第16章

第16章 教育と「良い人生」について

シュリーラ・プラブパーダ、新しい献身者の母親、そしてイエズス会の神父との間の次の対話は、1973年7月にロンドンのラーダー・クリシュナ寺院において交わされました。

SP:  (母親に向かって)私たちのヴェーダの理解によれば、罪深い生活の4つの柱があります。不正な性交、不必要に動物を殺すこと、陶酔物の摂取、および賭け事です。私たちの生徒たちは、これらを放棄するように訓練されています。

そして、あなたがご自分の息子さんから見ることができるように、彼らは幸せで、野菜と牛乳から作られたおいしい食べ物を食べることと、ハレ・クリシュナ、すなわち神の聖なる御名を唱えることによって満足しています。

母親:  私は彼が幸せであるのを見てとれます。しかし、お分かりと思いますが(you know)、彼は非常に幸せな家庭の出身です。ですから、彼は幸せであって当然なのです(should)。そうでしょう?

SP:  はい。しかし今では彼はもっと幸せです。彼は幸せでしたが、今では彼はもっと幸せです。

母親:  私はマイケルの幸せを嬉しく思っています。しかし、彼が自分の大学教育を続けないことについて、非常に落胆しています。

SP:  私たちのクリシュナ意識運動は、人々から彼らの教育を奪うことはしません。私たちはこう言います。「あなたの大学教育を続けなさい。しかし同時に、神を知り、主を愛することが十分にできるようになりなさい。そうすればあなたの人生は完璧です。」

(改行)しかし、どちらにしても、教育の目的は何ですか?私たちのヴェーダ文化は、教育の最高点は神を理解することであると教えます。それが教育です。そうでなければ、いかにして良く食べるか、いかによく眠るか、いかに良く性交するか、およびいかに良く身を守るか、ということのための教育、この教育は動物の間にさえあります。

動物たちもまた、いかに食べるか、いかに眠るか、いかに性交するか、そしていかに身を守るかを知っています。教育のこれらの4つの部門は、人間には十分ではありません。人間はいかに神を愛するかを知らねばなりません。それが教育です。

母親:  はい。私は完全にあなたに賛成します。私は科学の分野にいる多くの素晴らしい人々の名を挙げることができます。彼らは科学者でありながら(still)、非常に神に近いのです。私たちはどこにいることでしょう(訳注:「私たちはどうなっていることでしょう」)、私たちの科学者たちがいなければ、私たちの医者たちがいなければ、、、

SP:  しかし、単に医学の分野で医者になることは、人を救いません。不幸にして、ほとんどの医者たちは来世を信じません。

母親:  おお、彼らはもちろん信じています(Oh, yes they do.)。私は毎週日曜日に教会に来る医者を知っています。そしてマイケルも彼を知っています。彼も来世を信じています。彼は本当にとても良い人です。

SP:  一般に、来世を信じる西洋の人は、それをあまり真剣に信じていません。もしも彼らが実際に来世を信じているなら、彼らは自分が一体どんな種類の来世を持つことになるかについて、もっと気にするでしょう。840万種類の生命の形が存在します。木は生命の形であり、猫や犬もまた生命の形です。ですから、全部で840万種類あります。

私たちは来世を持つことになるので、(そして)私たちは今の体を去って別の体を受け入れなければならないので、私たちの主な関心事は、自分は次にどんな種類の体を持つことになるか、ということであるべきです。しかし、学生を来世のために準備するために教育する大学がどこにありますか?

神父:  世界中のカトリックの大学はそれをしています。そしてそれが私たちの主な目的です。若い男性、あるいは若い女性を、この世界で成功するために教えること、そして何よりも来世での成功、つまり永遠に神と結びつくこと。それが最優先事項です。

SP:  では、どうやって私たちは来世においてどんな種類の体を得るのかを知ることができますか?

神父:  私が知っているのは、滅亡はない、ということだけです。私は神と一緒になります。(joined with God)

母親:  私たちは万能の神と一緒になるのです。それだけです。私たちは死ぬときに万能の神のところに行きます。私たちは心配する必要はありません。

SP:  しかし、神のところへ行く資格は何ですか?誰もが神のところへ行くのですか?

母親と神父:  はい。はい。

神父:  誰であれ、神を信じ、良い人生を送り、この世において最善を尽くす者は、、、

SP:  それなら次の問いはこれです。良い人生とは何ですか?

神父:  神の戒めに従うことです。

SP:  戒めの一つは、「汝、殺すなかれ」というものです。それでは、もしも誰かが罪のない動物を殺して彼らを食べるなら、彼は良い人生を送っていますか?

神父:  睨下(Father)、あなたは多少理不尽でいらっしゃいます。(訳注: Fatherは、通常はカトリックの聖職者への呼びかけに使われる。「神父様」、という感じの言葉。 睨下(げいか)は最高位の聖職者の敬称。)「汝、殺すなかれ」は、「汝、不必要に命を取るなかれ」を意味します。もしも肉を食べないのなら、どうやって私たちは生きることができるでしょうか?

SP:  私たちはどうやって生きていますか?私たちは野菜と穀物と果物と牛乳から作られたおいしい食べ物を食べています。私たちは肉を必要としません。

神父:  このように考えてください。あなたはほんの2-3分前に、800万だかの異なる生命の種類が存在するとおっしゃいました。あなたは、ジャガイモ、キャベツ、そして他の野菜もまた生命を持っているということに同意なさいますか?

SP:  はい。

神父:  では、これらの野菜をゆでるとき、あなたは彼らの命を取っています。

SP:  あなたの哲学は何ですか?ジャガイモを殺すことと罪のない動物を殺すことは等しいというものですか?

神父:  あなたは「汝、殺すなかれ」とおっしゃいました。しかし、あなたはジャガイモを殺します。

SP:  私たちは皆、他の生命体を食べることによって生きなければなりません。(サンスクリット引用)しかし、ジャガイモを食べることと何らかの動物を食べることは同じではありません。あなたはそれらが等しいと思いますか?

神父:  はい。

SP:  それなら、なぜあなたは子供を殺してそれを食べないのですか?

神父:  私は一瞬たりとも子供を殺すことは考えません。

SP:  しかし、動物と子供はどちらも無力で無知だという点で似ています。子供が無知だからといって、それは私たちが彼を殺して良いということを意味するのではありません。同様に、動物は無知、あるいは非知性的ですが、私たちは彼らを不必要に殺すべきではありません。分別のある者、宗教的な者は、区別をつけるべきです。

彼はこう考えるべきです。「もしも私が野菜、果物、そして牛乳から自分の食べ物を得られるなら、なぜ私は動物を殺して食べるべきだろうか?」それに、あなたが木から果物を取るとき、殺すことはありません。同様に、牛から牛乳を取るとき、私たちは牛を殺しません。ですから、もしも殺すことなく、そのように生きられるのなら、なぜ私たちは動物を殺すべきでしょうか?

神父:  あなたはどう思われますか?私は肉とベーコンなどを食べるので、、、それは私を罪深い者にしますか?もしもそれらを食べないなら、私の罪深さは減るのでしょうか?

SP:  はい。(校正:原文はピリオドが抜けている。)

神父:  では、もしも私が肉とベーコンとソーセージを食べることを放棄するなら、私は違う人になるのですか?

SP:  あなたは浄化されます。

神父:  それは非常に興味深いことです。

SP:  動物を殺す者は、神を理解することができません。私はこれを見たことがあります。それは事実です。彼らは神を理解するための脳を持ちません。
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by ammolitering4 | 2011-04-16 03:01 | 「ハレ・クリシュナの挑戦」


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