第14章

第14章 技術と失業について

シュリーラ・プラブパーダと彼の弟子の一人との間のこの対話は、1974年6月に(スイスの)ジュネーブで交わされました。

弟子:  最近の講演で、インドの政治家がインドの人々の80%は田舎の村に住んでいると言いました。彼の提案は、農場での技術を増やすことでした(訳注:農業の工業化を進めること)。手で麦を刈り取らなければならない代わりに、人々は動力設備のついた刈り取り機を持つでしょう。そして、鋤(すき)を引くために(去勢した)雄牛を使わなければならない代わりに、彼らは耕運機を使うでしょう。

SP:  インドでは、多くの人が既に失業しています。ですから、そこにもっと多くの機械を導入することは、あまり良い提案ではありません。100人の人の仕事が、機械を使う一人の人によってなされ得ます。しかし、なぜそれほど多くの人々が失業しているべきなのですか?なぜ一人の代わりに100人の人を働かせないのですか?

ここ西洋でも、多くの失業者がいます。あなた方の西洋の国々では、すべては機械によってなされるので、あなた方は多くのヒッピーたちを、イライラが募って何もすることのない若者たちを作り出しています。それは別の種類の失業です。ですから、多くの場合、機械は失業を生じさせます。

(改行)すべての人が仕事を持っているべきです。そうでなければ、問題が生じます。「怠惰な脳は悪魔の作業場だ。」何もすることのない人々が非常にたくさんいるとき、なぜ私たちはもっと多くの失業を生じさせるために機械を導入すべきなのですか?最良の方針は、誰も失業しているべきではない、というものです。誰もが忙しくしているべきなのです。

弟子:  しかし、こう言って議論する者もいるかもしれません。「機械は私たちを非常に多くの時間のかかる労働から自由にします。」

SP:  何のために自由にするのですか?お酒を飲むことと、様々な無意味なことをするためにです。この自由の意味は何ですか?もしもあなたがクリシュナ意識を培うために人々を自由にするなら、それは話が別です。もちろん、誰かが私たちのクリシュナ運動のところに来るときは、彼もまた、いつも何らかの仕事をしているべきです(He should also be fully engaged.)。

この運動は、食べることと眠ることのためではなく、クリシュナのために働くことのためにあります。ですから、このクリシュナ意識においてであろうが、外の社会においてであろうが、方針は、誰もが仕事を与えられて忙しくしているべきである、というものです。そうすれば良い文明が生じるでしょう。

(改行)ヴェーダ文明では、すべての人がブラーマナ(識者、あるいは教師)、クシャトリヤ(軍事的あるいは政治的な指導者)、ヴァイシャ(農民あるいは商人)、あるいはシュードラ(労働者)として働いているようにするのは、社会の長の義務でした。

すべての人が働かねばなりません。そうすれば平和が訪れるでしょう。現時点では、非常の多くの技術が原因で失業があり、多くの怠惰な人々がいます。ヒッピーたちは怠惰です。それだけです。彼らは何もしたくありません。

弟子:  もう一つ、「技術があれば、私たちはもっとずっと良く、もっとずっと効果的に働くことができるので、働いている人の生産性が格段に向上する」という議論もあるかもしれません。

SP:  もっと多くの人が仕事を与えられて、もっと非効率的に働くほうがいいのです。バガヴァッド・ギーター(18.48)において、クリシュナはおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「すべての努力は何らかの欠陥によって覆われています。ちょうど、火が煙によって覆われているようなものです。したがって、人は自分の生来の性質に添った仕事(the work which is born of his nature)を放棄すべきではありません、おお、クンティーの息子よ。たとえそのような仕事が欠陥に満ちていたとしてもです。」

そして、ヒンディー語の諺はこう言います。(サンスクリット引用)「ベカーリー」は、「仕事が無い」を意味します。そして「ベガーリー」は「給料無しで働く」を意味します。インドでは、私たちは多くの村人がやってきて商店主や紳士にこう頼むのを見ました。

「どうか私に何らかの仕事をください。私は給料は望みません。あなたがそうしたいなら、あなたは私に幾らかの食べ物を与えることができます。そうでなければ、私はそれさえ望みません。」それでは、どの紳士が、もしもあなたが彼のところで働くなら、あなたに何か食べるものを与えないでしょうか?

