プラーラーダ・マハーラージャの超越的な教え 第1章

お待たせしました。小さな本をお届けします。とりあえず第1章だけです。この本は6つの短い章から成っています。続きはカナダに帰ってきてからになると思います。
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プラーラーダ・マハーラージャの超越的な教え

以下の文章は、シュリーラ・プラブパーダが1968年に行ったシュリマッド・バーガヴァタム7巻6章に関する一連の法話に基づいています。

第1章 「最も愛しい人」

第1段落
今日、私はプラーラーダ・マハーラージャという名前の献身者の少年について語ります。彼は頑として無神論的な家庭に生まれました。この世界には2種類の人々がいます。悪魔(的な人)と半神(的な人)です。彼らの間の違いは何でしょうか?

主な違いは、半神、すなわち神のような人々は至高主に献身の念を持っており、他方、悪魔(的な人々)は無神論者である、ということです。彼らは物質主義者なので神を信じません。これらの2種類の階層の人々は、いつもこの世界に存在しています。

現在では、カリの時代(争いの時代)の影響で悪魔的な人々の数が増えていますが、区分は創造の初めから存在しています。私が皆さんに語る出来事は、遠い遠い昔、創造から2~300万年(訳注:原文はそのままa few million yearsですが、文字通りではないと思います)後に起こりました。

第2段落
プラーラーダ・マハーラージャは最も無神論的で最も物質的に強力な人物の息子でした(訳注:原文は文法に乱れあり)。社会が物質的だったので、この少年は至高主を讃える機会を全く持っていませんでした。偉大な魂の特徴は、彼が至高主の栄光を広く伝えることに大変熱心であるということです。例えば主イエス・キリストは神の栄光を広く伝えることに大変熱心でしたが、悪魔的な人々は彼を誤解して十字架にかけました。

第3段落
プラーラーダ・マハーラージャが5歳の少年だったとき、彼は学校に送られました。休み時間になって先生がいなくなると直ちに、彼は友人たちに言いました。「私の愛しい友人たちよ。さあ、クリシュナ意識について語りましょう。」この情景はシュリマッド・バーガヴァタム7巻6章に描写されています。献身者プラーラーダは言います。「私の愛しい友人たちよ。年若い今こそ、クリシュナ意識を実行するときです。」

第4段落
彼の幼い友人たちは答えます。「おお、今は遊びましょう。なぜクリシュナ意識を習慣づけるべきでしょうか?」

第5段落
これに答えてプラーラーダ・マハーラージャは言います。「もしもあなたが知性的なら、それならあなたは子供のときからバーガヴァタ・ダールマを始めなければなりません。」

第6段落
シュリマッド・バーガヴァタムは、バーガヴァタ・ダールマ、すなわち神に関する科学的な知識に繋がる方法を提供します。バーガヴァタは「至高の人格神」を意味し、そしてダールマは「規律的な原則」を意味します。この人間の形の人生は非常に稀です。それはすばらしい機会です。

したがって、プラーラーダはおっしゃいます。「私の愛しい友人たちよ。あなたがたは文明化された人間として生まれました。ですから、あなたがたの人間の体は一時的なものではありますが、それは最もすばらしい機会なのです。」誰も自分の人生の長さを知りません。

この時代には、人間の体は100年まで生きられると計算されています。しかし、カリの時代が進行するにつれて、寿命、記憶、慈悲、宗教性その他の価値あるものは減少します。ですから、この時代には誰も長い寿命を保証されていません。

第7段落
それでも、人間の形は一時的ではありますが、この人間の形でいる間に人は人生の最高の完成を達成することができます。その完成とは何でしょうか?あまねく存在する至高主を理解することです。他の形の生命体には、これは可能ではありません。

ゆっくりとした進化の過程を経て、私たちはこの人間の形に至りました。ですから、それは稀な機会です。自然の法則によって、人間の形は人が霊的な人生において自らを引き上げ、家へ、至高神のもとへ帰れるように、最終的に与えられるものです。


第8段落
人生の究極的な目的地は、ヴィシュヌ、すなわちクリシュナ、至高の人格神です。後の節において、プラーラーダ・マハーラージャはおっしゃいます。「この物質世界の中の、物質的なエネルギーに引き付けられている人々は、人間の人生の目的地が何であるか知りません。

なぜでしょうか?彼らは主の光り輝く外的なエネルギーによって幻惑されているからです。彼らは、「人生は、完成の究極の目的地である、ヴィシュヌを理解するための機会である」ということを忘れています。」

なぜ私たちはヴィシュヌ、すなわち神を知ることに非常に熱心であるべきなのでしょうか?プラーラーダ・マハーラージャはその理由を与えられます。「ヴィシュヌは最も愛しい人です。それを私たちは忘れてしまっています。」私たちは皆、何らかの愛しい友人を求めます。誰もがそうやって探します。

男は女との親密な友情を探し求め、そして女は男との親密な友情を探し求めます。そうでなければ、男は男を探し求め、女は女を探し求めます。誰もが何らかの親しい友人を、何らかの愛しい友人を探し求めます。なぜでしょうか?

