第16章 第21段落まで

第16章

第12段落
ドリティという言葉のもう一つの意味は「自分自身を上げられた者として認識する」というものです。自分の上昇を認識するとき、人は自分がすべての悲惨さから自由になって、人生の最高の水準に上げられている、と感じます。

完全なクリシュナ意識を持ったすべてのクリシュナの献身者は、あらゆる種類の物質的な喜びと悲惨さから自由です。彼らは完全に主への奉仕に浸っており、そして彼らは、いつも主への超越的な奉仕に携わっていることの力によって、陽気です。彼らは幸福の経験を積んだ人々です。

実に、彼らはとても幸せなので、霊的な惑星に上げられたいとさえ願いません。彼らは人生のすべての領域において幸せだからです。主への超越的な奉仕に満たされているので、彼らは物質的な物も物質的な感覚の喜びも欲しません。ゴスヴァーミーたちは次のように述べています。「その感覚が至高主への奉仕に固定されている者は、平和的であると呼ばれ得ます。」

第13段落
このように、アートマーラーマという言葉は、鳥や獣や愚かな者さえ、つまりすべての者がクリシュナの超越的な性質によって魅了され、主への奉仕に携わり、解放されることができる、ということを示しています。

第14段落
アートマーのさらにもう一つの意味は「知性」です。特別な知性のある者もまた、アートマーラーマと呼ばれます。特別な知性のあるアートマーラーマには2種類あります。一つは学識のある賢人であり、もう一つは本から得た知識のない愚かな者です。

これらのうちのどちらも純粋な献身者と関わる機会を持つことができます。愚かなアートマーラーマでさえ、すべてを捨ててクリシュナ意識において純粋な献身奉仕にたずさわることができます。シュリマッド・バーガヴァタムには、主がすべてのものの源であり、すべてが主から放射する、と述べられています。

実際に知性的な者は誰であれ、至高主クリシュナがすべてのものの源であるということを理解することができ、そうして主への奉仕に携わります。シュリマッド・バーガヴァタム(2.7.45)には次のように述べられています。「女性、労働者、フーナ、シャバラなどの知性において劣る人々や鳥や獣が人生の最高の水準に至ることができるとき、ヴェーダを学ぶほどの知性のある者については言うまでもありません。」

前に引用したように、バガヴァッド・ギーター(10.10)も、人が非常に知性的になってクリシュナ意識に携わるとき、クリシュナはそれによってその人が至高主のお住まいに上げられることができるように、知性を授けることによって報いを与えられる、と示しています。

第15段落
主はそれからサナータナ・ゴスヴァーミーに、超越的な水準に上げられるためには次のことがどれも非常に大切であるとおっしゃいました。(訳注:原文は箇条書きではない。)
1、良い献身者との関わり
2、主への献身奉仕に携わること
3、シュリマッド・バーガヴァタムを理解すること
4、主の聖なる御名を唱えること
5、ヴリンダーヴァンやマトゥーラーなどの聖なる地に住むこと

人は上の5つの項目をすべて得る必要はありません。もしも人がそれらのうちのたった一つにおいてさえ熟達していれば、彼は間違いなく至高神への愛の水準に上げられるでしょう。実際に知性的な者は、すべての物質的な欲望を放棄してクリシュナへの超越的な奉仕にいそしみます。

献身奉仕の影響はそれほどであるので、それにいそしむとき、人はすべての物質的な欲望を放棄して主の超越的な性質に力づけられ、クリシュナに完全に執着するようになります。主の献身者の目の中で、主の美しさはそれほどであるのです。

第16段落
アートマーという言葉のもう一つの意味は「自然」です。この場合、アートマーラーマという言葉は、誰もが自分が得た特定の自然を楽しんでいる、ということを指します。しかし、究極の自然、すなわち生命体の永久にして永遠な自然は、至高主に奉仕をすることです。

主の永遠の従者としての自分の本当の自然を理解することの完成に至った者は、(物質的、あるいは身体的な)自分の特定の個人としての(designative)人生の概念を放棄します。それが本当の知識です。知識を探し求め、純粋な献身者と関わりを持つ機会を得る者もまた、主への献身奉仕に携わります。