直ちに労働者は、何らかの仕事、および食べ物と住むところを得ます。それから、彼が働いているとき、もしも紳士が彼が非常に良く働いているのを見れば、彼は「いいでしょう、いくらかの給料を受け取りなさい」と言うでしょう。

したがって、何の仕事もなく怠惰であり続けるよりも、何らの報酬もなく働くほうがいいのです。それ(訳注:何の仕事もなく怠惰でいる状態)は、非常に危険な立場です。しかし、現代の文明においては、多すぎる機械が原因で、非常に多くの失業者がいます。そして、非常に多くの怠け者たちもいます。それは良くありません。

弟子:  ほとんどの人は、この考え方は非常に古臭いと言うでしょう。彼らは、たとえそれが高い失業率を作り出しても、自分たちの技術を持つほうを好むでしょう。なぜなら、彼らはそれを苦役から自由になる方法として、それに、他のものを楽しむ自由としても見るからです。テレビや映画や車や、、、

SP:  技術は自由ではありません。むしろ、それは地獄への「自由の道」(freeway、高速道路)です。それは自由ではありません。すべての人がその能力に応じて働いているべきです。もしもあなたが優れた知性を持っているなら、あなたはブラーマナの仕事を、すなわち聖典を研究し、本を書き、他者に知識を与えることをするのが良いでしょう。

それがブラーマナの仕事です。あなたは自分の生計について気にする必要はありません。社会がそれを供給します。ヴェーダ文明においては、ブラーマナは給料のために働くことをしませんでした。彼らはヴェーダ文献を研究することと、他者に教えることで忙しく、そして社会が彼らに食べ物を与えました。

(改行)クシャトリヤに関して言えば、彼らは社会の他の構成員に保護を与えなければなりません。危険があるでしょうし、攻撃があるでしょう。そして、クシャトリヤは人々を守るべきです。その目的のために、彼らは税金を取り立てることが許されています。

それから、クシャトリヤよりも知性において劣る者は、ヴァイシャ、すなわち商業層(mercantile、商業の、経済の)です。彼らは食べ物を作ることと牛を守ることに携わります。これらのことが必要とされます。そして最後に、他の三つの、より高い階層を助けるシュードラがいます。

(改行)これは社会の自然な区分です。そしてそれは非常に良いものです。なぜなら、それはクリシュナご自身によって作られたからです。(サンスクリット引用)すべての人が仕事を持っています。知性的な階層は仕事を持ち、軍事的な階層は仕事を持ち、商業的な階層は仕事を持ち、そして残りの者たち、シュードラもまた、仕事を持っています。

政党を作って戦う必要はありません。ヴェーダの時代には、そのようなものはありませんでした。王が統治者であり、彼は誰もがそれぞれの義務において仕事を持っているようにしていました。ですから人々は、偽りの政党を作って社会不安を募り、互いに争う時間がなかったのです。そのような機会はありませんでした。

(改行)しかし、すべてのことの初めは、「私はこの体ではない」ということを理解することです。そしてこれは、クリシュナによってバガヴァッド・ギーターの中で繰り返し繰り返し強調されています。


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訳注:ヴァイシャは「農民」と訳していますが、農業労働者というより農場経営者を指すものであると思います。でも、クリシュナも牛飼いの仕事をしていましたし、自ら労働にいそしむものでもあるようです。大勢のシュードラが農業労働者としてヴァイシャのもとで働いていたのだろうと私は想像していますが、これは英語で言う「farmer」と日本語の「農夫」や「百姓」や「小作人」が必ずしも符合しないことと似ているのではなかと思います。

その昔、母の祖父母の家は大きな農家でした。暦や土地や作物のことを知り、大勢の小作人や季節労働者を使って広い農地を運営するのが彼らの仕事でした。でも、自分はじっと座って人に働かせるのではなく、彼ら自身も労働者でもあったのです。なお、彼らのところには「山のおじさん」とか「山のおばさん」とかの呼び方で呼ばれていた人たちが毎年、特定の季節になるとやってきていたそうです。彼らは人里離れた山の中で暮らしていた移動生活者たちで、今では定住化がすすんだのでいなくなってしまいました。彼らのことをサンカと言うそうです。こういう人たちに仕事を提供することも日本版のヴァイシャの仕事でした。

この方式は、連合軍の目には耐え難い封建制に映ったらしく、ご存知のように彼らは強引な土地改革を行って日本の文化の基盤を根っこから破壊しました。確かに、農地の持ち主が一人で全部の土地を耕しているのでないなら、実際耕している人たちに分けるべきだ、というのはもっともらしく聞こえます。そして実際に、庄屋が小作に重税を課して自分は遊んで暮らす、ということもあったでしょう。でも、それはプラブパーダがときどきおっしゃるように、「白内障になったら目をくり抜けばいいというものではない」、という例えがそのままに当てはまるのではないかと思うのです。