私たちは自分を助けてくれる親愛なる友人の協力が欲しい(からです)。これは存在のための苦闘の一部であり、これは自然なことです。しかし私たちは、自分たちの最も親愛なる友人はヴィシュヌ、至高の人格神であると知りません。

第9段落

バガヴァッド・ギーターを読んだことのある者は、第5章に次のような素晴らしい節を見出すでしょう。「もしもあなたが平和を求めるなら、それならあなたは、この世界と他の世界のすべてのものはクリシュナの所有物であり、主がすべてのものを楽しむ方であり、そして主がすべての者の至高の友人であることを完全に理解しなければなりません。」

なぜ禁欲を行うのですか?なぜ宗教的な儀式を行うのですか?なぜ慈善で施しをするのですか?これらのすべての活動は至高主を喜ばせるためにあり、他の何でもありません。そして至高主が喜ばれるとき、あなたは結果を得ます。

あなたがより高い物質的な幸せを得たいと望んでいようが、霊的な幸せを得たいと望んでいようが、あなたがこの惑星においてより良い人生を生きたいと望んでいようが、あるいは他の惑星でより良い人生を生きたいと望んでいようが、もしもあなたが至高主を喜ばせるなら、何であれあなたが望むものをあなたは得るでしょう。

したがって、主は最も誠実な友人です。何であれあなたが主から望むものを、あなたは得ることができます。しかし、知性的な人は物質的に汚染されたものは、何も望みません。

第10段落
バガヴァッド・ギーターにおいて、クリシュナは、徳のある行いによって人は自分をブラーマロカとして知られる最高位の物質的な惑星に上げることができる、とおっしゃいます。そこでは、寿命は何百万年も何百万年もあります(訳注:第1段落のmillionと同様、文字通りの「百万年」ではない)。

あなたはそこでの寿命を計算することはできません。あなたの算術は非効果的です。バガヴァッド・ギーターにおける言明は、ブラーマーの人生は非常に長いので、私たちの43億2千万年が彼には12時間でしかない、というものです。クリシュナはおっしゃいます。

「アリに始まりブラーマーに至るまで、あなたが望むどんな立場も、あなたは得ることができます。しかし、誕生と死の繰り返しはそこにあります。しかし、もしもクリシュナ意識を実践することによってあなたが私のところに来るなら、そうすればあなたは、この惨めな物質的な状況に戻ってくる必要はありません。」

第11段落
プラーラーダ・マハーラージャも、私たちは自分たちの最も愛しい友人、クリシュナ、至高神を探し求めるべきである、と、同じことをおっしゃいます。なぜ主は私たちの最も愛しい友人なのですか?本質的に(by nature)、主は愛すべき方です。さて、あなたは何を最も愛しいものと考えますか?あなたは分析したことがありますか?

あなた自身が最も愛しいものです。私はここに座っていますが、もしも火災報知機が鳴れば、私は直ちに自分の面倒をみます。「私はどうやって自分自身を救うことができるだろうか?」私たちは自分たちの友人と、そして親族さえも忘れます。「何よりもまず、自分を救おう。」自己防衛は自然の第一の法則です。

第12段落
最も肉体的な(gross)意味では、アートマー、「自己」という言葉は、体を指します。より繊細な領域では、心、あるいは知性がアートマーであり、そして本当の意味ではアートマーは魂を指します。肉体的な段階では、私たちは体を守って満足させることを大変好みます。

そして、より繊細な段階では、私たちは心と知性を満足させることを大変好みます。しかし、心理的、および知性的な水準を超えたところ、霊化された環境では(where the atmosphere is spiritualized)、私たちは「私はこの心、知性、あるいは体ではない。アハム・ブラーマースミ、私は霊、至高主の欠かすべからざる小片である」と理解することができます。それが本当の理解の水準です。

第13段落
プラーラーダ・マハーラージャは、すべての生命体にとってヴィシュヌは究極の「幸せを願う者」である、とおっしゃいます。したがって、私たちは皆、主を探し求めています。子供が泣くとき、彼は何を求めていますか?母親です。しかし、彼はこれを表現する言葉を持ちません。

もともと(by nature)、彼は自分の母親の体から生まれた体を持っています。ですから、母親の体との間に親密な関係があります。子供は他のどの女性も好みません。子供が泣きます。しかし、その子の母親である女性が来て彼を抱き上げると、直ちに彼は慰められます。

彼はこれらすべてを表現する言葉を持ちませんが、彼の自分の母親との関係は自然の法則です。同様に、本来的に(by nature)私たちは体を守ろうとします。これは自己防衛です。それは生命体の自然の法則です。ちょうど、食べることが自然の法則であり、眠ることも自然の法則であるようなものです。なぜ私は体を守るのですか?なぜなら、体の中に魂があるからです。

第14段落
この魂とは何ですか?魂は至高主の一部です。私たちが体全体の一部である手や指を守りたいと思うように、同様に私たちは自分たちを救おうとします。なぜなら、これが至高存在の防衛方法だからです。至高存在は防衛を必要としません。

