1、超越的な知識
第1段落 私たちは、自らの最も誠実でへりくだった敬意を私たちの大変慈悲深い霊的指導者、堕落した者の救済者、バークティスィッダーンタ・サラスヴァティー・ゴスヴァーミー・プラブパーダ睨下に捧げます。睨下は私たちの目を、彼がすべての人々の利益のためにお明かしになる超越的な知識という道具をもって開くことによって、無知の闇を消し去りました。 第2段落 一般に、私たちは自分たちの二つの小さな目を非常に誇りに思っています。そして、うぬぼれで驕り高ぶり、私たちはいつもそれらを使ってすべてを見ようと熱心にしています。しかし、私たちは、自分が今見ているものは何であれ無知の闇に覆われており、そしてそのため、それらは誤って認識されているか、あるいは部分的にのみ知覚されているということを知りません。 私たちが、単に対象に自分の目の力を当てはめることによってすべてを見ることができる、というのは、事実ではありません。毎朝、太陽が昇るとき、私たちはその巨大なものをまるでそれが小さな円盤であるかのように見ます。 もちろん、太陽は私たちが住む地球よりずっと大きく、そしてそのため、毎日毎朝、私たちの自己に依り頼んだ目のうぬぼれは試みに遭わされ、不条理に引き下げられます(reduced to absurdity)。( absurdityは、矛盾、不条理、愚かさ、など。何でも正しく見えるとうぬぼれていても、毎度毎度欺かれる、という意味。) 私たちの目は、一定の好ましい状況の下においてのみ、知識を集めることができます。私たちは、自分たちから離れすぎているものを見ることができません。私たちは闇を突き抜け(て見る)こともできず、例えばまぶたなど、目に大変近いものを見ることもできません。 このように、私たちは物質自然によって作られた特定の好ましい状況下においてのみ、自分たちの目を誇りに思うことができます。そうでなければ、すばらしい目を持っているとはいえ、私たちは物事をその正しい見方において見ることができません。目について言えることは、私たちが知識を集めるのに使う他の感覚についても言えます。 第3段落 これらの状況の下で、今現在私たちが経験しているものは何であれ、完全に制約されており、したがって間違いや不完全さに陥りやすいものです。これらの誤った印象は、決して「過ちを犯した者」自身、あるいは同じような間違いを犯しやすい別の者によっては改正され得ません。 第4段落 もしも私たちが何かの物体を闇の中で知覚したいと思うなら、私たちは単に自分の目だけを使うことはできません。私たちは自分の知覚を助けるために他の何かの方法に頼らねばなりません。ですから、闇の中では物体は完全には知られ得ません。 そのような状況においては、たとえ私たちが触れることその他によって何らかの知識を得ても、それはすべて間違っているか、あるいは不完全です。その状況はちょうど、象に出会った一団の目の見えない人々が、互いにその妙な新しい生き物を描写しようとするようなものです。一人の人は鼻を触って、「この生き物は大きなヘビのようだ」と言います。別の人は脚を触って、「いいや、それは巨大な柱のようだ」と言います。そのようなことが続きます。 第5段落 深い闇の中にあるものを知覚するためには、ただ一つの方法しかありません。誰かが闇に光を照らしたときにだけ、物事をありのままに見ることが本当に可能になるのです。同様に、知識の明かりは私たちの教師によって灯されます。そして私たちは、自分の教師の恵みによってのみ、物事をありのままに見ることができます。 ほんの生まれ落ちたばかりのときから、それが父、母、あるいは先生であれ、私たちは自分の教師の恵みによって知識を集めることに慣れています。私たちは、受動的に聞くことによって彼らから経験を集めます。そのような教師の助けによってのみ、私たちは段階的に前進する知識の道を進むことができます。 第6段落 アルファベットを習うことに始まり、大学の過程(career)を終了することに至るまで、私たちは自分の教師の恵みによって知識の道を前進します。そして、もしも私たちがさらに前進して超越的な知識を得たいと望むなら、私たちはまず、自分を道において導いてくれる、資格のある超越的な教師を探さねばなりません。 私たちが学校や大学で集める知識は、今世において何か特定の課題を学ぶことにおいて一時的に私たちを助けるかもしれませんが、この知識は私たちの超越的な知識への永遠の必要性を満足させることはできません。それを私たちは、何度も生まれ変わり、毎日毎日、毎時毎時、求めています。 