第8章

第8章 肉食の「道徳」

シュリーラ・プラブパーダと(カトリックの)枢機卿(すうきけい・すうききょう)ジャン・ダニエロ猊下(げいか) との間の次の会話は、1973年にパリで交わされました。(訳注:枢機卿は教皇に次ぐ高位)

SP:  イエス・キリストは「汝、殺すなかれ」とおっしゃいました。では、なぜキリスト教徒は動物を殺すことと肉食を行うのですか?

枢機卿:  確かに、キリスト教では殺すことは禁じられています。しかし、私たちは人間の命と動物の命との間には違いがあると信じています。人間の命は神聖です。なぜなら、人は神の姿に似せて作られているからです。したがって、人間を殺すことは聖書において禁じられています。

SP:  しかし、聖書は単に「汝、人間を殺すなかれ」とは言いません。それは広く「汝、殺すなかれ」と言います。

枢機卿:  人間にとって、食べるための食物を得るために動物を殺すことは必要です。

SP:  いいえ。人間は果物と野菜と穀物を食べ、牛乳を飲むことができます。

枢機卿:  肉は無しですか?

SP:  無しです。人間は菜食の食べ物を食べるようにできています。トラはあなたの果物を食べには来ません。彼にあてがわれた食物は肉です。しかし、人間の食物は野菜と果物と穀物と乳製品です。では、どうしてあなたは動物を殺すことが罪ではないと言えるのですか?

枢機卿:  私たちは、それは動機の問題であると信じています。もしも動物を殺すことがお腹を空かせた人に食物を与えるためであれば、それならそれは正当化されます。

SP:  しかし、牛について考えてください。私たちは彼女の乳を飲みます。そして、そのため彼女は私たちの母親です。あなたは同意しますか?

枢機卿:  はい、確かに。

SP:  では、もしも牛があなたの母親であるなら、どうしてあなたは彼女を殺すことを支持することができますか?あなたは彼女から牛乳を取り、そして彼女が年をとってあなたに牛乳を与えることができないとき、あなたは彼女の喉を切ります。それは非常に人道的な提案ですか?

インドでは、肉を食べる人は、ヤギ、豚、あるいは(訳注:どうしてもというなら)水牛など、そのような何らかの低い階層の動物を殺すように助言されます。しかし、牛を殺すことは最も大きな罪です。クリシュナ意識を布教するとき、私たちは人々にどんな種類の肉も食べないように頼みます。

そして私の弟子たちは、この原則に厳密に従います。しかし、もしも特定の状況において、他の者たちが肉を食べることを強いられるなら、それなら彼らは何らかの低い階層の動物の肉を食べるべきです。牛を殺してはいけません。

それは最も大きな罪です。そして、人が罪深い限り、彼は神を理解することができません。人間の仕事は、神を理解して、主を愛することです。しかし、もしもあなたが罪深くあり続けるなら、あなたは決して神を理解することができないでしょう。神を愛することに関しては、何をか言わんやです。

(改行)他に何も食べ物がないときは、誰かは飢えないように肉を食べるかもしれません。それは構いません。しかし、単にあなたの舌を満足させるために日常的に屠殺場を維持するのは、最も罪深いことです。実際は、屠殺場を維持するという、この残酷な慣習が止まるまでは、あなたは人間の社会を持つことさえありません。

そして、生き延びるために動物を殺すことは、時として必要であるかもしれませんが、しかし牛(だけ)は、殺されるべきではありません。それは単に人間の良識です。クリシュナ意識運動においては、私たちの行っていることは、私たちはいかなる動物を殺すことも許さない、というものです。

クリシュナは(サンスクリット引用)とおっしゃいます。「献身の念を持って、野菜、果物、牛乳、そして穀物が私に捧げられるべきです。」(BG9.26)私たちは、プラサーダ、クリシュナの食べ物の残りだけを食べます。木々は私たちに多くの種類の果物を提供しますが、木は殺されません。

もちろん、ある生命体は他の生命体の食糧です。しかし、それはあなたが食べるために自分の母親を殺すということを意味するのではありません。牛は罪がありません(innocent)。彼らは私たちに牛乳を与えます。あなたは彼らの牛乳を飲みます。そしてそれからあなたは彼らを屠殺場で殺します。これは罪深いことです。

弟子:  シュリーラ・プラブパーダ、キリスト教が肉食を認可するのは、生命の低位の種は人間のそれのような魂を持たないという考え方に基づいています。

SP:  それは愚かさです。まず、私たちは体の中の魂の存在の証拠を理解しなければなりません。そうすれば私たちは、人間は魂を持っていて牛は持たないのであるかどうかを知ることができます。牛と人間の異なる特徴は何ですか?もしも私たちが特徴に違いを見つけるなら、それなら私たちは動物には魂がないと言うことができるでしょう。

しかし、もしも私たちが動物と人間は同じ特徴を持っているということを見るなら、それなら、どうしてあなたは動物は魂を持たないと言うことができますか?一般的なしるし(symptom)は、動物は食べ、あなた(も)食べる、動物は眠り、あなた(も)眠る、動物は性交をし、あなた(も)性交をする、動物は身を守り、あなた(も)身を守る、というものです。違いはどこにありますか?

枢機卿:  私たちは、動物には人間と同じような種類の生物学的な存在があるかもしれないことを認めます。しかし、魂はありません。私たちは、魂とは人間の魂であると信じています。

SP:  私たちのバガヴァッド・ギーターは、サルヴァヨニシュ、「すべての生命の種に魂が存在する」と言います。

枢機卿:  しかし、人間の生命は神聖です。人間は動物がするよりも高い水準で考えます。

SP:  その高い水準とは何ですか?動物は自分の体を維持するために食べ、そしてあなたも自分の体を維持するために食べます。牛は野原の草を食べ、人間は近代的な機械がたくさん入った大きな屠殺場からの肉を食べます。しかし、動物は単に草を食べているだけなのに、あなたは大きな機械とゾッとするような光景を持っているからといって、これは、あなたは非常に発達しているのであなたの体の中だけに魂があり、動物の体の中には魂はない、ということを意味するのではありません。それは非論理的です。私たちは、人間においても、動物においても、基本的な特徴は同じであることを見ることができます。

枢機卿:  しかし、人間においてだけ、私たちは人生の意味のための形而上学的な(訳注:哲学的で抽象的な思考)探索を見出すことができます。

SP:  はい。ですから、形而上学的に、なぜあなたは動物の中には魂がないと信じるのかを探し出してください。それが形而上学です。もしもあなたが形而上学的に考えているなら、それは良いことです(that's all right)。しかし、もしもあなたが動物のように考えているなら、それならあなたの形而上学的な研究が何の役に立つのですか?

「形而上学的な(meta-physical)」という言葉は、「物理的な( physical)ものを超えた」、言い換えれば「霊的な」を意味します。バガヴァッド・ギーターにおいて、クリシュナはおっしゃいます。サルヴァ・ヨニシュ・コーンテヤ、「すべての生命体の中に霊魂があります。」それが形而上学的な理解です。
[PR]
by ammolitering4 | 2011-04-03 15:32 | 「ハレ・クリシュナの挑戦」


<< 第9章 第7章 >>