しかしこれは、今では歪められている、私たちの主への愛の顕現なのです。指と手は、体全体の利益のために働くことになっています。私が手に「ここに来て欲しい」と思えば、すぐにそれは来ます。そして私が指に「ドラムを叩いて欲しい」と望めば、それは叩きます。これが自然な立場です。

同様に、私たちは自分のエネルギーを至高存在への奉仕につなげるために、神を探し求めています。しかし、幻想エネルギーの魔力の下にあって、私たちはそれを知りません。それが私たちの誤りです。今、人間の人生において、私たちは自分の本当の立場を理解する機会を持っています。

人間であればこそ、あなたがたは皆、クリシュナ意識について、あなたがたの人生の本当の目的地について学ぶために、ここに来ました。私は猫や犬をここに来て座るように招くことはできません。それが人間と猫や犬の違いです。人間は人生の本当の目的を追求する必要性を理解することができます。しかし、もしも彼がその機会を失うなら、それは大変な不幸です。

第15段落
プラーラーダ・マハーラージャはおっしゃいます。「神はすべての中で最も愛しい人(personality)です。私たちは神を探し求めなければなりません。」それでは、人生の物質的な必要性についてはどうでしょうか?プラーラーダ・マハーラージャはお答えになります。

「あなたは感覚の満足を求めています。しかし、感覚の満足はこの体との接触によって自動的に得られます。」豚は(豚という)特定の種類の体を持っているので、彼の感覚の満足は、あなたにとって最も不快であるものそのものである、糞を食べることによって得られます。排泄したあと、直ちに、あなたは悪臭から逃れるために立ち去らねばなりません。

しかし豚は待っています。あなたが排泄すれば直ちに、彼は楽しみます。ですから、異なる体の種類に応じて、異なる種類の感覚の満足があります。物質の体を持っている者は誰でも、感覚の満足を受け取ります。糞を食べている豚は不幸だと思ってはなりません。いいえ、彼はそうやって太っているのです。彼らは大変幸せです。

第16段落
もう一つの例はラクダです。ラクダはトゲのある小枝を非常に好みます。なぜでしょうか?なぜなら、彼がトゲのある小枝を食べるとき、小枝が彼の舌を切り、血がにじみ出て、そして彼は自分の血を味わいます。そして彼は「私は楽しんでいる」と考えるのです。これが感覚の満足です。性生活もそのようなものです。私たちは自分自身の血を味わい、そして自分は楽しんでいると考えるのです。これは私たちの愚かさです。

第17段落
この物質世界の生命体は霊的な存在ですが、楽しむ傾向、物質エネルギーを搾取する傾向があるので、彼は体と物理的に接触しました(contacted)。840万種の生命体が存在し、それぞれに異なる体を持っています。そして体に応じて彼らは特定の喜びを楽しむための特定の感覚を持っています。

例えば、あなたがトゲのある小枝を食べ物として供されたとしましょう。「紳士淑女の皆さん、ここに非常においしい食べ物があります。ラクダが太鼓判を押します。とてもおいしいです。」あなたは食べたいですか?「いいえ!あなたは私に何というゲテモノ(nonsense)を供しているのですか?」

あなたはラクダとは違う体を持っているので、あなたはトゲのある小枝を好みません。しかし、もしもあなたがそれをラクダに与えるなら、彼はとてもすばらしい食事だと思うのです。

第18段落
さて、もしも豚やラクダが大した苦労もなく感覚の満足を味わえるなら、なぜ私たち人間がそうできないことがあるでしょうか?私たちにはできます。しかし、それは私たちの究極の達成ではありません。豚であれ、ラクダであれ、人間であれ、感覚の満足を楽しむための設備は自然によって与えられています。

ですから、なぜあなたは、自然の法則によってどちらにしても得られるように運命付けられている設備を求めて苦労すべきでしょうか?すべての形の生命において、身体的な欲求は自然の配剤によって満たされます。この満足は配剤されています。ちょうど苦しみへの配剤があるようなものです。

あなたは発熱が好きですか?いいえ。なぜそれは(あなたのもとに)訪れるのですか?分かりません。しかし、それは訪れるのではありませんか?はい。あなたはそれを得ようとしましたか?いいえ。ではどうしてそれが訪れるのでしょうか?自然によってです。それが唯一の答えです。そして、もしもあなたの悲惨さが自然によって訪れるなら、あなたの幸せもまた、自然によって訪れます。

それについて気にしてはいけません(Don't bother about it.)。それがプラーラーダ・マハーラージャの教えです。もしもあなたが努力なくして人生の悲惨さを受け取るなら、あなたは同様に努力なくして幸せを得ます。

第19段落
それなら、人間の形の人生の本当の目的は何でしょうか?クリシュナ意識を培うことです。他の物事は、究極的には神の法則である自然の法則によって得られます。たとえ私が努力しなくても、私の過去の行い(works)と私の特定の種類の体のため、私は得られることになっているものを、何であれ与えられます。したがって、あなたの本当の関心事は、人間の人生のより高い目的地を探し求めることであるべきです。
by ammolitering4 | 2011-06-12 12:42 | プラーラーダ・マハーラージャ


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