第5章 後半

第5章 後半
第9段落
私たちは、自分の物質的な感覚をして、何を知覚することができるでしょうか?私たちは、土、水、火など、物質的な目に可視的であるものを見ることができます。しかし私たちは、触れることによって知覚できるにも関わらず、空気を見ることはできません。

私たちは、音によって空があることを理解できます。そして私たちは、考え、感じ、意思を持っているので、自分は心を持っている、と理解することができます。もしもさらに続けるなら、私たちは「自分は意識である」と理解することができます。そして更に発達した者は、意識の源は魂であり、そして何よりも(それは)超魂であると理解することができます。

第10段落
私たちの周りの可視的なものは、至高主の劣性なエネルギーの拡張体ですが、主はまた、優性なるエネルギー、すなわち意識も持っておいでです。私たちは意識をより高い権威から理解しなければなりません。

私たちはそれを直接的に知覚することもできます。例えば、私たちは体全体に広がる意識があると知覚することができます。もしも私がどこであれ自分の体をつねれば、私は痛みを感じます。それは、私の体全体に意識があるということを意味します。

バガヴァッド・ギーターにおいてクリシュナは、私たちは「意識は体中に広がっていて、それは永遠である」ということを理解しようとすべきである、とおっしゃいます。同様に、意識はこの宇宙全体に広がっています。

しかし、それは私たちの意識ではありません。それは神の意識です。ですから、神、超魂は、ご自分の意識によって偏在です。これを理解する者は、自分のクリシュナ意識を開始しました。

第11段落
私たちの方法は、自分の意識をクリシュナ意識に繋げる、ということです。それは私たちを完璧にします。私たちがその意識に同化するのではありません。ある意味では私たちは「同化」しますが、しかしそれでも私たちは自分の独自性を保ちます。

それが非人格主義の哲学とクリシュナ意識哲学の違いです。非人格主義の哲学者は、完成とは至高存在に同化して自分の独自性を失うことだ、と言います。私たちは、「完成した段階において、私たちは至高存在に同化するが、自分の独自性を保つ」と言います。

それはどういうことでしょうか?飛行機は飛行場から飛び立って上へ上へと上がっていきます。そして非常に高くへ行くと、私たちはそれを見ることができません。私たちは単に空を見ることができます。(訳注:空が見えるだけです。)

しかし、飛行機は失われてはいません。それはまだそこにあります。もうひとつの例は、大きな緑色の木に入っていく緑色の鳥です。私たちには鳥と木の区別をつけることができませんが、それらはどちらも存在し続けます。

同様に、至高の意識はクリシュナであり、私たちが自分の個々の意識を至高存在に繋げるとき、私たちは完璧になります。。。しかし、自分の独自性を保ちます。外部の者は、神と主の純粋な献身者の間には区別はない、と考えるかもしれません。

しかし、それは乏しい知識のみに基づくものです。すべての個人、すべての個々の存在は、至高存在と繋がった時でさえ、自分の独自性を維持します。

第12段落
プラーラーダ・マハーラージャは、「私たちは、至高の意識であれ個々の意識であれ、意識を見ることはできないが、それは存在する」とおっしゃいます。どうやって私たちはそれが存在すると理解することができるでしょうか?

私たちは、単に喜びの感知によって、至高の意識と私たちの個々の意識を理解することができます。私たちは意識を持っているので、アーナンダ、喜びを感じることができます。意識がなくては、喜びの感情はありません。

意識ゆえに、私たちは自分の感覚をどんなふうにでも好きなように使うことによって、人生を楽しむことができます。しかし、体から意識が去れば直ちに、私たちは自分の感覚を楽しむことができません。

第13段落
私たちの意識は、私たちが至高の意識の欠かすべからざる小片であるがゆえに存在します。例えば、火花は火の微細な粒に過ぎませんが、それでも火花もまた火です。大西洋の一滴は、海の水と同じ性質を持っています。それもまた塩辛いのです。同様に、至高主の中に喜びの力が存在するため、私たちもまた喜びを楽しむことができます。

主はパラメシュヴァラ、至高の統御者です。したがって、私たちもまたイーシュヴァラ、すなわち統御者です。例えば、私は自分が咳をすると水を飲むという、幾らかの統御力を持っています。しかし、私たちは至高の統御者ではありません。至高の統御者は神、クリシュナです。

第14段落
クリシュナが至高の統御者であるので、主はご自分の様々に異なる力によって、宇宙の出来事すべてを統御することができます。私もまた、自分は自分の身体的な事柄をある程度統御していると感じますが、私は至高の統御者ではないので、もしもこの体に何か悪いところがあれば、私は医者に行かねばなりません。

同様に、私は他の体の上に何らの統御力も持ちません。私はこの手を「自分の手」と呼びます。なぜなら、私はこの手で作業をすることができ、それを自分の望みに応じて動かすことができるからです。しかし、私はあなたの手の統御者ではありません。

もしも私があなたの手を動かしたいと望むなら、それは私の力の内にはありません。それはあなたの力の内にあります。あなたは、もしもそう望むなら、自分の手を動かすことができます。ですから、私はあなたの体の統御者ではなく、あなたは私の体の統御者ではなく、しかし至高の魂はあなたの体と私の体と、すべての体の統御者です。

第15段落
バガヴァッド・ギーターにおいて、主は、あなた、すなわち魂はあなたの体の中にいて、そしてあなたの体はあなたの活動の場である、とおっしゃいます。ですから、あなたがしていることは何であれ、あなたの体という場によって制限されています。

ある特定の土地の広がりの中に閉じ込められた動物は、そこで動き回ることができますが、その空間が許す場を超えたところには行けません。同様に、あなたの活動と私の活動は、私たちの体の限界の中に閉じ込められています。私の体は私の活動の場であり、あなたの体はあなたの活動の場です。しかしクリシュナはおっしゃいます。「私はすべての場にいます。」

第16段落
したがってクリシュナは、超魂、すなわちパラマートマーとして、私の体の中で、あなたの体の中で、そして他の無数の体の中で何が起こっているか、ご存じです。したがって、主は至高の統御者です。

私たちは自分の限られたエネルギーを持っていますが、主のエネルギーは無限です。主の統御する力によって、主の至高の意思によって、この物質的な創造は動いてます。それもまた、バガヴァッド・ギーターにおいて確認されています。

そこでクリシュナはおっしゃいます。「私の監督のもとで、物質自然全体が働いています。この物質世界の中であなたが見るすべての素晴らしいものは、私の監督、私の至高の統御によるものです。」
by ammolitering4 | 2011-06-30 13:06 | プラーラーダ・マハーラージャ


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