確かに誤っており、誤って導かれています。これがなぜそうであるのかは、バガヴァッド・ギーターにおいて説明されています。「3つの相によって惑わされ、世界全体が(それらの)相を超越していて無尽蔵である私を知りません。この、物質自然の3つの相から成る私の聖なるエネルギーは、打ち勝つのが非常に困難です。しかし、私に服従した者は簡単にそれを越えることができます。」(BG1.13-14)
by ammolitering4 | 2012-01-27 20:17 | 「主チャイタンニャの教え」 | Comments(0)
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