第7段落 どんな課題においても、成功するためには、つまりその特定の専門において有利になるように働くためには、その課題を修めた人と関係を築く必要があります。学究的な大学で学位を取得するためには、私たちはまず、その学校との関係を築く必要があります。私たちはその学校の教師たちの指示に従わねばならず、彼らの指示に従って好意的に学ばねばなりません。 これは、望む成功を手にするために絶対に必要です。同じように、もしも私たちが本当に心から永遠の人生の原則を知りたいと思い、物事をそれらの本当の見方において見たいと思うなら、私たちは自分の目を本当に開けて私たちを無知の手から引き上げることのできる教師との関係を築かねばなりません。この、霊的指導者に近づくという方法は、永遠の真理です。誰もこの永遠の規則を破ることはできません。 第8段落 入門の過程は、私たちが霊的指導者との超越的な関係を築く日から始まります。ウパニシャッド、および同種の聖典は、すべての聖典に精通しており、超越的な知識において完成を得た霊的指導者の足元に畏敬と崇敬をもって近づかねばならない、と定めます。超越的な知識において完成を得るためには、人はその線上における文化、実践、および教育によって、師弟継承、霊的な連結の線を受け入れねばなりません。 様々な霊的な協会や共同体の首長は、しばしばこの霊的な完成の水準を欠いており、そしてそのため彼らは霊的に指導的であるための資格を持ちません。したがって、形式上、あるいは習慣上の事柄としてそのような職業的な霊的指導者に近づくのは無駄です。霊的な完成を得ることは、霊的な弟子という経験を経ずしては決して可能ではありません。 第9段落 至高の人格神であって理想的な霊的指導者であるシュリー・クリシュナは、バガヴァッド・ギーターの哲学をご自分の弟子であるアルジュナ元帥に語りました。ここに霊的指導者と弟子の間の関係の完璧な例があります。アルジュナはシュリー・クリシュナの最も内密な友人でした。そしてそのため、シュリー・クリシュナは彼に、すべての聖典の真髄、バガヴァッド・ギーターを説明なさいました。 第10段落 私たちはいつも自分の俗世的な義務を遂行することにとても忙しくしているので、一般に私たちは、胃とそれに関連する事柄、という俗世的な哲学以外には何らの知識も理解したいと望みません。私たちは、この腹部の哲学の多くの枝と小枝を様々な方向に広げました。そしてそのため、私たちは自分がそれを求めて永遠に幾世も幾世も苦しんでいる、永遠の人生を得るという哲学を理解するための時間が全くありません。 第11段落 クルクシェトラの戦場でクリシュナがアルジュナの戦車を相対する二つの軍隊の間に置いた後、アルジュナが戦うことを拒否したとき、彼は普通の人間のように、哲学的な無知と弱さによって圧倒された振りをしました。それからクリシュナは彼をバガヴァッド・ギーターの知識をもって啓蒙しました。 第12段落 このようにして、いつの時代にも、至高神と主の愛する内密な献身者たちは、世界の人々の無知の闇を消し去ることによって、自分たちの無限の慈悲を授けます。もしも彼らが私たちの上にそのような慈悲を授けて下さらなかったなら、私たちは決して超越的な知識を得ることはできません。 第13段落 時として、至高の人格神ご自身が降臨なさり、超越的な知識を教えます。別のときには、主はこの親切な行いをするために、ご自分の内密な従者たちに代理を命じられます。すべてのメシアたち、すなわち至高神の王国の超越的なメッセージを説くために過去に訪れた、あるいは未来に訪れる聖人たちは、至高の人格の最も内密な従者と理解されます。 主イエス・キリストは至高神の息子として現れ、モハメッドは自分自身を至高神の従者であると述べ、そして主チャイタンニャはご自分を至高神の献身者として現されました。しかし、彼らの身分が何であれ、すべてのそのようなメシアは一つのことについて同じ意見を持っていました。死が運命づけられているこの世界には永遠の平和と繁栄はない、ということです。 彼らすべてが、私たちは平和と繁栄がその本当の存在を持つ別の世界へ行かねばならない、と同意しました。私たちは、死が運命づけられているこの世界を超えたところにある神の王国の中に、永遠の平和と繁栄を探し求めねばなりません。至高の人格神を受け入れなかった仏陀やシャンカラーチャーリャのような宗教改革者でさえ、この物質世界に永遠の平和と繁栄を得る何らかの可能性がある、とは教えませんでした。
by ammolitering4
| 2011-07-10 15:43
| 「至高神の教え(メッセージ)」
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