4人のクマーラのような聖人たちも、愚かな者たちや鳥たちも、主への超越的な奉仕に携わることができます。クリシュナのいわれなき慈悲によって恩寵を受けることにより、全く誰でもがクリシュナ意識の水準に上げられ得ます。

第17段落
クリシュナの超越的な性質によって魅了されるようになるとき、人は献身奉仕を始めます。シュリマッド・バーガヴァタム(10.15.8)は、ヴリンダーヴァンの地をこのように讃えます。

(サンスクリット引用)

「このヴラジャブーミの地はあなたの足が触れることによって栄光を与えられています。あなたの指で触れられることによって、つる草もまた、あなたを讃えます。あなたが丘、川、そしてより低い動物たちを見るとき、彼らは皆、栄光を与えられます。そしてあなたの超越的な腕によって抱かれることによって、ゴピーたちもまた栄光を与えられます。」

ゴピーたち(牛飼いの少女たち)は、次のような言葉でヴリンダーヴァンを讃えました。「親愛なる友人たちよ。これらすべてのヴラジャブーミの住人たちは、鳥や獣や木々も含めて、皆、主クリシュナがご自分の友人たちとバララーマと共に牧草地にいらっしゃるのを見るとき、栄光を与えられます。」

第18段落
アートマーという言葉は「この体」も意味します。体を自分と考えて身体的な運動の訓練をするヨギーたちもまた、もしも純粋な献身者と関わるなら、主への超越的な奉仕に上げられます。体が自分であると信じる多くの人がいます。そして彼らは、沐浴の儀式や普通の俗世の活動を含む、結果を求める多くの活動にいそしみます。しかし、純粋な献身者と出会うとき、彼らもまた主への超越的な奉仕にいそしみます。

第19段落
シュリマッド・バーガヴァタム(1.18.12)には、次のように述べられています。「おお、我が親愛なるスータ・ゴスヴァーミーよ。私たちは結果を求める活動の犠牲の煙によって陰鬱にさせられる(to darken、陰鬱にする、暗くする、目を見えなくする)に至ってしまいましたが、あなたは私たちにクリシュナの蓮の御足という蜜をくださいました。」(訳注:この場合は「煙によって(心の)目が見えなくなった」とするのが正しいのかもしれません。)

シュリマッド・バーガヴァタム(4.21.31)には次のような記述があります。「ガンジス河の水はクリシュナの蓮の御足の先から流れます。そして、その水で沐浴することによって、結果を求める活動を行う者と賢人を含むすべての人が、心から汚れたものを流し去ることができます。」

第20段落
体が自分であると信じる者、あるいは物質的な欲望に満ちている者でさえも、ある意味ではアートマーラーマです。主の純粋な献身者と関わるとき、彼らはその物質的な欲望を捨て、主への奉仕において完璧になります。このことの最良の例はハリ・バークティ・スドーダヤ(7.28)に見られます。そこでドルヴァ・マハーラージャは次のように言いました。

(サンスクリット引用)

「我が親愛なる主よ。私はこの地上に幾らかの土地を欲していたので、あなたを崇拝しに来ました。しかし、幸運にも私は、偉大な賢人や聖なる人々の知覚さえ越えた存在であるあなたを得ました。私は幾らかの色ガラスのかけらを探しに来ましたが、その代わりにあなたのような貴重な宝石を見つけました。私は満足しています。そして、私はあなたから何も欲しいと思いません。」

第21段落
ニルグランターという言葉にも別の意味があります。この言葉は「愚かな狩人」あるいは「惨めな(wretched、惨めな、卑劣な、劣った)貧しい人」も意味します。単に純粋な献身者ナーラダと関わることによって救いを得て主への献身奉仕にいそしんだ狩人の例があります。実に、主チャイタンニャはサナータナ・ゴスヴァーミーに、狩人がナーラダに出会ったときの次のような話をなさいました。
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by ammolitering4 | 2011-03-05 15:10 | 「主チャイタンニャの教え」


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