連合軍の人たちには分からなかったのかもしれませんが、庄屋が土地を管理して小作人を雇うというシステムは、理想どおりにうまく運ぶのであれば、実によくできたシステムだと思うのです。小作人に息子が何人いようが、長男だけに相続権があるとか、6人の息子たちで狭い土地を分けて争うとか、そういう問題が起きません。みんなまとめて雇えばいいからです。また、大きな農家は地元の文化を継承するための学校のような機能も持っていました。国に首長がいてまとまっているように、フラクタルで小さなところまで細胞と細胞核の関係のようなことが保たれれば、それがやっぱり一番自然なんじゃないかなと思います。

現代の社会では民主主義が最高の理念のように言われています。たしかに、独裁者による粛清だの弾圧だの、民主主義が輝いて見えるのも仕方が無いような事例も数限りなくありますし、民主主義の理念の素晴らしさもあります。ただ、民主主義の基本は多数決です。これはかなり絶望的です。はっきり言って、私に選挙権を与えるのは無駄です。候補者を見ても「この人は顔が気に食わん」とか「なんとなく」とかいう基準で選ぶしかありません。以前、北方領土だかに関する自民党と共産党の相反する意見広告を読んだことがあるのですが、まず一方を読んで「うむ、さすがは自民党。政権を持つだけのことはある」と納得し、続けてもう一方を読んで「なるほど、全くその通り。さすがは気骨の共産党」と思った自分にきっぱりと見切りをつけました。そんな私の一票など、短冊一枚の重さもないのです。それなのに、そういう「成人」がネクタイの柄で選んだ候補者が国家の運命を左右したりします。ただ二十歳になりさえすれば馬鹿でも女性でも自動的に選挙権を与える民主主義は、結構なように見えて実はかなり空恐ろしいものだったりします。

同じことが女性問題にも言えます。男女平等は素晴らしいものであるような気がしますし、女性の抑圧や虐待などが続いてきた歴史もあります。でも、男と対等に争って勝つなど、そんなにたくましく生きる意欲がそもそもない、という私のような女性もいます。(現実には必要に迫られて家計を支えてますけど。)女性は男性に服従すべきだという点も、「服従」ではなく「頼り切る」という意味であるかもしれません。そして、男性がクリシュナのような人で、完全に女性を守ってくれるのであれば、喜んで頼り切る幸せがあるかもしれません。陰と陽の関係のようなものです。女性の本来の素晴らしさは、しっかりと守ってくれる者があってこそ最大に発揮できるんじゃないかなと思うのです。そして逆もまたしかり。

とても難しい問題は右を見ても左を見ても山ほどあるのですが、だからこそ私たちは一度立ち止まって神様が作られたオリジナルなシステムをじっくり検証してみる必要があると思うのです。身の回りの例を見て「到底受け入れられない」と思うのは、その例が白内障の目のようなものだからかもしれません。例えば、横暴な王様や独裁者を見れば、「王政などとんでもない」と思うかもしれません。でも、実際はシステムの問題というより、横暴に走る王様を止められないというところに問題があるのかもしれません。つまり、ブラーマナの不在です。理想と現実は違う、と思われるでしょう。たしかにそうです。それは骨身に染みて分かっています。でも、だからこそあえて理想の姿をよく知ることは、方向性を見失わないようにするうえで大切なのではないかなと思います。

なお、これはあくまで私見です。このことに関して詳しくご存知の方はコメント欄で教えてください。それと、私は一応アーティストですが、これはシュードラに入ります。芸術・工芸などの技術者はすべてシュードラなのです。じゃあ医者は何かな。アーユルヴェーダを学ぶのだろうから、ブラーマナかな。科学者はどうでしょう。これも多分、本来はブラーマナなのかな。今はかなり狂ってますけど。郵便配達はどうかな。大工さんは、あるいは発明家はどうかな。4つの区分の中には出てこない、不可触賎民と言われる人たちはどういう理由で存在するのかな。私は翻訳なんかやってますが、これは一種のブラーマナの仕事なのでしょうか。しかし、機械的に翻訳しているだけで、聖典を学んでいるとは言えません。よく分からないことばかりです。。。
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by ammolitering4 | 2011-04-12 15:05 | 「ハレ・クリシュナの挑戦」


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